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緑の指を持つ娘 温泉湯けむり編
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その夜。
フェリクスは、就寝前の入浴を行っていた。
一人で黒くて異臭を放つ、いつもの惨めな薬草風呂に体を浸す。
風呂の水のように黒い夜空には、美しい満月が登っていた。
ここの所の厳しい鍛錬と、新しい配合のポーションによって、少し肌の調子はマシになってきて、強く髪や眉を引っ張っても体毛が抜けて体液がドロリと落ちることは稀となってきた。
抜け落ちていたまつ毛も短いものが生えてきた様子だ。
新しいポーションは、フェリクスの温室で、ノエルの部下の手によって育てられた薬草で、フェリクスの手によって調合されたポーションだ。
部下の庭師は、とてもよい庭師だとは聞いていたが、ノエルの平民の婚約者だと先ほど知ったばかりだ。今までのポーションの効果の中でも一番優れている事は、摂取したその次の日には理解できたほどに、その薬草の質も、ポーションの精製者のスキルも格段に今まで摂取してきたものより、上だ。
(よい腕を持っている)
フェリクスの容態が外に漏れる政治的な危険性までも計算にいれてのポーションの対応に、魔術師としてだけではなく、政治家として、そして統治者としての能力の高さがうかがえる。加えてあの美貌だ。
まだ少女であった女王の、立っての願いで結ばれた縁談だと聞いていた。
(あの男は新女王のよき王配となったであろう)
多少状態がよくなったとはいえ、フェリクスが少しでも油断すると肌は少しの刺激でもすぐに赤く腫れ、かきむしってしまう。毎晩の寝具はやはりまだ、血と膿で無惨なものだ。
だが、少しは肌の状態がましになった事は、フェリクスの心を落ち着かせてくれた。
心が落ち着きを取り戻すと、風呂の泡のようにフェリクスの脳裏に浮かんでは消えていくのは、王都での、輝かしい未来を疑いすらしていなかった頃のことだ。
華やかな王都での暮らし。水蜜桃のように甘い、美しい娘たちとの逢瀬。友情。両親。学問。剣術。夢。王太子としての、未来。決して変わることのない、硬固たる永遠のそれらと信じていたものの全ては、フェリクスの疾患が出てより、砂のようにボロボロと全て儚くその手から漏れて行った。
(皮膚一枚で、儚く消えゆくような、そんな泡沫の夢の中に私は立っていたのか)
黒い湯船に浮かんだ、揺れる満月をフェリクスは、そっとその手の中に掬い取った。
満月は、フェリクスの手の中で歪んでいた。
フェリクスはそして、今日聞いたばかりの楽しそうな風呂の話を思い出していた。
今日はノエルの宿に、なんとオリビアの母が風呂に入りにくるという。
オリビアの母は神経痛があるらしく、ノエルの婚約者のベスという娘が、今日は風呂を整えてくれるのだとか。
(メイドの母にまで)
掬い取った満月を、覗き込む。黒い水面に浮かんだ白い月には、ぼんやりとフェリクスの爛れた顔が映っていた。
(この国ではまだ知り合いが少ないから、誰か遊びに来てくれるととても婚約者が喜ぶから歓迎だとサラトガ魔法伯は言っていたが、身分を気にしないにしても限度がありはしないか)
魔法伯とその婚約者の宿泊先に、フェリクスの家令も、メイドも、なんならメイドの母まで、皆風呂に入りに行くのだ。
この地は湯治で有名な街で、治療用の専門の風呂など、いつでも入れるというのに、だ。
肩こりに悩まされていたはずのメイソン家令が、ひょいひょいと腕を上げている所を見て、フェリクスは聞いてみた。メイソンはニコニコと、答えた。
「それは素晴らしい風呂です。何か、心と体と、それから魂の凝り固まっていた何かが溶けて流されるような、己の全てが許されて、受け入れられるような、そんな風呂です。ただその風呂で体を伸ばして息をしているだけで、何だか涙が込み上げてくるような、そんな風呂なのです」
メイソンはそう答えたが、実際にはどんな風呂なのかフェリクスにはよくはわからなかった。
何とか聞き出してわかったのは、湯船にはよく薬草を浮かべていて、風呂場は植物で満ちており、とても良い匂いがする事。風呂上がりの飲み物が格別な事。そして、癖になってしまったとかで、結構な頻度でメイソンがその風呂に通っている事。
フェリクスは、己の湯船にも浮かぶ希少な薬草の束を手にしてみる。
希少な薬草である事は知っているが、薬草は見るも無惨な状態で、触るのも嫌になる。
ノエルは、そもそも侯爵家の出身で、婚約を解消した後は分家して魔法伯と身分が変わったが、そうフェリクスの育った環境と変わらない所で身を置いて教育を受けていたはずだ。
当然身分の違いに対する考え方も、フェリクスと大差があるとは思えない。
(だというのに)
実に楽しそうに誰彼構わず、宿に呼んで風呂に入ってもらっているというし、この国で最も厳しく身分の垣根を教育されている人間の一人である、王太子の家令のメイソンですら、その風呂の魅力に抗えずに頻繁に王家の客人の風呂に通っているのだ。
(森で出会ったあの娘が、サラトガ魔法伯の婚約者のベスに違いない)
森で亀を追いかけていた不思議な娘の事を考える。
まるで盲の魔術師であるラッカのごとく、あの娘は痛ましい姿のフェリクスに、何も反応する事はなかった。
そして与えてくれた正体不明の、花の香りのするただの水。
