恭介&圭吾シリーズ

芹澤柚衣

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アンセルフィッシュ・ダーリンの心臓

5.

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 言葉を選ぶのは難しい。
 全てが納得の上で、自分で選んできたことだけれど。いざそれを人に話すとなると、ということまで納得して貰えるように綺麗に伝える自信がないのだ。もとより、どこかの胡散臭い笑顔を武器に持つ後輩の毒舌のようにぽんぽん感情を言葉に摩り替える術を持たない恭介には、そんな高等会話など出来る筈もなかった。だから、という訳ではないのだけれど。
 圭吾と知り合ってそれなりの月日は経ったが、話せずにいることは今でもある。彼を信頼していない訳では勿論、ない。寧ろ、三ヶ月足らずで恋愛感情を一人育ててしまう程、圭吾の人となりが好きだ。信頼がない――という言葉を話さない理由に使うのなら、自分の言語能力に対してとでも言い換えようか。根底では結局のところ優しい彼が気兼ねなく聞き流せるよう、上手く説明出来る自信がないのだ。
 あと三年。
 密かに圭吾を想い続けながら、それなりに楽しい高校生活を送って、卒業して。
 就職も将来も考えなくて良いというのは、どうしてこうも自由で孤独なのだろうか。そんなことをぼんやり思う。まるで、ぬるま湯に浸かっているような気分だ。そこを出てしまわなければ、冷たい場所にいるという事実に気付かずに居られる。体温よりも低い温度であっても、肌寒い現実を知らないままであれば、ずっと心地よい。

