光のもとで1

葉野りるは

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第三章 恋の入口

28話

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 保健室をノックするとすぐに返事があった。
「失礼します」
 湊先生は飲み物を飲みながらパソコンを見ていた。
「あら、翠葉じゃない。テスト終わったの? っていうか、具合でも悪いの?」
 眉をひそめられ、
「テストは終わりました。でも、具合悪いのは私じゃなくて――」
 先生は不思議そうな顔で私を見ていた。
「あの、秋斗さん、すごい熱だと思うんです。仮眠室で横になってて……」
「またか……」
「え……?」
「あのバカ、仕事詰め込みすぎなのよ。わかったわかった、そっちは私が行く。翠葉は今すぐそこの流しでうがいと手を洗いなさい」
「はい……」
 先生は点滴や飲み薬、体温計などの用意を始める。
「翠葉、あんた何泣いてんのよ」
「え……?」
 頬に手を伸ばすと、確かに濡れていた。言われてみれば、視界が少しぼやけているかもしれない。でも――
「どうして涙なんか……」
「……秋斗に何か言われた?」
「……うつったら洒落にならないから出てくれって」
「で?」
「……言われてることはきっと間違ってないけど、でも――悲しかったです」
 自分の感情を認めたら涙が止まらなくなった。
 先生は私の近くまでくると、抱きこむようにして背中をさすってくれた。
「そうね。秋斗は正しい。でも、いつもとは違う口調だったんじゃない? それに翠葉は驚いた。……秋斗はねぇ、熱に弱いのよ。もともと頑丈なつくりしてるから、普段どんな無理しても意外と平気なんだけど、時々こうやって熱を出すの。そんなときはたいてい余裕がないとき。だから、翠葉が悪かったわけじゃない」
「……でも、私が私じゃなかったら、そしたら少しくらいは看病できたかもしれないのに……」
「そんなに心配だった?」
 コクリと頷く。
「そっかそっか……。大丈夫よ、点滴打って薬飲ませれば明日にはケロッとしてるから。だから、翠葉はうがいを済ませなさい」
「はい」
 もう一度手を石鹸で洗い、アズレンを溶かした水でうがいをした。
 確かに、私はウィルスに対する自己免疫力も高いほうではない。風邪はもらいやすいし、風邪をひくと治るまでに時間がかかる。
 ゆえに、人ごみには入らないように気をつけているし、どうしても入らなくちゃいけないときにはマスクをつける。
 私の体質のことを粗方知っている秋斗さんには、さっきのような対応をされても仕方がない。でも、せめて何かひとつでも自分にできることがあったらよかったのに……。
 私はお医者さんでも看護師さんでもないから大したことはできない。それでも、側にいることくらいできたら良かったのに……。
 具合が悪いとき、ひとりでいるのは心細くなる。そういうときに蒼兄やお母さん、栞さんが側にいてくれるとほっとする。
 でも、私はそんなこともできないんだ……。
 役立たず――本当に私は役立たずだ……。
「ほら、深く考えずに栞のところへ帰りなさい」
 言われて、私は保健室をあとにした。

 栞さんの待つ家に帰ると、玄関で出迎えられて早々「あら、ひどい顔」と言われた。
 言葉どおり、ひどい顔をしていたのだろう。
「テストの出来、そんなに悪かったの?」
「いえ、そんなには……。栞さん、夕飯まで寝てもいい?」
「え? いいけど……」
「あ、その前にお風呂に入っちゃいます」
 がんばって笑顔を作ろうとした。そしたら、栞さんに左の頬をつままれた。
「翠葉ちゃん、笑いたくないときは笑わなくていいの」
 そんなふうに言われて、また涙が目に滲む。
「泣いたらその分水分摂らせるわよ?」
 かわいく睨まれ、
「お風呂上りに冷たいハーブティーを部屋に運んでおくわ」
 と、キッチンへと入っていった。
 聞いてほしいときには聞いてくれる。聞いてほしくないときには訊かないでくれる。
 いつもと変わらない。それが嬉しくて、また涙が出る。
 自分の涙腺の脆さに文句をつけたいと思いつつ、お風呂に入った。
 このマンションは、お風呂に入りたいときにボタンを押すと、五分と経たないうちに湯船にお湯が溜まる。そのため、お風呂に入るのに待ち時間は要しなかった。

