恭介&圭吾シリーズ

芹澤柚衣

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アンチノック・スターチスの誤算

10.

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 城脇鳴海はひどく整った顔立ちをしている。それは拓真の個人的な見解ではなく、周りの人間に聞き歩いたとしても満場一致でそう答えるだろう事実であった。
 ぱっちりとした長いまつ毛に彩られた瞳は、普通にしていても魅入ってしまう愛らしさがあるのに、鳴海はいつでも楽しそうに笑っている。お陰でもともと華やかな顔立ちがいっそう美しく咲き誇り、通行人の何人かは一瞬で恋に落とすんじゃないかという完璧な美貌がそこにはあった。
 だから、あまり考えたことはなかった。この愛くるしい少年が無表情で押し黙った時、どんな雰囲気になるのかだなんて。

 よせばいいのにわざわざ想い人の結婚の儀について来た鳴海は、明確に妨害するでもなく、揚げ足を取るように揶揄するでもなく、露骨な嫌味で水を差すでもなく、ただ一言「俺は納得してない」と言った。
 今更そんな言葉で、一部の大人の労力とあらゆる事情と些末な都合を内包したこの儀式が止まるはずもなく、鳴海とて、そんなふうに状況を何もかも覆す魔法の呪文のつもりでこれを言ったのではないだろうことは容易に想像がついた。
 それでは、交通の便が良いとはお世辞にも言えない、アトリエとは名ばかりの廃屋のような日本家屋にまで何時間も掛けて足を運び、精妙巧緻に企てた計画でもってして一之進を攫うでもなく、ただ効力のない一言を口にするためだけに来たのかと驚嘆すべきところであったが、拓真にはそれが何の意味のない馬鹿げた行為だとは思えなかった。
 鳴海のそれは、シンプルな意思表示だった。たとえ赤の他人に嗤われようが、ぴくりとも動かない大岩のような決定稿が相手だろうが、いつまでたっても検討の域を出ない、国会で取り上げられた地方の問題の改善案のように右から左へと流される言葉であろうが、鳴海は誠実に、直向きにその一言を伝えに来たのだ。
 その証拠に、それを言ったきりくるりと背を向けて、家主の許可も取らず奥の居間へと閉じ籠ってしまった。

 効果は絶大のようにも、暖簾を揺らす風にさえならなかったようにも思えた。
 一之進は一度も鳴海を見ようとはせず、言われた言葉をただ聞いた。相槌も何もあったもんじゃない。彼は覚悟を持って放たれたそれを、ただ聞くという選択をしたのだった。

