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第六章 葛藤
01話
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六月六日――青空は見えるものの、雲がかかる割合のほうが多い。
けれども陽が差していないわけではなく、晴れとも曇りとも言いがたい天気。
気温は二十九度まで上がるらしく、ノースリーブのワンピース一枚で大丈夫そう。
今日は朝から湊先生も栞さんの家に来ている。
昨夜夕飯の席で、今日秋斗さんと会うために髪の毛を巻いてもらうという話をしたら、「じゃ、私がメイクをしてあげる」と湊先生に言われたのだ。
メイクといってもおしろいを少しはたいて、チークとマスカラをつけるだけ。それから、ほんのりと色づくリップクリームをプレゼントしてくれた。
今は栞さんがコテで髪の毛を巻いてくれている。
髪の毛が少しずつ少しずつカールされていく。
「栞さん、この髪飾り……どちらかを使いたいの」
秋斗さんからいただいた髪飾りを見せると、
「あらすてき。秋斗くんからのプレゼントね」
「はい」
会えるのは嬉しいはずなのに、返事することを考えると気持ちは沈むばかり。
それに、近づけないというオプションまでついてしまった。
「翠葉、なんでそんなに暗いのよ。これから好きな人とデートでしょ?」
湊先生に言われて無理をして笑みを浮かべた。
「そうですよね……。なんだろう、緊張してるのかな」
「秋斗相手に緊張なんて、無駄よ、無駄」
湊先生はカラカラと笑うけど、そういう緊張ではない。
ドキドキはドキドキでも、わくわくするほうではなく、心臓に悪いほうのドキドキ――
髪型は、全体的にカールを作り、ハーフアップを捻って左耳の後ろあたりで小さなお団子を作る。そこを髪飾りで留め毛先を流したら完成。
鏡越しに、「どう?」と栞さんに訊かれる。
「自分じゃないみたいです」
「今度やり方教えてあげるわ」
「嬉しい……」
緊張の極致で昨夜はあまり眠れていない。そのせいもあり、朝も昼もご飯はほとんど食べられなかった。
仕方なく、野菜のスープのみを小分けにして数時間おきに飲んでいた。
濃紺のワンピースに着替え携帯を見るも、表示される血圧数値はお世辞にもいいとは言えない。
「翠葉、これ飲んで行きなさい」
湊先生に差し出されたのはひとつの錠剤。
「あまり翠葉に飲ませたいものじゃないけど、今日一日くらいはいいでしょう。でも、少し自由に身体が動くからって無理はしないこと。いいわね?」
そう言われて薬を飲んでから三十分。身体が少しポカポカしてきて、私にしては珍しく手足があたたかいと感じる。
「湊先生、さっきの錠剤、なんだったんですか?」
「滋養強壮剤ってやつよ。もともとあんたの身体はオーバーワークできるようにはできてない。だから本来は飲ませるべきものじゃないの。でも、今日は特別。楽しんでらっしゃい」
「……はい」
そのすぐあとにインターホンが鳴った。
今日はここへは帰ってこない。荷物を持って出て、秋斗さんに家まで送ってもらうことになっている。
「また泊りにいらっしゃい」
栞さんに言われてコクリと頷く。
「今日は一日ここにいるから、何かあれば帰ってらっしゃい」
と、湊先生も声をかけてくれた。
その言葉に心を支えられ、ほんの少し気が緩んだ。
栞さんがドアを開け、先に荷物を秋斗さんに渡す。
「じゃ、いってらっしゃい」
栞さんと湊先生に見送られ、
「一週間お世話になりました」
浅くお辞儀をしてから外へ出た。
秋斗さんはエレベーターホールでエレベーターを待っている。
ふとこちらを見た秋斗さんと目が合ったけれど、それはすぐに逸らされる。まるで何も見なかったように――
突如不安に襲われる。
普段着ないような洋服にメイクまでしてもらって、髪の毛も巻いている。いつもとは何もかもが違う。
やっぱり変? 背伸びしすぎ?
