光のもとで1

葉野りるは

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第十四章 三叉路

13話

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 夕飯を済ませ食後のお茶を飲んでいるときのこと、唯兄が「あ、そうだ」と席を立った。
 ダイニングから出ていき戻ってきたと思ったら、その手には私の教科書があった。
「今日、仕事の合間にさらっといた」
「え?」
「文系も見られるからわかんないところあったら聞きたまえ」
「嘘……」
 唯兄はにぃ、っと笑って大げさなくらい大きな口で、「ほ、ん、と、う」と答える。
「唯兄大好きっ!」
 唯兄に抱きついたら耳元で囁かれた。
「今は司っちにも会いたくないんでしょ?」
「…………」
「うん、いいよ、答えなくて。俺を大好きって言ってくれるならいい」
 ぎゅっと抱きしめ返される。
「でも、まず先にお風呂ね。今日は半身浴中にコレを覚えてくるように。上がったらテストするよー。目標は明日の小テスト全科目クリア! んで、気持ちよく仕事に行こうよ」
「唯兄、ありがとうっ!」
 私は唯兄に促されるまま洗面所に押し込められた。
 ルームウェアを脱いでバスルームのドアを開けたとき、インターホンの音がした気がする。
 でも、家に誰もいないわけではないから、私は何を気にすることもなくバスルームに入った。
 出てきたときには世界史と地理に頭の全領域を持っていかれていた。


 今日の小テストはオール満点クリア。
「ひとつクリア……」
 それは嬉しいことのはずなのに、私の心は沈む。
 向き合うと決めた。考えると決めた。
 それでも、心のどこかで本当は逃げてしまいたいと思っている。
 だめだな……。
 そう思いながら廊下に出た。
 廊下にはうちのクラスの人しかいない。
 最近気づいたのだけど、うちのクラスは帰りのホームルームが終わるのが早いようだ。
 だから、ホームルームが終わってすぐに教室を出れば、多くの人に会うこともなく昇降口へ行くことができた。
 昇降口を出ると、一、二年棟校舎を振り返りたくなる。
 三階の、向かって右端のクラス。後ろから二番目の席。
 見ているわけがない……。
 そうは思うのに、もしツカサがこっちを見ていたら――と考えると、振り返ることはできなかった。
 矛盾しているのかもしれない。会いたくないのに姿は見たいだなんて……。
 気づけばツカサがいないか、と視界に入る人の中を探している。
 最初はばったり会うのが怖くてそうしているのかと思っていた。でも、違った。
 遠くからでも良かった。米粒ほどに小さくてもいい。ただ、ツカサを見たいと思う。
「恋しい」という言葉の意味を痛いほどに思い知った――

 マンションに帰ると、唯兄がお昼ご飯にお雑炊を作ってくれていた。
 消化に負担がかからないように、と玄米ではなく白米が使われている。
「優しさ」からできているご飯。
 お母さんがいないことを尋ねると、午前中に電話がかかってきて急遽現場入りしたらしい。どうやら二、三日は帰れないみたい。
 私と唯兄はご飯を食べ終えると一時に家を出た。
 今日は蒼兄の車でホテルへ行く。
「なんか不思議」
「何が?」
「蒼兄の車を唯兄が運転していることが」
 唯兄には湊先生の小さな車の雰囲気が定着してしまっていて、蒼兄の車の運転をしているのは違和感がある。
「この子ったら失礼だねぇ……。唯兄さんはかわいい路線もかっこいい路線もいけるんですっ!」
 車の中に唯兄と私のふたりの笑い声が響いた。

 今日は土曜日ということもあり、市街に通じる道路に合流する交差点が少し混んでいた。それでも三十分ほどでホテルに着く。
 地下駐車場に車を停めるとエレベーターホールへと向かう。
「どうかした?」
「ううん、なんでもない」
 本当は、ブライトネスパレスの帰りに秋斗さんとこのホテルへ寄ったことを思い出していた。
 車を停めた場所があの日と同じだったから。
 あのときは、秋斗さんにエスコートされるままにマリアージュへ行き、着替えを済ませてから夜景がきれいな個室へ案内された。
 今日の私はオフタートルのライトグレーのニットワンピース。その上に、白いAラインのフードつきコートを着ている。
 手には大きめのバッグ。グレーの皮製のバッグには、デジタル一眼レフやコンデジが入っている。それから写真のデータがいくつか。
 ほかにもお薬やミネラルウォーター、お財布、携帯、ノートや筆記用具。
 何を持ってきたらいいのかわからなくて、不安が和らぐほどにものを入れると、この大きなバッグでないと入りきらなかったのだ。
 唯兄には笑われてしまったけど――私、「お仕事」なんて初めてなんだもの……。

