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November
陽だまりの音 Side 司 02話
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コミュニティータワーにできたミュージックルームは、静さんの一存で設えられただけあり、セキュリティは万全だった。
室内にはコンシェルジュカウンター直通の電話が備えつけられ、緊急時に鳴らす防犯ブザーもピアノの上に用意されている。そして、出入り口には防犯カメラと翠の警護班の人間がふたり――
もともと、このマンションには静さんの審査をクリアした人間しか住んでいないし、不審者が入れるセキュリティでもないわけだけど、自宅ではない場所に翠がひとりでいることを考えて、ありとあらゆるセキュリティが敷かれていた。
それでも俺がこの部屋にいるのはなぜか。
それは、ひとえに翠と時間を共有したいから。
とてもわかりやすい理由だと思う。なのに翠は、
「ツカサは心配性ね? この部屋、スタインウェイが置いてあるから防犯は万全なのよ?」
と笑う。
この会話が外で警備している人間たちに聞こえていたら、
「それは違います」
と胸中で唱えられたことだろう。
翠がミュージックルームにやってくるのは夕飯を食べ終えた七時過ぎ。
まずは全身ストレッチで身体を軽くほぐし、最初の十分はメトロノームに合わせてひたすらハノンを繰り返す。
それが終わると曲の練習。
まずは一曲を通して弾き、あとから気になる場所にチェックを入れて部分練習をする。
いくつものリズム練習を繰り返し、楽譜どおりのリズムできれいに弾けると、ゲームか何かをクリアしたように嬉しそうに笑って次へ進む。
その集中力はたいしたもので、練習中に俺へ意識が逸れることはない。そして、俺の意識が翠から逸れることもなかった。
持ってきた本も問題集もまるで意味がない。ただひたすらに、翠が奏でる音に耳を傾けていた。
とても楽しそうに弾く姿が眩しくて、つい見惚れてしまう。そして、なんとなしに自分がピアノを習っていたころを思い出す。
あのころの俺は、何をどうしたって「習わされていた」以外の何ものでもなく、ピアノを弾いて楽しいという感覚も、面白いという感情も、何もなかった。
ついていた先生には、「司くんの演奏はちょっと機械的ね。もう少し感情をこめて弾くことはできない?」とよく言われたものだ。
与えられた課題をこなせば技術は身についた。でも、感情をこめて弾くというのがどういうことか理解できずにピアノをやめた。あのころに翠と出逢えていたら、もっと違う演奏ができたのだろうか。
「無理だな……」
たとえば今、ピアノを再開したとして、翠のように感情豊かに弾ける気はまったくしない。
翠と出逢って感情の一端は感じられるようになったけれど、だからといってピアノで表現できるかは別問題に思える。
やっぱり、俺には心を無にする弓道のほうが向いているということなのだろう。
一時間が経つと翠の携帯のタイマーが鳴り、翠はハープの前へと移動した。
そこでようやく俺が視界に入ったらしい。すると翠は、いそいそとハープと椅子の位置を変え始めた。
つまり、俺が視界に入らないようセッティングしなおした。
なんだかな、とは思う。けれど、それは視界に入ったら集中が途切れるとか意識が逸れることの裏返しでもあり、俺の心はほんの少しだけ満たされた。
翠の背中を見ながら思い出す。
翠がハープを弾くという情報がもたらされた日を。
その場には秋兄と姉さんもいて、「容姿が伴わないとつらい楽器じゃない?」と姉さんが言ったのを覚えている。
そこで御園生さんは妹自慢を始めたのだ。
「いや、それが……うちの妹めちゃくちゃかわいんですよ。それはもう天使か妖精のように」と。
確かに翠はかわいいし、ハープという楽器を抱えると天使のように見えなくもない。
いつか俺のためだけに弾いてはくれないだろうか。
あぁ……俺も誕生日プレゼントにねだればいいのか? 翠が俺に絵をねだったように――
翌週の月曜日、ミュージックルームで翠を待っていると、レッスン時間十分前にドアが開いた。
翠がドアを閉めないのを不思議に思っていると、そのあとに唯さん、秋兄、御園生さんと続く。
「なんでその面子?」
「えぇと……夕飯の席で、今日からホームレッスンって話をしたらみんな見学したいって言い出して……。ツカサもいるしいいかな、って」
これ、仙波さんが来たら驚かれるんじゃないか……?
