62 / 1,060
第二章 兄妹
25話
しおりを挟む
食後は私の部屋でお茶をすることになった。
どうやらリビングよりもこちらのほうが落ち着くらしい。
確かに、うちはリビングも二階までの吹き抜けで開放感はあるけれど、慣れない人にはちょっと落ち着かない空間なのかもしれない。
その点、私の部屋はいたってシンプルで、秋斗さんや藤宮先輩にしてみたら、慣れ親しんだ部屋に感じるのだろう。
「ねぇ、これどこのクッキー?」
昨日作ったフロランタンをつまみながら桃華さんに訊かれる。
「昨日焼いたクッキーだから売り物じゃないよ?」
「え!? 翠葉の手作りだったの?」
「うん。そうだけど……どうかした?」
「甘さ控え目で美味しいから、帰りに買って帰ろうかと思ったの」
そう言ってもらえるのはとても嬉しい。
桃華さんにつられるようにして、秋斗さんと藤宮先輩の手も伸びてくる。
「本当だ。アーモンドが香ばしくてコーヒーにも合いそう! 翠葉ちゃんはお菓子作りも上手なんだね」
褒める秋斗さんの傍らで、藤宮先輩がぼそりと零した。「これなら食べられる」と。
「先輩は甘いもの苦手なんですか?」
先輩は言葉なく頷いた。
そういえば、以前一緒にアンダンテのケーキを食べたとき、藤宮先輩はチーズタルトだったな、と思い出す。
アンダンテのケーキはどれも甘さ控え目だけれど、甘いものが苦手な人はチーズタルトのセレクト率が高い。
何を隠そう、蒼兄がそうなのだ。
「ちょっと待っててくださいね」
私は席を外してキッチンへと向かうと、冷凍庫から挽いてあるコーヒーを取り出しコーヒーメーカーにセットする。
しばらくするとコーヒーのいい香りが漂い始めた。
その香りを堪能しながら、少し残念な気持ちになる。
香りも味も好きだけど、コーヒーを飲むと間違いなく胃が荒れて、そのあとご飯が食べられなくなる。ひどいときは戻してしまうので、香りだけしか楽しめない。
コーヒーをカップに注いでいると、やっぱり秋斗さんが頃合いを見計らったようにキッチンにやってきた。
「いい香りだね。持っていくよ」
またしてもトレイを取り上げられる。
親切を無下にすることはできなくてお願いしたけれど、本当は最後までおもてなしされてほしかった。
自室でコーヒーを先輩に差し出すと、先輩はすぐに手を伸ばし、口に含むと表情を少し和らげる。
コーヒー、好きなのかな?
じっと見ていると、「何」と訊かれる。
「……いえ。甘いものが苦手でコーヒーが好きなんだな、と思って」
「……食べなくていいなら甘いものは極力食べない。 コーヒーは好き」
端的な答え方が先輩らしく思えた。
「翠葉ちゃん、それ、聴きたいな」
秋斗さんがハープを指差した。
「……最近は練習する時間が取れなかったから、間違わずに弾けるかはかなり怪しいですよ?」
言い訳じみた言葉を漏らしても、「ぜひ」と言われたのでハープの調弦を始めた。
「自分で調律するのね?」
すぐ側までやってきた桃華さんに尋ねられる。
「うん。ピアノが珍しい楽器なだけで、弦楽器は基本自分で調弦するものなの。ものによっては一曲弾くごとに調弦が必要なものもあるみたい」
昨日の夕方には調弦していたため調弦にはさほど時間もかからず、アルペジオをいくつか弾いて響きを確認する。
……何、弾こうかな?