 お風呂に浸かりながら、自分が人にできることを考える。
 ご飯を作る、お茶を淹れる、お菓子を作る――
 何度考えても四つ目の項目は浮上しない。先が見えない。自分の将来が全く見えない――
 私、高校を卒業してどうするんだろう。もし、その先の学校に進んだとして、その先はどうするんだろう。
 全然社会に貢献できる気がしない。社会に出ていける気がしない。
 私、何もできない。きっとどこへ行っても役に立てない気がする。
 私はこんなにも色んな人に助けられて生きているのに、私はそれを誰かに返すことはできないのかな。もらうだけ、なのかな――
 お風呂から上がると、ローテーブルの上に冷たいハーブティーが置かれていた。
「夕飯には起こすから、少し休みなさい」
 そう書かれたメモと一緒に。
 体力的に、というよりは気力が残っていなくて、髪の毛も乾かさずにベッドへ横になった。


「翠葉……翠葉……」
「ん……」
「ん、じゃなくて……髪濡れたまま寝ると風邪ひくだろ?」
 目を開けると呆れ顔の蒼兄がベッド脇にいた。
「蒼、兄……」
「秋斗先輩なら大丈夫だから。さっき、このマンションまで連れて帰ってきたから安心していいよ」
「……よかった」
 次の瞬間にはドアがバン――と開き、湊先生が怒鳴り込んできた。
「蒼樹っ、あんた手洗いうがいしてから翠葉の部屋に入ったんでしょうねっ!?」
「……姉さんの声大きすぎるから」
 廊下から司先輩の静かな声。
「ちゃんと手洗いうがいもしたし、アルコールジェルにて殺菌消毒済みです」
 蒼兄がお手上げ、とでも言うように手を上げて答えると、「ならいいわ」と湊先生は私の枕元に立った。
「あーあ……濡れたまま寝ると髪の毛傷むわよ?」
 細長い指が私の髪の毛を一房掬う。
「司っ、ドライヤー」
 ドアに寄りかかっている司先輩に指示を飛ばすと、
「はいはい」
 先輩は面倒くさそうに返事をして、洗面所からドライヤーを持ってきてくれた。
「せっかくきれいなんだから、もったいないことしないの」
 湊先生は怒りながら髪の毛を乾かしてくれた。
 先生の大きな手に乾かされるのはとても気持ちが良かった。
 この手は――たくさんの人を助けることができて、たくさんの人に感謝される手だ……。
 私の手は? 私の手はいったい何ができるのだろう……。
 じっと手を見ていると、
「翠葉、どうした?」
「ん? ……なんでもないよ」
「……ならいいけど」
 蒼兄、ごめんなさい。でも、こんなこと言ったらまた心配かけるだけだから。もう少し時間をかけて探してみる。
 自分にできることがなんなのか、何が自分にできるのか――それはきっと、自分の存在理由だとか意義だとか……。自分がここにいられるための理由な気がするの。
 私、恋愛に興味があるとかそんなこと言ってる場合じゃないのかもしれない。
 いつまでも両親を頼っているわけにはいかないだろうし、いつまでも蒼兄が側にいると思っていてもいけない。
 いつかは自立しなくてはいけない。それには何かが自分になくてはいけない。
 私には、自分を支えていけるだけの何があるだろう?
「御園生さん。翠のあの顔、あんな顔するときはたいていいいこと考えてない」
 ドアから司先輩の呆れたような声がする。
「わかってはいるんだけど……。それでも、ひとりで時間をかけて考えたいことだってあるだろうから」
 蒼兄は優しい眼差しでそう答えた。湊先生は何を思ったのか、
「私が男だったら翠葉をお嫁にもらうのにね」
「先生、私なんかお嫁にもらったら苦労するだけですよ」
 自分で言ったのに涙が出てくるとか――自業自得すぎる。でも、栞さんと同じで、誰も涙の理由は訊かずにいてくれた。
 その中でただひとり、司先輩だけは訝しげな視線を向けてきたけれど……。