そう思っているところへ、コンシェルジュに案内された仙波さんがやってきた。
「こんばん……は?」
語尾に疑問符がついても仕方ないと思う。
仙波さんは入るべき部屋を間違えた人のように、次の一歩を踏み出せなくなっていた。
しかし、男たちの中に翠の姿を見つけると表情を緩める。
「先生、いらっしゃい」
「こんばんは……えぇと、そちらの方々は? ……先日お会いした藤宮さんと司くん。それから――」
「このふたりは私の兄です」
「御園生蒼樹です。妹がいつもお世話になってます」
「同じく、唯芹です。これからもビシバシ鍛えてやってくださいね!」
仙波さんは佇まいを直し、
「ピアノの講師をしております、仙波弓弦です」
三人は軽く握手を交わした。
「大人数ですみません。みんなレッスンを見学したいって言うので……」
「僕はかまいませんが、御園生さんは大丈夫ですか?」
「兄たちは視界に入らない場所にいることを条件に連れてきたので大丈夫です」
翠が指差した先、入り口脇には四つの椅子が並べられていた。
四つ――つまり、俺もあっちに座れ、ということだろうか。
仕方なしに席を立ち、秋兄たちについて壁際へ移動した。
とても和やかな雰囲気でレッスンが始まったものの、レッスンの内容は割と厳しいものだった。
「そこのレガートはもっと滑らかに」
翠が弾き直してもOKは出ない。
「もっと情感をこめて歌うように。――さっきよりはよくなりましたが……息継ぎがあるとしたらどこですか?」
「ここです」
「そうですね。じゃ、もっとそれを意識して弾いてください。――そのテヌートはもっと溜めて。そうです、もっとぬめっとした感じで。――拍子がずれました。拍子はきちんと意識して」
「ぐへ……結構スパルタ? 俺、習い事したことないからわかんないんだけど、ピアノのレッスンってこういうのが普通?」
「いや……普通のレッスンならここまで細かく指導はされないと思う。やっぱ、音大受験を踏まえてのレッスンって感じなんじゃないかな?」
唯さんと秋兄の会話に御園生さんが口を挟む。
「でも、一番最初についた先生よりは優しいと思う」
「はっ!?」
「「唯、声が大きい」」
ふたりに叱られた唯さんは肩を竦めた。
「なんていうか、だめだしと一緒に手が出ることもある先生だったらしくて、相当厳しかったみたいだよ。その先生と城井のおじいちゃんに勧められてコンクールに出たわけだけど、コンクールが終わったらピアノのレッスン行きたくないって言い出してさ。翠葉の話を聞いた結果、違うピアノ教室に通うことにしたくらい。それでも、三歳から小五まではがんばって通ってたなぁ……」
「なんで城井のおじいちゃんの勧め?」
「なんでもおじいちゃんの友人が主催する音楽コンクールってことで、無理に勧められたわけじゃないんだけど、翠葉は小さくても翠葉でさ。良かれと思って勧められたことや、人間関係が絡むものなんかは敏感に感じ取っちゃうんだよね。で、出ることになった」
「あぁ、納得……」
そんな過去があったのか、と思いながら、仙波さんのレッスンを眺めていた。
練習時には笑顔も見られたのに、今は表情を硬くしてレッスンに応じている。
その様子からは、「必死さ」だけがひしひしと伝わってきた。
九時になるとピアノのレッスンが終わり、コンシェルジュが飲み物を持ってやってきた。
翠にはカモミールティー。俺たちにはコーヒー。仙波さんには紅茶。
うちのコンシェルジュのことだ。先日のうちに飲み物の好みを聞いてのことなのだろう。
「仙波センセ、優しそうなのに結構厳しいんですね?」
唯さんがフレンドリーに話しかける。と、
「そうですね……厳しいというよりは、時間がない、といった感じでしょうか?」
