光のもとで1

葉野りるは

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第十四章 三叉路

50話

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 外は暗い。
 もうすぐ人が起きだす時間だというのに、そんな気配が微塵も感じられないほどに。
 腕時計を確認すると五時十分前だった。
 屋内駐車場に止めてあっても車に夜露はつくらしい。
 水滴のひとつに右手の人差し指をつけると、小さな雫が指についた。でも、不思議と冷たいとは思わなかった。
「リィは助手席。前の方がすぐにあったかくなるから」
 唯兄に促されるまま助手席に乗り込む。
 車はゆっくりと走り出し、藤山を囲む公道へ出た。けれど、自分たち以外の車は一台も見かけない。
 まだ夜中のような静けさの中、市街へつながる通りに出てようやく、ほかの車との行き交いがあった。
 交通量が少ないこともあり、思っていたよりも早くにマンションに着いてしまう。
 目的のマンションはウィステリアホテルと藤倉駅の中間くらいにあり、表通りから二本裏に入った場所に建っていた。
 裏通り、といっても物騒な感じはしない。
 駅に近いというのにうるさくもなければさびれたふうでもなく、オフィス街のようなきれいな町並み。
 マンションの外観はグレーを基調とした建物で、道路に面する場所には円錐形に刈り込まれたキンメツゲが植わっている。その根元にはオタフクナンテンの赤がとてもきれいに映えていた。
 ぱっと見ただけでも手入れの行き届いたマンションであることがうかがえる。
「行っておいで。待ってるから」
 蒼兄に言われ、シートベルトを外す。
「部屋番号覚えた?」
「うん、五〇一〇号室」
 話を聞いた記憶はなくても情報は頭の中にある。
「そう、入り口をを入ったところにあるオートロックに部屋番号を入力するとQRコードを要求されるから、さっき俺が送ったQRコードを入力すればOK。ロックが外れたら奥の自動ドアが開くから、突き当たりのエレベーターで五階へ上がりな。あ、エレベーターでもQRコードを要求されるから携帯はそのまま持ってたほうがいいよ」
「うん」
 私はふたりに見送られて車を降りた。

 行く、と決めたときはずいぶんと気持ちを強く持てた気がしたけれど、いざマンションに目の前にすると不安が募る。
 手前の自動ドアが開いてからは、唯兄に言われたとおりに部屋番号を入力し、アナウンスに従ってQRコードを翳した。
 すると、「ロックを解除します」というアナウンスが流れ、建物内へ続く自動ドアが開く。
 マンションの一階はほんのりと空気があたたかい。
 ヤシの木がきれいな緑を保てる程度にはあたたかいのだろう。
 エレベーターの扉前で再度QRコードを求められ、携帯を翳してからエレベーターに乗り込むと、自分で階数を指定せずとも五階のボタンが点灯した。
 このマンションでは住民以外の人間がマンションへ入る場合、あらかじめQRコードを発行して不審者の立ち入りを防いでいるらしい。
 QRコードを持たない人は従来の方法と変わらずマンションの入り口で訪問先の家番号を入力し、住人にロックを解除してもらう必要があるという。
 エレベーター特有の浮遊感をまったく感じないまま五階に着き扉が開く。
 エレベーターを降りると、正面の壁にフロアマップが表示されていた。
 五〇一〇号室はエレベーターからは少し離れた場所にあり、非常階段の脇に位置している。
 ひとつ角を曲がり、通路を真っ直ぐ行くとその部屋の前に出た。
 表札に名前は出ておらず、ただ煌々とポーチ内の明かりが灯るのみ。
 音が立たないようにポーチを開け、インターホンを前にゴクリ、と唾を飲み込む。
 あまりの緊張に、心の中で数を唱えることにした。
 ツカサの声ではなく、自分の声で。
 十、数えたらインターホンを押そう。
 一、二、三、四、五、六、七、八、九、十――
 ボタンを押すと近所迷惑になるのではないか、と思うほどに音がよく響いた。
 しかも、「ピンポーン」という音は一度では終わらない。すぐに二度目が鳴る。
 どっと後悔の念が押し寄せてきて、走って逃げたい衝動に駆られた。けど――
「いらっしゃい」
 二回目が鳴り終わる前にドアが開き、久先輩が顔を出した。
「寒かったでしょ?」
「あ、いえ……車で送ってもらったので」
「それもそうか……」
 あまりにも普通の対応をされるから、私は一番に言わなくてはいけないことを間違えた。
「あのっ――」
「うん、とりあえず中に入ろうか?」
 ポンポン、と背中を叩かれ玄関に入るよう促される。
 玄関はスポットライトが点いていてとても明るかった。
「こんな時間にすみません……」
「大丈夫、待ってたから」
「え……?」
 明るい照明の下で久先輩がにこりと笑む。
 髪の毛が光に透けて金色に見えた。
「今の司を救えるのなんて翠葉ちゃんしかいないでしょ?」
 それはどうだろう……。
 私はただ謝りに来ただけで、許しを請いに来た分際なのだから。
 救うとはどういうことをいうのかな……。
 私は今まで何度となくたくさんの人に助けられてきたけれど、ツカサの欲している「救い」とはどういうものなのか。
 謝ったとして、それを受け入れてもらえる保証もなければ、ツカサが苦しんでいるものから解放できるかなんて想像の域を超える。
 ただ、許してほしい――
 口にした言葉を取り消せないのなら、許してもらいたい。
 私は久先輩の言葉には何も答えず、
「昨日は冷たい水の中、携帯を探してくださりありがとうございました」
 腰から上体を傾け頭を下げる。と、久先輩は「いいよ」と言いながら、私の身体をゆっくりと起こしてくれた。
「大事なもの、無事で良かったね」
「はい……。先輩、風邪ひきませんでしたか?」
 尋ねると、久先輩はクスクスと笑う。
「あんなの大したことないよ。うちの道場、真冬の寒いさなかに寒稽古やるし」
 ウシシ、と笑いながら、
「司はリビングにいるから。じゃ、あとは頼んだよ」

