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March
フィアンセの紹介 Side 翠葉 04話
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二時間のピアノレッスンが終わり休憩時間を迎えると、そのタイミングで高崎さんがカートを押して入ってきた。
ピアノからソファへ移動しようとしたそのとき、じっとスコアを見ていた慧くんに話しかけられた。
「翠葉さ、先々週の日曜日、ウィステリアホテルにいた?」
と。
今話しかけられるならスコアの話題だろうと思っていた私は、動作が止まるほどに驚いた。
「翠葉?」
「えっ!? あっ、うん、いた。でも、どうして?」
どうしてそのことを知っているの?
すると、その質問には先生が答えてくれた。
「実はその日、僕も慧くんもホテルにいたんですよ。知人の結婚式がありまして」
なるほど……。
納得する傍ら、ただいたかどうかをたずねられただけなのだから、その日に婚約したということまでは話さなくてもいいだろうか――
そんなことを考えていると、思わぬところから声があがった。
「実はその日なんです。自分が翠と婚約したのは」
そこまで言わなくてもいいのにっ!
そんな思いでツカサを見ると、ツカサはかばんからウィステリアホテルのマークが入った封筒を取り出した。
「そのときの写真です。よろしければどうぞ」
そう言って、スタジオで撮ったであろう集合写真をテーブル上で滑らせる。
その写真を凝視したのは慧くん。先生はそんな慧くんの前を通り過ぎてツカサの隣に腰を下ろすと、写真を手に取って見始めた。
「御園生さん、表情が硬いですね」
クスクスと笑う先生に、ツカサはにこやかに対応する。
「それは言わないでやってください。三十分も写真を撮り続けて、一番まともなのがその写真だったんです」
これ、どういう状況なのかなっ!?
ツカサが談笑してるだなんて、明日は雪っ!? もしくは雹っ!?
毎回レッスンに付き合ってくれてはいたけれど、休憩時間に先生と談笑するようなことは一度としてなかった。談笑以前に会話することだってなかったのだ。
いったいどうしたんだろう……。どういう心境の変化……?
世にも奇妙な光景に驚倒しそうな思いだったし、もはや口を挟むことはできなくなっていた。
ツカサがこんなふうに話しているのは機嫌がいいから? それともその反対?
こんな状況が初めてなだけに、判断材料が乏しすぎる。
私はツカサの隣に腰を下ろすと、高崎さんが持って来てくれたロイヤルミルクティーを口に含んだ。
ほっとできる甘さに心が緩んだのは一瞬のこと。
「司くん、今日はいつになく饒舌ですね」
先生の一言に思い切り咽たし、心臓が止まるかと思った。
ただでさえ異常事態なのに、事態が悪化しそうなことは言わないでほしい。
懇願するような目で見ると、先生はにこにこと笑ったまま「なんでしょう?」といった視線を返してきた。
当然何を言えるはずもなく、私はハープの方へと視線を逸らすことになる。と、先生の質問に、ツカサが飄々と答え始めた。
「えぇ、普段でしたら会話に加わるようなことはしないのですが、必要最低限の情報は開示しておいたほうがいいと判断したもので」
笑顔で言い切ると、途端にいつもの無表情に切り替わり、写真を回収して本に視線を落とした。
ど、どういうこと……!?
必要最低限の情報を開示しなくちゃいけない理由が私にはまったくわからないのだけど。
もう、なんなのっ!? せっかくの休憩時間なのに、全然休憩している気がしないっ。
発狂したい衝動をひたすら抑えていると、絶妙なタイミングで慧くんが立ち上がった。
「翠葉、ピアノ借りていい?」
「え? あ、どうぞ?」
慧くんは先ほど渡したスコアを手にピアノへ向かった。
椅子に座ると手を合わせ、いつもの儀式をする。そして次に目を開いたときには鍵盤に手を乗せ、芯のあるクオリティの高い音を奏でだす。
「っ……」
私の奏でる音とはまったく質の違う音が紡がれていく。
このピアノにはだいぶ慣れてきたと思う。でも、慧くんは初めて弾くピアノでこんなにも柔らかい音を出せるのね……。
ふと、慧くんに嫉妬している自分に気づく。
悔しいな……。私は毎日このピアノを弾いているのに、こんなに太く柔らかな音は出せない。
どうしたらこんな音を奏でられるのだろう。
指の沈め方? それとも、手のポジショニング? 手首の使い方?
