緑の指を持つ娘

Moonshine

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緑の指を持つ娘 温泉湯けむり編

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「殿下。ほら、見えるでしょう。あちらにいるのがベス様です」

病気の蘭に心を奪われていたフェリクスは、メイソンの声に我に返った。

この広い温室は実に心地よい。

温室いっぱいに、生きる喜びが満たされているような気がする。
高い天井の天窓が空いていた。心地の良い空気は、空からも入ってくる。
どうやら鳥を温室の中に、自由に出入りさせている様子だ。

温室に満ちる、生の喜びの空気を肺一杯に吸い込んで、フェリクスは遠くに見える人影まで歩みを進めた。
どうやらメイドのオリビアと二人で仲良く、何やら作業をしている様子だ。

(やはり、間違いない。あの娘だ)

遠くから見える、地味な赤茶けた髪の色には覚えがあった。
間違いない。フェリクスが森で、そして温泉で出会った、心を焦がすあの娘。

フェリクスの心臓が乱れる。朝も夜も、あの日の温泉での姿が眼裏に焼き付いて、フェリクスの心を乱すのだ。

メイソンは一人、歩みを早めると、和やかにベスとオリビアに話を始めた。
オリビアはこちらを見ると、いつもフェリクスに会う時のように恐怖で怯えた顔をして、深く頭を下げた。

「フェリクス様。こちらはサラトガ魔法伯の婚約者ベス様です。ベス様。こちらにいらっしゃるのがアビーブ王国の最も輝く星、王太子殿下のフェリクス様です」

メイソンに促されて、ぺこり、とベスは頭を下げた。

「初めまして。ベスといいます」

(ああ・・夢にまで見た、あの娘だ)

エプロンで手を拭きながら、ニコニコと笑うベスの無防備な笑顔に、フェリクスの心は完全に囚われてしまった。
頭の中でガンガンと鳴り響くように繰り返す映像は、森で出会ったあの日のこと。
そして、森の奥の温泉で出会ったあの日の強烈な思い出。

フェリクスは、思わずフラフラとベスの方に歩み寄る。

(直接会えば、直接会いさえすればこの心の迷いは霧散すると、そう信じていた)

包帯の奥で、ほとんどフェリクスは震えていた。
おそらくただの気の迷い、そう信じていた。だが、実際はどうだ。
あの日の、一糸纏わぬ娘の白く美しいその姿が、目の前の娘と重なって、クラクラと目眩がするほどに、眩しくベスの姿が輝く。

(まずい。これは、本格的にまずい。この娘はサラトガ魔法伯の婚約者で、)

恋多き男であったフェリクスは、心に警報が鳴り始めている事を認めた。
この心の状態が一体何であるのか、よく知っている。
そして、ノエルのベスに対する執着がどれほどのものであるのか、それも良く知っている。

ブルリと、あの日のノエルの表情を無くした氷のように美しい横顔を思い出す。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「・・か、亀だ。そうだきょど亀!か、亀は、あの後どうしたんだ」

フェリクスは少しうわずる声を抑えて、何とか言葉を発したが、出てきた言葉は、そんな、愚か者のような言葉だった。

メイソンが後ろで大いにたじろいでいるのが雰囲気でわかった。
完全無欠の王太子、フェリクスにしては実に珍しく、完全な失態だ。ここが茶会であれば失笑ものだろう。

包帯の奥で、失態を赤面するフェリクスなどまるで気にした様子もない目の前の娘は、不思議そうな顔をした。

「亀・・?」

「そうだ、亀だ、亀に会っただろう、も、森の奥で」

フェリクスは恥を重ねて、自己嫌悪で叫びたくなりそうだった。

(私は!一体!何をしているんだ!!!)

ここは堂々とふるいまい、貴婦人としてこの娘の美しさと献身を讃えて、そして褒美を遣わせる場面だ。

(一体何をしているんだ!)

自己嫌悪で消えそうになりそうなフェリクスをよそに、ベスはしばらくうーん、と考えた後に、パッと輝く笑顔を見せて、

「ああ!あなたあの時の森で会った人なのね!今日はそんな包帯でぐるぐるだから、ちっとも気が付かなかったわ!ごめんなさいね!」

そうにっこり笑った。
どうやら思い出してくれたらしい。

フェリクスにとっては森での出来事は、人生で5指に入るほど驚くべき出来事であったというのに、どうやらこの娘にとっては、特筆すべきではない事だったらしい。

(森の中で、爛れた肌の、見知らぬ化け物のような男に会ってしまったというのに)

フェリクスの知るどの貴婦人でも、おそらくは同じ体験をしたのであれば、大袈裟に森で出会った化け物の話を誇張して、そして繰り返して何度も何度も人に話すのだろう。

まるで狩人が、格好の獲物を森で見つけたかのように。

フェリクスは貴婦人はそういう生き物なのだと信じていた。
そして、おそらくはそんな貴婦人たちの獲物になるのが恐ろしく、肌の疾患が出てからは、一切の人付き合いを避けていた事を思い出す。

ベスは、楽しそうに続けた。

「貴方に森であってから、その後半刻もあの亀の後ろをついていったのよ。そしたら外に湧いている温泉に出たの。その後、なんと亀はその温泉で泳ぎだしたの!とっても気持ちよさそうで、羨ましかったわ」

本当に楽しそうに、ニッコリ弾けるような笑顔だ。ベスの隣で、メイドが青い顔をして、王太子に対する口の利き方を小声で嗜めている様子だ。
だが寛大なる王太子殿下であるフェリクスは、平民の言葉使いなどは許してやろうと思う。