 あれは、いつだっただろうか。
 多分九月の下旬頃。残暑が色濃い筈の夜は、その日に限って何故か肌寒さを覚える程だった。ぴりぴりと肌に突き刺すような、それでいて緩やかな寒気。作務衣から露出した両手を擦り合わせながら、十を迎える恭介は綺麗な声でもとから、と呟いた。
 もとから、そんなに期待などしていなかった。生きてくれと自分に願う存在が、この家に、いや世界にだって居るとはとても思えない。これから恭介が生きることにも、或いは死ぬことに対しても、誰かに許可を貰う必要はないのだ。どこまでも自由だ、なんて。可哀想な自分を、騙してあげることも出来ない。それは見捨てられた子供に与えられる二択だ。選べとも選ぶなとも言われないから、この孤独と劣等感を抱えたまま寿命をまっとうするのも、明日いきなり全てを終わらせてしまうのも。そうだ――それだけは許されているのだから。
〝そんな悲しいこというなよぉ〟
 無表情で淡々と語る恭介に、寂しそうな顔で犬神が呟いた。
「だって、しょうがないじゃない」
 ほんとのことなんだから、と小さく付け足す。泣きそうな顔だった物の怪の目から、ぽろり。とうとう涙が零れ落ちた。
〝馬鹿にされるのに慣れるな!〟
 響いたのは、犬神の痛ましい悲鳴だった。
〝おめェには他人に恥ねェくれえの霊力があるだろ! 何故誇ろうとしねぇんだ!? そりゃあ動物霊に関してだけだけど、それだって立派な長所だろうが。ハナっからおめぇを馬鹿にしてきやがる馬鹿の言うことになんか耳を貸すな、お前には、ちゃんと得意分野があるんだよ!〟
 とうとう声を上げて泣いてしまった。いぬがみ、小さく呼んでみるけれど、泣き止んでくれる気配はない。ぽろぽろと流るる、その涙はとても綺麗で。恭介は何も言えずに、俯いて唇を噛んだ。
 生まれてから過ごしてきた約十年。友達と呼べる存在が、居ると言っても許されるのであれば彼が唯一だった。この姿形も一定に維持出来ない曖昧な存在が居なければ、きっともう少し心は荒んでいたに違いない。この家で安らぐ場所は十を迎える今になってもついに見つけられなかったけれど、どんな場所だって安らぐものに変えてくれる彼という存在を、恭介は知っている。それを神様が与えて下さったのなら、まだ自分は生きることを許されているのかもしれない――なんて思うくらいには、感謝も。
 ひく、と大きくしゃっくりをあげてから、犬神が真っ赤な目で此方を睨む。釣り目で切れ長の双眸。どこか冷たい印象を与えるはずのその眼差しは、あどけない危うさを孕んで、恭介を捉えて離さない。思わず伸びた手が、虚しく空を掴んだ。
 そうだ。こんなに人間味溢れているから、つい忘れてしまうけれど。彼は霊の一種。
 この世では、そういう括りに入れられている。定義とか、よく分からないけれど。 
〝……なぁ恭介。ここだけの話なんだがよ〟
「――うん、何?」
 小首を傾げて、先を促す。瞬きを繰り返していた犬神は、意を決したように恭介を仰ぎ見た。ふいに雲の隙間から顔を現した月が、犬神を煌々と照らす。体を持たない彼の輪郭をうまくなぞれずに、柔らかい筈のその光は残酷に彼の体を貫いた。
 今思えば、あの時、犬神の唇が少しだけ戦慄いていたような気がする。
〝おめぇ、俺と盟約を交わさねェか?〟
「盟、約?」
 聞きなれない言葉だ。イエスもノーも、すぐ口に出来ずにいたのはその為で。痒いという意識はないだろうに顎を掻きながら犬神は、確かに説明不足だった一言に付け加えるよう口を開いた。
〝恭介、俺はおめェが好きだ。一族の誰を敵に回そうと、どんな時だろうと力になってやりてぇと思ってる。だがな、俺はどう足掻いたって、この世界じゃあ人間様とは線を引いて付き合わなきゃならねェ動物霊の端くれだ。このままだと、どんな時もおめェを助けてやるなんて、都合の良いことはできねえ。特例でもない限り、霊が人間様と親密に付き合うことは許されねぇんだよ。そもそも、所属している世界ってのが違うからな〟
「その、特例っていうのが……盟約を交わす、ってことなの?」
 察しの良い恭介が、言葉尻を拾い上げた。溜息をついて、犬神が首を横に振る。分かりにくいが、彼なりの肯定の合図だ。昔から図星を指された時ほど、犬神は気まずそうな顔をするのが癖だったから。
〝ああ、そうさ〟
「なら俺、犬神と盟約を交わすよ?」
 考える必要のない選択を問われて、時間をかける必要はなかった。頭で考えるより先に口が動く。まるで、最初から用意していたみたいに。
〝簡単に言うんじゃねぇよ〟
 自分から提案しておいて、忌々しそうに犬神は目尻を歪ませた。彼がそんな風に表情を崩す理由に心当たりはなかったけれど、推測出来ないことではなかった。