少し考えて、楽器にちなんだ曲を弾くことにした。
「この楽器、アイリッシュハープっていうんです。もともとはアイルランドの生まれだから、アイルランドの民謡を弾きますね」
オ・カロランの曲、「Sheebeg and sheemore」。「大きい人と小さい人」という曲をチョイス。
短いけれど、とてもかわいらしい曲で好き。
弾き終わったあと、
「本当に弾けるんだ」
と言ったのは藤宮先輩だった。
「先輩、それはちょっと失礼……」
苦笑を向けると、
「いつも失礼なことを言っているのは翠のほうだと思う」
涼しい顔でさらりと言ってはコーヒーを口に含む。
私、そこまで失礼なことは口にしてないと思うんだけどな……。
「あのさ、蒼樹からオリジナル曲を作ってるって聞いたんだけど、それは?」
秋斗さんに言われて愕然とする
「あの……蒼兄はそんなに私のことを話しているんでしょうか……」
「俺たち、半強制的に反復学習させられてると思う」
藤宮先輩の言葉に耳を疑う。
半強制的に反復学習って何……。
「オリジナルって……作曲をしているということ?」
桃華さんが驚いたような顔をした。
「うん……つまりはそういうことかな」
答えると、「聴きたいな」と秋斗さんに再度リクエストされた。
短い曲をセレクトして弾くと、弾き終わったあとに三人から拍手をしてもらえた。
けれども、三人とは別の場所から拍手が聞こえてくる。
咄嗟に部屋のドアへと視線をやると、「ただいま」と蒼兄が立っていた。
「蒼兄っ! おかえりなさいっ! 早かったのね?」
時刻はまだ三時前だ。帰りは夕方になると言っていたのにずいぶんと早い。
「うん。あっちに着いて頼まれた作業を一通りやったらとっとと帰れって言われた。ほら、今日は栞さんがお休みだから翠葉が心配だったんだと思う」
「ふふっ、蒼兄、災難だったね」
「そうでもないよ。今弾いてたのは新曲だろ? それ聴けたし」
「本当に仲がいいよねぇ……」
少し呆れたように言ったのは秋斗さんだった。
お茶とコーヒーを淹れなおし、蒼兄も加わって五人で色んな話をした。
藤宮先輩が弓道を始めたきっかけが秋斗さんだったことや、桃華さんのおうちが華道の家元であること。そして、加納先輩と桃華さんが従妹関係にあるということも。
一番驚いたことは、あの加納先輩の家が合気道の道場を開いていて、加納先輩自身も師範代を務めているということ。
玲子先輩は護身術として嗜む程度で、いつもは桃華さんのおうちに通って本格的に華道を極めていらっしゃるのだとか。桃華さんと玲子先輩は免状として看板をいただいているほどの腕前だというのだからすごい。
何かを極めるってすごいことだと思う。
私は、何においても中途半端な気がした。
やっぱり、手広く趣味を増やしすぎだからだろうか……。
「蒼樹、僕らこれで失礼するよ」
秋斗さんが切り出したのは夕方五時を回ったころだった。
なんだか名残惜しい……。
楽しい時間を過ごすと、「じゃぁね、バイバイ」と言うのがとても寂しくなる。
「翠葉、そんな顔しなくても明後日にはまた学校で会えるんだから」
桃華さんに宥められてしまう。
「そうだよね。そうなんだけどね……」
やっぱり名残惜しいものは名残惜しいのだ。
そんな自分が小さい子みたいで嫌になる。
「翠葉ちゃん、今日は朝からずっと動きっぱなしでしょ?」
秋斗さんに言われ、さらには秋斗さんの携帯を見せられた。
目にしたものはメール受信画面。そこに記されていたのは私のバイタル数値だった。
「湊ちゃんからのメール。今のところ、異変があると湊ちゃんからメールが届く。あと少しで改良が終わる。そしたら、僕らの携帯からもチェックできるようになるよ」
「……忙しいのにすみません」
「それはなし。言ったでしょう? 僕がやりたくてやってることだって」
秋斗さんは少し寂しそうに笑った。でも、とても優しい眼差しだった。
そんな表情が蒼兄に少しかぶる。
「なんの話?」
「なんの話ですか?」
藤宮先輩と桃華さんに訊かれたけれど、バイタルチェックされていることは言いづらい。
何よりも、バイタルチェックをされるようになったいきさつがいきさつなだけに困ってしまう。