「つまらない仕事だな」
 吐き捨てるように絵師が言った。眦だけ、クリムゾンのアイシャドウで彩られた切れ長の糸目。歌舞伎役者に塗られるおしろいのような色身を帯びた肌が、よりその目元を艶めかしく印象付ける。長い白髪のストレートを、サイドのみ編み込み、耳の後ろで乱雑に纏めているが、その毛先にはまばらにカラフルな絵の具がついていた。草臥れた杜若色の作務衣から伸びる細い手足は、成長の途中で止まってしまっているかのような幼さがあり、男女どちらとも判別しかねる中性的な雰囲気があった。
 軽やかに動く筆先は、オートマチックのようにぶれがない。迷わずに決められた枠へと絵の具を載せ、最初から色指定のある塗り絵のように、それらは淀みなくキャンバスを彩っていた。
「いつから、子守の仕事まで引き受けるようになったんだ?」
「……俺だって本意じゃないよ」
 絵師の視線は、そう不満そうに嘯く烏丸にちらりと向けられたものの、すぐに道具箱へと戻されてしまう。
 ドキッとするような濃いルージュにも似た鮮明なバーミリオンをパレットの中心に載せ、角型の三重筆洗に水を潜らせた毛筆で色を伸ばす。
 そういえば、水彩を描く時は水のバケツは三つ必要だと美術の先生が言っていたななどと、どうでもいいことを拓真は思い出した。どうしても筆が汚れやすいこの作業は、筆を洗う水、濯ぐ水、綺麗なままでキープしておく水を入れる容器が必要なのだと。
 一番左端の水には、いくら濁っても澄んだ黒にはなりきれない淀みがあり、見つめ続けているとこちらまでおかしくなりそうな負のエネルギーさえ感じられた。
「あんまり見るなよ」
 絵師が短く言った。
「すっ、すみません……!」
「そうじゃなくて」
 不躾に作業中の手元を眺めるのは失礼だったと慌てて腰から九十度に頭を下げる拓真に、絵師がひらひらと手を振る。
「飲まれるから、闇に。あんたみたいな絵に描いたような良い子ちゃんは、特に」
「は……?」
「むかさりには力がある。美術展みたいなノリで、一枚一枚じぃっと見つめていたら引き込まれるぞ。闇は取り込む人間を、選り好みして食っちまうからな。しょっちゅう悪口溢してる性格の悪いやつと、目の前で何か訴えてきたら、知らない相手でもとりあえず聞いちまう優しいやつと、先に愛しい人が死んだやつだ」
 ドキ、と拓真の心臓が震えた。
 脳裏に、ピアノの前で穏やかに笑うあの人を思い描く。
 ただ美しく、どこまでも芸術的な人だった。その目を自分に向けて欲しくて仕方がなくて、子供のような駄々を何度も捏ねた。
 その人が今生で、直向きな愛を注ぐと決めたピアノが妬ましくて我慢ならなかった。
 そう、子供だったのだ。彼にとって命より大事と知っていて――そのピアノを取り上げてしまうくらいには。
「お前は、ポイント二つくらい押さえてそうな顔してるから。余計にって話」
 キラリと、白髪の毛先が光る。筆をまるで体の一部のように扱いながら、心の半分は既に目の前の一枚に戻っているような話し方だった。
「お前の方こそ、保育士とか向いているんじゃないか?」
 拓真を慮る会話を繰り広げたことを揶揄するように、烏丸が嫌な言い方で声を投げる。
「厄介事が起こる可能性につながるものを握り潰しているだけだ。こんな山奥まで子連れで遠足するお前程、献身的にはなれないよ」
 数分前に言われた嫌味をネチネチと覚えていた烏丸が返す刀で一矢報いようとしたようだったか、更に翻った刀に自身をグッサリと刺されてその場に蹲る羽目になった。
「……恭介のためだからな」
「知ってる。お前はいつもそうだものね」
 ポチャン、と音を立てて筆が洗筆に落とされた。その一本が完全に絵師の手から離れたことから、拓真は絵の完成を悟る。
「出来たよ。気持ち悪いけど、一応注文通りに塗った」
「すごい……」
 真っ白だったキャンバスには、複数名の親族を含め、たくさんの参列者に囲まれた一之進と咲が微笑んでいる。漆黒の羽織から覗く縦縞の袴は、体格の良い一之進の腰回りにしっかりと巻かれており、まるで侍のような貫禄があった。
 その隣で控えめに笑う咲の口元には鮮やかな紅が引かれ、白無垢の裾の内から見える朱赤の裏地と相まって、全体的に白黒のキャンバスに華を添えている。
 果たして一之進はこのように穏やかに笑うのだろうかという疑問が浮かんだが、を考えたらベストな表情と言わざるを得ないだろう。

