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秋祭り
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ネリーが目覚めたのは、エズラの館の客間のソファの上だった。
「まあ・・私とした事がエズラ様に大変なご迷惑を」
「ネリー様はお疲れだったんですよ。よく眠れてよかったですね。それに毎日山車では誰かが寝落ちするので、気にしないでゆっくりしてくださいね。私の母も先週遊びに来ていた時、山車の中で寝落ちしていましたよ。あそこは本当に気持ちいい場所ですからね」
自身が山車の中で眠ってしまってエズラに迷惑をかけていた事にネリーは動揺したが、どうやらよくある事らしい。
エズラのメイドが、ニコニコと目覚めたネリーを労ってくれた。
そう言われてみれば、ここ数年はずっとネリーの眠りは浅かった。
ベッドに横たわっても浅い眠りと悪い夢で、心から休まる眠りについた事はなかったのだ。
だが今深い眠りから目覚めた体には、体の奥深くから力が蘇ってきたような気がする。
「どうじゃ?今年はワシの優勝で間違いないじゃろ」
ネリーの様子を見にきてくれたらしいエズラが近づいてきて、ネリーの側の椅子に腰掛けた。
「エズラ様。精霊の森とは、反則ですわ」
ネリーは両手を上に上げて、冗談めかして降参のポーズをした。
エズラはそうじゃろ、とフォフォッフォと嬉しそうにすると、賢者と呼ばれるこの大魔術師は、優しい目をして、ネリーに静かに語りかけた。
「人間の苦しみというもののほとんどはの、人間の世界で与えられた役割を担うために、苦しいんじゃ。夫だの妻だの、先生だの生徒だの。将軍だの、王だの、金持ちだの貧乏だの。人はその名前のついた役割にがんじがらめになって、役割が多ければ多いほど、苦しむ。そんな人間が、人の領域ではない領域に入ると、人間界のしがらみから全部自由になる。人間の世での責任や、役目、それに苦しみからも、自由になって、ただの命に戻るんじゃ」
「精霊の森に入れば、誰しも自分が人間である事を忘れて、ただの命の存在に戻る。そうして自分が何の役割よりも前に、ただの命の存在である事を思い出す。思い出せば人は癒やされて、また人間の世界に戻る事ができる。わしはそう思う」
静かにエズラの話を聞いていたネリーは、自分の心を見つめてみる。
確かに、ネリーの抱える人生の問題は何一つ解決していないが、心がとても軽くなっているのを感じた。
あの森で見た、光の粒たち。
生きる事と死ぬこと、人と人でないもの。存在するものと、存在しないものは和やかに共存し、世界の境界線はとても薄かった。
ネリーは精霊の森でしたように、大きく息を吸って、吐いてみた。
(生きている)
そして気がついた。
生きている。
(私は、感謝して、生きよう)
あの森にさざめいていた光と同じ、尊い命が、自分という存在に与えられている事に。
そして自分には人としての人生が、与えられているという大きな祝福に。
今まで己の不幸を呪っていたネリーは今、己に与えられた途方もない幸運に、目が眩む思いだった。
目の前に、赤茶色い髪の可愛い女の子がやってきていた。
ニコニコとしてお茶を出してくれると、すぐに引っ込んでいった。
お茶は、濃いミルクと、生姜と、カルダモンと、そして胡椒の不思議な味がした。
飲むと心と体の一番奥から、何か整っていくような、回復していくような、そんな気がした。
(私は変われるのかも、しれない)
今までの人生、必死に生きて必死に走り抜けてきた。
ようやく少し立ち止まる事が許された気がする。
(もう遅いのかもしれないけれど)
でも、子供達にも、夫にも、遅ればせながらでも、感謝を伝えてみたいと、そう思った。
妻にしてくれた感謝。生まれてきてくれた感謝。この人生を共に過ごしてくれた感謝。
(そして、手放してみよう)
夫も、子供達も、肉体も役割も、命も、全て手放した後に残るのは、あの光の粒だ。
