光のもとで1

葉野りるは

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第六章 葛藤

10話

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 ピアノを弾き終わると、静さんが玄関寄りの部屋を案内してくれた。
 今は蒼兄が付き添ってくれている。
「こっちの広い部屋は蒼樹くんが使うことになった。後日パソコンを運び込むことになっている」
 その部屋は湊先生のおうちでいう司先輩の部屋だった。
「本当に、何から何まですみません……」
「家からパソコンを持ってくるの?」
 蒼兄に訊くと、
「そうするつもりだったんだけど……」
 と、頭を掻く。
「それじゃ何かあって家に戻ったときに何も作業ができなくなるだろう? だからといって、そのたびにパソコンを持ち運びするのも能がない。明日、若槻に適当な機材を運び込ませて幸倉のパソコンと連動させるように設定させるつもりだ」
「……若槻さんって、この間お会いした……?」
「そう。彼は秋斗のもとで仕込まれてきただけあって色々使い勝手がいいんだ」
「翠葉は若槻さんに会ったことがあるのか?」
 蒼兄に顔を覗き込まれる。
「うん、一度だけ。打ち合わせのときに少し……」
「そうなんだ。怖い人じゃない?」
 怖い人……?
「明日、一緒に作業することになってるんだけど、何分こっちの都合ばかりで申し訳ないというか……」
 それを言われたら、自分の都合ばかり大賞は私だと思う……。
「翠葉ちゃん、あまり考えすぎないように。言ったろう? 迷惑ではなく好意だと」
 静さんは労わるような優しい声でそう言ってくれた。
「はい……」
 少し唇に力を入れて、口元を引き締める。
 また、ここでさっきと同じことを考えても仕方がない。
 自分が何を返せるのかを考えたほうがよっぽど建設的だ。
 そう思い直すと、顔を上げて蒼兄の顔を見る。
「あのね、蒼兄よりも若い人。二十一歳って言ってたかな……。秋斗さんが拾ってきて静さんのもとで仕事している人なんだって。印象的にはすごくきれいなお兄さん……? うーん、中性的な感じ」
 とくに言葉を交わしたというわけではないし、写真を運んできてくれただけなのでそれ以上を思い出すことができなかった。
「あぁ、先日誕生日だったらしいから、今は二十二歳になってるよ。蒼樹くんが今いくつだっけ?」
「俺は二十四になりました」
「じゃぁ若槻のほうが年下だな。だが仕事はできる人間だ」
「秋斗先輩に拾われてきたっていうところが若干気になりますが……」
 蒼兄も?
 思いながら視線を向けると、苦笑が返された。
「拾う」っていったいどこから拾ってきたのだろうか、とずっと不思議に思っている。
「そんなに堅い人間ではないから。明日会って話したほうが早いだろう」
 そう言われて私が栞さんの家で使っている客間へと通された。
「わ、ハーブグリーンのお部屋!」
「どうかな? 女の子らしくピンクのカーテンのほうがいいかい? なんだったら明日にでも替えるよ?」
「い、いいですっ。あの、ピンクよりもグリーンのほうが好きなので――」
 さっきお母さんにも言われていたけれど、静さんは色んなことに関して過剰サービスをしすぎだと思う。
