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14歳の助走。
港町の一夜と老人達。
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夜、宿の土間に入るなり潮の匂いが濃くなり、戸口から顔役たちがどやどやと入ってきた。麻の桶を両腕で抱え、笑いながら言う。
「伯爵様、まずは俺たちの魚を食ってもらいてえ。今日の一番だ」
桶の中では銀青の鰺が跳ね、赤い鯛の鱗が灯にきらりと返る。僕は礼を言い、宿の台所を借りる許しをもらって手早くまな板を据えた。ミザーリが袖をまくって水を汲み、アールが布巾を折って渡す。包丁を入れると身が素直に離れ、脂が刃に薄く光る。
「塩焼きは炭を浅く。鯛は荒で潮汁、鰺は三枚にして酢橘。残りは南蛮漬けに回そう」
言いながら手を動かす。エメイラが葱を刻み、ミレイユが湯呑を並べ、ストークは火の口を見て風を送る。顔役の一人が目を丸くした。
「あんた、素人じゃねえな」
「食べる人の顔が良ければ、台所は勝ちだよ」
鯛の潮汁が湯気を立て、塩焼きの皮が軽く弾ける。南蛮漬けの甘酢が鍋で笑い、刺身は薄く引いて皿に花のように並べた。いつの間にか酒が持ち込まれ、徳利が増える。誰かが三味をかき、誰かが樽を叩く。僕は心の中で、こいつらドワーフみたいだな……と思いながら盃を受けた。
「うめえ。潮汁が骨に効く」
「この酢のやつ、明日でも旨そうだ」
一巡して腹が落ち着くと、顔役の年嵩が急に真顔で言った。
「伯爵様よ、俺たちも楽じゃねえんだ。こんな町だ、しじゅう揉め事は起きる。網、場所、荷、金……誰かが泣く前に片を付けて回るのが顔役の役目だが、骨が折れる」
「だから、あんたのやった対話の席、あれは良い。札に書かせりゃ頭が冷える。あれ、またやってくれ」
「わかった。続けるよ。ただ、席が喧嘩の火種になりそうならたたむ。そこは約束だ」
「そいつでいい」
盃がもう一度回り、やがて男たちは「明日の漁がある」と立ち上がった。桶の底に残った氷を指して「この冷たさが町の命だ」と誰かが言い、皆で頷いて散っていく。
翌朝も港の見える広場に対話の席を据えた。札は短く、返答は二行。顔役から若い衆まで順に腰を下ろし、昨日の続きが自然に始まる。氷の受け渡し、箱の貸し出し札の回し方、馬車の停め位置、荷揚げの順。ミレイユが板に運用の骨子を書き、アールが抜けを埋める。僕は口を挟みすぎないようにしながら、港の動きの「詰まる所」を頭の中で結ぶ。箱の差配は顔役の合議で、札は番屋と市場の二か所に同文掲示。返却遅延は翌日の末番送り。覚えの悪いところは実演で叩き込む。約束は、今日もひとつもしなかった。決めるのは伯爵拝命ののち、責任の置き場が定まってからだ。だが、決めるために必要な筋は、こうして町の声から立ち上がってくる。
昼過ぎ、顔役たちに見送られて港の町を出た。新街の建設予定地に寄ると、野の草を分けるように紐が長く引かれている。杭の間隔は揃い、地墨のような炭の点が等間に打たれている。思わず笑ってしまった。
「全く、ドワーフは……」
風下の茂みががさりと動き、ヂョウギの弟子らしい小柄な影がいくつか、気まずそうに顔を引っ込めた。ミザーリが肩で笑い、僕は声だけを柔らかく投げる。
「ほどほどにしておけ。次は皆で息を合わせてからだ」
返事はないが、紐に手を掛ける動きがゆっくりになった。視察だけにして、その場を離れる。
領都に戻ると、役所の前で白髪の老人が待っていた。元騎士の耳役……この町の「耳」として雇ったばかりの人だ。彼が背筋を伸ばし、背後の老人たちを指し示す。
「お館様。元キトレ領の槍を預かった者ばかりです。耳役、我らにお任せ下さい」