「そうなんですか?」
「えぇ。音大へ行く子は、割と早くから準備をしている子が多いんです。それこそ、御園生さんのようにピアノから離れている時期がある子は少ないですね。ですので、今は受験に間に合わせるのに必死、といったところです」
仙波さんは苦笑を添えて答えた。
「間に合うんですか……?」
御園生さんが心配そうに尋ねると、
「安易にはお答えできませんが、御園生さんはがんばり屋さんですからね。大丈夫だと思います」
その言葉に御園生さんは表情を和らげた。
その後も雑談が続き、休憩時間が終わるころになると、御園生さんたちが席を立った。
「見学させていただきありがとうございました。自分たちはここで失礼します」
「リィ、がんばってね」
「うん」
「司も、遅くならないうちに帰れよ」
秋兄の言葉に頷くことで同意する。と、仙波さんが俺を見て不思議そうな顔をしていた。
つまり、俺は出て行かないのか、といったところだろうか。
俺は気づかないふりをして本を読み始めた。
レッスンの間はレッスンに関する会話しか交わされずにレッスン終了時刻を迎えた。
「それでは、今日はここまでで」
「今日もありがとうございました」
「来週も同じ時間で大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です」
帰り支度を始めた仙波さんとは逆に、高校の教材を出し始めた俺たちを見て、
「あれ? ふたりは帰らないんですか?」
「はい。ピアノのあとは毎日学校の勉強を見てもらってるんです」
「本当に勉強熱心なんですね。成績についてはご両親が厳しいんですか?」
「いえ、両親は何も言いません。強いて言うなら、一番厳しいのはツカサだと思います」
「え?」
「私、生徒会役員なのですが、うちの生徒会にはちょっと変わったルールがありまして、テストで二十位以下になると生徒会を辞めなくちゃいけないんです。だから、テストは毎回必死です」
翠がクスクス笑いながら話すと、仙波さんは苦笑いをしながら、
「で、御園生さんは現在何位くらい?」
「一位と二位を順繰りにとってる感じで……」
「えっ!?」
「え……?」
「藤宮ですよ!? 藤宮で一位二位ってすごいことでしょう?」
翠は「あぁ」といった様子で、
「でも、ツカサは万年一位で失点したことが一度もないし、蒼兄も万年一位だったし……私よりすごい人はたくさんいます。私はもっとがんばらなくちゃ」
翠がにこりと笑うと仙波さんはどこか呆れた様子で、
「勉強もピアノもほどほどにがんばってください」
と口を閉じた。
仙波さんを見送りふたりになると、
「レッスンを見学したご感想は?」
翠は俺の反応を楽しむように顔を覗き込んでくる。
「休憩時間以外、本当にレッスンに関する会話しかしないんだな」
「うん、時間がないからね。ずっとレッスンを続けてきていたら、たぶん週に一度一時間のレッスンでよかったと思うの。でも、私はブランクがあるうえにスタートが遅かったから、レッスン時間が二コマ。ただ、レッスン時間が長くなっても、それだけのことを吸収できなかったら意味がないし、翌週までに二コマ分の課題をこなさなくちゃいけないから、それはそれで本当に大変だし、なんというか常に必死」
今日のレッスンを見て、仙波さんや翠からどういう状況なのかを聞いてしまうと、自分の嫉妬がものすごく愚かしいことに思えてきた。
なんとも言えない気持ちで、
「悪い……」
「ん?」
「嫉妬とか……本当に、悪い」
翠はクスクスと笑った。
「もう大丈夫?」
「……なんとも思ってない」
「うん。なら良かった」
それは俺を甘やかしすぎじゃないか?