 頃合いが、来たのだと思う。
 たとえ鳴海がただのひとつも、納得していないのだとしても。

 「一之進、咲さん」
 拓真の声に反応して、ぐにゃり。
 目の前の空気に歪みが生まれた。深々とお辞儀をしている二人が現れ、絵師が静かにそちらを見遣る。
「準備は良い?」
 拓真が優しく問い掛け、一之進が頷く。神妙な顔だった。襖一枚隣の部屋に閉じこもったまま出てこない誰かに、僅かな心も動かしていないとでも言いたげな、冷たい瞳。
 もう少し優しくしてあげたら良いのに、とは外野の意見であった。まさしく直接的に影響のない外側にいる人間の安易な考えであり、身勝手な上に何の責任も負わずに済む場所にいるからこそ口にできる言葉であると拓真は正しく理解していた。
 生と死は、あまりにも分厚い壁で分けられている真逆の概念である。鳴海の恋の成就を願う行為は、鳴海自身の死を願うのと同義なのかもしれないのだから。
「ところで、予定通りに進めるのなら一人足りないぞ」
「一応お願いはしてるんだけど……あいつ照れ屋だからなぁ」
 烏丸が頓着のない声で言った。後々に来るだろうという確信による余裕にも思えたし、最初からあてにしていなかったとも取れる温度の声だった。
「待てない」
「だろうね」
 承知の上だったのだろう烏丸が答えた。この、人嫌いで一癖も二癖もある絵師は、人を待たせるのには五時間であろうと欠片の罪悪感も抱かないくせに、当の本人は待たされるのが大嫌いだというどこぞのお姫様のようなわがままな一面を持っている。わざとゆっくり絵を仕上げてくれる程度の調整はしてくれたものの、完成した以上無駄に時間を浪費する理由がなくなったのだろう。烏丸とて、この後に――小憎たらしいコブ付きというオプションがセットでついてくる煩わしさはあれど――可愛い弟子と小旅行というビッグイベントを控えており、万一約束の時間に遅れようものなら、その小憎たらしいコブといくら愛でても愛で足りない恭介が二人きりになる時間が長くなるというリスクもあったので全体的に早急に事を進めるというスタンスに異議はなかった。

 絵師は、草臥れた甚平の袖をくるりくるりと二度程巻いて、懐から金属の鎖を取り出す。先端には、ダウジングで使うような菱形のアクセサリーがぶら下がっていた。
 利き手にくるくると鎖を巻き付け、描かれた一之進の上に菱形の飾りが垂れ下がるよう掌を広げる。
「始めるぞ」
 ゆらり。一之進との輪郭が歪んだ。フレッシュを注いだ直後のコーヒーのようにマーブル状に形を歪め、絵の上に掲げられた絵師の利き手へと吸い込まれてゆく。菱形のアクセサリーの先端から、ぽとり。厳選された珈琲豆を挽いた粉から落ちる極上の一滴のように、一之進だったものの魂が濃厚な雫となって絵の中に落とされた。
 着地したのは、穏やかに微笑む新郎のイラストの上。その一人だけが、裸電球のように淡い光を一瞬放った後、僅かな静寂が訪れた。同じようにして咲の魂も、絵画の中に落とし込む。絵師がより集中力を高めるために、利き手に巻き付けた鎖を握り直した――その瞬間。