どうしようかと思っていると、
「それは内緒」
秋斗さんが代わりに答えてくれた。
それを聞いて桃華さんが、
「蒼樹さんも知ってるんですか?」
と、蒼兄を仰ぎ見る。
「うん、知ってる」
蒼兄は私を見ながら、
「きっと、そのうち翠葉が自分から話すと思う。だから、できればそれまで待ってもらえると嬉しいかな」
桃華さんが大きなため息をついた。
「また隠し事なのね?」
その言葉にチクリと胸が痛む。でも、桃華さんの目は、「仕方のない子ね」って感じだった。
「待つわ。いつか、話してくれるんでしょ?」
「……うん。いつか、ちゃんと話す。でも、自分にとっても衝撃なことだったから、だからちょっと時間かかるかも……」
自分が自分の命を放棄しようとしていたなんて、湊先生に言われるまで自覚はなかった。
それがゆえに作られたようなこの装置。
今はお守りと思えるけれど、それだけを答えるのは何か違うと思ってしまう。
すべてを話す必要はないのかもしれない。でも、話すなら包み隠さず話したいから……。
「それ、俺も聞けるの?」
藤宮先輩に訊かれた。
こういうとき、この人はどうしてこんなにも冷ややかな視線を向けてくるのだろう。
「……そうですね。桃華さんに話すときは一緒に話します」
「わかった」
それだけ口にして、先輩はひとりさっさと玄関を出ていってしまった。
「あー……拗ねちゃったかな」
秋斗さんが蒼兄を見て言う。
「どうでしょう……。司が同じ年頃の子たちと話してるのってあまり見たことないんで、自分はちょっとわかりかねますが……」
その一方、桃華さんは「ガキね」と吐き捨てた。
「あっ! 桃華さん、秋斗さんもちょっと待ってて?」
私はふたりを引き止めキッチンへと向かった。
さっき、クッキーが美味しいと言ってもらえたのが嬉しくて、コーヒーを淹れている間に残っていたクッキーを三等分に分けて包んでいたのだ。
それを持って玄関へ戻る。
「さっきのクッキーです。もし良かったら、帰ってから食べてください。……秋斗さん、申し訳ないのですがこれ……」
「司に、かな?」
「はい」
「嬉しいけど、でも、いいの?」
「今日はたくさん助けてもらってしまったので……」
そのやり取りに蒼兄が口を挟む。
「翠葉、今日何かあったのか?」
蒼兄の視線をかわせるわけもなく、どうしようかと思っていると、
「蒼樹さん、知ってました? 翠葉の中学の同級生、最悪なのが勢ぞろい」
辟易とした顔をした桃華さんの言葉にドキリとする。
「……同級生? とくに親しい友達はいなかったと思うんだけど」
蒼兄の反応は正しい。
中学のとき、蒼兄に話したくなるほどの出来事も、人との交流もなかった。
「あれは本当に最悪だったな」
と、秋斗さんがため息をつくと、蒼兄から痛いまでの視線を注がれた。
「なんでもないよ……? 少し嫌なことがあっただけ」
ごまかせるのならごまかしたかった。けれど、桃華さんに額をぺしりと叩かれる。
「そうやって何もなかったことにしないの」
「翠葉ちゃんは知られたくなかったのかもしれないけど……。僕は今日一緒にいられて良かったと思ったよ。それと、中学の同級生は今後一切翠葉ちゃんに近づけたくないかな」
「だから、なんなんですかっ!?」
蒼兄が秋斗さんに詰め寄ると、
「蒼樹が翠葉ちゃんの側にべったりくっついていたことにはちゃんと意味があったってことだよ」
それだけを言うと、「じゃぁね」と玄関を出ていってしまった。
「秋斗先生の言うことはもっともだと思います。蒼樹さん、かなりぐっじょぶだったと思いますよ? じゃ、また明後日ね」
桃華さんも手を上げて玄関を出てしまった。
その場に残されたのは私と蒼兄なわけで……。
「翠葉ちゃん、ちょっとおいで? お兄ちゃんとお話ししようか?」
満面の笑みで手を掴まれ、リビングまで連行された。
「何があったのかな?」
私の真正面を陣取り、今までにないくらいの笑顔で訊かれる。
こうなってしまったらもう逃げられない。蒼兄が笑顔のゴリ押しを始めると、私の手には負えないのだ。
「中学のときのクラスメイトに話しかけられただけ」