そんな思いで翠を見ると、翠はにこりと笑ってこう言った。
「嫉妬って……たぶん自分でコントロールするには手に余るような感情だよね。だから、それは仕方ないし、そのたびにひとつひとつクリアにしていけたらいいな、って思う」
それで話は終わり、とでも言うように、翠は問題集を開き、問題を解き始めた。
翠を見ながら思う。
こういう精神面で、俺は翠に甘やかされているのではないだろうか、と。
それも、さもなんともないことのようにさらっと。
俺はそんな優しさを翠に向けられているだろうか。
考えながら、翠の間違いを指摘する時間を過ごした。
室内にはコンシェルジュカウンター直通の電話が備えつけられ、緊急時に鳴らす防犯ブザーもピアノの上に用意されている。そして、出入り口には防犯カメラと翠の警護班の人間がふたり――
もともと、このマンションには静さんの審査をクリアした人間しか住んでいないし、不審者が入れるセキュリティでもないわけだけど、自宅ではない場所に翠がひとりでいることを考えて、ありとあらゆるセキュリティが敷かれていた。
それでも俺がこの部屋にいるのはなぜか。
それは、ひとえに翠と時間を共有したいから。
とてもわかりやすい理由だと思う。なのに翠は、
「ツカサは心配性ね? この部屋、スタインウェイが置いてあるから防犯は万全なのよ?」
と笑う。
この会話が外で警備している人間たちに聞こえていたら、
「それは違います」
と胸中で唱えられたことだろう。
翠がミュージックルームにやってくるのは夕飯を食べ終えた七時過ぎ。
まずは全身ストレッチで身体を軽くほぐし、最初の十分はメトロノームに合わせてひたすらハノンを繰り返す。
それが終わると曲の練習。
まずは一曲を通して弾き、あとから気になる場所にチェックを入れて部分練習をする。
いくつものリズム練習を繰り返し、楽譜どおりのリズムできれいに弾けると、ゲームか何かをクリアしたように嬉しそうに笑って次へ進む。
その集中力はたいしたもので、練習中に俺へ意識が逸れることはない。そして、俺の意識が翠から逸れることもなかった。
持ってきた本も問題集もまるで意味がない。ただひたすらに、翠が奏でる音に耳を傾けていた。
とても楽しそうに弾く姿が眩しくて、つい見惚れてしまう。そして、なんとなしに自分がピアノを習っていたころを思い出す。
あのころの俺は、何をどうしたって「習わされていた」以外の何ものでもなく、ピアノを弾いて楽しいという感覚も、面白いという感情も、何もなかった。
ついていた先生には、「司くんの演奏はちょっと機械的ね。もう少し感情をこめて弾くことはできない?」とよく言われたものだ。
与えられた課題をこなせば技術は身についた。でも、感情をこめて弾くというのがどういうことか理解できずにピアノをやめた。あのころに翠と出逢えていたら、もっと違う演奏ができたのだろうか。
「無理だな……」
たとえば今、ピアノを再開したとして、翠のように感情豊かに弾ける気はまったくしない。
翠と出逢って感情の一端は感じられるようになったけれど、だからといってピアノで表現できるかは別問題に思える。
やっぱり、俺には心を無にする弓道のほうが向いているということなのだろう。
一時間が経つと翠の携帯のタイマーが鳴り、翠はハープの前へと移動した。
そこでようやく俺が視界に入ったらしい。すると翠は、いそいそとハープと椅子の位置を変え始めた。
つまり、俺が視界に入らないようセッティングしなおした。
なんだかな、とは思う。けれど、それは視界に入ったら集中が途切れるとか意識が逸れることの裏返しでもあり、俺の心はほんの少しだけ満たされた。
翠の背中を見ながら思い出す。
翠がハープを弾くという情報がもたらされた日を。
その場には秋兄と姉さんもいて、「容姿が伴わないとつらい楽器じゃない?」と姉さんが言ったのを覚えている。
そこで御園生さんは妹自慢を始めたのだ。
「いや、それが……うちの妹めちゃくちゃかわいんですよ。それはもう天使か妖精のように」と。
確かに翠はかわいいし、ハープという楽器を抱えると天使のように見えなくもない。
いつか俺のためだけに弾いてはくれないだろうか。
あぁ……俺も誕生日プレゼントにねだればいいのか? 翠が俺に絵をねだったように――
翌週の月曜日、ミュージックルームで翠を待っていると、レッスン時間十分前にドアが開いた。
翠がドアを閉めないのを不思議に思っていると、そのあとに唯さん、秋兄、御園生さんと続く。
「なんでその面子?」
「えぇと……夕飯の席で、今日からホームレッスンって話をしたらみんな見学したいって言い出して……。ツカサもいるしいいかな、って」
これ、仙波さんが来たら驚かれるんじゃないか……?