 重いドアが閉まり、その場がしんとする。
 ドアに背を向けると、私の前にはリビングに通じているであろう廊下しかなかった。
 玄関と廊下は照明が点いているけれど、その先は暗い。
 カーテンもきっちりと閉められているのだろう。
 廊下の先には明かりと思しきものは何ひとつなかった。
 まるで暗闇に伸びる通路のよう。
 私は靴を脱ぎ、足裏がひんやりとする廊下を進む。
 暗すぎて、部屋がどういったつくりになっているのかもしばらくはわからなかった。
 暗闇に目を凝らし、ようやく目が慣れたころ、窓辺に座るツカサを見つけた。
「ツカサ……?」
 返事は得られない。
 窓に背を預け、体育座りのような格好で下を向いている。
 どんな表情をしているのかすら見ることはできない。
 暗闇も無言も、ツカサの姿勢も何もかもが私を拒絶しているように思えた。
 そこへ踏み込むのは容易なことではない。
 重い足取りはさらに重くなる。
 それは、水の抵抗を感じながら進むのに似ていた。
 やっとのことでダイニングの中ほどまで来ると、「来るな」と一言。
「それ以上来ないでくれ――」
 ツカサに初めて拒絶された気がした。
 出逢ってから、私に向けられたどの言葉よりはっきりと――
「……ごめんっ。ツカサ、私、ごめんねっ? 謝って許してもらえるかわからないけれど、ごめんっ。関わらないでなんて思ってないっ。関わらなければ良かったなんて思ってないっ。本当にごめんっ。もう二度と言わないから、もう絶対に言わないから――」
 だから、許してほしい。信じてほしい。
 なんて自己中心的な言い分だろう。
 わかってる。でも、それでも許してほしい。
 もう一度信じてほしい。
 絶対に、二度と口にしないと誓うから。
 私はリビングの手前で膝をつき、ツカサに向かって頭を下げた。
 できることを精一杯――謝るという行為は「ごめんなさい」を口にするだけでいいのだろうか。
 許してもらうために、ほかにはどんな手段があるのだろう。
 頭を下げ、必死に謝りながらそんなことを考えていた。すると、
「そんな簡単に答えを出していいわけ?」
「……え?」
 上体を起こしツカサに視線を向けるも、ツカサの姿勢は変わらない。
 相変わらず体育座りをしている膝の上に両手を軽く組み、下を向いたまま。
 漆黒の髪の向こうでどんな表情をしているのか……。
「せっかく与えられたチャンスなのに、そんな簡単に答えを出していいのか、って訊いてる」
 私の大好きな、静かで低い声が冷淡に告げる。それでいいのか、と。
 私に届くのはツカサの声だけだった。
 もしかしたら、私がツカサへ向けた謝罪も声しか届かなかったのではないだろうか。
「ツカサ、そっちに行っちゃだめかなっ?」
「来ないで」
 即答だった。でも――
「……ごめんっ。そっちに行く。顔を見て話したいからっ」
 急に立ち上がったらいけないとか、こんなときに考えられる人がいるなら紹介してほしい。
 だって、目の前にこんな状況があったらそんなの無理。
 顔を見ないとどんな思いでその言葉を口にしているのかわからないもの。
 ツカサが今、どんな顔をしているのかが知りたかった。怖いけれど、知りたかった。
 暗がりの中で想像する。
 大きく踏み出せば五歩でツカサの正面にたどりつけるだろう。
 最初の三歩は暗いなりにも視界はクリアだった。残りの二歩は時間差でやってきた眩暈のため、視界がきかなくなる。
 でも、平衡感覚を失うほどではない。
 そう思いながら足を踏み出すと、目測を誤って爪先に何かがぶつかり、たかがそれだけのことで、私はバランスを崩して床に膝をついた。
「っ……」
 ラグが敷いてあったけど、勢い余って膝をつくとなるとそれなりに痛かった。
「バカなんじゃないの?」
 声はものすごく近くから聞こえた。 
 ほぼ私の真正面。なのに、私の視界は暗い。
 目はちゃんと開いているのに暗い。
「急に立つな。……眩暈がしたらすぐ座れって何度も言われてるだろ?」
 ぐっ、と歯に力をこめる。
 そうでもしないと歯の根が合わない気がしたから。
 まともな声にならない気がしたから。
「言われてるけどっ、立ち止まれないときだってあるっ」
 少しして視界がクリアになったとき、目に映ったのは白い――ツカサのシャツだった。
「っ……ごめんっ」
 私が躓いたのはラグの上に無造作に転がっていたクッションで、膝をついたのは司の脚と脚の間だった。
 手をついた場所がラグだったから気づかなかったけれど、ものすごく至近距離にツカサがいた。
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