自分の格好を再度見て、こんな自分ではないみたいな格好をしなければ良かった、と早くも後悔を始める。
不安でその場を動くことができなかった。けれども、すでにドアは閉められており、引き返す場所はない。
視線はとっくに足元に落ちていた。
「翠葉ちゃん、ごめん……。違うんだ――エレベーター来たから、だから……おいで」
秋斗さんに声をかけられたけれど、不安は大きくなるばかりだ。
変な格好の私が隣に並んだら、秋斗さんも変な目で見られてしまう。どうしよう――
「翠葉ちゃん、おいで」
優しく声をかけられた。視線を上げると、困ったような顔をした秋斗さんが、もう一度「おいで」と口にする。
このままこうしていても仕方がない。最悪、どこかへ出かけるのではなくうちへ送ってもらおう。
そう決意して歩きだす。
秋斗さんは荷物を運び込むと、エレベーターのドアを開けて待っていてくれた。
エレベーターの中へ足を踏み入れると、
「ごめんね。ただ、少しびっくりしただけなんだ。……見違えるほどきれい」
……本当?
顔を上げると、秋斗さんの視線は壁を向いていた。
……本当はそんなふうに思っていないのかもしれない。だって、いつもなら間違いなく視線を合わせて言ってくるような台詞だから。
「悪いんだけど、あまり見ないでくれる? ……心臓に悪い」
その言葉はどこかで聞いたことがある気がした。
――違う。聞いたんじゃなくて、私が秋斗さんに言った言葉ではないだろうか……。
冗談? またからかわれているの?
「本当に、勘弁して……」
秋斗さんは完全に壁側を向いてしまった。
ちょっとショックだ……。
そう思いつつ、自分が散々してきた行動の数々を思い出す。
少し反省――でも、本当に余裕がなかったんだもの……。
ニ階に着くと、
「ごめん、エントランスで待ってて。車回してくる」
「えっ!? あの、駐車場まで一緒に行きます」
「いや――少しだけ時間ちょうだい。態勢立て直したい」
言うと、エレベーターを降りてしまった。
……たいせいを立て直す? なんの……?
ふと思い立って携帯を取り出す。
メール作成画面を起動させ、「たいせい」と打ち込むと漢字変換を試みた。
耐性、体性、体勢、態勢、大勢、胎生、退勢、大成、対生、大政――態勢……?
態勢とは、身構えや対応のことをいう。
「え、なんの……? え? あれ? 気持ちの、態勢?」
自分の中で導き出された答えに少し驚く。
「でも、違う『たいせい』かもしれないし――」
そうこう考えているうちに、正面玄関に車が着いた。
ドアは内側から開けられ、シートに座ると、この車に乗って初めて自分でドアを閉めた。
そんなことを新鮮に思ったけれど、まだ頭の中には「たいせい」が居座っている。
答えが知りたい――
「秋斗さん、さっき言った『たいせい』の漢字、教えてくださいっ」
「……翠葉ちゃん、今日は意地悪だねぇ……」
「え? 意地悪だなんて……。ただ、どの漢字が当てはまってどういう意味だったのかを知りたいだけで――」
秋斗さんは大仰にため息をついてハンドルにもたれかかった。
「白状しますか……。翠葉ちゃんがきれいすぎて驚いた」
「え……?」
「そんな格好も髪型もメイクも、全部予想外。……俺の笑顔が反則なんてかわいいものだ。今日の翠葉ちゃんは存在自体が反則」
それは――
「人に見せて歩きたい反面、人目に触れさせるのが惜しくなるくらいにきれいだと思った」
やっと顔を上げて視線を合わせてくれた。
……嘘――
「秋斗さん、顔――」
思わず指差してしまう。
「わかってる……。いつもからかっててごめん」
シャツの襟で首は見えない。でも、秋斗さんの顔がいつもよりも赤い。
予想外というなら私のほうだ。こんな秋斗さんを見られるとは思いもしなかった。
「じゃ、行こうか」
「……はい」
車は緩やかに発進する。
私とは違って、秋斗さんの赤みはすぐに引いてしまった。
でも、きれいと言ってもらえたことや赤面してもらえたこと。それがとても嬉しかった。
今までは「かわいい」としか言われたことがなかったから……。
カーステから流れてきたのはDIMENSIONの「Key」というアルバム。以前私が好きと話したアルバムだった。
――あ、れ……?
