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November
芸大祭 Side 翠葉 06話
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先生は穏やかな表情で話を続ける。
「音が好きだな、と思って生徒カードに目をやったら、ちょっと気になる名前だったんです」
「え……? 名前、ですか?」
「御園生さんの名前って、一度聞いたら忘れない程度にはインパクトがあるじゃないですか」
「そうでしょうか……」
珍しいとはよく言われるけれど、「忘れない」と言われたことはない。
「僕はその名前を過去に二度ほど耳にしたことがあったんです」
「どこで、ですか……?」
先生は少し考えてから、
「ふたつのうちのひとつはちょっと伏せさせてください。そう時間はかからず知ることになると思うので」
「はぁ……」
意味はわからずに頷く。と、
「ずいぶんと前の話なのですが、御園生さん、城井アンティークの催事にいらしてましたよね?」
「え……?」
城井アンティークの催事は年に一度大きなものがある。
予定がない限り、その催事には家族揃って顔を出すけれど、いったいいつの話なのか……。
「ずいぶんと小さいころの話だから覚えてないかな……。会場にベーゼンドルファーがレイアウトされていた年なのですが」
「っ!? 覚えていますっ」
それは三歳のときの催事だ。
そんな小さいときのことをはっきりと覚えているのにはわけがある。
その日は私が初めてピアノに触れた日で、ピアノを習うきっかけになった日でもあるから。
「僕たち、そのときに会ってるんですよ」
にこりと笑った先生にもしかして、と思う。
あの日、会場のベーゼンドルファーを演奏していたのは蒼兄よりも背の高いお兄さんとお姉さんだった。
そして、一通り演奏が終わると、そのふたりは私と蒼兄の相手をしてくれて、私の人見知りが薄らいだころにピアノの手ほどきをしてくれたのだ。
なんの曲が好きか尋ねられて「きらきら星」と答えたら、「ちょっと難しいけどがんばろう!」と言ってくれた。
そうして、初めて弾いた曲が「きらきら星」。もっとも、人差し指で鍵盤を押さえただけにすぎないのだけど……。
顔までは覚えていない。でもこの人は――
「きらきら星を教えてくれた、お兄さん……?」
「そうです。君に初めてピアノを教えたのは、僕と姉の響子です」
どうしよう、情報処理が追いつかない……。
「あのとき、君は恥ずかしがりながらも覚えたてのプロフィールを僕に教えてくれたでしょう? ミソノウスイハ、三歳です、って」
うわぁ……うろ覚えだけど、そんなことを言ったような言ってないような……。
小さなころの話とはいえなんだか恥ずかしい。
でも、こんなことってあるのね……?
まるで奇跡みたいな再会だ。
信じられない思いで先生を見ていると、
「あのときの女の子が自分の勤める音楽教室に来たのは何かの縁かな、と思いまして。基本、受験生は受け持たない主義なのですが、受け持つことにしました」
人との出逢いや物との出逢いってあるのね……。
私はあの日弾いたピアノの音が忘れられなくてピアノを始めたし、お母さんが持っていたCDを聴いて間宮さんの演奏に憧れた。そしたら、間宮さんが使っていたというピアノに出逢い、今度はピアノの手ほどきをしてくれたお兄さんと再会――
「びっくりしましたか?」
「びっくりしないわけがないじゃないですかっ!」
「そうですよね、僕も驚きました」
先生は相変わらずクスクスと笑っている。
そこに突然電子音が割り込んだ。
ピリリリリ、と鳴ったのは先生の携帯電話。
「ちょっと失礼します。……仙波です。――今からですか? ――はい、十分以内にうかがいます」
短い会話をして切ると、今度は自分から誰かに電話をかける。
「あ、柊ちゃん? 今、まだ学内だよね? ――声楽の荒木田先生にお会いできることになったから紹介するよ。今どこ? ――わかった。じゃ、美術館の入り口で待ち合わせよう。――じゃ、あとで」
先生は席を立ち、