「……それだけなら秋斗先輩や簾条さんがあんなふうに言わないと思うんだけど?」
「…………」
「補足する説明はないの? もしくは、言葉を間違えたとか」
きれいな笑みはどこまで深まるのだろうか。そんなことを考えていると、
「翠葉っ」
問い詰めるように訊かれた。
「……少し、絡まれただけ……」
「それは男? 女?」
「……一度目は男子。二度目は女の子五人だった」
これ以上は話さなくてもいいだろうか……。
上目勝ちに蒼兄を見ると、
「秋斗先輩と簾条さんが憤慨していた理由は?」
見逃してもらえそうにはなかった。
にこりと笑っているにも関わらず、あり得ないほど声が低い。
仕方なく、藤棚での出来事と帰り際に女の子たちに投げられた言葉の数々を白状した。
「なぁ、翠葉……。今まで学校での話を家ですることがなかったのって、そういう理由からか?」
訊かれて少し困る。
「学校の話をしなかったのは、話したくなるほど楽しい出来事がなかったからだよ」
「そういう問題じゃなくて……。中学でいじめられてたのか?」
それもよくわからない。
机の落書きや物がなるなること、無視されること。それをいじめと言うのならそうなのかもしれない。でも、なんとなく「いじめ」という言葉を認めることができなかった。
「ごめんなさい」
何に対して謝っているのか、自分でもわかってはいない。
「翠葉……謝るようなことじゃないだろ? ただ……もう少し早くに知りたかったかな」
寂しそうに笑って頭を撫でられた。
「今は……? 今の学校は?」
「今の学校はびっくりするくらい楽しい。クラス全体が仲良くてね、毎日がキラキラの宝物みたいに思える」
「そっか……ならいい。今が幸せなら」
言うと、ぎゅっと抱きしめてくれた。
今は幸せ……。
この幸せはどこまで続いているのかな、って先を考えると少し怖くなるけど、終わりはないと思っていたい――
どうやらリビングよりもこちらのほうが落ち着くらしい。
確かに、うちはリビングも二階までの吹き抜けで開放感はあるけれど、慣れない人にはちょっと落ち着かない空間なのかもしれない。
その点、私の部屋はいたってシンプルで、秋斗さんや藤宮先輩にしてみたら、慣れ親しんだ部屋に感じるのだろう。
「ねぇ、これどこのクッキー?」
昨日作ったフロランタンをつまみながら桃華さんに訊かれる。
「昨日焼いたクッキーだから売り物じゃないよ?」
「え!? 翠葉の手作りだったの?」
「うん。そうだけど……どうかした?」
「甘さ控え目で美味しいから、帰りに買って帰ろうかと思ったの」
そう言ってもらえるのはとても嬉しい。
桃華さんにつられるようにして、秋斗さんと藤宮先輩の手も伸びてくる。
「本当だ。アーモンドが香ばしくてコーヒーにも合いそう! 翠葉ちゃんはお菓子作りも上手なんだね」
褒める秋斗さんの傍らで、藤宮先輩がぼそりと零した。「これなら食べられる」と。
「先輩は甘いもの苦手なんですか?」
先輩は言葉なく頷いた。
そういえば、以前一緒にアンダンテのケーキを食べたとき、藤宮先輩はチーズタルトだったな、と思い出す。
アンダンテのケーキはどれも甘さ控え目だけれど、甘いものが苦手な人はチーズタルトのセレクト率が高い。
何を隠そう、蒼兄がそうなのだ。
「ちょっと待っててくださいね」
私は席を外してキッチンへと向かうと、冷凍庫から挽いてあるコーヒーを取り出しコーヒーメーカーにセットする。
しばらくするとコーヒーのいい香りが漂い始めた。
その香りを堪能しながら、少し残念な気持ちになる。
香りも味も好きだけど、コーヒーを飲むと間違いなく胃が荒れて、そのあとご飯が食べられなくなる。ひどいときは戻してしまうので、香りだけしか楽しめない。
コーヒーをカップに注いでいると、やっぱり秋斗さんが頃合いを見計らったようにキッチンにやってきた。
「いい香りだね。持っていくよ」
またしてもトレイを取り上げられる。
親切を無下にすることはできなくてお願いしたけれど、本当は最後までおもてなしされてほしかった。
自室でコーヒーを先輩に差し出すと、先輩はすぐに手を伸ばし、口に含むと表情を少し和らげる。
コーヒー、好きなのかな?