 ……それとも、藤宮の人たちが、なのかな?
「どうかしたかい?」
 静さんに訊かれて慌てて笑みを浮かべる。
「いえ、なんでもないです。ただ、広いなぁ、と思って」
「あぁ、私の家は上と下で二三〇平米近くはあるはずだ。十階と九階の部屋は皆同じつくりだが、八階からは3LDKだ」
 二三〇平米って――ひとつの階につき一一五平米!?
 それは広いはずだ。坪にすると一坪三平米ちょっとだから、約三十五坪くらい?
「広い、ですよね……。通常マンションなら広くても一〇〇平米くらいなのに」
 蒼兄は興味深そうに口にした。
 確かに……幸倉周辺の家を基準に考えてみると、戸建てならば三十坪に一軒建てるくらいだろう。
 しかも、戸建てならば建蔽率や延べ床面積の規制もあるから、敷地内に目一杯建物を建てることは無理な話だ。
 だいたい三十坪に対して建蔽率が五十パーセントから七十パーセントであることが多い。だとしたら、二階建てでも五十平米から七十平米が妥当――
 ペンシルハウスのように建蔽率が一〇〇パーセントだったとしても、そのような場所は十五坪から二十坪くらいの土地があれば良いほうで、一階は前面前開きのカーポートになることが多く、二階三階の居住部分としては五十平米から六十五平米がせいぜいだろう。
 少し考えただけでも延べ床面積の合計が七十坪というのは贅沢だと思う。
 でも、プライベートルームがこの九階と十階というだけで、もしかしたらこのマンション自体が静さんの持ち物かもしれなくて――
 やめた、考えるのはよそう……。
 自分のモノサシと静さんのモノサシは絶対に違う。
 余計なことを考えるのはやめにして、インテリアに意識を向ける。
 ここもほかの部屋と変わることなく白い壁紙に白木のフローリングで、ベッドカバーやカーテンなどは淡いグリーン。
 カーテンの裾にはゴージャス過ぎないギャザーが寄せられており、床にはレモンイエローよりも若干くすんだ色の毛足の長いラグ。
 備え付けの家具は、パイン素材でできたベッドとドレッサー、デスク。それからクローゼットがひとつ。
 部屋の広さ的には八畳ほどの正方形に近いお部屋。
 蒼兄が使う予定の部屋はラベンダーカラーでまとめられていた。
 そちらの部屋にはベッドとクローゼット以外のものが置かれておらず、後日パソコンデスクやラック、機材が運び込まれるという。
「静さん、何からにまで本当にありがとうございます。しばらくお世話になります」
 蒼兄が頭を下げ、私もそれに習って、「ありがとうございます」と頭を下げた。
「その分、ふたりには身体で対価を払ってもらうから気にするな」
 ……身体で払う?
「翠葉ちゃんには写真提供を安価で請け負ってもらっているからね。これくらいはさせてもらってちょうどいいくらいだ。それに、蒼樹くんとも長い付き合いになりそうだな」
「あぁ……はい。お役に立てるようがんばります」
「……蒼兄?」
「……ちょっとね、静さんの頼まれごとを引き受けただけだよ。気にしなくていい」
「おや? 翠葉ちゃんには内緒なのかい?」
 静さんの意味深な言葉に少し不安がよぎる。
「蒼兄……?」
「いや、そのうち話すから」
 この場では頼まれごとの内容を教えてはもらえなかった。