そう思っているところへ、コンシェルジュに案内された仙波さんがやってきた。
「こんばん……は?」
語尾に疑問符がついても仕方ないと思う。
仙波さんは入るべき部屋を間違えた人のように、次の一歩を踏み出せなくなっていた。
しかし、男たちの中に翠の姿を見つけると表情を緩める。
「先生、いらっしゃい」
「こんばんは……えぇと、そちらの方々は? ……先日お会いした藤宮さんと司くん。それから――」
「このふたりは私の兄です」
「御園生蒼樹です。妹がいつもお世話になってます」
「同じく、唯芹です。これからもビシバシ鍛えてやってくださいね!」
仙波さんは佇まいを直し、
「ピアノの講師をしております、仙波弓弦です」
三人は軽く握手を交わした。
「大人数ですみません。みんなレッスンを見学したいって言うので……」
「僕はかまいませんが、御園生さんは大丈夫ですか?」
「兄たちは視界に入らない場所にいることを条件に連れてきたので大丈夫です」
翠が指差した先、入り口脇には四つの椅子が並べられていた。
四つ――つまり、俺もあっちに座れ、ということだろうか。
仕方なしに席を立ち、秋兄たちについて壁際へ移動した。
とても和やかな雰囲気でレッスンが始まったものの、レッスンの内容は割と厳しいものだった。
「そこのレガートはもっと滑らかに」
翠が弾き直してもOKは出ない。
「もっと情感をこめて歌うように。――さっきよりはよくなりましたが……息継ぎがあるとしたらどこですか?」
「ここです」
「そうですね。じゃ、もっとそれを意識して弾いてください。――そのテヌートはもっと溜めて。そうです、もっとぬめっとした感じで。――拍子がずれました。拍子はきちんと意識して」
「ぐへ……結構スパルタ? 俺、習い事したことないからわかんないんだけど、ピアノのレッスンってこういうのが普通?」
「いや……普通のレッスンならここまで細かく指導はされないと思う。やっぱ、音大受験を踏まえてのレッスンって感じなんじゃないかな?」
唯さんと秋兄の会話に御園生さんが口を挟む。
「でも、一番最初についた先生よりは優しいと思う」
「はっ!?」
「「唯、声が大きい」」
ふたりに叱られた唯さんは肩を竦めた。
「なんていうか、だめだしと一緒に手が出ることもある先生だったらしくて、相当厳しかったみたいだよ。その先生と城井のおじいちゃんに勧められてコンクールに出たわけだけど、コンクールが終わったらピアノのレッスン行きたくないって言い出してさ。翠葉の話を聞いた結果、違うピアノ教室に通うことにしたくらい。それでも、三歳から小五まではがんばって通ってたなぁ……」
「なんで城井のおじいちゃんの勧め?」
「なんでもおじいちゃんの友人が主催する音楽コンクールってことで、無理に勧められたわけじゃないんだけど、翠葉は小さくても翠葉でさ。良かれと思って勧められたことや、人間関係が絡むものなんかは敏感に感じ取っちゃうんだよね。で、出ることになった」
「あぁ、納得……」
そんな過去があったのか、と思いながら、仙波さんのレッスンを眺めていた。
練習時には笑顔も見られたのに、今は表情を硬くしてレッスンに応じている。
その様子からは、「必死さ」だけがひしひしと伝わってきた。
九時になるとピアノのレッスンが終わり、コンシェルジュが飲み物を持ってやってきた。
翠にはカモミールティー。俺たちにはコーヒー。仙波さんには紅茶。
うちのコンシェルジュのことだ。先日のうちに飲み物の好みを聞いてのことなのだろう。
「仙波センセ、優しそうなのに結構厳しいんですね?」
唯さんがフレンドリーに話しかける。と、
「そうですね……厳しいというよりは、時間がない、といった感じでしょうか?」
「そうなんですか?」
「えぇ。音大へ行く子は、割と早くから準備をしている子が多いんです。それこそ、御園生さんのようにピアノから離れている時期がある子は少ないですね。ですので、今は受験に間に合わせるのに必死、といったところです」
仙波さんは苦笑を添えて答えた。
「間に合うんですか……?」