じっと見ていると、「何」と訊かれる。
「……いえ。甘いものが苦手でコーヒーが好きなんだな、と思って」
「……食べなくていいなら甘いものは極力食べない。 コーヒーは好き」
端的な答え方が先輩らしく思えた。
「翠葉ちゃん、それ、聴きたいな」
秋斗さんがハープを指差した。
「……最近は練習する時間が取れなかったから、間違わずに弾けるかはかなり怪しいですよ?」
言い訳じみた言葉を漏らしても、「ぜひ」と言われたのでハープの調弦を始めた。
「自分で調律するのね?」
すぐ側までやってきた桃華さんに尋ねられる。
「うん。ピアノが珍しい楽器なだけで、弦楽器は基本自分で調弦するものなの。ものによっては一曲弾くごとに調弦が必要なものもあるみたい」
昨日の夕方には調弦していたため調弦にはさほど時間もかからず、アルペジオをいくつか弾いて響きを確認する。
……何、弾こうかな?
少し考えて、楽器にちなんだ曲を弾くことにした。
「この楽器、アイリッシュハープっていうんです。もともとはアイルランドの生まれだから、アイルランドの民謡を弾きますね」
オ・カロランの曲、「Sheebeg and sheemore」。「大きい人と小さい人」という曲をチョイス。
短いけれど、とてもかわいらしい曲で好き。
弾き終わったあと、
「本当に弾けるんだ」
と言ったのは藤宮先輩だった。
「先輩、それはちょっと失礼……」
苦笑を向けると、
「いつも失礼なことを言っているのは翠のほうだと思う」
涼しい顔でさらりと言ってはコーヒーを口に含む。
私、そこまで失礼なことは口にしてないと思うんだけどな……。
「あのさ、蒼樹からオリジナル曲を作ってるって聞いたんだけど、それは?」
秋斗さんに言われて愕然とする
「あの……蒼兄はそんなに私のことを話しているんでしょうか……」
「俺たち、半強制的に反復学習させられてると思う」
藤宮先輩の言葉に耳を疑う。
半強制的に反復学習って何……。
「オリジナルって……作曲をしているということ?」
桃華さんが驚いたような顔をした。
「うん……つまりはそういうことかな」
答えると、「聴きたいな」と秋斗さんに再度リクエストされた。
短い曲をセレクトして弾くと、弾き終わったあとに三人から拍手をしてもらえた。
けれども、三人とは別の場所から拍手が聞こえてくる。
咄嗟に部屋のドアへと視線をやると、「ただいま」と蒼兄が立っていた。
「蒼兄っ! おかえりなさいっ! 早かったのね?」
時刻はまだ三時前だ。帰りは夕方になると言っていたのにずいぶんと早い。
「うん。あっちに着いて頼まれた作業を一通りやったらとっとと帰れって言われた。ほら、今日は栞さんがお休みだから翠葉が心配だったんだと思う」
「ふふっ、蒼兄、災難だったね」
「そうでもないよ。今弾いてたのは新曲だろ? それ聴けたし」
「本当に仲がいいよねぇ……」
少し呆れたように言ったのは秋斗さんだった。
お茶とコーヒーを淹れなおし、蒼兄も加わって五人で色んな話をした。
藤宮先輩が弓道を始めたきっかけが秋斗さんだったことや、桃華さんのおうちが華道の家元であること。そして、加納先輩と桃華さんが従妹関係にあるということも。
一番驚いたことは、あの加納先輩の家が合気道の道場を開いていて、加納先輩自身も師範代を務めているということ。
玲子先輩は護身術として嗜む程度で、いつもは桃華さんのおうちに通って本格的に華道を極めていらっしゃるのだとか。桃華さんと玲子先輩は免状として看板をいただいているほどの腕前だというのだからすごい。
何かを極めるってすごいことだと思う。
私は、何においても中途半端な気がした。
やっぱり、手広く趣味を増やしすぎだからだろうか……。
「蒼樹、僕らこれで失礼するよ」
秋斗さんが切り出したのは夕方五時を回ったころだった。
なんだか名残惜しい……。
楽しい時間を過ごすと、「じゃぁね、バイバイ」と言うのがとても寂しくなる。
「翠葉、そんな顔しなくても明後日にはまた学校で会えるんだから」