 一緒に居て、もう何年も経つ。彼はとても心の優しい物の怪だから。
「簡単に言ってないよ」
 恭介は、短くそんな一言を口にした。
 今この瞬間、彼と何かを交わすために自分に出来ることがあるのだとしたら、こんな綺麗な幸いの形はない。腹の底からそう思えるのだから、それはもう仕方のないことだった。
「犬神と、今までよりもっと一緒にいられるんなら、俺、何を失ったって良いんだよ。そこまで考えて、交わそうって言ったんだ」
〝……勿論、盟約ってからにはじゃねぇ〟
「そう。何が交換条件?」
 頓着のない即答。興味がないというよりは、どんな条件を出されても、受け入れる覚悟が既に済んでいる者の発言だ。犬の形を象っていた影がぐにゃりと歪んで、空気に紛れる。
 犬神自身の思惑は別として、事実は事実。
 告げなければならないその法則は、それこそ自分のような端くれなんかに左右出来るものじゃないのだから。
〝盟約を交わした後は、好きに呼んでくれていい。いつ如何なる時でも姿を現して、お前に好きなだけ力を貸してやる。が、その代償として――おめぇの体の一部を、おめぇから取り上げなけりゃあならねぇんだ……これは掟だからな、逆らいようがねぇ〟
 空気に混じって消えていた犬神の気配が、もう一度形を作ろうとして失敗する。もう既に、声を何とか恭介に届けさせるのが限界だった。
〝……ほんとは、ほんとは俺だって〟
「犬神」
〝俺だって、でお前の味方でいてやりてェよ……! だがな、それにはどうしたって限界があるんだ!〟
「……そうだね」
 反射で答えたが、分からない理屈ではなかった。
 はっきりと見える限界がある。こうして会話を続けている間にも、犬神の形は定まらない。黒い靄のようであったり、全く色を持たない空気のようだったり。時折耳や顔のようなものが見える瞬間もあるけれど、それだって長くは続かない。
 もともと現世に、形あるものとして存在出来ない彼が。この七年余り、ただ自分の為だけにしてくれた無茶を思うだけで恭介の胸は軋んだ。
〝無理にとは言わねぇよ。俺におめェの体を切り取る権利なんざねえからな。ただ、公約をひとつ交わせば、俺は恭介にもっと色んなことをしてやれる。いや……だからと言って、別に今答えを出さなきゃなんねェ話でもねえよ。の為に、とっとく切り札みてぇなもんだと思っててくれ。そういう方法もあるって、覚えておいてくれりゃあそれでいいんだ〟
 犬神は早口で、何かに急き立てられるように言葉を繋ぐ。期限のない猶予を定めて結論を先延ばしにしたって、何の意味もないのはおそらく彼自身にも分かっていた。ただ、この幼い子供から自分の手で何かを一つ取り上げてしまわなければならないという現実を受け止めるのに、覚悟と時間が必要だったのは寧ろ犬神の方だったのかもしれない。
になんてしないよ。今だ」
 踏み切れないでいる犬神を、促したのは幼い声だった。
「教えて。お前は俺のどこが欲しい?」
〝恭介……〟
「下を向くなって。誇りを持てって、お前は言ってくれた。契約を交わすにはそれだけで充分だ」
 光が当たる度に、溶けたチョコレートのような艶やかさを孕む双眸が、迷いなく犬神をじっと捉えて逸らさない。見るものを全て、吸い込んでしまいそうな深いインディゴの瞳。底のない泉のようなそれには、触れてみたいとも、怖いとも思わせる不思議な魅力があった。こんな形で奪い取ろうなんて、想像もしていなかったのに。
 それでも、どこが好きかと聞かれれば他にない。片目をくれ。シンプルに言った。小さく頷いて、あどけないその双眼がゆっくりと閉じられる。許可が得られれば、他には取り立てて必要な儀式などなかった。
 靄がゆっくりと移動し、人間の手のような形に固まった。そっと恭介の瞼に触れながら犬神は、笑みの形に細められるインディゴの両目を思い出す。二つ揃っている所は、もう見られないのか。ただ、その事実が何ともやりきれなかった。咄嗟に離し掛けた手のようなそれに、力を込めてぐっと耐える。もう、後戻り出来ない所ところまで来てしまったのだ。
 身構えていたけれど、恭介が想像していたような痛みは伴わなかった。何ひとつ苦痛も不快感も覚えない、柔らかな奪われ方。閉じていれば目の前は暗いままだったけれど、それでも何故か少しずつ、右側の視界が奪われるような感覚を覚える。
〝恭介、忠告だ〟
 完全に右目の視力がなくなる直前に、しゃがれた犬神の声が聞こえたような気がした。
(犬神……?)
〝どんなことがあっても、九尾とだけは絶対に盟約を交わすな。あいつはんだ。下手すりゃあ命取られるぞ〟
 頷く前に闇に飲まれた。底無し沼に落ちていくような感覚で、恭介の意識は緩やかに鈍く、光の届かない場所へとフェードアウトした。