ネリーがどれほど夫の愛に執着しても、子供の人生を支配しようと束縛しても、それはおそらく、意味のない事だったのだろう。光の粒には上下はない。強弱もない。誰も縛ることはできない。
ネリーは心の中でそう思うと、恐る恐る、幼馴染のマリーの掴んだ幸せを思い出す。
今、ネリーは、マリーの幸せを思っても、醜い感情は湧いてこなかった。
ただ、心の全てで幼馴染の幸せを、喜ぶ事ができるようになっていた。
ネリーの瞳から涙がポロリ、とこぼれていた。
(よかった)
大切な友人の幸せすら心から喜べなくなっていた自分の醜さが、ネリーを一番傷つけ、苦しめていたのだ。
ほう、とネリーは大きなため息をついた。
ため息の中に、全ての悩みや苦しみが解けて、ネリーの体から抜けて行ったような気がする。
ここ数年で一番クリアになった頭で、ネリーはエズラに向き直って、深く頭を下げた。
「ええ。確かに本当に素晴らしい場所でしたわ。あの場所で、私の人間としての大切な事を、思い出した気がいたします。感謝しますわ、エズラ様」
「礼には及ばんよ。わしは幻影魔法しか展開しておらん。それを見て何を感じるかは、お前さんの心次第」
「エズラ様。一体私はどういう仕組みであの場所に行けたのです?精霊の森など、普通の人間がおいそれと行ける場所ではありませんわ」
ネリーが疑問を口にした。
幻影魔法である事は間違いないが、あの森は空気の味から、森の香りまで、実に見事に細部まで作り込まれていたのだ。まるで実際に存在している森に足を踏み入れたような再現度だったのだ。
エズラは楽しそうに種明かしをした。
「本当に精霊の森に入ったら普通の人間では迷って二度と出て来れんからの。実際によく精霊の森に出入りしておる、ベスという娘の記憶から幻影を作り出して、山車に入った人間の意識だけをそこに連れて行ったんじゃ。あの娘は心が澄んでおるからの、精霊の世界もあの子の目を通して、ほどんどガラス越しに見るかのように美しいままじゃ」
戦時に、敵陣の密偵から帰ってきた兵に敵陣の様子を再現するために、使っていたという幻影魔術の応用だと、エズラは言った。人の心の目を通しての世界を見るので、心の持ち主次第で景色はよく変わるという。
「ベス?」
「まあ・・私とした事がエズラ様に大変なご迷惑を」
「ネリー様はお疲れだったんですよ。よく眠れてよかったですね。それに毎日山車では誰かが寝落ちするので、気にしないでゆっくりしてくださいね。私の母も先週遊びに来ていた時、山車の中で寝落ちしていましたよ。あそこは本当に気持ちいい場所ですからね」
自身が山車の中で眠ってしまってエズラに迷惑をかけていた事にネリーは動揺したが、どうやらよくある事らしい。
エズラのメイドが、ニコニコと目覚めたネリーを労ってくれた。
そう言われてみれば、ここ数年はずっとネリーの眠りは浅かった。
ベッドに横たわっても浅い眠りと悪い夢で、心から休まる眠りについた事はなかったのだ。
だが今深い眠りから目覚めた体には、体の奥深くから力が蘇ってきたような気がする。
「どうじゃ?今年はワシの優勝で間違いないじゃろ」
ネリーの様子を見にきてくれたらしいエズラが近づいてきて、ネリーの側の椅子に腰掛けた。
「エズラ様。精霊の森とは、反則ですわ」
ネリーは両手を上に上げて、冗談めかして降参のポーズをした。
エズラはそうじゃろ、とフォフォッフォと嬉しそうにすると、賢者と呼ばれるこの大魔術師は、優しい目をして、ネリーに静かに語りかけた。
「人間の苦しみというもののほとんどはの、人間の世界で与えられた役割を担うために、苦しいんじゃ。夫だの妻だの、先生だの生徒だの。将軍だの、王だの、金持ちだの貧乏だの。人はその名前のついた役割にがんじがらめになって、役割が多ければ多いほど、苦しむ。そんな人間が、人の領域ではない領域に入ると、人間界のしがらみから全部自由になる。人間の世での責任や、役目、それに苦しみからも、自由になって、ただの命に戻るんじゃ」
「精霊の森に入れば、誰しも自分が人間である事を忘れて、ただの命の存在に戻る。そうして自分が何の役割よりも前に、ただの命の存在である事を思い出す。思い出せば人は癒やされて、また人間の世界に戻る事ができる。わしはそう思う」
