光のもとで1

葉野りるは

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最終章 恋のあとさき

03話

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 翌朝、すっきりと目覚めた私はてきぱきと身支度を整え食卓に着いた。
 まだ食欲は戻っていない。
 もともとあまり食べるほうではないけれど、今はそれに拍車をかけて食欲が落ちている。それでも、学校に行くなら食べられる分だけでも食べておかないと身体がもたない。
 これは高校に通うようになってから学んだこと。
 私は自分に喝を入れ、朝食を食べた。

 結果、学校に着けば胃もたれで泣きたい気分。
 早々に胃薬を飲んだけれど、胃部不快感は拭えない。
「大丈夫?」
 桃華さんに尋ねられ、
「うん、朝ご飯が胃もたれ起してるみたい」
「朝っぱらから何食ってきたんだよ」
 海斗くんの質問に朝食べたものを答える。
「野菜のドロドロスープにクルトン入れたのと、摩り下ろしたリンゴをヨーグルトに入れてハチミツを足したもの。……あと卵焼き二切れ?」
「……ちょっと待て、それじゃ朝飯足んねーだろ!? しかも、胃にもたれるようなもの何もないしっ」
「んー……たぶん、重量の問題」
 答えると、いつものメンバーに呆れられた。
 お昼ご飯にも似たようなものしか持たされていない。
 野菜のドロドロスープはサーモスタンブラーに入っているし、ほかに固形物といえばカスタードクリームと苺が挟まったサンドイッチ二切れ。
 初めて会う先生の前でこんなご飯でいいのかな、とは思ったけれど、これ以上食べられそうなものはなかったのだ。

「今日、なっちゃん先生の授業って本当?」
 飛鳥ちゃんに訊かれ、「うん」と答える。
 今朝のホームルームで、川口先生から午後に玉紀先生のところに行くように、と再度伝えられたため、うちのクラスの誰もが知っていた。
「そうかー……御園生もついにか」
 佐野くんが苦々しい顔で言う。
「……そんなに特殊なの?」
 訊いても明確な答えはもらえない。
「特殊って言ったら特殊。でも、悪いものじゃないと思うよ」
 そんな返答だった。
 逆に、海斗くんや飛鳥ちゃん、桃華さんはケロッとしている。
「私たちはここの性教育しか知らないからね? これが普通だと思ってたし」
 飛鳥ちゃんの言葉に桃華さんも同意する。
「ほかの学校がどんな性教育しているのか少し興味あるわよね? 何をどうしたら、女子の生理をからかいの対象にできるのか訊いてみたいわ」
 どうやら、桃華さんは中等部から藤宮生の美乃里さんにそんな話を聞いたことがあるようだ。
「男と女で身体のつくりが違うのなんて当たり前なのにな?」
 海斗くんも理解できない、というふうに口にする。
 外も中も知っている佐野くんだけが少し微妙な顔つき。
「御園生。独特であることは確かだけど、御園生の感覚なら受け入れられると思うし、本当、そんな変な授業じゃないから」
 詳しいことは教えてもらえなかったけれど、「大丈夫だよ」と言葉を添えてもらえた。

 放課後になり、緊張した状態で特教棟へ向う。
 玉紀先生がいらっしゃる教室は今まで立ち入ったことのない場所だった。
 特教棟の三階は書道室、美術室のほか、教諭室に置ききれない教材置き場となる教室が多い。つまり、芸術選択で書道か美術を選択しない限り行くことのない階なのだ。
 その階の最奥に玉紀先生がいる教室がある。
 生徒の間では「最奥の間」や「恋愛駆け込み寺」と呼ばれいるというのだから、ますますもってどんなところなのか――と考えてしまう。