「烏丸!!」

 逆に一番神経を逆なでる瞬間を見計らっていたのかと思うくらい、それは最悪なタイミングだった。若草色の上等な着物を翻し、顔の半分を伸ばした前髪で覆い尽くしているその男は、片手に持っていたミリタリーブーツを力の限り振りかぶった。この後ドラフトを控えているかのように完璧なフォームだった。
「俺は行かないって言っただろ!」
「結局来てるじゃん」
 投げつけられたブーツをひらりと躱しながら、全く悪意なく烏丸が地雷を踏んだ。少なくとも一方的に日時を指定し呼びつけた人間の言っていい言葉ではなかった。
 柏木智也は己の中にある堪忍袋が完全に焼き切れる音を確かに聞いた。こんなに生々しい音を立てるのだと初めて知った。
「お前が! 行かないって言う俺のメールを! 悉く無視するからわざわざ言いに来なきゃならなかったんだろう!」
「智也が来なきゃ来ないでどうにかしたよ。お前、こんな辺鄙なところまで、わざわざそんなことを言うために来たの? 暇人だなぁ」
 それは爽やかに踏まれた二つ目の地雷だった。智也は静かに決意して、もう片方のショートブーツを脱ぐ。踵を掴むようにして右手に持ち替え、今度は横向きに構えた。頭上から、同じ螺旋を描くように投げてやるなんて、生易しいことはしない。確実に脇腹を抉ることのできる鋭利な角度から、内臓ごと仕留めると心に決めた瞬間だった。
「烏丸」
 静かに絵師が呼びかける。図書館で騒ぐ生徒を嗜めるような、僅かな圧のある声だった。
「言っとくけど、うるさくしてんのはコイツだからね」
「お前はどの面下げて……!」
「そうじゃない」
 騒ぐ智也の顔面を容赦なく掌で押さえつけながら反論する烏丸に、訂正の声が入った。
 そうじゃない、とは。暴れていた智也がピタリと静止した。それを合図に、掴まれていた襟元を正した烏丸が向き直る。
「呼べないんだ」
「呼べない? ……参列者の降霊が、うまくいかないのか?」
「全員じゃない」
 烏丸の質問に端的に答えて、絵師が乱雑に積まれた紙の束を弄った。常人には、適当に積まれているだけのゴミの山にしか見えないが、本人にとってはそれらは整理の行き届いた本棚のごとく積まれているものらしい。
 迷わずにひとつの束を手にとって、ばさりと床に広げる。丸まった端を足で押さえながら、未だ利き手にブーツの片方を持ったままの智也をギロリと睨んだ。
「それ横に置け。代わりにここ、持ってろ」
「何で俺が、こんなことにこき使われなきゃならないんだ!」
 文句を言う割には、すぐ駆け寄って反対側の端を押さえてくれるのだから、お人好しも甚だしい男である。
 広げられたのは、古い地図だった。
「岐阜県白川村の山間部」
 ツアーガイドのように迷いのないゆびさきで、絵師が地形を説明しながら山脈をなぞる。
「ここにいるのは間違いない。けど、ひとりだけ、どうしても呼び出せない」
 読み上げられた地名には既視感があった。ざらりと嫌な予感が烏丸の胸をざわつかせる。
 あの日、アナウンサーのように平坦な声で、わざわざプリントアウトした書類をこちら側に向けながら圭吾が口にした地名はどこだったのか。嫌味な中学生が鹿爪らしい顔で広げた書類には毛程の興味もなかったが、目の中に入れても痛くないくらい可愛い愛弟子が行こうとしている場所ということで、その建物の立地データだけは頭に入っていた。

 烏丸はゆっくりと、二度瞬きをした。
 予感が、予感ではなくなった瞬間だった。

「おい、いつまで端っこ持たせるつもりなんだ!」
「呼び出せない……と言うのは語弊があるな。黒い靄がかかっていて、そこから抜け出せない」
「聞け!」
「いや……靄だけじゃない。もう一枚、何かが覆いかぶさってる。それが一番の障壁になっていて、引き寄せられない」
「霊山なんだろ!」
「霊山?」
「今度は聞こえるのかよ!」
 随分と都合のいい耳を持っているなという嫌味を口にしても良かったが、嫌味というものは受け取る側に嫌だなぁと思う感情があってこそ成り立つ当て擦りである。この絵師や、すぐ後ろで柱に背を預けている烏丸のように、その概念が成り立たない人種もあると賢い智也は知っていた。
「……山岳信仰があるくらいだからな。山には昔から、神様だって、死霊だっているさ。その山一帯が霊山なら、ある意味神社より厄介だぞ」
「神社より?」
「入りやすくて、出にくいんだろ」
 烏丸が、携帯に指を掛けながら言った。
「岐阜県白川町多伎市」
「……どうしてそれを?」
 拓真が、驚いたように目を瞠る。恭介に関りのないあらゆる物事に欠片の関心もない烏丸には、依頼の詳細を説明する時間などはなかったし、そもそも受け取る姿勢がなかったので、むかさりに描かれる親族の出身地については伝えた記憶などない。
 その瞬間、烏丸の行動は素早かった。受話器マークのアイコンを開き、発着信の履歴を開く。常にその頁の一番上にいる、烏丸にとって後にも先にもこの子だけと決めた弟子の番号をタップした。
 耳から響くコール音に合わせて、鼓動が早くなるのがわかる。苛立ちに任せて携帯の背をカツカツと爪で叩いた。応答があるまで粘り続けるつもりでいたが、無機質なアナウンスの声で、無情にも電波が届かない場所にいると突き放される。
「……出ない」
「恭介さんですか?」
 電話に出ないだけで世界が滅亡したかのような顔をしていたので、コールして呼び出したかった相手が誰なのか容易に想像がついた。
「状況が変わった」
 答えずに、烏丸が言った。

「端的にではなく、この女に依頼されたこと、すべてを話せ」
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