「柊ちゃんを声楽の先生に紹介してきます。十五分ほどで戻りますので、御園生さんはゆっくりしていてください。ピアノは好きに触っていただいてかまいません」
言うと、先生は足早に応接室を出て行った。
ピアノを弾いていていいと言われても、右手は使えないのだけど……。
テーピングされた右手を見つつ、
「あのときのお兄さんが先生だなんて……」
人生とはわからないものだ。
これはもしかするともしかして、あのとき声をかけてくれた男の子にもいつかどこかで会えてしまったりするのかもしれない。
そんなことを考えながらお茶を一口飲み、ピアノへ向かう。
グランドピアノの蓋を開け、キーカバーを外してため息ひとつ。
白鍵は人工象牙だし、黒鍵は色に深みのある黒檀。
応接室に置かれたピアノだというのに、一千万円クラスのコンサートグランドとはどういうことだろう……。
「さすがは御曹司……」
ツカサたちも「御曹司」であることに違いはないけれど、ごくたまに「御曹司」を感じる程度で、日に何度も意識することはない。
それは一緒にいる時間が長くて慣れてしまったからなのだろうか。
高級感溢れる鍵盤をいくつか沈ませる。と、狂いのない音が響いた。
「調律も完璧」
そりゃ、自身で調律できるのなら、それも当たり前といったところか――
私は椅子に座り、懐かしさからモーツァルトのきらきら星変奏曲を弾く。とはいっても、右手は使えないので左手のみ。
初めて教えてもらった曲が「きらきら星」だったからなのか、この曲には思いいれがあって、ピアノの前に座ってはちょこちょこと弾く曲だった。
間宮さんのピアノよりもタッチが軽くて弾きやすい……。
そんな感触を得ながら指を走らせる。と、ガッチャ、というドアの開く音が室内に響いた。
演奏していたから気づかなかったとかそういうことではなく、ノック音はしなかったと思う。
びっくりしてそちらに目をやると、髪をオールバックに整え燕尾服に身を包んだ男子が立っていた。
あ……さっきコンサートでラフマニノフピアノ協奏曲第二番第一楽章を弾いた人。
すごくダイナミックな演奏をする人だったけれど、実際は細身な人なのね……。
そんな印象を抱くと同時、
「おまえっ、ミソノウスイハっ!?」
は……?
知らない人にフルネームを呼ばれたら、さすがに間の抜けた反応しかできない。
ゆっくりと近づいてきたその人は、「凝視」という言葉がぴったりな視線を向けてくる。
「ピアノ、続けてたのか……?」
「あの……どちら様、ですか?」
「あっ、わりっ――俺、倉敷慧。小学生のころ、この大学主催のコンクールで会ったの覚えてねえ?」
「――っ!?」
ちょっと待ってちょっと待ってちょっと待ってっ――
もしかして、あのときの男の子なのっ!?
偶然ってこんな立て続けに起こるものっ!?
信じられない思いで、若干パニックになりながら考える。
顔も名前も覚えていない私には、あの日の男の子なのかを確認する方法などひとつしかない。
「ピアノさんに、こんにちは……?」
ドキドキしながら尋ねると、「それ!」と威勢のいい声が返ってきた。
驚きにバランスを崩して椅子から転げ落ちる。
「っ――」
当たり前のことながら、床に打ち付けたお尻も足も痛かった。
これは痣になるかもしれない。
それでも、右足の内出血に比べたらかわいいものだろう。
「おいおい、大丈夫かよ。驚きすぎじゃね? いや、俺も驚いちゃいるんだけど……」
勢いよく差し出された手に身構える。
違う、怖いわけじゃない。あまりにも勢いよく眼前に差し出されてびっくりしただけ。
怖くない……。
差し出された手をじっと見ると、親指の付け根が盛り上がり、一本一本の指にも相応の筋肉がついていた。
ピアノを弾く人の手……。
たったそれだけの認識に、恐怖心が薄らいでいく。
「げ……右手怪我してんのっ!? だから左手のみだったのかっ!」
大仰に驚かれ、さらには右手を避け腕を掴んで引き上げられた。そこでまた、
「はっ!? なんだよその足っ。まるで事故にでも遭ったような風体だな」
えぇと……そんなようなものです。
「足はともかく、手は気をつけろよな。ピアノ弾くんだから」