 教室のドアを前に、深呼吸を数回してからノックをした。
 コンコンコンコン――
「どうぞー?」
 高すぎず低すぎず、ゆったりとした感じの女の人の声。
 みんなが「なっちゃん先生」と呼んでいる人の声なのだろう。
「失礼します」
 緊張しながらドアを開けると、「いらっしゃい」と笑顔で迎え入れられた。
 緩やかなウェーブを描く髪は左サイドでひとつにまとめられ、結ってあるところには淡いピンクのシフォン生地のシュシュ。かわいらしい髪留めがとても似合う先生だった。
「御園生翠葉ちゃんね?」
「はい、一年B組御園生翠葉です。今日はよろしくお願いいたします」
「玉紀奈津子です。よろしく」
 生徒と先生の挨拶というのには少し違和感がある。何しろ、自分よりも背の低い先生に見上げる形で握手を求められたのだから、どことなく違和感を覚えるのは仕方ないと思うの。

 窓辺から一メートルほど離れた場所に白く丸いテーブルがあり、私はそこへ案内された。
「じゃ、まずはご飯にしましょう? 食べながら少しずつ話すわ」
 食べながらお話し……?
 私の頭には一気にクエスチョンマークが増殖し、首を傾ける羽目になる。
「え……? 授業じゃないんですか?」
「ん? 授業よ? ちゃんとしっかり授業」
 でも、今「お話し」って――
「御園生さんは高等部から藤宮生なのよね?」
「はい」
「なら、この学校の初等部と中等部でどんな性教育を受けてきているのかを話さなくちゃいけないわ」
「……ほかの外部生も、みんな受けたんですか?」
 訊くと、「えぇ」と笑みが返された。
「御園生さん以外の十八人にも同じように話したわ。この学校の性教育は毎年一学期の夏休み前にするって決まっているの。中等部でも高等部でも、まずは外部生が全員揃ってる日の放課後に事前授業を行って、藤宮生との知識の差や意識差をなくすのよ。そのあと、欠席者がいないクラスから順番に授業を入れていくの」
 ものすごくザックリとした方法で授業の日取りが決まるのね……。
 でも、クラスに欠席者がいないかを確認したうえでするのなら、よほどのことがない限り、たまたま休んでしまった人が受けられない、という状況にはならないのだろう。

 テーブルにタンブラーとサンドイッチが入っているお弁当箱を広げると、玉紀先生が食い入るようにしてそれを見る。
 何か言われる――そう思っていると、言われるには言われたのだけれど、かなり見当違いのことを言われた。
「それ、美味しそうね?」
 先生がそれ、と指したのはサンドイッチ。
「実はね、私も今日はサンドイッチなの。奇遇ね」
 先生が広げたお弁当箱は私のお弁当箱とさして変わらず、二切れの私に対し三切れなだけ。
 野菜サンドと卵サンドとチョコの生クリームのサンドイッチ。
 私が先生のサンドイッチを観察するように、先生も私のサンドイッチを観察していた。
「カスタードに苺?」
「はい」
「ひとつ交換しない?」
 そんな提案をするくらいには、このサンドイッチが気になったらしい。
 自分のお弁当箱を差し出したあと、
「あっ、でもこれはだめ」
 先生はひとつのサンドイッチを指差す。
 それはチョコの生クリームにバナナがサンドしてあるものだった。
 甘いものが好きなのかと思ったけど、どうやら違うらしい。
「これね、今朝、長女が作ってくれたの」
 にへら、と幸せそうに笑う。そして、
「あ……これもだめメ」
 だめなものが追加された。
「こっちの卵サンドは玉ちゃんが作ってくれたの」
 私は首を捻る。
 タマちゃんって誰……?
「あ、玉ちゃんって私の旦那様ね」
 先生は嬉しそうに話す。
「でも、そうするとこれしかないんだけど……」
 真ん中のレタスときゅうりとハムのサンドイッチを指差して、「だめ?」と上目遣いで訊かれた。
 これで断われる人がいたらすごい。
 だって、先生なのに、年上の女性なのに、とてもかわいく見えてしまったから。
 私はクスクスと笑いながら、先生のサンドイッチと自分のサンドイッチをトレードした。
「私、その三つの中なら間違いなくレタスサンドを選んでました」
「良かった! ……で、そっちのタンブラーは何?」
 訊かれて中身を答えると、「飲みたいなぁ……」と言われる。
 本当に変わった先生だな、と思いながら、
「カップがあれば……」
「やった!」
 私と玉紀先生はお弁当を持ち寄って食べるかのようなランチタイムを過ごした。
「話しながら」とは言っていたけれど、お弁当を食べてる間には「性教育」に関する話題は何ひとつ出なかった。
 そして、最初こそ「御園生さん」と呼ばれていたけれど、途中からは「翠葉ちゃん」に変わっていた。