「秋斗さん……」
「うん、わかってる。ちょっと決めかねててね」
車は藤宮学園の周りを一周して、さっき出てきたマンションの前まで戻ってきてしまったのだ。
「行き先、ですか?」
隣を見ると、「そう」と答える。そのあと、秋斗さんは私をちら、と見て、
「やっぱり人には見せたくないな」
と、学校の私道へ入った。
「学校、ですか?」
「いや、その裏山に祖母が好きだった散策ルートがあるんだ」
確か、湊先生と病院へ行くときに、車の中でそんな話を聞いた気がする。
どの季節に行っても季節折々の花が咲いている、と――
「今の季節ならノウゼンカズラや紫陽花、栗の花やざくろの花、百合もところどころに咲いてる。普通に見て回るだけでも二時間くらいは楽しめるんじゃないかな」
今日は四センチのヒールだけれど大丈夫かな……。
不安になって足元に視線を落とすと、
「翠葉ちゃん、大丈夫。道はきちんと舗装されているし、ところどころにベンチもあるから」
「……良かったです」
学校と病院をつなぐ私有地に入り、二本目の横道を左折した。すると、桜香庵のような小さな庵が建っていた。その前には駐車スペースが三台分。今は二台の車が停まっている。
「ちょっと待ってて。中に入る許可だけ取ってくるから」
そう言って秋斗さんは車を降りた。
管理人さんでもいるのかな……。
秋斗さんは五分ほどして手に水筒を持って出てきた。
「さ、行こうか」
「はい」
目に付いた赤い水筒を不思議に思っていると、
「コーヒー好きのじーさんでね、持っていけって言われた。でも、翠葉ちゃんは飲めないね」
「私はいつもミネラルウォーターを持っているので大丈夫です」
「中にも自販機はあるんだ」
この山奥に自販機とは――業者さんは大変だろうな。
道は緩やかな傾斜で軽トラックが通れるくらいの幅。
私と秋斗さんは、間にひとり分ほどのスペースを空けて歩き始めた。
最初に出迎えてくれたのは、瑞々しい紫陽花。
紫陽花で有名な通りやお寺に引けを取らないほどの紫陽花が植わっている。
「……秋斗さんは何色の紫陽花が好きですか?」
「そうだな、ブルーかな?」
「私もです。でも、蕾のときのほんのり色づいているアイボリーの色も好き。紫も好きだけど、紫なら藤のお花が好きです」
「あぁ、あの淡い色はきれいだよね。この山は五月になると一斉に藤が咲き誇るんだ」
「だから藤山?」
「そう」
こんなふうに、目にしたものをそのまま話す会話が好きだと思う。
自分を飾ることなく話せて楽しめて、ただそれだけで幸せだったのに――
「今日、カメラは持ってきてないんだね?」
不思議そうに尋ねられた。
「はい……。今日はたくさんお話しをしたかったから」
だからカメラは持ってきていない。
撮りたいものはたくさんある。でも、それに時間を費やすのがもったいない。
「ここに植えてあるものはすべて祖父が自分の手で植えたものなんだ。ここは祖母のためだけに作られた場所。だから、今でもここに入るためには祖父の許可がいる。手入れには業者も入れているけど、祖母が亡くなってからはそれに混じって祖父も一緒に植物の世話をするようになった」
じゃぁ、さっきの庵にいらしたのはおじい様……?