 私たちがリビングへ移動すると、玄関でバタバタと音がした。それに気づいた湊先生が颯爽と玄関へ向かう。
 どうやら、海斗くんが秋斗さんに夕飯を届けに行っていたらしい。
 湊先生が何をしに玄関へ向かったかというならば、手洗いとうがいを徹底させるためだった。
 これはいつものことなのだろうか。それとも、私がいるから神経質になっているのかな。
 なんとなく後者な気がして気が引けた。
 今日はエビフライやポテトサラダ、コーンスープなどテーブルに並ぶ。きっとタルタルソースも栞さんの手作り。
 美味しそう……。
 そうは思うのに、噛んでも噛んでも飲み下せない。自宅なら早々に諦めてしまうところだけど、ここには海斗くんや司先輩もいる。
 湊先生はいてもいなくても変わらない、というよりは、先生の前で見栄を張ってもどんなに繕っても無駄だとわかっているので、無駄な抵抗は極力しないことにしている。
 きっと栞さんと蒼兄はもう気づいているだろう。その証拠に栞さんはキッチンへ戻り、先ほどからミキサーを稼動させている。
「まだ何か出てくるの?」
 海斗くんが嬉しそうに訊くと、
「そんなことあるわけないでしょ? それ以上食べたら育ち盛りだって食べすぎよ」
 きちんと返事はするけれど、それでは何を作っているのか、という部分は明確にしなかった。
 数粒のお米をお箸に載せて口へ運ぶ。もう食べているとも言えない分量。
「翠葉、無理しなくていいわよ。胃が痙攣でも始めたらそっちのほうがつらいから」
 私の右隣が定位置となった湊先生に手で制される。
「ごめん、なさい……」
「謝る必要はない。スープなら飲めるんでしょう?」
 頷くと、湊先生が席を立ち、カウンターからスープの入ったカップを栞さんから受け取った。
「栞さん、ごめんなさい」
「……翠葉ちゃん、いいのよ。ごめんなさいじゃなくて、それを飲んで美味しいって言ってもらいたいわ」
 栞さんはいつもと変わらない笑顔をくれる。
「翠葉、それしか食べねーの?」
 海斗くんに訊かれ、
「えと……時々ね、食べられなくなるの。ひとりおかしくてごめんね」
「……おかしいとかは思わないけど……。早く食べられるようになるといいな?」
「……うん」
「秋兄なんて三十八度あっても普通に食べてたぜ?」
 秋斗さん……?
「お粥とかじゃなくて、普通にこれと同じもの」
 と、海斗くんがエビフライを指差す。
 それはすごいかも……。
 見習わなくちゃ、と思うのとほぼ同時。無理だ、と思った。
「何、秋兄のことが心配で食べられないわけ?」
 少し機嫌の悪そうな司先輩に訊かれた。
「ううん。それも少しはあるのかもしれないけど、でも、違う」
「そう、なら良かった。もしそうなら思い切り呆れるところだった」
 言ってすぐ、エビフライにサクリと噛み付いた。
 いつでも容赦ない感じが司先輩。
 そんなことを思いながらドロドロのスープをスプーンで掬って口に運んだ。
 ……あれ、いつもと違う?
 野菜とミルクだけの淡白な味じゃなくて――なんだろう?
 首を傾げていると、
「気づいた?」
 と、栞さんに顔を覗き込まれた。
「いつもと何か違いますよね……?」
「そう。少しご飯も入れてミキサーにかけたの。テスト勉強で頭使うのに炭水化物を全く摂らないのは良くないから」
「……本当にありがとうございます。すごく、美味しい……」
「良かったわ」
「静さんにぐっじょぶ賞をあげたいわね。翠葉に栞をつけて正解よ」
 湊先生が言うと、
「確かに……。普通のお手伝いさんじゃこうはいかなかったでしょうね」
 と、蒼兄が頷いた。

 その日は夜十二時前に勉強を切り上げて寝てしまった。
 明日の中間考査はとくに危ない教科はない。それがせめてもの救いだった。
 どちらかといえば、中間考査後の未履修分野テストのほうが危険度大……。何せ、物理を抜かせば三教科とも苦手な科目なのだ。
 もういい……。九十点に満たなければ再度トライするまで……。
 寝る前に、あの日からつけている携帯のストラップを手に取る。
 明日には秋斗さんの熱が下がりますように――
 そう願って眠りについた。
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