 片目の義眼に恭介が慣れるより少し前、双子の妹が原因不明の病に侵されていると噂で聞いた。身内とはいえ会わせてもらえる立場ではないことを重々承知していた恭介は、直ぐに犬神を呼び出し、最奥の部屋へと連れて行かせた。
 彼の背中に乗っていれば、一般人の目に触れることはない。盟約を交わしてほぼ初めての呼びつけに、何故だか犬神はあまり良い顔をしなかった。
 数多の僧侶に見守られながら、妹は寝室に寝かされていた。桜色だった頬は青白くこけ、息を吸うのにもつらそうだ。名前さえ知らせて貰えないままだった妹との滅多にない逢瀬を喜ぶより前に、恭介の顔は緊張と絶望に強張った。
 唯一と言っても良い自分の特技に、今日ほど感謝し、また恨んだことはない。
「……見えた? 犬神」
〝ああ。霊鳥だな。アレはヤベェ動物霊だ〟
 犬神の発言と、自分の視力で捕らえたものの誤差はなかった。黒紫の羽を妹に絡めさせながら、紫色の大きな嘴は、今にも飲み込んでしまいそうな程深く喉元に食らいついている。鳥と呼べるほど可愛らしい霊ではなかったけれど、大雑把に言うなれば、姿は確かに鳥に似ているかもしれない。嘴と翼、そして木の枝のような細い二本足。 それらは確かに、鳥の姿を象る特徴だ。
〝悪いが、俺を使っても瞬殺だぞ。敵うワケがねえ。今回ばっかりは、寿命で死んだと思うんだな〟
「でも、彼なら或いは……」
〝――恭介?〟
 嫌な予感がした。背中で、少し動く気配。
 首を捻らせるようにして犬神が振り返る前に、恭介は力強い声で問い掛けた。
「犬神、九尾と契約する方法を教えて」
〝ばかやろう!!〟
 力の限り犬神は叫んだ。自分が片目を奪ってまで、彼にしてやりたかったことを、他ならぬ彼自身が一番分かっていない。犬神は、頭に来て仕方がなかった。
 充分に恵まれていなかった恭介の何かを、自分に出来ることなら、何をしたって満たしてやりたいと思っていたのは本当だ。結果、彼に払わせなければならない大きな代償は、分かっていたこととはいえ、身を切られるよりつらかった。それでも耐え忍んでその方法を選択したのは、それ以上取り上げられることのない幸いを信じたからだ。守れる範囲さえ広がれば、幾らでも盾になってやることが出来る。盟約後に生じる火の粉であれば、それは全て犬神の手が届く範囲だ。その為の、苦渋の選択だった。
 こんな筈ではなかったのに――既に足りていない彼から何もかもを、奪ってしまいたくて盟約を交わした訳ではなかったのに!
「ごめん、犬神……ありがとう。でも、聞いて?」
 抑揚のない声は、十を満たした子供のそれだと思うにはつらすぎる。年齢に相応しい甘えや寂しさを、己で噛み砕けと周りの人間が言い聞かせて、育ててきた結果がこれだ。
 けれど、犬神が怒りを覚えたところで、事態は何も好転しない。そんなこと、この七年で充分に思い知っている。
〝厭だ、絶対に厭だ! お前はどうかしてるぜ! 妹さえ居なけりゃ、おめぇの待遇はもっと良かった筈なのに! 何だってそんな恐ろしいもんに手を出してまで、あの女を助けようとする!?〟
「違うよ犬神。妹が居るから、こうなった訳じゃない。あの子は何もしてないよ」
〝何もしてなけりゃあ罪じゃないのかよ!?〟
「存在そのものが罪だって、お前は言うの?」
 切り返すそれは、静かで寂しい声だった。
〝……〟
「まるで、俺のことみたいだ」
 口を、静かに笑みの形に崩す。それでも、震える瞼は伏せられた。柔らかい髪が、援護のように顔を隠す。
 ああ、お気に入りだったあの、深いインディゴの目を見ることが出来ない。
 ひとつはもう、彼の体にはない。自分が彼から取り上げてしまった。
「犬神」
 少年にしても高い声が、まるで一人前の大人のような、芯の強い響きを含んで犬神の耳に届く。神、だなんて。聞くたび笑ってしまいそうになる。そんなものは、ただの呼称だ。気が付けば一目でそれと分かる人外の自分を、人間達がそう呼び始めて納得しただけで。
 本当に、神だなんて名前が相応しいくらいの力が今の自分にあったなら、彼にこんな酷な選択を強要させないで済んだのに。
〝……良く聞け。お前の血はな、人間様の世界で言うとこのみてぇなもんだ〟
 我返る前に、口を開いた。言いながら、何て喜劇だろうと思う。この幼い子供から片目を奪った自分が彼にしてあげられることが、更に彼から何かを奪ってしまう方法を、教えてあげることだけだなんて。
「ブランド……?」
〝ごちゃごちゃと、細けぇことは必要ねぇよ。土屋の血を体内に流す者に、俺ら動物霊は付き従う習性がある。なるべく痛くないところに、傷を作って血を流せ。そして普段俺を呼ぶ時みてぇに、名を口にしろ――九尾を呼べ〟
 けれど現時点で力のない自分が、叶えてやれる彼の願いはこれだけだ。息を飲む恭介に、吐き捨てるような口調で犬神は続けた。
〝そうしたら、向こうから血の匂いにつられて、ふらふら現れてくれるさ〟
 ありがとう、犬神。
 そう言われたような気がしたが、気のせいだったかもしれない。犬神の背中から飛び降りて、恭介は畳へと着地した。
 周りからすれば、突然の侵入者だ。只でさえ自分の存在を、快く思っていないものが多いことを恭介は知っている。だからと言うにはあまりにも皮肉な話だか、向けられる敵意に心が乱れることはなかった。
 声高に批難する僧侶に欠片も億尾にならず、恭介は御前を睨み返す勢いで病に伏せる妹を見遣る。最早物の怪は、充分な養分を吸収して鳥の形を保ってはいなかった。巨体からは、幾重にも鳥の足のようなものが伸びていて、彼女に小指一つ動かす自由さえ許さない。
 固く握り締めていた左の拳を解いて、親指の腹を口に含む。ちり、と焼けるような一瞬の痛みが走り、生温かいそれが唇を濡らした。鉄臭さも、味もない。まるで蛇口を捻れば簡単に出る、水道水のような味気なさだった。
「九尾」
 掠れた声で、その恐ろしい名詞を口にする。姿形もわからない動物霊を、こんな強引なやり方で呼び出すのは初めてのことだった。小さい声だし、しかも震えてしまっていた。もしかしたら、もっと大きな声で叫ばないと聞こえないかもしれない。根拠のない不安に胸が震える。
 少なくとも犬神に教えて貰うまで、まるで知らなかった大口契約だ。前例がないので、ベターなやり方が分からない。唯一知る方法を繰り返すべく、発声に必要なだけの空気を吸おうと恭介が大きく口を開いた、その瞬間。 
バチ、と何かが弾ける様な音がした。
 一瞬で目の前に広がったのは、まるで大雨直後のような湿気と、生温かい空気。煙にも似た白い靄で、たちまち部屋中は満たされてしまった。
 畳が撓む。立っているのも一苦労なほど足元が揺らいで、恭介は両足の親指に力を篭めて、何とか自分の体重だけは支えた。
〝恭介、恭介……!〟
 犬神の声が聞こえる。近くに居る筈の彼の声が、どうしてこんなに遠いのだろう。目を凝らして辺りを見回したけれど、九尾はおろか、犬神の姿すら見当たらなかった。
 もしかして、失敗したのかもしれない。次にそんなことを思った。もう少し、たくさんの血を流さなければならないのだろうか。点滴のようにぽたぽたと雫を落とす親指は、当然何も答えてくれない。
 ふいに、甘い匂いが恭介を包んだ。
「き、つね……?」
 真っ白な影が、少しずつ形を作る。瞬く間に部屋を満たすほどの数となった白い狐の影が、此方に顔を向けて鎮座していた。
 喉が渇いて、続く言葉も発せられない。
〝――土屋の倅〟
 低い声が、恭介を呼ぶ。きょろきょろと忙しなく動く眼球では、まだ最高級の動物霊を捉えることが出来ない。
 ただ感じるのは、気配だ。
 今にも畳に叩きつけ、押し伏せられんばかりの、圧倒的な――まるで一方的に与えられる圧迫感。
〝何用だ〟
 やめとけ恭介! 今更犬神の叫ぶ声が聞こえる。けいやくを、せり上がる恐怖に震える喉で、何とか言葉を発した。まるで他人のような声、なんて。それこそ他人事のような感想を抱く。
「盟約を、交わしたい」
〝成る程、どの動物霊が希望だ〟
「お前とだ――九尾」
 視界が歪んだ。とうとう立っていられなくなった恭介は、引力に逆らわずその場にしゃがみ込む。歪んだ瞬間出来た亀裂に、狐の影が一瞬にして飲まれた。闇の中何かが蠢くのを、覚束ない瞳で何とか捉える。
 現れたのは、真っ白な大狐だった。
 研ぎ澄まされた、鋭利な鉤爪。吊り上げられた、大きな双眸。耳の近くまで裂けている口から、銀色の涎が時折垂れては畳を濡らす。九つに分かれた尻尾が何を表しているかなんて、考えるまでもない。
 望んで、選んで、呼んだ――彼、だ。
〝よかろう〟
 了解の返事は、あっけないほど短くて簡単だった。