あ、れ……? おじい様って確か藤宮財閥の会長じゃ――
……なるほど、と思わなくもない。
これだけの植物の世話をしながらあの会長室で仕事をするのは難しいだろう。ゆえに、静さんがあそこにいて、電話で指示が飛んでくるのだ。
ほんの少し裏事情がわかって笑みが漏れる。
でも、すてきなお話。きっとここに植えてある植物はおばあ様の好きなお花だったのだろう。
どの子も元気で葉が生き生きとしているのがわかる。
「愛されてるんですね……」
するりと出てきた言葉。その言葉以外に相応しい言葉はないと思った。
「そうだね。山も祖母も――俺もそのくらい翠葉ちゃんを愛しているんだけどな」
「っ……――秋斗さん、どうしてそういうことがさらっと言えるんですか?」
顔がじわりじわりと熱くなる。
だって、「愛してる」なんて言葉は生まれて初めて言われたの。びっくりするなんて、そんな域の話ではない。
「思ったことをそのまま口にするのって、そんな難しいことじゃないと思うよ? それに、赤くなった翠葉ちゃんを見て安心してたりするんだ」
「……意地悪です」
「だって嬉しいと思っちゃうんだ」
絶対に私よりも秋斗さんのほうが意地悪だと思う。
秋斗さんがたじろいだのなんて一瞬で、私はいつだって秋斗さんの言葉に戸惑ってる。
視線を落としていたら目に入ったのは秋斗さんの手だった。
手、つなぎたい……。
今日もだめなんだろうか。でも、今日まで……なんだけどな。
ひとり分のスペースを空けて歩く秋斗さんを見ると、とても穏やかな表情でのびのびと歩いている気がした。
もしかしたらここへ来るのは久しぶりなのかもしれない。
何かを懐かしむように周りの植物に視線をめぐらせているように見えた。
思いを馳せる――そんな言葉がしっくりくる。
私は、そんな秋斗さんの表情を変えてしまう言葉を口にした。
「……秋斗さん、もう一度だけ――もう一度だけチャンスをください。手、つなぎたいです」
けれども陽が差していないわけではなく、晴れとも曇りとも言いがたい天気。
気温は二十九度まで上がるらしく、ノースリーブのワンピース一枚で大丈夫そう。
今日は朝から湊先生も栞さんの家に来ている。
昨夜夕飯の席で、今日秋斗さんと会うために髪の毛を巻いてもらうという話をしたら、「じゃ、私がメイクをしてあげる」と湊先生に言われたのだ。
メイクといってもおしろいを少しはたいて、チークとマスカラをつけるだけ。それから、ほんのりと色づくリップクリームをプレゼントしてくれた。
今は栞さんがコテで髪の毛を巻いてくれている。
髪の毛が少しずつ少しずつカールされていく。
「栞さん、この髪飾り……どちらかを使いたいの」
秋斗さんからいただいた髪飾りを見せると、
「あらすてき。秋斗くんからのプレゼントね」
「はい」
会えるのは嬉しいはずなのに、返事することを考えると気持ちは沈むばかり。
それに、近づけないというオプションまでついてしまった。
「翠葉、なんでそんなに暗いのよ。これから好きな人とデートでしょ?」
湊先生に言われて無理をして笑みを浮かべた。
「そうですよね……。なんだろう、緊張してるのかな」
「秋斗相手に緊張なんて、無駄よ、無駄」
湊先生はカラカラと笑うけど、そういう緊張ではない。
ドキドキはドキドキでも、わくわくするほうではなく、心臓に悪いほうのドキドキ――
髪型は、全体的にカールを作り、ハーフアップを捻って左耳の後ろあたりで小さなお団子を作る。そこを髪飾りで留め毛先を流したら完成。
鏡越しに、「どう?」と栞さんに訊かれる。
「自分じゃないみたいです」
「今度やり方教えてあげるわ」
「嬉しい……」
緊張の極致で昨夜はあまり眠れていない。そのせいもあり、朝も昼もご飯はほとんど食べられなかった。
仕方なく、野菜のスープのみを小分けにして数時間おきに飲んでいた。