言いながら私を立たせてくれ、
「ひとまず、あっちに移動しようぜ」
と、少し離れた位置にあるソファへと促された。
「音が好きだな、と思って生徒カードに目をやったら、ちょっと気になる名前だったんです」
「え……? 名前、ですか?」
「御園生さんの名前って、一度聞いたら忘れない程度にはインパクトがあるじゃないですか」
「そうでしょうか……」
珍しいとはよく言われるけれど、「忘れない」と言われたことはない。
「僕はその名前を過去に二度ほど耳にしたことがあったんです」
「どこで、ですか……?」
先生は少し考えてから、
「ふたつのうちのひとつはちょっと伏せさせてください。そう時間はかからず知ることになると思うので」
「はぁ……」
意味はわからずに頷く。と、
「ずいぶんと前の話なのですが、御園生さん、城井アンティークの催事にいらしてましたよね?」
「え……?」
城井アンティークの催事は年に一度大きなものがある。
予定がない限り、その催事には家族揃って顔を出すけれど、いったいいつの話なのか……。
「ずいぶんと小さいころの話だから覚えてないかな……。会場にベーゼンドルファーがレイアウトされていた年なのですが」
「っ!? 覚えていますっ」
それは三歳のときの催事だ。
そんな小さいときのことをはっきりと覚えているのにはわけがある。
その日は私が初めてピアノに触れた日で、ピアノを習うきっかけになった日でもあるから。
「僕たち、そのときに会ってるんですよ」
にこりと笑った先生にもしかして、と思う。
あの日、会場のベーゼンドルファーを演奏していたのは蒼兄よりも背の高いお兄さんとお姉さんだった。
そして、一通り演奏が終わると、そのふたりは私と蒼兄の相手をしてくれて、私の人見知りが薄らいだころにピアノの手ほどきをしてくれたのだ。
なんの曲が好きか尋ねられて「きらきら星」と答えたら、「ちょっと難しいけどがんばろう!」と言ってくれた。
そうして、初めて弾いた曲が「きらきら星」。もっとも、人差し指で鍵盤を押さえただけにすぎないのだけど……。
顔までは覚えていない。でもこの人は――
「きらきら星を教えてくれた、お兄さん……?」
「そうです。君に初めてピアノを教えたのは、僕と姉の響子です」
どうしよう、情報処理が追いつかない……。
「あのとき、君は恥ずかしがりながらも覚えたてのプロフィールを僕に教えてくれたでしょう? ミソノウスイハ、三歳です、って」
うわぁ……うろ覚えだけど、そんなことを言ったような言ってないような……。
小さなころの話とはいえなんだか恥ずかしい。
でも、こんなことってあるのね……?
まるで奇跡みたいな再会だ。
信じられない思いで先生を見ていると、
「あのときの女の子が自分の勤める音楽教室に来たのは何かの縁かな、と思いまして。基本、受験生は受け持たない主義なのですが、受け持つことにしました」
人との出逢いや物との出逢いってあるのね……。
私はあの日弾いたピアノの音が忘れられなくてピアノを始めたし、お母さんが持っていたCDを聴いて間宮さんの演奏に憧れた。そしたら、間宮さんが使っていたというピアノに出逢い、今度はピアノの手ほどきをしてくれたお兄さんと再会――
「びっくりしましたか?」
「びっくりしないわけがないじゃないですかっ!」
「そうですよね、僕も驚きました」
先生は相変わらずクスクスと笑っている。
そこに突然電子音が割り込んだ。
ピリリリリ、と鳴ったのは先生の携帯電話。
「ちょっと失礼します。……仙波です。――今からですか? ――はい、十分以内にうかがいます」
短い会話をして切ると、今度は自分から誰かに電話をかける。
「あ、柊ちゃん? 今、まだ学内だよね? ――声楽の荒木田先生にお会いできることになったから紹介するよ。今どこ? ――わかった。じゃ、美術館の入り口で待ち合わせよう。――じゃ、あとで」
先生は席を立ち、
「柊ちゃんを声楽の先生に紹介してきます。十五分ほどで戻りますので、御園生さんはゆっくりしていてください。ピアノは好きに触っていただいてかまいません」