私が弾くより音量も豊かなのに、音が大きいからといって力任せな印象にならないことが不思議で仕方なかった。
気づけば私は席を立ち、ピアノの脇まで移動していた。そして、弾き終われば手が勝手に拍手を始める。
「すごーい! 初見なのにひとつも間違わずに弾けちゃうのね?」
さすが音大生と言うべきか……。
「ま、一度聴いたことあったしな。それにしてもこのスコア、指示表記全然入ってねーじゃんか。もっとガツガツ書き込んでくれたほうが弾きやすいのに」
「え? そう……? 手書きだし、見づらくなっちゃうかな、と思って……」
「んなこと言ったら世の作曲家大先生たちのスコアはどうなっちゃうんだよ」
「あ、そっか……。でも、弾きたいように弾いてもらいたい思いもあるのよ?」
慧くんは少し考えてから、
「曲想を奏者に任せるってこと?」
コクリと頷くと、
「それじゃ、翠葉が思い描いてる曲にはならないけど?」
「そうなのだけど……。大好きな作曲家の曲でも、私はこう弾きたいんだけどな……って思うことない?」
「……ねぇな」
一瞬の間はあったけれど、ほぼ即答だった。
「スコアが第一。忠実に再現していくうえで自分なりの解釈を追加することはあっても、作曲家の指示を無視することはない。……ってことで、やり直し。これ、もっと指示入れて再度提出」
「えっ……」
「時間的に厳しい?」
「ううん……そんなことはない。音やリズムの確定に時間がかかっただけで、指示表記を入れるのにはそんなに時間かからないと思う」
「じゃ、出来上がったらまた連絡して。そしたら取りにくる」
「ええっ!? 次こそは郵送するよっ?」
「いい。取りにくる」
「……わかった」
スコアを突っ返されたところで仙波先生の時計がピピッと鳴り、休憩時間の終わりを告げた。
「さ、聴音の時間です」
すると、慧くんもかばんからミュージックノートを取り出した。
不思議に思って見ていると、「俺もやる」の一言。
とくにそれが邪魔になることはなく、私と慧くんは先生が弾く音をひとつずつ五線紙に記していった。
三十分して聴音が終わると楽典。
楽典は前の週に出された課題の答え合わせから始まり、間違えた場所やわからなかった問題を重点的に教わるという方法。
「だいぶ間違いがなくなってきましたね」
「先生のご指導のおかげです」
「いいえ、苦手なものでもきちんと取り組む御園生さんの努力が実を結んでいるんですよ。だからつい欲が出てしまうんですよね。次の課題は少し難しいものを用意しました。わからないところは飛ばしてもいいですし――」
「それなら。問題の写真添付してメールくれたら、俺がヒントなりなんなり与えるけど?」
「あぁ、それはいいですね」
「えっ? でもっ――」
「スコアの対価として、そのくらいさせてよ」
「でも、スコアといっても手書きだし、たかだか私のオリジナル曲だし……」
「そーこっ! 自分を卑下しない。俺はあの曲すげー気に入ってるからスコアが欲しいって言ったわけだし」
ビシッ、と慧くんに指摘され、以前桃華さんに同様のことを言われたのを思い出した。
「善処します……」
「では、今日のレッスンはここまで」
「ありがとうございました」
「来週も同じ時間で大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
「ではまた来週」
そう言うと、先生と慧くんはミュージックルームを後にした。
ミュージックルームにツカサとふたりきりになると、私はいそいそとかばんの中から学校の教材を取り出す。と、ツカサから思わぬことをたずねられた。
「楽典、苦手なの?」
「ちょっとね……。レッスンを受けるようになってだいぶ苦手意識はなくなってきたんだけど……」
「楽典なら俺でも教えられるんだけど」
は……? なんですって……?