濃紺のワンピースに着替え携帯を見るも、表示される血圧数値はお世辞にもいいとは言えない。
「翠葉、これ飲んで行きなさい」
湊先生に差し出されたのはひとつの錠剤。
「あまり翠葉に飲ませたいものじゃないけど、今日一日くらいはいいでしょう。でも、少し自由に身体が動くからって無理はしないこと。いいわね?」
そう言われて薬を飲んでから三十分。身体が少しポカポカしてきて、私にしては珍しく手足があたたかいと感じる。
「湊先生、さっきの錠剤、なんだったんですか?」
「滋養強壮剤ってやつよ。もともとあんたの身体はオーバーワークできるようにはできてない。だから本来は飲ませるべきものじゃないの。でも、今日は特別。楽しんでらっしゃい」
「……はい」
そのすぐあとにインターホンが鳴った。
今日はここへは帰ってこない。荷物を持って出て、秋斗さんに家まで送ってもらうことになっている。
「また泊りにいらっしゃい」
栞さんに言われてコクリと頷く。
「今日は一日ここにいるから、何かあれば帰ってらっしゃい」
と、湊先生も声をかけてくれた。
その言葉に心を支えられ、ほんの少し気が緩んだ。
栞さんがドアを開け、先に荷物を秋斗さんに渡す。
「じゃ、いってらっしゃい」
栞さんと湊先生に見送られ、
「一週間お世話になりました」
浅くお辞儀をしてから外へ出た。
秋斗さんはエレベーターホールでエレベーターを待っている。
ふとこちらを見た秋斗さんと目が合ったけれど、それはすぐに逸らされる。まるで何も見なかったように――
突如不安に襲われる。
普段着ないような洋服にメイクまでしてもらって、髪の毛も巻いている。いつもとは何もかもが違う。
やっぱり変? 背伸びしすぎ?
自分の格好を再度見て、こんな自分ではないみたいな格好をしなければ良かった、と早くも後悔を始める。
不安でその場を動くことができなかった。けれども、すでにドアは閉められており、引き返す場所はない。
視線はとっくに足元に落ちていた。
「翠葉ちゃん、ごめん……。違うんだ――エレベーター来たから、だから……おいで」
秋斗さんに声をかけられたけれど、不安は大きくなるばかりだ。
変な格好の私が隣に並んだら、秋斗さんも変な目で見られてしまう。どうしよう――
「翠葉ちゃん、おいで」
優しく声をかけられた。視線を上げると、困ったような顔をした秋斗さんが、もう一度「おいで」と口にする。
このままこうしていても仕方がない。最悪、どこかへ出かけるのではなくうちへ送ってもらおう。
そう決意して歩きだす。
秋斗さんは荷物を運び込むと、エレベーターのドアを開けて待っていてくれた。
エレベーターの中へ足を踏み入れると、
「ごめんね。ただ、少しびっくりしただけなんだ。……見違えるほどきれい」
……本当?
顔を上げると、秋斗さんの視線は壁を向いていた。
……本当はそんなふうに思っていないのかもしれない。だって、いつもなら間違いなく視線を合わせて言ってくるような台詞だから。
「悪いんだけど、あまり見ないでくれる? ……心臓に悪い」
その言葉はどこかで聞いたことがある気がした。
――違う。聞いたんじゃなくて、私が秋斗さんに言った言葉ではないだろうか……。
冗談? またからかわれているの?
「本当に、勘弁して……」
秋斗さんは完全に壁側を向いてしまった。
ちょっとショックだ……。
そう思いつつ、自分が散々してきた行動の数々を思い出す。
少し反省――でも、本当に余裕がなかったんだもの……。
ニ階に着くと、
「ごめん、エントランスで待ってて。車回してくる」
「えっ!? あの、駐車場まで一緒に行きます」
「いや――少しだけ時間ちょうだい。態勢立て直したい」
言うと、エレベーターを降りてしまった。
……たいせいを立て直す? なんの……?
