中身は80歳のおばあちゃんですが、異世界でイケオジ伯爵に溺愛されています

浅水シマ

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本編

今夜だけは

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 その朝、エマは寝室から一歩も出てこなかった。

「奥様が臥せっておられます」

 その報告に、セイルの顔はたちまち青ざめる。何もかもを投げ出し、駆けるように夫婦の寝室へと向かった。

「エマ……!」

 扉を勢いよく開け放つ。
 ベッドの中、白い寝具に沈むように横たわるエマの姿が目に映った。セイルは慌てて近づき、彼女の顔を覗き込む。

 その瞬間、視界に飛び込んできたのは、泣き腫らした瞳の痕。
 その痛々しい跡に、セイルの胸は鋭く抉られた。こんな姿を目にすることになるとは、想像もしていなかった。

 エマは静かに寝息を立てている。だがその呼吸は浅く、疲れ切った様子がありありと窺えた。

「……奥様は、理由を仰いませんでした」

 傍らに控えるローラが、静かに言葉を継いだ。

「……とても、お疲れのご様子です」

 セイルは強く唇を噛みしめ、胸の奥に重苦しい痛みを覚えながら、息を吐く。
 彼はエマの枕元に膝をつき、そっと治癒の力を流し込んだ。気休めかもしれないが、何もせずにはいられない。
 柔らかな光がしばし漂い、やがてエマの目元の腫れがゆるやかに引いていく。

 ──何があった。

 昨夜の彼女は、いつもと変わらぬ微笑みを見せていた。
 何が彼女をここまで蝕んだというのか。思い返しても答えは見つからず、ただ歯がゆさと自分への苛立ちばかりが募る。

 長くその寝顔を見守りながらも、セイルはやがて静かに立ち上がった。
 今は彼女を起こすわけにはいかない。

 寝室を後にする足取りは重い。
 胸の奥底で、言い様のない不安が燻り続けた。


 *


 エマはそのまま夜まで眠り続け、ようやく目を覚ましたときには、窓の外はすでに暗闇に包まれていた。
 傍らではセイルが手を握り、彼女の目覚めを待っていた。

「……セイル様」

 ゆっくりと身を起こすエマを、セイルは不安げに見つめる。

「無理はなさらないでください……気分は、どうですか」

「……大丈夫です」

 エマは彼の不安に揺れる瞳を見つめて、危うく「清一さん」と呼びかけそうになった。開きかけた唇を噛む。

 セイルは包み込むように、彼女を抱き寄せた。

「何か……あったのですか」

 耳元で囁かれる声は、紛れもない清一のものだった。思わず鼻の奥がつんとなるのを、エマは必死にこらえる。

「何でもありません……ただ少し熱っぽくて、疲れてしまっただけです」

 努めていつも通りの声色で答えると、セイルの腕の力が強まった。

「嘘はいけません……。どうして目を腫らすほどに泣いたのですか。私は心配で、今日一日、何も手に付きませんでした」

 その真摯な優しさに胸が詰まる。エマは沈黙ののち、静かに口を開いた。

「……今夜、私を抱いてください」

「……え……」

 思わぬ言葉に、セイルは声が裏返りそうになるのをどうにか押し留めた。とたんに心臓が早鐘のように鳴る。抱き締める力を緩め、エマの顔を覗き込む。彼女の伏し目は憂いのある艶を帯びていた。セイルは息を呑んだ。

「どうしたのですか」

「……ただ、どうしようもなく……貴方に触れたくて」

 エマの小さな指が、セイルの服の裾を握る。羞じらいに染まる頬。その姿に、セイルはたやすく心を奪われてしまう。

「ですが、お辛くは……」

「お願いです、どうか」

 エマはセイルの頬を両手で包み込み、その瞳を見つめた。

「……愛してください」

 その一言に、セイルの鼓動は堪え難く高鳴った。

 セイルは、慎重にエマに触れた。努めて優しく、少しずつ、丁寧に。
 エマはセイルの指の動きをひとつひとつ確かめながら、自ら服を解いていく。セイルを受け入れようとするエマの行動が、さらにセイルの心を揺さぶった。

「エマ……」

 吐息混じりの声に、エマは指先で彼の唇をそっと押さえる。

「……何も、言わないで」

 視線が絡み合った刹那、エマの方から唇を寄せてきた。
 セイルはもう理性を保つことを諦め、そのまま熱に身を任せた。

 エマは、百合子として、清一と愛し合いたかった。
 セイルの中に生きている、あのとき愛した清一を感じてみたかった。
 彼の透き通る黒い瞳に、百合子として映ってみたかった。

 百合子になって、重なって、溶け合って、彼とひとつになっていたい。

 百合子に戻るのは、今夜だけ。だから今だけは──

「どうして……泣いているのですか」

 セイルが切なげに表情を歪ませながら問いかけた。エマは微笑んだ。

「ただ、貴方が、生きていて、温かくて……それが、嬉しくて……」

 セイルはエマの頬に伝う涙を唇で辿る。
 何もかもが愛しくて、エマの涙はとめどなくあふれた。

 清一の、背中、吐息、髪、瞳……すべてがここにある。

 エマは心の中で、何度も囁く。

 ──清一さん。
 大好きよ。

 ずっと、ずっと。
 あなたが好き。

 愛しているわ。



 夜が静かに明けていった。
 東の空が白み始めるころ、セイルは深い眠りに落ちていた。

 エマは彼の腕の中で目を覚ます。
 体にはまだ温もりの余韻が残っている。

 そっと身を起こし、眠るセイルの顔を見つめる。
 独りぼっちで生きてきた愛しいその人が、今は穏やかな寝息を立てている。
 眉間の皺もほどけて、無防備なその横顔は、昔の清一の面影を思い出させた。

「……清一さん」

 声に出してはいけない。けれど唇が形をつくってしまう。

 彼の頬にそっと指を這わせる。
 生きている温もり。
 触れれば触れるほど、彼がもう幻ではなく、ここに確かにいるのだと実感できた。

 エマはそっと唇を寄せ、彼の額に小さなキスを落とす。

 カーテンの隙間から、朝の光が一筋差し込む。
 その光に照らされるセイルの寝顔を、エマは胸に焼き付けるように、いつまでも見つめていた。
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