御園生さんが心配そうに尋ねると、
「安易にはお答えできませんが、御園生さんはがんばり屋さんですからね。大丈夫だと思います」
その言葉に御園生さんは表情を和らげた。
その後も雑談が続き、休憩時間が終わるころになると、御園生さんたちが席を立った。
「見学させていただきありがとうございました。自分たちはここで失礼します」
「リィ、がんばってね」
「うん」
「司も、遅くならないうちに帰れよ」
秋兄の言葉に頷くことで同意する。と、仙波さんが俺を見て不思議そうな顔をしていた。
つまり、俺は出て行かないのか、といったところだろうか。
俺は気づかないふりをして本を読み始めた。
レッスンの間はレッスンに関する会話しか交わされずにレッスン終了時刻を迎えた。
「それでは、今日はここまでで」
「今日もありがとうございました」
「来週も同じ時間で大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です」
帰り支度を始めた仙波さんとは逆に、高校の教材を出し始めた俺たちを見て、
「あれ? ふたりは帰らないんですか?」
「はい。ピアノのあとは毎日学校の勉強を見てもらってるんです」
「本当に勉強熱心なんですね。成績についてはご両親が厳しいんですか?」
「いえ、両親は何も言いません。強いて言うなら、一番厳しいのはツカサだと思います」
「え?」
「私、生徒会役員なのですが、うちの生徒会にはちょっと変わったルールがありまして、テストで二十位以下になると生徒会を辞めなくちゃいけないんです。だから、テストは毎回必死です」
翠がクスクス笑いながら話すと、仙波さんは苦笑いをしながら、
「で、御園生さんは現在何位くらい?」
「一位と二位を順繰りにとってる感じで……」
「えっ!?」
「え……?」
「藤宮ですよ!? 藤宮で一位二位ってすごいことでしょう?」
翠は「あぁ」といった様子で、
「でも、ツカサは万年一位で失点したことが一度もないし、蒼兄も万年一位だったし……私よりすごい人はたくさんいます。私はもっとがんばらなくちゃ」
翠がにこりと笑うと仙波さんはどこか呆れた様子で、
「勉強もピアノもほどほどにがんばってください」
と口を閉じた。
仙波さんを見送りふたりになると、
「レッスンを見学したご感想は?」
翠は俺の反応を楽しむように顔を覗き込んでくる。
「休憩時間以外、本当にレッスンに関する会話しかしないんだな」
「うん、時間がないからね。ずっとレッスンを続けてきていたら、たぶん週に一度一時間のレッスンでよかったと思うの。でも、私はブランクがあるうえにスタートが遅かったから、レッスン時間が二コマ。ただ、レッスン時間が長くなっても、それだけのことを吸収できなかったら意味がないし、翌週までに二コマ分の課題をこなさなくちゃいけないから、それはそれで本当に大変だし、なんというか常に必死」
今日のレッスンを見て、仙波さんや翠からどういう状況なのかを聞いてしまうと、自分の嫉妬がものすごく愚かしいことに思えてきた。
なんとも言えない気持ちで、
「悪い……」
「ん?」
「嫉妬とか……本当に、悪い」
翠はクスクスと笑った。
「もう大丈夫?」
「……なんとも思ってない」
「うん。なら良かった」
それは俺を甘やかしすぎじゃないか?
そんな思いで翠を見ると、翠はにこりと笑ってこう言った。
「嫉妬って……たぶん自分でコントロールするには手に余るような感情だよね。だから、それは仕方ないし、そのたびにひとつひとつクリアにしていけたらいいな、って思う」
それで話は終わり、とでも言うように、翠は問題集を開き、問題を解き始めた。
翠を見ながら思う。
こういう精神面で、俺は翠に甘やかされているのではないだろうか、と。
それも、さもなんともないことのようにさらっと。
俺はそんな優しさを翠に向けられているだろうか。
考えながら、翠の間違いを指摘する時間を過ごした。
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