「小六までピアノ習ってたって言わなかったっけ?」
「聞いてないっっっ。教本はっ!? どこまで習ったのっ!? 何を弾いてたのっ!?」
「……食いつき良すぎないか?」
「そりゃ食いつきもするでしょうっ!?」
「インヴェンションとシンフォニアは全部終わらせた。ツェルニーは四十番後半、ソナタアルバムを二冊終わらせたあとは、母さんの好みでショパンやドビュッシーを弾いていたけど、テクニック面は問題なくても情感がどうのとか言われてまったく理解できずにやめた」
その言葉に、先生に「もっと情感をこめて!」と注意されて理解不能といった顔をしている小学生のツカサを想像して笑みが漏れる。
それにしても小学六年生でツェルニー四十番の後半はなかなかすごい。今の私ですら五十番台なのだから。
何より、バッハのインヴェンションとシンフォニアをすべて終わらせているあたりが非常にツカサらしくないだろうか……。インテンポできっちり弾く様が容易に想像できる。
「ツカサはピアノを弾くだけじゃなくて楽典も見てもらってたのね?」
「むしろ、楽典と和声のほうが得意だった。その黄色い表紙の本なら、小四までにマスターした。読み返して勘が戻れば問題なく教えられると思う」
その言葉に、大学入試に対応できるレベルなのかどうかを知るために、前回の課題を見せてみる。
「じゃ、俺がこれを解いてる間、翠は学校の課題やってて。あとでチェックするから」
その言葉を最後に、ふたりして問題用紙と向き合うことになった。
三十分が経過して、互いの答案用紙を交換して答え合わせに入る。と、驚くことにツカサは一問も間違えることなくすべての問題を解いていた。
私は悔しさに身悶えする。
私だって三歳からピアノを習っていたし、小五まではとっても厳しい先生のところでソルフェージュも習っていた。今だって必死に勉強しているのに、どうしてツカサのほうが出来がいいのっ!?
神様、不公平ですっっっ。
十分の一程度でもいいから、ツカサの脳内ハードディスク機能を私の頭にも追加してくださいっ。
「翠……?」
「あ、ごめん……」
ちょっと我を失っておりました。
「すごいね、ツカサ。全問正解。問題なく私を教えられるレベル」
「なら、あの男に訊かず俺に訊けば?」
あの男……? あっ――
「うん、そうする……」
「じゃ、今日はここまで」
「はい。今日もありがとう」
お礼を言って片付け始めると、
「それ……」
「え? どれ?」
「礼なら言葉じゃなくて――」
言葉じゃなくて……?
ツカサを見ると、切れ長の目と視線が合う。その後、ツカサの視線は少し下がり、私の唇を見ているようだった。
っ……もしかして、キスしろっていうことっ!?
察することはできたけれど、それは無理っ。だって――
「防犯カメラがあるから無理っ!」
「じゃ、あとで」
口端を上げたツカサは意味深に笑って席を立った。
ピアノからソファへ移動しようとしたそのとき、じっとスコアを見ていた慧くんに話しかけられた。
「翠葉さ、先々週の日曜日、ウィステリアホテルにいた?」
と。
今話しかけられるならスコアの話題だろうと思っていた私は、動作が止まるほどに驚いた。
「翠葉?」
「えっ!? あっ、うん、いた。でも、どうして?」
どうしてそのことを知っているの?
すると、その質問には先生が答えてくれた。
「実はその日、僕も慧くんもホテルにいたんですよ。知人の結婚式がありまして」
なるほど……。
納得する傍ら、ただいたかどうかをたずねられただけなのだから、その日に婚約したということまでは話さなくてもいいだろうか――
そんなことを考えていると、思わぬところから声があがった。
「実はその日なんです。自分が翠と婚約したのは」
そこまで言わなくてもいいのにっ!
そんな思いでツカサを見ると、ツカサはかばんからウィステリアホテルのマークが入った封筒を取り出した。
「そのときの写真です。よろしければどうぞ」
そう言って、スタジオで撮ったであろう集合写真をテーブル上で滑らせる。
その写真を凝視したのは慧くん。先生はそんな慧くんの前を通り過ぎてツカサの隣に腰を下ろすと、写真を手に取って見始めた。
「御園生さん、表情が硬いですね」
クスクスと笑う先生に、ツカサはにこやかに対応する。
「それは言わないでやってください。三十分も写真を撮り続けて、一番まともなのがその写真だったんです」
これ、どういう状況なのかなっ!?
ツカサが談笑してるだなんて、明日は雪っ!? もしくは雹っ!?
毎回レッスンに付き合ってくれてはいたけれど、休憩時間に先生と談笑するようなことは一度としてなかった。談笑以前に会話することだってなかったのだ。
いったいどうしたんだろう……。どういう心境の変化……?
世にも奇妙な光景に驚倒しそうな思いだったし、もはや口を挟むことはできなくなっていた。
ツカサがこんなふうに話しているのは機嫌がいいから? それともその反対?