 その後のことはまるで覚えていない。ただ親族の前で九尾を呼んで、契約し、彼は望む働きをして――結果、霊力神力共に完全復活を果たした彼女の前では、恭介はただ無力だった。元々背負わされていた忌み子の罪に、化け物と因果関係を結んだなんて墨がつき、とうとう見放されてしまったようだ。
 犬神の時のように、何かを失ったという感覚はなかった。
 辛うじて記憶しているのは、あの神々しい物の怪が、姿を消す直前に口にした言葉。

〝今日よりお前の死期まで、呼べばいつでも俺の力を貸してやろう。代償は、お前の心臓だ。俺は優しいからな、すぐにとは言わん。十年待ってやるさ。人生を謳歌するには、それだけあれば充分だろう――お前が満二十歳を迎える夜に、支払って貰うぞ〟

 目を覚ますと、犬神が泣いていた。ばか恭介、と彼が胸元で蹲るのを見ていたら、漸く、自分の寿命が定められたのだという実感が湧く。感謝と罪悪感で、ごわついている茶色の毛を撫でた。指に伝わってくる、確かな質感。ああ、これを手に入れるために、大きなものを俺は二つ手放したのか。
 少しだけ、虚しい気もした。
 悲しいくらいの充足感とは別に、背中に圧し掛かる倦怠と、少しの絶望――失ってしまった何かを惜しむ気持ちは、やはり湧かなかったけれど。
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