 エレベーターが一階に着くと、表玄関から出てホテルの裏へ回った。
「フロントの端からも入れるけど、ちゃんと社員ぽく裏口から入る方法を伝授いたしましょう」
 唯兄はにこりと笑って警備室前に設置されたゲートを指差す。
 それはまるで、駅の改札口にあるゲートのように見えた。
「まずはIDカードを翳して……」
 唯兄は首からぶらさげていたカードケースを翳した。
 唯兄のカードには顔写真と所属部署、名前などが記載されている。
 私のIDカードには名前と番号のみの記載。
「あぁ、あとで顔写真撮るからね?」
「えっ!?」
「え、じゃなくて。ほら、リィもカード翳して」
 唯兄は淡々と説明しながら歩みを進める。
 屋内に入ると、唯兄はすれ違う人みんなに「おはようございます」と声をかけていた。
「出勤してきたときは『おはようございます』。上がるときは『お先に失礼します』。これ、社会人の常識らしいよ?」
 唯兄はどこか他人事のように話す。
「ほら、さっそく実践」
「えっ!?」
「山歩きで『こんにちは~』って声掛け合うのと同じようなものだって」
 そんな会話をしながらも、唯兄は「おはようございます」と声をかけ、すれ違う人たちは「お疲れ様です」と挨拶を返してくる。
 そんな光景が目の前に繰り広げられていても、まったく見ず知らずの人に「おはようございます」を言うのはハードルが高い。
 そこに見知った顔を見つける。
 前方からこちらに歩いてきたのは園田さんだった。
「お、おはようございますっ」
 言ったあとに両手で口を押さえる。
 力んだら、その分声が大きくなってしまったのだ。
 近くにいた人はこちらを見てクスクスと笑いながら「お疲れ様です」と通り過ぎていく。
 恥ずかしくて顔が火照った。
 そんな私の隣で唯兄は、
「園田さん、タイミングよく現れすぎー」
「若槻くんは立派なお兄さんになっちゃったわね?」
「えー? 自分、いつでも仕事のできる男のつもりなんですが……」
「そういう意味じゃなくて……すごく幸せそう」
 園田さんはとても柔らかい笑みを浮かべた。
「あ~……幸せですよ。こーんなかわいい妹とできたあんちゃんに優しい両親」
 どこか茶化したような言い方をしたけれど、最後に肩を竦めて照れたような表情になる。
「家族って、いいですね」
「そうね」
 園田さんは私に向き直り、
「部署をひとつずつご案内したいところなのですが、今なら営業部の部長にお会いいただけますので、先に営業部へ参りましょう」
「は、はいっ」
 私は緊張で声が上ずる。
「そんなに緊張なさらなくても大丈夫ですよ。部長は温厚な方ですし、ご紹介する広報課はノリがいい人の集まりですので」
「その代わり、紳士っぽい人はいないけどねー? 括弧、俺以外、括弧閉じ」
 園田さんのフォローを唯兄が台無しにしては、にっ、と笑う。
 営業部のブースまで来ると、園田さんが先頭に立ちフロアへ入った。
 園田さんは真っ直ぐブースを横切り、一番奥の席へ向かう。
 そこには坊主頭の男の人が座っていた。
「澤野部長、少しよろしいでしょうか」
「あぁ、オーナーから聞いているよ」
 そう言って、ギシリと音を立てて椅子から立ち上がった。
 身長は蒼兄と変わらないくらいなのに、目の前に塗り壁ができたのかと思うほど大きな人でびっくりする。
「ははは、驚かせてしまったかな? 営業部の部長をしている澤野重蔵(さわのじゅうぞう)です。名前は重い蔵と書いて重蔵。名前からして重そうでしょう?」
「あ、わ……すみません。御園生翠葉です」
「御園生夫妻とは一度食事をしたことがある。娘さんに会えるとは光栄だな」
 澤野部長はパンパン、と手を叩き、広報課のブースにいる人たちの注意を引いた。
「このお嬢さんは特効Aチームの御園生夫妻のご息女だ。今日から社会見学としてホテルに出入りするので社会人のいい手本になるように。さ、お嬢さん。自己紹介をしていただけますか?」
 厳つい身体には不釣合いなほど柔和な笑顔を向けられる。
 まるで仏様みたいだ。
「御園生、翠葉、です……。あの、お邪魔にならないように気をつけますので、よろしくお願いいたします」
 何を話したらいいのかわらかなくて、月並みな言葉を並べたに関わらず、ところどころから拍手をいただいた。
「以上、作業に戻っていいぞー」
 太く通る声がそう言うと、ブースの中はまた慌しく動き始めた。
「ここはあと五分もするとミーティングタイムになるから、若槻に地下スタジオを案内してもらうといい」
 澤野部長と目が合うと、ぎょろっとした目が少し細まった。そして、小さな声で「下にはスタッフが揃っています」と追加される。
 私は園田さんに促されるままに営業部広報課のブースをあとにした。
 地下で誰が待っているとも知らずに――
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