こんな状況が初めてなだけに、判断材料が乏しすぎる。
私はツカサの隣に腰を下ろすと、高崎さんが持って来てくれたロイヤルミルクティーを口に含んだ。
ほっとできる甘さに心が緩んだのは一瞬のこと。
「司くん、今日はいつになく饒舌ですね」
先生の一言に思い切り咽たし、心臓が止まるかと思った。
ただでさえ異常事態なのに、事態が悪化しそうなことは言わないでほしい。
懇願するような目で見ると、先生はにこにこと笑ったまま「なんでしょう?」といった視線を返してきた。
当然何を言えるはずもなく、私はハープの方へと視線を逸らすことになる。と、先生の質問に、ツカサが飄々と答え始めた。
「えぇ、普段でしたら会話に加わるようなことはしないのですが、必要最低限の情報は開示しておいたほうがいいと判断したもので」
笑顔で言い切ると、途端にいつもの無表情に切り替わり、写真を回収して本に視線を落とした。
ど、どういうこと……!?
必要最低限の情報を開示しなくちゃいけない理由が私にはまったくわからないのだけど。
もう、なんなのっ!? せっかくの休憩時間なのに、全然休憩している気がしないっ。
発狂したい衝動をひたすら抑えていると、絶妙なタイミングで慧くんが立ち上がった。
「翠葉、ピアノ借りていい?」
「え? あ、どうぞ?」
慧くんは先ほど渡したスコアを手にピアノへ向かった。
椅子に座ると手を合わせ、いつもの儀式をする。そして次に目を開いたときには鍵盤に手を乗せ、芯のあるクオリティの高い音を奏でだす。
「っ……」
私の奏でる音とはまったく質の違う音が紡がれていく。
このピアノにはだいぶ慣れてきたと思う。でも、慧くんは初めて弾くピアノでこんなにも柔らかい音を出せるのね……。
ふと、慧くんに嫉妬している自分に気づく。
悔しいな……。私は毎日このピアノを弾いているのに、こんなに太く柔らかな音は出せない。
どうしたらこんな音を奏でられるのだろう。
指の沈め方? それとも、手のポジショニング? 手首の使い方?
私が弾くより音量も豊かなのに、音が大きいからといって力任せな印象にならないことが不思議で仕方なかった。
気づけば私は席を立ち、ピアノの脇まで移動していた。そして、弾き終われば手が勝手に拍手を始める。
「すごーい! 初見なのにひとつも間違わずに弾けちゃうのね?」
さすが音大生と言うべきか……。
「ま、一度聴いたことあったしな。それにしてもこのスコア、指示表記全然入ってねーじゃんか。もっとガツガツ書き込んでくれたほうが弾きやすいのに」
「え? そう……? 手書きだし、見づらくなっちゃうかな、と思って……」
「んなこと言ったら世の作曲家大先生たちのスコアはどうなっちゃうんだよ」
「あ、そっか……。でも、弾きたいように弾いてもらいたい思いもあるのよ?」
慧くんは少し考えてから、
「曲想を奏者に任せるってこと?」
コクリと頷くと、
「それじゃ、翠葉が思い描いてる曲にはならないけど?」
「そうなのだけど……。大好きな作曲家の曲でも、私はこう弾きたいんだけどな……って思うことない?」
「……ねぇな」
一瞬の間はあったけれど、ほぼ即答だった。
「スコアが第一。忠実に再現していくうえで自分なりの解釈を追加することはあっても、作曲家の指示を無視することはない。……ってことで、やり直し。これ、もっと指示入れて再度提出」
「えっ……」
「時間的に厳しい?」
「ううん……そんなことはない。音やリズムの確定に時間がかかっただけで、指示表記を入れるのにはそんなに時間かからないと思う」
「じゃ、出来上がったらまた連絡して。そしたら取りにくる」
「ええっ!? 次こそは郵送するよっ?」
「いい。取りにくる」
「……わかった」
スコアを突っ返されたところで仙波先生の時計がピピッと鳴り、休憩時間の終わりを告げた。
「さ、聴音の時間です」
すると、慧くんもかばんからミュージックノートを取り出した。
不思議に思って見ていると、「俺もやる」の一言。
とくにそれが邪魔になることはなく、私と慧くんは先生が弾く音をひとつずつ五線紙に記していった。
三十分して聴音が終わると楽典。
楽典は前の週に出された課題の答え合わせから始まり、間違えた場所やわからなかった問題を重点的に教わるという方法。
「だいぶ間違いがなくなってきましたね」
「先生のご指導のおかげです」