桃華さんに宥められてしまう。
「そうだよね。そうなんだけどね……」
やっぱり名残惜しいものは名残惜しいのだ。
そんな自分が小さい子みたいで嫌になる。
「翠葉ちゃん、今日は朝からずっと動きっぱなしでしょ?」
秋斗さんに言われ、さらには秋斗さんの携帯を見せられた。
目にしたものはメール受信画面。そこに記されていたのは私のバイタル数値だった。
「湊ちゃんからのメール。今のところ、異変があると湊ちゃんからメールが届く。あと少しで改良が終わる。そしたら、僕らの携帯からもチェックできるようになるよ」
「……忙しいのにすみません」
「それはなし。言ったでしょう? 僕がやりたくてやってることだって」
秋斗さんは少し寂しそうに笑った。でも、とても優しい眼差しだった。
そんな表情が蒼兄に少しかぶる。
「なんの話?」
「なんの話ですか?」
藤宮先輩と桃華さんに訊かれたけれど、バイタルチェックされていることは言いづらい。
何よりも、バイタルチェックをされるようになったいきさつがいきさつなだけに困ってしまう。
どうしようかと思っていると、
「それは内緒」
秋斗さんが代わりに答えてくれた。
それを聞いて桃華さんが、
「蒼樹さんも知ってるんですか?」
と、蒼兄を仰ぎ見る。
「うん、知ってる」
蒼兄は私を見ながら、
「きっと、そのうち翠葉が自分から話すと思う。だから、できればそれまで待ってもらえると嬉しいかな」
桃華さんが大きなため息をついた。
「また隠し事なのね?」
その言葉にチクリと胸が痛む。でも、桃華さんの目は、「仕方のない子ね」って感じだった。
「待つわ。いつか、話してくれるんでしょ?」
「……うん。いつか、ちゃんと話す。でも、自分にとっても衝撃なことだったから、だからちょっと時間かかるかも……」
自分が自分の命を放棄しようとしていたなんて、湊先生に言われるまで自覚はなかった。
それがゆえに作られたようなこの装置。
今はお守りと思えるけれど、それだけを答えるのは何か違うと思ってしまう。
すべてを話す必要はないのかもしれない。でも、話すなら包み隠さず話したいから……。
「それ、俺も聞けるの?」
藤宮先輩に訊かれた。
こういうとき、この人はどうしてこんなにも冷ややかな視線を向けてくるのだろう。
「……そうですね。桃華さんに話すときは一緒に話します」
「わかった」
それだけ口にして、先輩はひとりさっさと玄関を出ていってしまった。
「あー……拗ねちゃったかな」
秋斗さんが蒼兄を見て言う。
「どうでしょう……。司が同じ年頃の子たちと話してるのってあまり見たことないんで、自分はちょっとわかりかねますが……」
その一方、桃華さんは「ガキね」と吐き捨てた。
「あっ! 桃華さん、秋斗さんもちょっと待ってて?」
私はふたりを引き止めキッチンへと向かった。
さっき、クッキーが美味しいと言ってもらえたのが嬉しくて、コーヒーを淹れている間に残っていたクッキーを三等分に分けて包んでいたのだ。
それを持って玄関へ戻る。
「さっきのクッキーです。もし良かったら、帰ってから食べてください。……秋斗さん、申し訳ないのですがこれ……」
「司に、かな?」
「はい」
「嬉しいけど、でも、いいの?」
「今日はたくさん助けてもらってしまったので……」
そのやり取りに蒼兄が口を挟む。
「翠葉、今日何かあったのか?」
蒼兄の視線をかわせるわけもなく、どうしようかと思っていると、
「蒼樹さん、知ってました? 翠葉の中学の同級生、最悪なのが勢ぞろい」
辟易とした顔をした桃華さんの言葉にドキリとする。
「……同級生? とくに親しい友達はいなかったと思うんだけど」
蒼兄の反応は正しい。
中学のとき、蒼兄に話したくなるほどの出来事も、人との交流もなかった。
「あれは本当に最悪だったな」
と、秋斗さんがため息をつくと、蒼兄から痛いまでの視線を注がれた。
「なんでもないよ……? 少し嫌なことがあっただけ」