フェリクスの鼻腔に、ほんの一晩の平和な夜を与えてくれたあの風呂の、花の香りが思い出される。
(あの娘に会いたい)
フェリクスは、就寝前の入浴を行っていた。
一人で黒くて異臭を放つ、いつもの惨めな薬草風呂に体を浸す。
風呂の水のように黒い夜空には、美しい満月が登っていた。
ここの所の厳しい鍛錬と、新しい配合のポーションによって、少し肌の調子はマシになってきて、強く髪や眉を引っ張っても体毛が抜けて体液がドロリと落ちることは稀となってきた。
抜け落ちていたまつ毛も短いものが生えてきた様子だ。
新しいポーションは、フェリクスの温室で、ノエルの部下の手によって育てられた薬草で、フェリクスの手によって調合されたポーションだ。
部下の庭師は、とてもよい庭師だとは聞いていたが、ノエルの平民の婚約者だと先ほど知ったばかりだ。今までのポーションの効果の中でも一番優れている事は、摂取したその次の日には理解できたほどに、その薬草の質も、ポーションの精製者のスキルも格段に今まで摂取してきたものより、上だ。
(よい腕を持っている)
フェリクスの容態が外に漏れる政治的な危険性までも計算にいれてのポーションの対応に、魔術師としてだけではなく、政治家として、そして統治者としての能力の高さがうかがえる。加えてあの美貌だ。
まだ少女であった女王の、立っての願いで結ばれた縁談だと聞いていた。
(あの男は新女王のよき王配となったであろう)
多少状態がよくなったとはいえ、フェリクスが少しでも油断すると肌は少しの刺激でもすぐに赤く腫れ、かきむしってしまう。毎晩の寝具はやはりまだ、血と膿で無惨なものだ。
だが、少しは肌の状態がましになった事は、フェリクスの心を落ち着かせてくれた。
心が落ち着きを取り戻すと、風呂の泡のようにフェリクスの脳裏に浮かんでは消えていくのは、王都での、輝かしい未来を疑いすらしていなかった頃のことだ。
華やかな王都での暮らし。水蜜桃のように甘い、美しい娘たちとの逢瀬。友情。両親。学問。剣術。夢。王太子としての、未来。決して変わることのない、硬固たる永遠のそれらと信じていたものの全ては、フェリクスの疾患が出てより、砂のようにボロボロと全て儚くその手から漏れて行った。
(皮膚一枚で、儚く消えゆくような、そんな泡沫の夢の中に私は立っていたのか)
黒い湯船に浮かんだ、揺れる満月をフェリクスは、そっとその手の中に掬い取った。
満月は、フェリクスの手の中で歪んでいた。
フェリクスはそして、今日聞いたばかりの楽しそうな風呂の話を思い出していた。
今日はノエルの宿に、なんとオリビアの母が風呂に入りにくるという。
オリビアの母は神経痛があるらしく、ノエルの婚約者のベスという娘が、今日は風呂を整えてくれるのだとか。
(メイドの母にまで)
掬い取った満月を、覗き込む。黒い水面に浮かんだ白い月には、ぼんやりとフェリクスの爛れた顔が映っていた。
(この国ではまだ知り合いが少ないから、誰か遊びに来てくれるととても婚約者が喜ぶから歓迎だとサラトガ魔法伯は言っていたが、身分を気にしないにしても限度がありはしないか)
魔法伯とその婚約者の宿泊先に、フェリクスの家令も、メイドも、なんならメイドの母まで、皆風呂に入りに行くのだ。
この地は湯治で有名な街で、治療用の専門の風呂など、いつでも入れるというのに、だ。
肩こりに悩まされていたはずのメイソン家令が、ひょいひょいと腕を上げている所を見て、フェリクスは聞いてみた。メイソンはニコニコと、答えた。
「それは素晴らしい風呂です。何か、心と体と、それから魂の凝り固まっていた何かが溶けて流されるような、己の全てが許されて、受け入れられるような、そんな風呂です。ただその風呂で体を伸ばして息をしているだけで、何だか涙が込み上げてくるような、そんな風呂なのです」
メイソンはそう答えたが、実際にはどんな風呂なのかフェリクスにはよくはわからなかった。
何とか聞き出してわかったのは、湯船にはよく薬草を浮かべていて、風呂場は植物で満ちており、とても良い匂いがする事。風呂上がりの飲み物が格別な事。そして、癖になってしまったとかで、結構な頻度でメイソンがその風呂に通っている事。
フェリクスは、己の湯船にも浮かぶ希少な薬草の束を手にしてみる。
希少な薬草である事は知っているが、薬草は見るも無惨な状態で、触るのも嫌になる。
ノエルは、そもそも侯爵家の出身で、婚約を解消した後は分家して魔法伯と身分が変わったが、そうフェリクスの育った環境と変わらない所で身を置いて教育を受けていたはずだ。
当然身分の違いに対する考え方も、フェリクスと大差があるとは思えない。
(だというのに)
実に楽しそうに誰彼構わず、宿に呼んで風呂に入ってもらっているというし、この国で最も厳しく身分の垣根を教育されている人間の一人である、王太子の家令のメイソンですら、その風呂の魅力に抗えずに頻繁に王家の客人の風呂に通っているのだ。
(森で出会ったあの娘が、サラトガ魔法伯の婚約者のベスに違いない)
森で亀を追いかけていた不思議な娘の事を考える。
まるで盲の魔術師であるラッカのごとく、あの娘は痛ましい姿のフェリクスに、何も反応する事はなかった。
そして与えてくれた正体不明の、花の香りのするただの水。
フェリクスの鼻腔に、ほんの一晩の平和な夜を与えてくれたあの風呂の、花の香りが思い出される。
(あの娘に会いたい)
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