ふと思い立って携帯を取り出す。
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耐性、体性、体勢、態勢、大勢、胎生、退勢、大成、対生、大政――態勢……?
態勢とは、身構えや対応のことをいう。
「え、なんの……? え? あれ? 気持ちの、態勢?」
自分の中で導き出された答えに少し驚く。
「でも、違う『たいせい』かもしれないし――」
そうこう考えているうちに、正面玄関に車が着いた。
ドアは内側から開けられ、シートに座ると、この車に乗って初めて自分でドアを閉めた。
そんなことを新鮮に思ったけれど、まだ頭の中には「たいせい」が居座っている。
答えが知りたい――
「秋斗さん、さっき言った『たいせい』の漢字、教えてくださいっ」
「……翠葉ちゃん、今日は意地悪だねぇ……」
「え? 意地悪だなんて……。ただ、どの漢字が当てはまってどういう意味だったのかを知りたいだけで――」
秋斗さんは大仰にため息をついてハンドルにもたれかかった。
「白状しますか……。翠葉ちゃんがきれいすぎて驚いた」
「え……?」
「そんな格好も髪型もメイクも、全部予想外。……俺の笑顔が反則なんてかわいいものだ。今日の翠葉ちゃんは存在自体が反則」
それは――
「人に見せて歩きたい反面、人目に触れさせるのが惜しくなるくらいにきれいだと思った」
やっと顔を上げて視線を合わせてくれた。
……嘘――
「秋斗さん、顔――」
思わず指差してしまう。
「わかってる……。いつもからかっててごめん」
シャツの襟で首は見えない。でも、秋斗さんの顔がいつもよりも赤い。
予想外というなら私のほうだ。こんな秋斗さんを見られるとは思いもしなかった。
「じゃ、行こうか」
「……はい」
車は緩やかに発進する。
私とは違って、秋斗さんの赤みはすぐに引いてしまった。
でも、きれいと言ってもらえたことや赤面してもらえたこと。それがとても嬉しかった。
今までは「かわいい」としか言われたことがなかったから……。
カーステから流れてきたのはDIMENSIONの「Key」というアルバム。以前私が好きと話したアルバムだった。
――あ、れ……?
「秋斗さん……」
「うん、わかってる。ちょっと決めかねててね」
車は藤宮学園の周りを一周して、さっき出てきたマンションの前まで戻ってきてしまったのだ。
「行き先、ですか?」
隣を見ると、「そう」と答える。そのあと、秋斗さんは私をちら、と見て、
「やっぱり人には見せたくないな」
と、学校の私道へ入った。
「学校、ですか?」
「いや、その裏山に祖母が好きだった散策ルートがあるんだ」
確か、湊先生と病院へ行くときに、車の中でそんな話を聞いた気がする。
どの季節に行っても季節折々の花が咲いている、と――
「今の季節ならノウゼンカズラや紫陽花、栗の花やざくろの花、百合もところどころに咲いてる。普通に見て回るだけでも二時間くらいは楽しめるんじゃないかな」
今日は四センチのヒールだけれど大丈夫かな……。
不安になって足元に視線を落とすと、
「翠葉ちゃん、大丈夫。道はきちんと舗装されているし、ところどころにベンチもあるから」
「……良かったです」
学校と病院をつなぐ私有地に入り、二本目の横道を左折した。すると、桜香庵のような小さな庵が建っていた。その前には駐車スペースが三台分。今は二台の車が停まっている。
「ちょっと待ってて。中に入る許可だけ取ってくるから」
そう言って秋斗さんは車を降りた。
管理人さんでもいるのかな……。
秋斗さんは五分ほどして手に水筒を持って出てきた。
「さ、行こうか」
「はい」
目に付いた赤い水筒を不思議に思っていると、