 お弁当箱を片付け終わると、
「サンドイッチとスープのお礼。どれがいい?」
 差し出された四角い缶にはハーブティーのパックが並ぶ。
「え? あ……いいんですか?」
「どうぞ。……というよりも、翠葉ちゃんに飲ませたくて持ち込まれたようなものだからね」
「え?」
 言われた意味がわからなかった。
「これ、秋斗くんからの差し入れなの」
「え……?」
「今日、私の授業があると知って、翠葉ちゃんが落ち着いて授業を受けられるようにって持ってきたのよ」
 私は缶の中をじっと見た。
 綺麗に並ぶティーパックのほとんどが薄紫色の包み。その中にレモンイエローの包みがふたつ。それの示すところは、大半がラベンダーティーでカモミールティーはニパック。
 確認のため、レモンイエローの包みをひとつ手に取ってみたけれど、レモンバームではなくカモミールだった。
「……先生はラベンダーティーがお好きですか?」
 先生は不思議そうな顔をして、「えぇ」と答える。
「だとしたら、これは私のためだけに差し入れられたものじゃないです」
 私はにこりと笑みを返す。
「私、普段からラベンダーティーはあまり飲まないんです」
 それは秋斗さんも知っていること。
「いつもはブレンドされているものを飲むんですけど……ウィステリアホテルのものだとカモミールがほとんど」
 だから、大半がラベンダーティーのこの缶は、ニパックカモミールが間借りしているだけで、先生に差し入れられたものだとわかる。
 事のあらましを説明すると、
「……ここ、普通は喜ぶところじゃないかしら?」
 玉紀先生は首を傾げて言う。
「え? 喜んでますよ……?」
「それ、分析って言わない?」
「……そうですか?」
 私の返事に先生がぷっ、と吹きだした。
「失敗しちゃったわ。それならそうと秋斗くんも言ってくれればいいのに……。そしたら最初からカモミールティーを淹れて、秋斗くんからよって言ったのに……」
「先生は秋斗さんと親しいんですか?」
「親しいっていうほど親しいわけじゃないわ。彼も私の教え子なのよ」
 その言葉に私は絶句する。
 この先生はいったいいくつなのだろう、と。

