家ごと異世界ライフ

温泉マスコット

村に新しい訪問者がやってきたのは、それから数日後のことだった。朝早く、紬が台所で朝食の準備をしていると、玄関の方から賑やかな声が聞こえた。

「おいおい！ ここが噂の温泉村か？ 詩人の魂が震えるな！」

ドアを開けると、そこには派手な装いの男性が立っていた。鮮やかな羽飾りのついた帽子に長いマント、肩からは琵琶のような楽器を下げている。目元にはキラリと光る自信が満ち溢れていた。

「お初にお目にかかる！ 名をトリスタン。旅の吟遊詩人だ。この村の評判を聞きつけてやってきたぞ！」
紬は少し驚きながらも笑顔を浮かべた。
「こんにちは、トリスタンさん。私、紬っていいます。この村の住人です。どうぞ、中へ入ってください。」

トリスタンは快く招かれ、村の住人たちが集まる広場に案内された。琵琶を爪弾きながら即興で歌を作り始めるトリスタンに、村の子どもたちは目を輝かせ、妖精たちはその音楽に合わせて踊り出した。

「温泉も噂通りだな！」
トリスタンはさっそく湯煙の立ち上る露天風呂を見つけ、感嘆の声を上げた。

だが、その感動は彼だけではなかった。温泉の岩場の片隅に、丸々とした毛玉のような動物がちょこんと座っていたのだ。

「……カピバラ？」
紬が目を瞬かせると、その生き物はのんびりとした表情で紬を見上げた。温泉の湯気を浴びて気持ちよさそうに目を細めている。

「なんでカピバラがこんなところに……？」
ライルが呆れた声を出す中、トリスタンはすかさず即興の歌を披露した。
「おお、湯けむりの中の癒しの王よ～、その穏やかな瞳が我らを魅了する～♪」

村人たちは大笑いし、カピバラは気にすることなく湯に浸かったままだった。結局そのカピバラは「お湯吉」と名付けられ、温泉村の癒しマスコットとして迎えられることになった。

その日の夜、広場では温泉宿のオープン記念として即興の演奏会が開かれた。トリスタンが中心となり、住人たちが歌ったり踊ったりして盛り上がった。紬はオーブンで焼いた温泉卵パンを振る舞い、妖精たちも光を使った小さな花火でイベントを彩った。

グレンも隅っこの方で静かに演奏を見守っていたが、紬がそっと彼の隣に座ると、珍しく口を開いた。
「こういう賑やかなのも悪くないな。」
「うん、ほんとに。みんなが笑ってるのを見ると、私も幸せになるよ。」

その時、紬の手の中に小さな妖精が光の玉のように飛び込んできた。シエラだった。
「紬、紬！ お湯吉も楽しんでるよ！ あの子、本当に温泉が好きなんだね！」
紬は笑いながら妖精の頭を撫でた。

翌日、村はまた新しい活気に包まれていた。トリスタンはすっかり温泉村を気に入り、朝早くから宿屋の軒先で琵琶を弾いていた。彼の歌声に誘われ、住人たちや行商人たちが集まってくる。

紬はというと、朝のルーティンである庭仕事を終えた後、台所でお菓子の準備をしていた。今日は特別なお客さんのために「異世界風プリン」を作る予定だった。現実世界で覚えたレシピをもとに、村で手に入る材料を工夫して再現したものだ。

「これで大丈夫かな……」
紬は蒸し器から湯気とともに取り出したプリンを見つめ、満足げに頷いた。そこへライルが現れる。

「紬、外が騒がしいぞ。なんか新しいお客さんが来たみたいだ。」
「新しいお客さん？」
紬はエプロンを外し、ライルと一緒に外へ向かった。

広場では住人たちが集まっていた。その中心にいたのは、一組の親子だった。親らしき女性はしっかりとした体格の獣人で、黒い毛並みが美しい。一方、彼女のそばに立つ小さな男の子は、ふわふわした金色の毛並みを持ち、まだ幼さの残る瞳で周囲を見回していた。

「この村が温泉で有名だと聞いてきました。実は私たち、少しの間ここに滞在させていただけないでしょうか。」
母親らしき女性が丁寧に頭を下げる。その姿に紬はすぐに頷いた。

「もちろんです！ 温泉も使ってくださいし、何か困ったことがあれば何でも言ってくださいね。」
紬の笑顔に安心したのか、親子はほっと息をついた。

その後、親子は温泉を堪能し、住人たちともすぐに打ち解けていった。特に子どもは妖精たちとすぐに仲良くなり、光の妖精シエラに連れられて村をあちこち探検していた。

夜になると、村の広場ではまた宴が始まった。住人たちがそれぞれ持ち寄った料理を囲み、焚き火の周りで歌や踊りが繰り広げられる。トリスタンが歌い始めると、親子もその輪に加わり、温かい時間が流れた。

宴がひと段落し、夜空に星が瞬き始めたころ、紬は静かに温泉へ向かっていた。忙しい一日の終わりに、ゆっくりと湯に浸かるのが日課だったのだ。

湯気の中、すでに誰かが温泉に入っていることに気づく。グレンだった。彼は静かに湯に浸かりながら、遠くを見つめている。

「グレンも入ってたんだね。」
紬が声をかけると、グレンはちらりと振り返り、小さく頷いた。

紬も湯に浸かり、二人でしばらくの間、静かな時間を共有した。湯けむりの向こうには月が浮かび、夜の森が静かにささやいている。

「ねぇ、グレン。」
紬がぽつりと話し始める。
「こうやって村が少しずつ大きくなるの、なんだか不思議だよね。みんなが笑顔でいてくれるのが嬉しいけど、私なんかがこんな場所をまとめられるのかなって、時々思うんだ。」

グレンは少し考えるようにしてから、低い声で答えた。
「お前がここにいるから、みんなが集まってくるんだろう。別にまとめる必要はない。ただ、自分らしくしていれば、それでいい。」

その言葉に紬は目を丸くし、それから小さく微笑んだ。
「ありがとう、グレン。」

紬はその言葉に力をもらいながら、少しだけ自分に自信を持つことができた。温かい湯の中で、彼女はこれからの村の未来を静かに思い描いていた。