「コーヒー好きのじーさんでね、持っていけって言われた。でも、翠葉ちゃんは飲めないね」
「私はいつもミネラルウォーターを持っているので大丈夫です」
「中にも自販機はあるんだ」
この山奥に自販機とは――業者さんは大変だろうな。
道は緩やかな傾斜で軽トラックが通れるくらいの幅。
私と秋斗さんは、間にひとり分ほどのスペースを空けて歩き始めた。
最初に出迎えてくれたのは、瑞々しい紫陽花。
紫陽花で有名な通りやお寺に引けを取らないほどの紫陽花が植わっている。
「……秋斗さんは何色の紫陽花が好きですか?」
「そうだな、ブルーかな?」
「私もです。でも、蕾のときのほんのり色づいているアイボリーの色も好き。紫も好きだけど、紫なら藤のお花が好きです」
「あぁ、あの淡い色はきれいだよね。この山は五月になると一斉に藤が咲き誇るんだ」
「だから藤山?」
「そう」
こんなふうに、目にしたものをそのまま話す会話が好きだと思う。
自分を飾ることなく話せて楽しめて、ただそれだけで幸せだったのに――
「今日、カメラは持ってきてないんだね?」
不思議そうに尋ねられた。
「はい……。今日はたくさんお話しをしたかったから」
だからカメラは持ってきていない。
撮りたいものはたくさんある。でも、それに時間を費やすのがもったいない。
「ここに植えてあるものはすべて祖父が自分の手で植えたものなんだ。ここは祖母のためだけに作られた場所。だから、今でもここに入るためには祖父の許可がいる。手入れには業者も入れているけど、祖母が亡くなってからはそれに混じって祖父も一緒に植物の世話をするようになった」
じゃぁ、さっきの庵にいらしたのはおじい様……?
あ、れ……? おじい様って確か藤宮財閥の会長じゃ――
……なるほど、と思わなくもない。
これだけの植物の世話をしながらあの会長室で仕事をするのは難しいだろう。ゆえに、静さんがあそこにいて、電話で指示が飛んでくるのだ。
ほんの少し裏事情がわかって笑みが漏れる。
でも、すてきなお話。きっとここに植えてある植物はおばあ様の好きなお花だったのだろう。
どの子も元気で葉が生き生きとしているのがわかる。
「愛されてるんですね……」
するりと出てきた言葉。その言葉以外に相応しい言葉はないと思った。
「そうだね。山も祖母も――俺もそのくらい翠葉ちゃんを愛しているんだけどな」
「っ……――秋斗さん、どうしてそういうことがさらっと言えるんですか?」
顔がじわりじわりと熱くなる。
だって、「愛してる」なんて言葉は生まれて初めて言われたの。びっくりするなんて、そんな域の話ではない。
「思ったことをそのまま口にするのって、そんな難しいことじゃないと思うよ? それに、赤くなった翠葉ちゃんを見て安心してたりするんだ」
「……意地悪です」
「だって嬉しいと思っちゃうんだ」
絶対に私よりも秋斗さんのほうが意地悪だと思う。
秋斗さんがたじろいだのなんて一瞬で、私はいつだって秋斗さんの言葉に戸惑ってる。
視線を落としていたら目に入ったのは秋斗さんの手だった。
手、つなぎたい……。
今日もだめなんだろうか。でも、今日まで……なんだけどな。
ひとり分のスペースを空けて歩く秋斗さんを見ると、とても穏やかな表情でのびのびと歩いている気がした。
もしかしたらここへ来るのは久しぶりなのかもしれない。
何かを懐かしむように周りの植物に視線をめぐらせているように見えた。
思いを馳せる――そんな言葉がしっくりくる。
私は、そんな秋斗さんの表情を変えてしまう言葉を口にした。
「……秋斗さん、もう一度だけ――もう一度だけチャンスをください。手、つなぎたいです」
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