 ハーブティーが入ったところで今度こそ授業が始まる。けれど、この教室に来たときの緊張感はもうどこにもなかった。
 サンドイッチを食べながら家族の話をしたりお茶の話をしていたら、緊張はすっかり解れていたのだ。
「翠葉ちゃんのおうちは真ん中のお兄さん以外はみんな高等部から藤宮生なのね。……ということは、みんなこの授業を受けていることになるんだわ。なんだか感慨深いものがあるわねぇ……」
 そんな具合に前置きという授業が始まる。
「まず始めに、翠葉ちゃんが受けたことのある性教育を教えてもらえる?」
 私が受けたことのある性教育……。
 そもそも、どこからを性教育というのかがあやふやでわからなかった。
「先生、性教育ってどこからが性教育になるんですか?」
 訊くと、「そっか」と一言返される。
「じゃ、私が訊くから質問に答えてくれる?」
「はい」
 少し身構えていると、「え?」と思うような質問をされた。
「衣類や持ち物、爪や歯。身体を清潔にすることを学校で習った?」
「それなら小学校に入学してすぐ――ハンカチやティッシュの持ち物検査は毎週月曜日にあって、爪が長くて怒られる人もいました」
 こういうことでいいのだろうか。
 疑問に思いながら答えると、
「じゃ、次。自分の赤ちゃんのころを振り返る授業は受けた?」
「……はい。確か、小学校四年生のころに」
「どんな授業だった?」
「えぇと……母子手帳をもとに、お母さんのお腹の中で何日間過ごしたのか、生まれてきたときには何グラムだったのか、生まれたばかりの写真と今の自分を比較してどのくらい大きくなったのか。まとめたものを教室の後ろに貼って、クラスメイトと見比べたりしました」
 ここで私は疑問を口にする。
「先生? これ……性教育なんですか?」
「そうよ? 人が生まれて死ぬところまでが性教育に順ずるものよ」
 言われてびっくりした。
 先生の質問はまだ続く。
「男女の身体の差についての授業はいつごろ、どんなふうに行われた?」
「たぶん、三年生か四年生だと思います。性器名称が書かれた教材をもとに授業があったと思うんですけど……」
 詳しく記憶に残るような授業ではなかったのか、自分が受けていないのかが微妙にわからない。
「ただ、生理に関しては女の子だけが図書室に集められてナプキンの使い方を教わったのを覚えています」
「その性器名称の授業のときに初経と精通の話はあったかしら? そのことについて話し合う場はあった?」
「授業はあったとは思います。でも……」
「でも?」
「私の記憶にないだけなのかもしれないんですけど……。ただ、名称や起きる現象を淡々と先生が話して、それで終わったように思います。話し合いはとくになかった気が……」
「そう……。ここまでがだいたい小学校で教わる内容ね」
 先生は一度質問をやめて、まだ温かいハーブティーを一口飲む。
「翠葉ちゃんも飲みなさい」
 言われて、私もカップに口をつけた。
「中学での保健体育の授業は?」
「教科書に沿った授業を受けました」
「つまり?」
「……授業の内容、ですか?」
「んー……そうね。どんな授業だったのかを知りたいわ」
「保健体育の授業は雨の日に行われて、テスト前になるとテスト範囲を終わらせるために数時間の座学授業が追加されるんです。『保健』の授業は教科書を読むだけ、ということが多かったと思います」
「えっ!? それだけっ!?」
「あ……えと、人の骨格や筋肉、内臓、血液の構造を穴埋めしていくようなプリントの授業もありました。エイズ感染者のDVDを見たりとか……」
「本当にそれだけなの?」
「…………」
「もっと保健から少し離れた性教育っぽいものは?」
 ――体育館に集められて話を聞いたあれこそが性教育だったのだろう。
「学年全体で体育館に集まって……というものがあるにはありました。でも、先生が何を話していたのかは記憶に残っていません」
「どうして?」
「うちの中学は一学年で四〇〇人程度だったのですが、先生方がマイクや音声拡張器を使っていないこともあって、声が届きませんでした。周りもとてもうるさかったし……」
「うるさいってどんなふうに?」
「……クラスは男女に分かれて出席番号順に並んでいました。そこへ各クラスの先頭に並ぶ男女に、先生方は開封済みのコンドームと未開封のコンドームを配りました。それを見た人は後ろへ回す……という要領で事が進んでいたのですが、そこから一気に騒がしくなって……」
 天井の高さがそれなりにあり声が響きやすい体育館には、女の子のキャーキャー言う声と男子の数々の言葉が響いていた。
 みんな汚いものを摘むような仕草で、「見る」ということはほとんどせずに後ろの人へ後ろの人へ、と回していった。
 前から回ってきたコンドームはあっという間に最後尾にいた私のもとに届いた。
 私の後ろには誰もいなくて、先生が回収に来るまでずっとふたつのコンドームを手に持っていた。
 すると、より長い時間手に持っていた私は「汚いもの扱い」をされ始めた。
 集会が終わってクラスに戻ってくると、回収されたはずのコンドームが自分の机に置かれていた。
 ただでさえ長く持っていただけで「汚いもの扱い」されたのに、机の上にあるそれをどうしたらいいのかわからなくて、私は教室を飛び出した。
 どこをどう走ったのかも覚えていない。ただ、気づいたときには保健室のベッドの上にいた。
 校内で倒れて保健室に運ばれたのだと先生から聞かされた。
 その翌日、クラスメイトの男子に謝罪された。
 あのコンドームは男子の私物で、単なるいたずらだったのだという。
 それでも――あの日から私の机は汚いもの扱いをされ続けたし、私も、何度も何度も机を水拭きした。
 何度も拭いたのだから汚いわけがない。そうとわかっても、毎日拭くことはやめることができなかった。
 忘れもしない、初めての性教育――
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