「いいえ、苦手なものでもきちんと取り組む御園生さんの努力が実を結んでいるんですよ。だからつい欲が出てしまうんですよね。次の課題は少し難しいものを用意しました。わからないところは飛ばしてもいいですし――」
「それなら。問題の写真添付してメールくれたら、俺がヒントなりなんなり与えるけど?」
「あぁ、それはいいですね」
「えっ? でもっ――」
「スコアの対価として、そのくらいさせてよ」
「でも、スコアといっても手書きだし、たかだか私のオリジナル曲だし……」
「そーこっ! 自分を卑下しない。俺はあの曲すげー気に入ってるからスコアが欲しいって言ったわけだし」
ビシッ、と慧くんに指摘され、以前桃華さんに同様のことを言われたのを思い出した。
「善処します……」
「では、今日のレッスンはここまで」
「ありがとうございました」
「来週も同じ時間で大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
「ではまた来週」
そう言うと、先生と慧くんはミュージックルームを後にした。
ミュージックルームにツカサとふたりきりになると、私はいそいそとかばんの中から学校の教材を取り出す。と、ツカサから思わぬことをたずねられた。
「楽典、苦手なの?」
「ちょっとね……。レッスンを受けるようになってだいぶ苦手意識はなくなってきたんだけど……」
「楽典なら俺でも教えられるんだけど」
は……? なんですって……?
「小六までピアノ習ってたって言わなかったっけ?」
「聞いてないっっっ。教本はっ!? どこまで習ったのっ!? 何を弾いてたのっ!?」
「……食いつき良すぎないか?」
「そりゃ食いつきもするでしょうっ!?」
「インヴェンションとシンフォニアは全部終わらせた。ツェルニーは四十番後半、ソナタアルバムを二冊終わらせたあとは、母さんの好みでショパンやドビュッシーを弾いていたけど、テクニック面は問題なくても情感がどうのとか言われてまったく理解できずにやめた」
その言葉に、先生に「もっと情感をこめて!」と注意されて理解不能といった顔をしている小学生のツカサを想像して笑みが漏れる。
それにしても小学六年生でツェルニー四十番の後半はなかなかすごい。今の私ですら五十番台なのだから。
何より、バッハのインヴェンションとシンフォニアをすべて終わらせているあたりが非常にツカサらしくないだろうか……。インテンポできっちり弾く様が容易に想像できる。
「ツカサはピアノを弾くだけじゃなくて楽典も見てもらってたのね?」
「むしろ、楽典と和声のほうが得意だった。その黄色い表紙の本なら、小四までにマスターした。読み返して勘が戻れば問題なく教えられると思う」
その言葉に、大学入試に対応できるレベルなのかどうかを知るために、前回の課題を見せてみる。
「じゃ、俺がこれを解いてる間、翠は学校の課題やってて。あとでチェックするから」
その言葉を最後に、ふたりして問題用紙と向き合うことになった。
三十分が経過して、互いの答案用紙を交換して答え合わせに入る。と、驚くことにツカサは一問も間違えることなくすべての問題を解いていた。
私は悔しさに身悶えする。
私だって三歳からピアノを習っていたし、小五まではとっても厳しい先生のところでソルフェージュも習っていた。今だって必死に勉強しているのに、どうしてツカサのほうが出来がいいのっ!?
神様、不公平ですっっっ。
十分の一程度でもいいから、ツカサの脳内ハードディスク機能を私の頭にも追加してくださいっ。
「翠……?」
「あ、ごめん……」
ちょっと我を失っておりました。
「すごいね、ツカサ。全問正解。問題なく私を教えられるレベル」
「なら、あの男に訊かず俺に訊けば?」
あの男……? あっ――
「うん、そうする……」
「じゃ、今日はここまで」
「はい。今日もありがとう」
お礼を言って片付け始めると、
「それ……」
「え? どれ?」
「礼なら言葉じゃなくて――」
言葉じゃなくて……?
ツカサを見ると、切れ長の目と視線が合う。その後、ツカサの視線は少し下がり、私の唇を見ているようだった。
っ……もしかして、キスしろっていうことっ!?
察することはできたけれど、それは無理っ。だって――
「防犯カメラがあるから無理っ!」
「じゃ、あとで」
口端を上げたツカサは意味深に笑って席を立った。
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