 ピアノが置かれたフロアへ戻ると、みんなはすでに十階へと引き上げていた。
 十階では各々違うものを手に飲んでいる。
 司先輩だけがリビングににて、本の続きを読んでいるみたい。その前に置かれているカップにはきっとコーヒーが入っているのだろう。
 ダイニングテーブルで両親は切子ガラスを手に持っていた。だからきっと、飲んでいるものは日本酒。
「ふたりは何を飲む? 翠葉ちゃんはハーブティーよね? 蒼くんは?」
 キッチンへ行く栞さんに静さんが声をかける。
「栞、翠葉ちゃんが心配なら栞もこっちに泊ったらどうだ?」
「やぁね、静兄様。私は蒼くんほど心配症じゃありません。それに、十階と九階よ? 行き来するくらいなんともないわ」
 と、鈴を転がしたような声でクスクスと笑った。
「あれ……? 湊先生は?」
 気づけば湊先生の姿だけがなかった。
「湊は酔うとすぐに寝ちゃうのよ。今はこの家の客間で休ませてるわ」
「「意外……」」
 私と蒼兄の声が重なる。
 ふたり顔を見合わせて肩を竦める。
「お酒、すごく強そうなイメージあるのにね?」
「俺もそう思ってた。ひとりで酒瓶抱えてそうっていうか、酒豪のイメージ」
 司先輩が本から顔を上げ、
「よく言われる。けど、あの人本当に酒弱いから。飲んでるところ見かけたら止めてもらえると嬉しい」
 それは大丈夫なんだろうか……。
 少し心配になる。すると栞さんが、
「湊は翠葉ちゃんみたいにアルコール負耐症というわけじゃないの。本人もアルコール自体は好きだし一応飲めるのだけど、何分、分量を飲まずに酔えちゃう食費に優しい体質なの」
 お母さんがテーブルに乗っていた小さなグラスを手に取り、
「これに一杯飲んだだけで潰れちゃったわ」
 と、クスクス笑う。
「あっ……その酒」
 蒼兄が吸い寄せられるようにダイニングへ向かう。
「碧はそれ好きだなぁ……。これなら湊も二杯目を飲みたがったんじゃないか?」
 と、静さんも席に着く。
「栞、俺にも」
 その酒瓶には「雅」という文字が書かれていた。
 その漢字を見るだけでも胸がきゅっと締め付けられる気がする。
 そんなとき、
「翠、今日はどうするの?」
 先輩の声が後ろから聞こえた。
 そちらを振り返ると、本から顔を上げた先輩が眉間に少しだけしわを寄せて私を見ていた。
「きょ、う……?」
「あぁ、今日は帰るとしてももう蒼樹しか運転できないな」
 お父さんの言葉に蒼兄がはっとしたような顔をした。
 蒼兄は酒瓶と私を交互に見ている。
 家ではあまり飲まないけれど、蒼兄も日本酒が好きなことは知っているし、お母さんが好きなお酒が期間限定であることも知らないわけではなかった。
「そういえば、蒼樹くんも飲める口だったな? 良ければ私の相手をしてくれないか?」
「でも――翠葉、どうしたい?」
 まるでライフカードの選択にでも迫られているかの蒼兄の表情。
「知らなかったわ。蒼くんもお酒好きなのね? 翠葉ちゃん、今日はうちに泊ったらどうかしら? 下着の替えくらいはあるし、明日は引越し騒ぎで学校どころでもないでしょう?」
 栞さんがトレイに切子グラスとハーブティーを乗せてやってくる。
 私にはハーブティーを、蒼兄と静さんには切子グラスを。
「今日は私も零もここに泊るつもりで来てるのよ」
「湊もあのままじゃ今日はここから動かせないし、うちの十階は満員御礼だな」
 と、静さんが笑う。
「えぇと……俺は――」
 なんだかおかしかった。蒼兄はお酒を飲みたくて、でも私を気にして悩んでいるのだ。
「蒼樹は下の部屋を借りればいいよ」
 お父さんが言うと、
「それでもかまわないよ。着替えも一通りのものは部屋に常備してある」
 と、静さんが請合う。
「……栞さん、お言葉に甘えてお泊りしてもいいですか?」
 訊くと、にこりと柔らかい笑顔を添えて「大歓迎」と言ってくれた。
「蒼兄、飲んで? 私、栞さんのおうちに泊らせてもらうから帰りのことは考えなくて大丈夫」
 言うと、蒼兄の表情がパッと明るくなった。
 こんな蒼兄を見るのは初めてだった。
「じゃ、遠慮なく……」
 と、ダイニングテーブルに着き、静さんの向かいに座ってお酒をグラスに注ぎ始める。
 ダイニングテーブルに着く面子に、先日うちでお酒を飲んでいた日のことを思い出す。
「栞も飲まないか?」
「そうねぇ……こんなふうに時間を取れる機会もなかなかないし……」
 言いながら私を気にしているのがわかった。
「栞さん、大丈夫。私、栞さんのおうちなら少しは慣れていますから」
「んー……でも、翠葉ちゃんを送ってきてからにしようかしら」
 すると後ろから声がかかった。
「お茶飲んだら俺が送っていきます」
「あら、お願いできる?」
「かまいません」
「じゃ、飲もうかな」
 と、戸棚からもうひとつ切子グラスを取り出した。
「翠、早く座る。立ったままだと血圧下がるだろ。これ以上下げてどうしたいの?」
 司先輩の携帯をこちらに向けられた。
「わ……すみません」
 考えてみたらここにいる人は静さんを抜かせば皆が皆、バイタルチェッカーなのだ。
 おとなしくラグに座り、栞さんに渡されたカップに口をつける。と、リンゴのような甘い香りと熱すぎない液体が口に広がり、喉を通ってゆっくりと食道へ流れていくのがわかる。
 その感覚に心が落ち着く。
 文字を見ただけで動揺していたら、また周りの人に心配をかけてしまう。
 もっと――もっと、しっかりしなくちゃ……。
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