(そんな事より、なんて、美しい笑顔なんだ)

挙動不審になってしまい、うわずる声をなんとか押し殺して、フェリクスは、ベスに会ったら伝えたいと願っていた、一番の言葉をなんとか言葉にすることに成功した。

「・・あの日、私はお前からもらった水を風呂に入れてみた。実によく眠れたし、一晩だけではあるが、私の症状も落ち着いた。ありがとう。今日はその礼を言いたくて、ここまで足を伸ばした」

フェリクスは、王太子とは露知らずに、ただ見ず知らずの肌の爛れた青年を見てその姿に怯える事なく、何の見返りもなく、優しい夜の眠りを与えてくれたこの親切な娘に、まずは何よりも、心からの礼を伝えたかったのだ。

フェリクスは傅かれる事に慣れきっていた。自分が尊い人間として扱われる事は当然だと信じている。
何せ自分は完全無欠の美貌の王太子なのだ!

だが、王太子でもなく、美貌の青年でもない、崩壊した皮膚をもつただの青年のフェリクスなど、誰が気にかけようか。無意識のうちに己の中で育てていたそんな傲慢で悲しい気持ちを、あっさりと、この娘は否定をしてくれた。

(サラトガ魔法伯が言っていた事は、今よくわかる)

この娘の横にいると、全てが受け入れられる気がする。
己の醜い部分であろうとも、不完全であろうとも、自分の存在の全てが尊いものであるように、思うことができると。

肌の疾患を抱えてから、自分の価値などゴミクズに等しいと感じていたフェリクスは、黒く、臭いいつも体を浸している風呂の水の中から、ベスに救い出されたような気がして、少し瞳が潤んできた。

醜い、何者でもない自分を受け入れて助けてくれた娘に対する感謝。そして尊敬。
そして、そんな中で思いがけずに娘の一糸纏わぬ姿を目撃してしまった衝動と、そしてその後にアビーブの源泉のごとく湧きあがった、否定できない感情。
あの娘にそっくりな、建国神話の伝説の乙女の挿絵。

揺れる複雑な思いを抱える王太子とは別に、ベスは、特に気にした様子もなく、嬉しそうに笑って言った。

「ああ、やっぱりパルマの水が効いたのね。よかったわ」

ベスとは、どうやら口数が少ない娘らしい。
それだけ言うと、満足そうに口をつぐんだ。貴族の娘には決して存在しないタイプだ。

やがて、開け放たれた温室の天井から、鳥が訪れたらしい。ピリイ、ピリイと特徴的ななき声が近づいてきた。
森の中に時々訪れる黄色い小鳥だろう。
うっとりと、目の前の娘は鳥の声に聞き入っている。

二人の間には、鳥の鳴き声に耳を傾けるだけの、心地の良い沈黙の時間がゆったりと流れる。

(鳥の声に耳を傾けるのは、いつぶりだろう)

フェリクスはほう、とため息をついて、少し落ち着きを取り戻して沈黙を破った。

「ベス。あの良い香りのする水を、私にまた与えてはくれないだろうか。褒美は望みのままに遣わせる。次の日も同じ風呂に入ったのだが、全く効き目がなくて途方に暮れてしまった」

あの平和な夜が再び手に入るのであれば、王太子の地位も、名誉も、財産も何一つ入りはしない。
フェリクスは、うっとりとあの夜を思い出していた。

そんな中、ベスは大きな声で、驚いたように言った。

「え!貴方まさかその次の日も同じお風呂のお湯に浸かったの??」

「あ、ああ」

予想外の言葉に、フェリクスはたじろいだ。

おそらく「殿下の為なら喜んで」や、「もったいない思し召し」という答えを期待していたのかもしれない。「何と名誉なことか」と涙するかもしれない。そんな事を期待していたのだろう。

だがベスは構わずに続けた。

「汚いから絶対そんな事、やめておいた方がいいわ。お湯は毎日変えないと、せっかく流れたものがまた入っちゃうわよ」

「き、き、きき汚いだと!!!!」

思わず声を荒げて、フェリクスは拳を握って立ち上がった。

恐怖で引き攣った顔をしたメイドが、一生懸命何かを伝えようと、ベスの腕を引っ張っているのが見える。

この世でアビーブ王太子・フェリクスを汚い呼ばわりする人間が存在するなど、フェリクスにとっては晴天の霹靂の出来事だったのだ。
そして、それを口にしたのは、フェリクスの心をを惑わす不思議な娘。
寛大にも、王太子である自らが、あの水を所望してやったというのに、こんな口を訊かれるなど!!!

羞恥、そして傷つけられた矜持、怒り、愛おしさ、悲しみ。そして、いろんな感情がフェリクスの心を掻き乱す。

思わず古い魔力が制御を外れて、皮膚を破って滲み出る。痒みが体を走り出し、包帯の下からでもじっとりと、古い魔力で皮膚に水疱が発生して、破れて体液が漏れるのを感じる。

はあはあ、と荒い息を吐気、大きく魔力を乱れさせるフェリクスだが、ベスは魔力も持たない娘だ。
フェリクスの忙しい心の中で、何が起こっているのかはさっぱりわからないで、のんびりと言った。

「そうよ。良いお湯には心と体の汚れたものがたくさん出てくれるから、お湯は毎日換えるといいわよ」

「パルマの水はいつであげるけど、それよりあなたがどんなお風呂に入っているのか心配だわ。一度見せてくれない?私、お風呂を整えるの、とても得意なの」

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