言うと、先生は足早に応接室を出て行った。
ピアノを弾いていていいと言われても、右手は使えないのだけど……。
テーピングされた右手を見つつ、
「あのときのお兄さんが先生だなんて……」
人生とはわからないものだ。
これはもしかするともしかして、あのとき声をかけてくれた男の子にもいつかどこかで会えてしまったりするのかもしれない。
そんなことを考えながらお茶を一口飲み、ピアノへ向かう。
グランドピアノの蓋を開け、キーカバーを外してため息ひとつ。
白鍵は人工象牙だし、黒鍵は色に深みのある黒檀。
応接室に置かれたピアノだというのに、一千万円クラスのコンサートグランドとはどういうことだろう……。
「さすがは御曹司……」
ツカサたちも「御曹司」であることに違いはないけれど、ごくたまに「御曹司」を感じる程度で、日に何度も意識することはない。
それは一緒にいる時間が長くて慣れてしまったからなのだろうか。
高級感溢れる鍵盤をいくつか沈ませる。と、狂いのない音が響いた。
「調律も完璧」
そりゃ、自身で調律できるのなら、それも当たり前といったところか――
私は椅子に座り、懐かしさからモーツァルトのきらきら星変奏曲を弾く。とはいっても、右手は使えないので左手のみ。
初めて教えてもらった曲が「きらきら星」だったからなのか、この曲には思いいれがあって、ピアノの前に座ってはちょこちょこと弾く曲だった。
間宮さんのピアノよりもタッチが軽くて弾きやすい……。
そんな感触を得ながら指を走らせる。と、ガッチャ、というドアの開く音が室内に響いた。
演奏していたから気づかなかったとかそういうことではなく、ノック音はしなかったと思う。
びっくりしてそちらに目をやると、髪をオールバックに整え燕尾服に身を包んだ男子が立っていた。
あ……さっきコンサートでラフマニノフピアノ協奏曲第二番第一楽章を弾いた人。
すごくダイナミックな演奏をする人だったけれど、実際は細身な人なのね……。
そんな印象を抱くと同時、
「おまえっ、ミソノウスイハっ!?」
は……?
知らない人にフルネームを呼ばれたら、さすがに間の抜けた反応しかできない。
ゆっくりと近づいてきたその人は、「凝視」という言葉がぴったりな視線を向けてくる。
「ピアノ、続けてたのか……?」
「あの……どちら様、ですか?」
「あっ、わりっ――俺、倉敷慧。小学生のころ、この大学主催のコンクールで会ったの覚えてねえ?」
「――っ!?」
ちょっと待ってちょっと待ってちょっと待ってっ――
もしかして、あのときの男の子なのっ!?
偶然ってこんな立て続けに起こるものっ!?
信じられない思いで、若干パニックになりながら考える。
顔も名前も覚えていない私には、あの日の男の子なのかを確認する方法などひとつしかない。
「ピアノさんに、こんにちは……?」
ドキドキしながら尋ねると、「それ!」と威勢のいい声が返ってきた。
驚きにバランスを崩して椅子から転げ落ちる。
「っ――」
当たり前のことながら、床に打ち付けたお尻も足も痛かった。
これは痣になるかもしれない。
それでも、右足の内出血に比べたらかわいいものだろう。
「おいおい、大丈夫かよ。驚きすぎじゃね? いや、俺も驚いちゃいるんだけど……」
勢いよく差し出された手に身構える。
違う、怖いわけじゃない。あまりにも勢いよく眼前に差し出されてびっくりしただけ。
怖くない……。
差し出された手をじっと見ると、親指の付け根が盛り上がり、一本一本の指にも相応の筋肉がついていた。
ピアノを弾く人の手……。
たったそれだけの認識に、恐怖心が薄らいでいく。
「げ……右手怪我してんのっ!? だから左手のみだったのかっ!」
大仰に驚かれ、さらには右手を避け腕を掴んで引き上げられた。そこでまた、
「はっ!? なんだよその足っ。まるで事故にでも遭ったような風体だな」
えぇと……そんなようなものです。
「足はともかく、手は気をつけろよな。ピアノ弾くんだから」
言いながら私を立たせてくれ、
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