ごまかせるのならごまかしたかった。けれど、桃華さんに額をぺしりと叩かれる。
「そうやって何もなかったことにしないの」
「翠葉ちゃんは知られたくなかったのかもしれないけど……。僕は今日一緒にいられて良かったと思ったよ。それと、中学の同級生は今後一切翠葉ちゃんに近づけたくないかな」
「だから、なんなんですかっ!?」
蒼兄が秋斗さんに詰め寄ると、
「蒼樹が翠葉ちゃんの側にべったりくっついていたことにはちゃんと意味があったってことだよ」
それだけを言うと、「じゃぁね」と玄関を出ていってしまった。
「秋斗先生の言うことはもっともだと思います。蒼樹さん、かなりぐっじょぶだったと思いますよ? じゃ、また明後日ね」
桃華さんも手を上げて玄関を出てしまった。
その場に残されたのは私と蒼兄なわけで……。
「翠葉ちゃん、ちょっとおいで? お兄ちゃんとお話ししようか?」
満面の笑みで手を掴まれ、リビングまで連行された。
「何があったのかな?」
私の真正面を陣取り、今までにないくらいの笑顔で訊かれる。
こうなってしまったらもう逃げられない。蒼兄が笑顔のゴリ押しを始めると、私の手には負えないのだ。
「中学のときのクラスメイトに話しかけられただけ」
「……それだけなら秋斗先輩や簾条さんがあんなふうに言わないと思うんだけど?」
「…………」
「補足する説明はないの? もしくは、言葉を間違えたとか」
きれいな笑みはどこまで深まるのだろうか。そんなことを考えていると、
「翠葉っ」
問い詰めるように訊かれた。
「……少し、絡まれただけ……」
「それは男? 女?」
「……一度目は男子。二度目は女の子五人だった」
これ以上は話さなくてもいいだろうか……。
上目勝ちに蒼兄を見ると、
「秋斗先輩と簾条さんが憤慨していた理由は?」
見逃してもらえそうにはなかった。
にこりと笑っているにも関わらず、あり得ないほど声が低い。
仕方なく、藤棚での出来事と帰り際に女の子たちに投げられた言葉の数々を白状した。
「なぁ、翠葉……。今まで学校での話を家ですることがなかったのって、そういう理由からか?」
訊かれて少し困る。
「学校の話をしなかったのは、話したくなるほど楽しい出来事がなかったからだよ」
「そういう問題じゃなくて……。中学でいじめられてたのか?」
それもよくわからない。
机の落書きや物がなるなること、無視されること。それをいじめと言うのならそうなのかもしれない。でも、なんとなく「いじめ」という言葉を認めることができなかった。
「ごめんなさい」
何に対して謝っているのか、自分でもわかってはいない。
「翠葉……謝るようなことじゃないだろ? ただ……もう少し早くに知りたかったかな」
寂しそうに笑って頭を撫でられた。
「今は……? 今の学校は?」
「今の学校はびっくりするくらい楽しい。クラス全体が仲良くてね、毎日がキラキラの宝物みたいに思える」
「そっか……ならいい。今が幸せなら」
言うと、ぎゅっと抱きしめてくれた。
今は幸せ……。
この幸せはどこまで続いているのかな、って先を考えると少し怖くなるけど、終わりはないと思っていたい――
22
あなたにおすすめの小説
光のもとで2
葉野りるは
青春
一年の療養を経て高校へ入学した翠葉は「高校一年」という濃厚な時間を過ごし、
新たな気持ちで新学期を迎える。
好きな人と両思いにはなれたけれど、だからといって順風満帆にいくわけではないみたい。
少し環境が変わっただけで会う機会は減ってしまったし、気持ちがすれ違うことも多々。
それでも、同じ時間を過ごし共に歩めることに感謝を……。
この世界には当たり前のことなどひとつもなく、あるのは光のような奇跡だけだから。
何か問題が起きたとしても、一つひとつ乗り越えて行きたい――
(10万文字を一冊として、文庫本10冊ほどの長さです)
みんなの女神サマは最強ヤンキーに甘く壊される
けるたん
青春
「ほんと胸がニセモノで良かったな。貧乳バンザイ!」