目が強い。手の節が太い。出すぎた熱は時に厄介だが、真っ直ぐな頼みは嫌いではない。僕が返事を探していると、背後からドライが一歩出た。
「しばらく様子を見ます。札は私が集め、まとめはミレイユ殿。老人衆には席の守りと声の順番を見ていただくのがよろしい」
僕は頷き、老人たちへ向き直る。
「任せる。ただし、耳役の役目は『聞く』ことだ。叱らない、脅さない、言わせ切る。札の文字が弱い者には、言葉を紙にしてやるが、言い回しは足さない。守秘は堅く、噂は外へ出さない。席の周りで揉めそうなら、静かに合図して青の技を呼ぶ」
老人の代表が膝をつきかけ、僕は慌てて手で止める。
「頭を下げるのは最後の札が片付いた時でいい。仕事の合図は首ではなく、紙でやろう。二行で要点、名前は任意、印は任意。読み上げは交代で」
「承知」
短い答えが揃い、老人たちは目だけで合図を交わした。戦場で癖になった「視線の会話」だ。悪くない。ドライが小声で続ける。
「最初の三日は、私が椅子の後ろで見ます。癖が出過ぎたら肩を叩きます」
「頼む」
耳役の札箱と筆記具を渡し、席の幕を新しく張り替える指示を出す。アールは掲示の見出しをもう一段階短くし、ストークは番を交代する刻……いや、交代の「目安」を札の裏に小さく記す。エメイラは老人たちの椅子の高さを揃え、ミザーリは席の死角に立つ。アインスとゼクスは周縁を一巡し、余計な視線が絡まないよう風通しを作った。
「では町の息を集める。ここからは、皆の役目だ」
僕がそう告げると、老人たちは黙って頷いた。目が燃えている。しかしその火は、今は静かに炉の奥で燃やしておけばいい。燃やすべきは言葉で、燃やしてはならないのは人の心だ。
窓の外では、領都の通りに夕陽が差し込み、埃が金いろにひらめいた。港で受けた冷たい箱の気配が、まだ掌に残っている。旧キトレの畑の風の匂いも、耳の奥に残っている。あとは、この町の声だ。耳を広げ、紙に落とし、積み重ねる。それが統治の最初の一歩だと、お爺さんは言った。
僕は深く息を吸い、老人たちへもう一度だけ短く言った。
「頼む」
「お任せを」
力の抜けた返事が、頼もしかった。
「伯爵様、まずは俺たちの魚を食ってもらいてえ。今日の一番だ」
桶の中では銀青の鰺が跳ね、赤い鯛の鱗が灯にきらりと返る。僕は礼を言い、宿の台所を借りる許しをもらって手早くまな板を据えた。ミザーリが袖をまくって水を汲み、アールが布巾を折って渡す。包丁を入れると身が素直に離れ、脂が刃に薄く光る。
「塩焼きは炭を浅く。鯛は荒で潮汁、鰺は三枚にして酢橘。残りは南蛮漬けに回そう」
言いながら手を動かす。エメイラが葱を刻み、ミレイユが湯呑を並べ、ストークは火の口を見て風を送る。顔役の一人が目を丸くした。
「あんた、素人じゃねえな」
「食べる人の顔が良ければ、台所は勝ちだよ」
鯛の潮汁が湯気を立て、塩焼きの皮が軽く弾ける。南蛮漬けの甘酢が鍋で笑い、刺身は薄く引いて皿に花のように並べた。いつの間にか酒が持ち込まれ、徳利が増える。誰かが三味をかき、誰かが樽を叩く。僕は心の中で、こいつらドワーフみたいだな……と思いながら盃を受けた。
「うめえ。潮汁が骨に効く」
「この酢のやつ、明日でも旨そうだ」
一巡して腹が落ち着くと、顔役の年嵩が急に真顔で言った。
「伯爵様よ、俺たちも楽じゃねえんだ。こんな町だ、しじゅう揉め事は起きる。網、場所、荷、金……誰かが泣く前に片を付けて回るのが顔役の役目だが、骨が折れる」
「だから、あんたのやった対話の席、あれは良い。札に書かせりゃ頭が冷える。あれ、またやってくれ」
「わかった。続けるよ。ただ、席が喧嘩の火種になりそうならたたむ。そこは約束だ」
「そいつでいい」
盃がもう一度回り、やがて男たちは「明日の漁がある」と立ち上がった。桶の底に残った氷を指して「この冷たさが町の命だ」と誰かが言い、皆で頷いて散っていく。
