150 / 196
#150 もしもピアノが弾けたなら
しおりを挟む老人ホームの一室で、87歳になる田中は、窓際のピアノをぼんやりと眺めていた。鍵盤は黄ばみ、音色も不確かだ。誰も使わないそのピアノは、まるで捨てられた思い出のように、ひっそりと部屋の隅で眠っている。
「もしもピアノが弾けたなら、人生も違っていただろうな」
田中は独りごちた。若い頃から音楽が好きだったが、家計を支えるために夢を諦め、工場で一生を終えた。
定年を迎えたとき、ふと思った。
「今からでもピアノを始めたらどうだろう?」
だが、その思いも体力の衰えとともに霧散した。
そんなある日、ボランティアの若い職員が田中に言った。
「ピアノ、興味あるんですか? ぜひ一緒に弾いてみませんか」
「いや、もう指が思うように動かん。ピアノなんて夢のまた夢だ」
田中はそう答えたが、心の奥で小さな火がくすぶるのを感じていた。
翌日、その職員が楽譜を持ってやってきた。
「簡単な曲ですよ、試しにどうですか?」
と言われ、田中は渋々ながらもピアノの前に座った。だが、指は思うように鍵盤を押さえられない。震える手がぎこちなく鍵盤を叩き、間違った音が次々にこぼれた。田中は額に汗を浮かべながら言った。
「やっぱり無理だな……」
しかし、そのときだった。部屋の奥でじっとしていた老婦人――田中の妻である千代が、ゆっくりと車椅子を動かして近づいてきた。彼女は認知症を患い、ここ数年まともに言葉を発したことがない。だが、田中が弾いたたどたどしい音を聴くと、彼女の目から涙が一筋流れた。
「……その曲……覚えてるわ……」
千代が、はっきりとした言葉でつぶやいた。
驚く田中。二人にとって、その曲は特別なものだった。若い頃、彼がプロポーズした夜に流れていたピアノの小品。
「いつか自分で弾いてあげたい」と言った言葉を、千代はずっと覚えていたのだ。
田中は涙をこぼしながら、不器用な指で再び鍵盤を叩き始めた。メロディは途切れ途切れで、決して上手とは言えない。それでも、千代の瞳には確かに生気が戻っていた。彼女は微笑み、震える声で言った。
「ありがとう、あなた……ずっと待ってたのよ」
その瞬間、田中の心の中で長い長い月日が一つに繋がった。もしもピアノが弾けたなら――その夢は叶わないと思っていた。だが、今こうして、不格好でも音を奏でることで、彼は最後の約束を果たすことができたのだ。
そしてその日、千代は何年かぶりに穏やかな眠りについた。それが、彼女の人生最後の夜になったことを、田中はまだ知らない。だが、彼女の顔には確かな安らぎが浮かんでいた。
翌朝、田中はピアノの前に座り、再び鍵盤を叩いた。今度は独りきりで、彼女のためにもう一度――不器用な音を紡ぎながら。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
プール終わり、自分のバッグにクラスメイトのパンツが入っていたらどうする?
九拾七
青春
プールの授業が午前中のときは水着を着こんでいく。
で、パンツを持っていくのを忘れる。
というのはよくある笑い話。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる