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最終章 恋のあとさき
14話
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楓先生が戻ってきたのは三十分ほどしてからのことだった。
「探したんだけど見つからなくて。帰りにもう一度探してみよう?」
「……先生、ごめんなさい。本当はポーチを忘れてきたというのは嘘なんです」
先生はクスクスと笑った。
「うん、わかってた」
「え……?」
「俺と果歩のやり取り見たら、翠葉ちゃんがどう動くかはなんとなく検討ついてたから」
やっぱり……。
「翠葉ちゃん」
不穏な声の主、果歩さんへ視線を向けると、手に持っていたシャーペンを差し出される。
果歩さんはにこりと笑い、
「この先端でザックリ刺していいと思うの」
「いえ……あの……ここが病院とはいえ、それはちょっと……」
おずおずと後ずさりをすると、
「楓さん、翠葉ちゃんにジュース用意してあげて」
それはお願いではなく、命令。
「はいはい、お姫様」
楓先生は呆れたような声を出した割には嬉しそうな表情で、簡易キッチンへと向かう。
「時間、大丈夫ならジュース飲んでいって? 楓さんとふたりになると、またケンカになりそうだし」
「でも、それ……」
移動テーブルに広げられているものに視線を移すと、
「楓さんがいたらどうしたってやらせてもらえない。だから、翠葉ちゃんが帰るときには楓さんも連れて帰ってね?」
それはそれはきれいな笑みを添えて言われた。
「はぁ……」
「それと――実のところ、ハープの演奏は聴いてみたいと思ってたの」
「え……?」
「うち、父がジャズピアニストだったの。だから、音楽には馴染みがあって……。もうどのくらい生演奏聴いてないかなー?」
果歩さんは天井を見上げ、首を捻りながら考え込む。
「お父様、ピアノをやめてしまわれたんですか……?」
疑問に思ったことをなんとなく口にしただけ。でもこの疑問は、簡単に口にしていいものではなかった。
「んー……やめたのとはちょっと違う。生涯ピアニストだったよ」
果歩さんはにこりと笑ったけれど、私は笑えない。
「生涯ピアニスト」――それが意味するのは……。
「私が小学生のときに事故で他界しちゃったの」
「っ……」
どうしてもっと考えてから口にしなかったのか。
怪我で弾けなくなってしまったのかもしれない。間宮さんのように不慮の事故に遭われたのかもしれない。
何にせよ、「ピアニスト」と呼ばれた人がピアノから遠ざかるのには、それなりの理由があるはずなのに。どうしてそれを安易に訊いてしまったのか。
「わ、ちょっと待って!? 気にしなくていいよ!? ……って言っても無理か。ごめん……。でも、本当、私が小学生のころの話だから結構前のことなんだ」
私は何を言うこともできなかった。
まるで言葉が出てこない。話し方、もしくは言葉を忘れてしまった人のように。
果歩さんは「昔の話だから」と言ってくれたけれど、昔の話だとかそういうことではない気がして、何を言うこともできなかった。
「翠葉ちゃん、ひとまず座ろうか」
楓先生に促され、ベッドサイドに置いてあった椅子に腰を下ろす。
椅子はスツールではなく、家具屋さんやアンティークショップでそれなりの値段で売られているような椅子。
飴色に光る木目が美しく、座面と背もたれ部分には布が張られクッション性がある。そして、両サイドには肘置きもあった。
そんな観察はできる。できるけど、心はピタリと止まってしまったような、そんな感覚。
「翠葉ちゃん、私の目ぇ見て?」
「目……?」
果歩さんの顔、目を見ると、にこりと笑われた。
その笑顔は穏やかな表情へと変わる。
「お父さんが亡くなったことは悲しい。それに、時々思い出しては寂しいと思うこともある。でもね、私の心の中では片付いてることなの。心の中に引き出しがあって、大切にそこにしまってある。必要なとき、どうしても会いたくなったときにその引き出しを開けるの。アルバムを開くみたいにね。それで大丈夫なんだ。お父さんのことを一緒に思い出してくれる人もいるから」
そう言って、もう一度笑った。
嘘じゃない言葉。嘘じゃない笑顔――
出逢ってから一時間と経たないのに、そう感じるのは驕り?
でも、初対面があんなだったし、自分の気持ちに嘘をつく人には見えなかった。
ポロ――涙が零れてびっくりする。
「あっ、わ、どうしたっ!?」
果歩さんに訊かれ、咄嗟にティッシュを差し出される。
私は右手で一枚引き抜き、ティッシュで目を押さえた。
「ごめんなさい。なんでも――」
「はい、翠葉ちゃんストーップ! なんでもなかったら普通は泣かないでしょう?」
「っ……」
まるで唯兄みたいに話す人だった。
「言ってごらん? ん? どうした?」
答えられない私の代わりに楓先生が、
「翠葉ちゃんさ、先日、藤宮の性教育受けたばかりなんだ」
「楓さんに訊いてない、黙ってて」
果歩さんは容赦なく楓先生を締め出し、私に視線を固定した。
私はティッシュを当てたまま目を閉じる。
自分を落ち着かせるために。または、必要以上に溢れ出た水分を拭き取るために。
無意識のうちに止めてしまった呼吸を再開させ、酸素を深く吸い込み吐き出す。そんな動作を何度か繰り返し、
「……楓先生の言うとおりです。先日、性教育を受けて命や生きること、成長すること、その先に老いがあり死があることを学んで――たぶん今、『命』というものに過敏になっているんだと思います」
それは嘘じゃない。でも、思わず泣いてしまった理由は別にある。
本当は、「当たり障りのないもの」ではないものに触れたから涙が出た。
けど、そうは言えなかった。
「そっかそっか……。ちょっと、楓さんっ!?」
果歩さんはグリン、と楓先生に顔を向け怒りだす。
「なんでこんなとこに連れてたのよっ」
「ふたりを会わせたかったから?」
楓先生はカラリと答えた。
そして、果歩さんが口を開けた瞬間にその口を手で塞ぐ。
楓先生はモゴモゴと抵抗する果歩さんを気にせず私を見た。
「果歩も誰かと話せる環境があったほうがいいと思ったし、翠葉ちゃんも話す人が必要なんじゃないかと思って」
ぷはっ、と果歩さんが楓先生の制止を振り切り、
「何よそれっ」
楓先生は果歩さんを見ることなく私に話し続ける。
「知らない人だから話せることもあるよね? 今のところ、果歩が藤宮と関わっているのは俺と静さんだけ。ほかには司が資料を届けにきていたけど、もう必要なものは揃ってるはずだから、ここで司と鉢合わせることもないはずだよ」
「え……?」
「秋斗に言って、翠葉ちゃんのセキュリティ登録してもらっておくから好きなときに来ればいい。たとえば通院のついでに、とかね」
にこりと笑った楓先生が神様に見えてしまった。
何か企んでいそうな楓先生からびっくりするほど華麗な転身。
でも、その言葉には甘えられない。だって――
移動テーブルに置かれてるものに目をやり、楓先生に視線を戻す。
「果歩さんの、お勉強の邪魔はできません」
「気にすることないよ」
即答したのは果歩さんではなく楓先生。積まれている本を手に取り、
「司は必要なものだけをピックアップしてきてるはずだから、あとは果歩の考察とその裏づけ。今後の課題なんかをあれこれまとめるだけ。すぐ終わるだろ?」
楓先生は一度果歩さんを見たものの、すぐに私へ視線を戻した。
「期限は今週末だから、それ以降なら時間取れるんじゃないかな?」
にこにこと話を進める楓先生に、果歩さんが手近にあったシャーペンを投げた。
シャーペンは楓先生の胸に当たって落下する。
「刺す」ではなく「投げる」でよかった。
「だからっ、とっとと退院させてって言ってるでしょうっ!?」
「それは産科の先生の判断によるもので、俺に言われても困るんだよね」
キッと楓先生を睨み上げるとき、果歩さんの視界に私が入ったらしい。
「あ、ごめんね」
急ににこりと笑顔になる。
「果歩、俺と翠葉ちゃんに対する態度の差、ひどくない?」
「気のせいでしょ? で、翠葉ちゃん。もし時間があったらいつでもおいで? 週末以降とか気にしなくていいから。むしろ、週末には退院する気満々だし」
「でも――」
「私、このレポート以外は基本暇人だから。っていうか、楓さんが邪魔しに来なければとっくに終わってるはずなんだ。邪魔しに来なければとっくにねっ」
ふたりを見ていて思ったこと。
「あの……ふたりは本当に恋人――なんですよね?」
尋ねると、楓先生はにこりと笑って「そうだよ」と答え、果歩さんは少し顔を赤らめてそっぽを向いた。
そのあと二十分ほどハープを弾き、楓先生にマンションまで送ってもらった。
この日から、私の小型ハープは果歩さんの病室にしばらく間借りすることになった。
「探したんだけど見つからなくて。帰りにもう一度探してみよう?」
「……先生、ごめんなさい。本当はポーチを忘れてきたというのは嘘なんです」
先生はクスクスと笑った。
「うん、わかってた」
「え……?」
「俺と果歩のやり取り見たら、翠葉ちゃんがどう動くかはなんとなく検討ついてたから」
やっぱり……。
「翠葉ちゃん」
不穏な声の主、果歩さんへ視線を向けると、手に持っていたシャーペンを差し出される。
果歩さんはにこりと笑い、
「この先端でザックリ刺していいと思うの」
「いえ……あの……ここが病院とはいえ、それはちょっと……」
おずおずと後ずさりをすると、
「楓さん、翠葉ちゃんにジュース用意してあげて」
それはお願いではなく、命令。
「はいはい、お姫様」
楓先生は呆れたような声を出した割には嬉しそうな表情で、簡易キッチンへと向かう。
「時間、大丈夫ならジュース飲んでいって? 楓さんとふたりになると、またケンカになりそうだし」
「でも、それ……」
移動テーブルに広げられているものに視線を移すと、
「楓さんがいたらどうしたってやらせてもらえない。だから、翠葉ちゃんが帰るときには楓さんも連れて帰ってね?」
それはそれはきれいな笑みを添えて言われた。
「はぁ……」
「それと――実のところ、ハープの演奏は聴いてみたいと思ってたの」
「え……?」
「うち、父がジャズピアニストだったの。だから、音楽には馴染みがあって……。もうどのくらい生演奏聴いてないかなー?」
果歩さんは天井を見上げ、首を捻りながら考え込む。
「お父様、ピアノをやめてしまわれたんですか……?」
疑問に思ったことをなんとなく口にしただけ。でもこの疑問は、簡単に口にしていいものではなかった。
「んー……やめたのとはちょっと違う。生涯ピアニストだったよ」
果歩さんはにこりと笑ったけれど、私は笑えない。
「生涯ピアニスト」――それが意味するのは……。
「私が小学生のときに事故で他界しちゃったの」
「っ……」
どうしてもっと考えてから口にしなかったのか。
怪我で弾けなくなってしまったのかもしれない。間宮さんのように不慮の事故に遭われたのかもしれない。
何にせよ、「ピアニスト」と呼ばれた人がピアノから遠ざかるのには、それなりの理由があるはずなのに。どうしてそれを安易に訊いてしまったのか。
「わ、ちょっと待って!? 気にしなくていいよ!? ……って言っても無理か。ごめん……。でも、本当、私が小学生のころの話だから結構前のことなんだ」
私は何を言うこともできなかった。
まるで言葉が出てこない。話し方、もしくは言葉を忘れてしまった人のように。
果歩さんは「昔の話だから」と言ってくれたけれど、昔の話だとかそういうことではない気がして、何を言うこともできなかった。
「翠葉ちゃん、ひとまず座ろうか」
楓先生に促され、ベッドサイドに置いてあった椅子に腰を下ろす。
椅子はスツールではなく、家具屋さんやアンティークショップでそれなりの値段で売られているような椅子。
飴色に光る木目が美しく、座面と背もたれ部分には布が張られクッション性がある。そして、両サイドには肘置きもあった。
そんな観察はできる。できるけど、心はピタリと止まってしまったような、そんな感覚。
「翠葉ちゃん、私の目ぇ見て?」
「目……?」
果歩さんの顔、目を見ると、にこりと笑われた。
その笑顔は穏やかな表情へと変わる。
「お父さんが亡くなったことは悲しい。それに、時々思い出しては寂しいと思うこともある。でもね、私の心の中では片付いてることなの。心の中に引き出しがあって、大切にそこにしまってある。必要なとき、どうしても会いたくなったときにその引き出しを開けるの。アルバムを開くみたいにね。それで大丈夫なんだ。お父さんのことを一緒に思い出してくれる人もいるから」
そう言って、もう一度笑った。
嘘じゃない言葉。嘘じゃない笑顔――
出逢ってから一時間と経たないのに、そう感じるのは驕り?
でも、初対面があんなだったし、自分の気持ちに嘘をつく人には見えなかった。
ポロ――涙が零れてびっくりする。
「あっ、わ、どうしたっ!?」
果歩さんに訊かれ、咄嗟にティッシュを差し出される。
私は右手で一枚引き抜き、ティッシュで目を押さえた。
「ごめんなさい。なんでも――」
「はい、翠葉ちゃんストーップ! なんでもなかったら普通は泣かないでしょう?」
「っ……」
まるで唯兄みたいに話す人だった。
「言ってごらん? ん? どうした?」
答えられない私の代わりに楓先生が、
「翠葉ちゃんさ、先日、藤宮の性教育受けたばかりなんだ」
「楓さんに訊いてない、黙ってて」
果歩さんは容赦なく楓先生を締め出し、私に視線を固定した。
私はティッシュを当てたまま目を閉じる。
自分を落ち着かせるために。または、必要以上に溢れ出た水分を拭き取るために。
無意識のうちに止めてしまった呼吸を再開させ、酸素を深く吸い込み吐き出す。そんな動作を何度か繰り返し、
「……楓先生の言うとおりです。先日、性教育を受けて命や生きること、成長すること、その先に老いがあり死があることを学んで――たぶん今、『命』というものに過敏になっているんだと思います」
それは嘘じゃない。でも、思わず泣いてしまった理由は別にある。
本当は、「当たり障りのないもの」ではないものに触れたから涙が出た。
けど、そうは言えなかった。
「そっかそっか……。ちょっと、楓さんっ!?」
果歩さんはグリン、と楓先生に顔を向け怒りだす。
「なんでこんなとこに連れてたのよっ」
「ふたりを会わせたかったから?」
楓先生はカラリと答えた。
そして、果歩さんが口を開けた瞬間にその口を手で塞ぐ。
楓先生はモゴモゴと抵抗する果歩さんを気にせず私を見た。
「果歩も誰かと話せる環境があったほうがいいと思ったし、翠葉ちゃんも話す人が必要なんじゃないかと思って」
ぷはっ、と果歩さんが楓先生の制止を振り切り、
「何よそれっ」
楓先生は果歩さんを見ることなく私に話し続ける。
「知らない人だから話せることもあるよね? 今のところ、果歩が藤宮と関わっているのは俺と静さんだけ。ほかには司が資料を届けにきていたけど、もう必要なものは揃ってるはずだから、ここで司と鉢合わせることもないはずだよ」
「え……?」
「秋斗に言って、翠葉ちゃんのセキュリティ登録してもらっておくから好きなときに来ればいい。たとえば通院のついでに、とかね」
にこりと笑った楓先生が神様に見えてしまった。
何か企んでいそうな楓先生からびっくりするほど華麗な転身。
でも、その言葉には甘えられない。だって――
移動テーブルに置かれてるものに目をやり、楓先生に視線を戻す。
「果歩さんの、お勉強の邪魔はできません」
「気にすることないよ」
即答したのは果歩さんではなく楓先生。積まれている本を手に取り、
「司は必要なものだけをピックアップしてきてるはずだから、あとは果歩の考察とその裏づけ。今後の課題なんかをあれこれまとめるだけ。すぐ終わるだろ?」
楓先生は一度果歩さんを見たものの、すぐに私へ視線を戻した。
「期限は今週末だから、それ以降なら時間取れるんじゃないかな?」
にこにこと話を進める楓先生に、果歩さんが手近にあったシャーペンを投げた。
シャーペンは楓先生の胸に当たって落下する。
「刺す」ではなく「投げる」でよかった。
「だからっ、とっとと退院させてって言ってるでしょうっ!?」
「それは産科の先生の判断によるもので、俺に言われても困るんだよね」
キッと楓先生を睨み上げるとき、果歩さんの視界に私が入ったらしい。
「あ、ごめんね」
急ににこりと笑顔になる。
「果歩、俺と翠葉ちゃんに対する態度の差、ひどくない?」
「気のせいでしょ? で、翠葉ちゃん。もし時間があったらいつでもおいで? 週末以降とか気にしなくていいから。むしろ、週末には退院する気満々だし」
「でも――」
「私、このレポート以外は基本暇人だから。っていうか、楓さんが邪魔しに来なければとっくに終わってるはずなんだ。邪魔しに来なければとっくにねっ」
ふたりを見ていて思ったこと。
「あの……ふたりは本当に恋人――なんですよね?」
尋ねると、楓先生はにこりと笑って「そうだよ」と答え、果歩さんは少し顔を赤らめてそっぽを向いた。
そのあと二十分ほどハープを弾き、楓先生にマンションまで送ってもらった。
この日から、私の小型ハープは果歩さんの病室にしばらく間借りすることになった。
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