翌朝も港の見える広場に対話の席を据えた。札は短く、返答は二行。顔役から若い衆まで順に腰を下ろし、昨日の続きが自然に始まる。氷の受け渡し、箱の貸し出し札の回し方、馬車の停め位置、荷揚げの順。ミレイユが板に運用の骨子を書き、アールが抜けを埋める。僕は口を挟みすぎないようにしながら、港の動きの「詰まる所」を頭の中で結ぶ。箱の差配は顔役の合議で、札は番屋と市場の二か所に同文掲示。返却遅延は翌日の末番送り。覚えの悪いところは実演で叩き込む。約束は、今日もひとつもしなかった。決めるのは伯爵拝命ののち、責任の置き場が定まってからだ。だが、決めるために必要な筋は、こうして町の声から立ち上がってくる。
昼過ぎ、顔役たちに見送られて港の町を出た。新街の建設予定地に寄ると、野の草を分けるように紐が長く引かれている。杭の間隔は揃い、地墨のような炭の点が等間に打たれている。思わず笑ってしまった。
「全く、ドワーフは……」
風下の茂みががさりと動き、ヂョウギの弟子らしい小柄な影がいくつか、気まずそうに顔を引っ込めた。ミザーリが肩で笑い、僕は声だけを柔らかく投げる。
「ほどほどにしておけ。次は皆で息を合わせてからだ」
返事はないが、紐に手を掛ける動きがゆっくりになった。視察だけにして、その場を離れる。
領都に戻ると、役所の前で白髪の老人が待っていた。元騎士の耳役……この町の「耳」として雇ったばかりの人だ。彼が背筋を伸ばし、背後の老人たちを指し示す。
「お館様。元キトレ領の槍を預かった者ばかりです。耳役、我らにお任せ下さい」
目が強い。手の節が太い。出すぎた熱は時に厄介だが、真っ直ぐな頼みは嫌いではない。僕が返事を探していると、背後からドライが一歩出た。
「しばらく様子を見ます。札は私が集め、まとめはミレイユ殿。老人衆には席の守りと声の順番を見ていただくのがよろしい」
僕は頷き、老人たちへ向き直る。
「任せる。ただし、耳役の役目は『聞く』ことだ。叱らない、脅さない、言わせ切る。札の文字が弱い者には、言葉を紙にしてやるが、言い回しは足さない。守秘は堅く、噂は外へ出さない。席の周りで揉めそうなら、静かに合図して青の技を呼ぶ」
老人の代表が膝をつきかけ、僕は慌てて手で止める。
「頭を下げるのは最後の札が片付いた時でいい。仕事の合図は首ではなく、紙でやろう。二行で要点、名前は任意、印は任意。読み上げは交代で」
「承知」
短い答えが揃い、老人たちは目だけで合図を交わした。戦場で癖になった「視線の会話」だ。悪くない。ドライが小声で続ける。
「最初の三日は、私が椅子の後ろで見ます。癖が出過ぎたら肩を叩きます」
「頼む」
耳役の札箱と筆記具を渡し、席の幕を新しく張り替える指示を出す。アールは掲示の見出しをもう一段階短くし、ストークは番を交代する刻……いや、交代の「目安」を札の裏に小さく記す。エメイラは老人たちの椅子の高さを揃え、ミザーリは席の死角に立つ。アインスとゼクスは周縁を一巡し、余計な視線が絡まないよう風通しを作った。
「では町の息を集める。ここからは、皆の役目だ」
僕がそう告げると、老人たちは黙って頷いた。目が燃えている。しかしその火は、今は静かに炉の奥で燃やしておけばいい。燃やすべきは言葉で、燃やしてはならないのは人の心だ。
窓の外では、領都の通りに夕陽が差し込み、埃が金いろにひらめいた。港で受けた冷たい箱の気配が、まだ掌に残っている。旧キトレの畑の風の匂いも、耳の奥に残っている。あとは、この町の声だ。耳を広げ、紙に落とし、積み重ねる。それが統治の最初の一歩だと、お爺さんは言った。
僕は深く息を吸い、老人たちへもう一度だけ短く言った。
「頼む」
「お任せを」
力の抜けた返事が、頼もしかった。
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