静かにエズラの話を聞いていたネリーは、自分の心を見つめてみる。
確かに、ネリーの抱える人生の問題は何一つ解決していないが、心がとても軽くなっているのを感じた。
あの森で見た、光の粒たち。
生きる事と死ぬこと、人と人でないもの。存在するものと、存在しないものは和やかに共存し、世界の境界線はとても薄かった。
ネリーは精霊の森でしたように、大きく息を吸って、吐いてみた。
(生きている)
そして気がついた。
生きている。
(私は、感謝して、生きよう)
あの森にさざめいていた光と同じ、尊い命が、自分という存在に与えられている事に。
そして自分には人としての人生が、与えられているという大きな祝福に。
今まで己の不幸を呪っていたネリーは今、己に与えられた途方もない幸運に、目が眩む思いだった。
目の前に、赤茶色い髪の可愛い女の子がやってきていた。
ニコニコとしてお茶を出してくれると、すぐに引っ込んでいった。
お茶は、濃いミルクと、生姜と、カルダモンと、そして胡椒の不思議な味がした。
飲むと心と体の一番奥から、何か整っていくような、回復していくような、そんな気がした。
(私は変われるのかも、しれない)
今までの人生、必死に生きて必死に走り抜けてきた。
ようやく少し立ち止まる事が許された気がする。
(もう遅いのかもしれないけれど)
でも、子供達にも、夫にも、遅ればせながらでも、感謝を伝えてみたいと、そう思った。
妻にしてくれた感謝。生まれてきてくれた感謝。この人生を共に過ごしてくれた感謝。
(そして、手放してみよう)
夫も、子供達も、肉体も役割も、命も、全て手放した後に残るのは、あの光の粒だ。
ネリーがどれほど夫の愛に執着しても、子供の人生を支配しようと束縛しても、それはおそらく、意味のない事だったのだろう。光の粒には上下はない。強弱もない。誰も縛ることはできない。
ネリーは心の中でそう思うと、恐る恐る、幼馴染のマリーの掴んだ幸せを思い出す。
今、ネリーは、マリーの幸せを思っても、醜い感情は湧いてこなかった。
ただ、心の全てで幼馴染の幸せを、喜ぶ事ができるようになっていた。
ネリーの瞳から涙がポロリ、とこぼれていた。
(よかった)
大切な友人の幸せすら心から喜べなくなっていた自分の醜さが、ネリーを一番傷つけ、苦しめていたのだ。
ほう、とネリーは大きなため息をついた。
ため息の中に、全ての悩みや苦しみが解けて、ネリーの体から抜けて行ったような気がする。
ここ数年で一番クリアになった頭で、ネリーはエズラに向き直って、深く頭を下げた。
「ええ。確かに本当に素晴らしい場所でしたわ。あの場所で、私の人間としての大切な事を、思い出した気がいたします。感謝しますわ、エズラ様」
「礼には及ばんよ。わしは幻影魔法しか展開しておらん。それを見て何を感じるかは、お前さんの心次第」
「エズラ様。一体私はどういう仕組みであの場所に行けたのです?精霊の森など、普通の人間がおいそれと行ける場所ではありませんわ」
ネリーが疑問を口にした。
幻影魔法である事は間違いないが、あの森は空気の味から、森の香りまで、実に見事に細部まで作り込まれていたのだ。まるで実際に存在している森に足を踏み入れたような再現度だったのだ。
エズラは楽しそうに種明かしをした。
「本当に精霊の森に入ったら普通の人間では迷って二度と出て来れんからの。実際によく精霊の森に出入りしておる、ベスという娘の記憶から幻影を作り出して、山車に入った人間の意識だけをそこに連れて行ったんじゃ。あの娘は心が澄んでおるからの、精霊の世界もあの子の目を通して、ほどんどガラス越しに見るかのように美しいままじゃ」
戦時に、敵陣の密偵から帰ってきた兵に敵陣の様子を再現するために、使っていたという幻影魔術の応用だと、エズラは言った。人の心の目を通しての世界を見るので、心の持ち主次第で景色はよく変わるという。
「ベス?」
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