「離して洋子! じゃなきゃあのバカの頭をかち割れないっ!」
「お、落ちついてメイちゃんっ!? そんなバットで殴ったら死んじゃう!? オオカミくんが死んじゃうよ!?」
県立森実高校には2人の美の「女神」がいる。
頭脳明晰、容姿端麗、誰に対しても優しい聖女のような性格に、誰もが憧れる生徒会長と、天は二物を与えずという言葉に真正面から喧嘩を売って完膚なきまでに完勝している完全無敵の双子姉妹。
その名も『古羊姉妹』
本来であれば彼女の視界にすら入らないはずの少年Bである大神士狼のようなロマンティックゲス野郎とは、縁もゆかりもない女の子のはずだった。
――士狼が彼女たちを不審者から助ける、その日までは。
そして『その日』は突然やってきた。
ある日、夜遊びで帰りが遅くなった士狼が急いで家へ帰ろうとすると、古羊姉妹がナイフを持った不審者に襲われている場面に遭遇したのだ。
助け出そうと駆け出すも、古羊姉妹の妹君である『古羊洋子』は助けることに成功したが、姉君であり『古羊芽衣』は不審者に胸元をザックリ斬りつけられてしまう。
何とか不審者を撃退し、急いで応急処置をしようと士狼は芽衣の身体を抱き上げた……その時だった!
――彼女の胸元から冗談みたいにバカデカい胸パッドが転げ落ちたのは。
そう、彼女は嘘で塗り固められた虚乳(きょにゅう)の持ち主だったのだ!
意識を取り戻した芽衣(Aカップ)は【乙女の秘密】を知られたことに発狂し、士狼を亡き者にするべく、その場で士狼に襲い掛かる。
士狼は洋子の協力もあり、何とか逃げることには成功するが翌日、芽衣の策略にハマり生徒会に強制入部させられる事に。
こうして古羊芽衣の無理難題を解決する大神士狼の受難の日々が始まった。
が、この時の古羊姉妹はまだ知らなかったのだ。
彼の蜂蜜のように甘い優しさが自分たち姉妹をどんどん狂わせていくことに。
※【カクヨム】にて編掲載中。【ネオページ】にて序盤のみお試し掲載中。【Nolaノベル】【Tales】にて完全版を公開中。
イラスト担当:さんさん
静かに過ごしたい冬馬君が学園のマドンナに好かれてしまった件について
おとら@ 書籍発売中
青春
この物語は、とある理由から目立ちたくないぼっちの少年の成長物語である
そんなある日、少年は不良に絡まれている女子を助けてしまったが……。
なんと、彼女は学園のマドンナだった……!
こうして平穏に過ごしたい少年の生活は一変することになる。
彼女を避けていたが、度々遭遇してしまう。
そんな中、少年は次第に彼女に惹かれていく……。
そして助けられた少女もまた……。
二人の青春、そして成長物語をご覧ください。
※中盤から甘々にご注意を。
※性描写ありは保険です。
他サイトにも掲載しております。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
学校一の美人から恋人にならないと迷惑系Vtuberになると脅された。俺を切り捨てた幼馴染を確実に見返せるけど……迷惑系Vtuberて何それ?
宇多田真紀
青春
学校一の美人、姫川菜乃。
栗色でゆるふわな髪に整った目鼻立ち、声質は少し強いのに優し気な雰囲気の女子だ。
その彼女に脅された。
「恋人にならないと、迷惑系Vtuberになるわよ?」
今日は、大好きな幼馴染みから彼氏ができたと知らされて、心底落ち込んでいた。
でもこれで、確実に幼馴染みを見返すことができる!
しかしだ。迷惑系Vtuberってなんだ??
訳が分からない……。それ、俺困るの?
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります>
政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・?
※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる