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第二章 王子殿下の悪徳
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しおりを挟む「ラー」
名前を呼ぶと、レイ族の男は哀切が混じった瞳を細めた。
「正しくは、ラーではないが。この国で発音できない音らしい」
「じゃあ、私の名前は呼びにくかったりするの?」
「君の名前はそうでもないよ。それに、その名前は女神の名前だ」
「お前も女神カルディアを知っているの?」
「この国に来てから知った。この国とは文化が違いすぎる。我々が信仰していた神とは系統が違う」
「そうなの?」
「この国の神は温厚だ。僕が知っている神とは、全く異なる」
それは驚きだ。やはり、地域によって信仰する神が違うなら、その神の性質も違うのだろうか?
どんな神なのだろうか。レイ族の男の信仰する神とは。
「どんなことより、教えろ。セラは言葉を発していなかったか。遺言のようなものはなかった?」
「いいえ。……私は、彼女を見て化物が追い掛けてきたのだと思った。目の前で、二人も被害に遭って動揺していたの」
「……そうか」
「彼女はお前のつがいではなかったのよね?」
「研究員達に無理やりあてがわれただけだ。可哀そうに、いつも泣いていた。彼女の息子はまだ五歳だった。子の安否をずっと案じていた。この身の不徳のせいで、助けられなかった」
サラザーヌ公爵を食べた彼女が母性を持っていたなんて信じられない。
もし、サラザーヌ公爵令嬢が正気に戻ってこのことを聞けばどう思うだろうか。
「どうやってあの学校から逃げたの?」
「……森に行った。あそこならば、僕は隠れられた。時折、捜索隊のようなものが来たが、耐え忍んだ」
裏の森か。ハルと一緒に入ったことがある。あの森は人を迷わせる。隠れられるだろう。
「そのあと、神聖なミミズクに助けられた」
「!? ミミズクって、いつもぽやぽやしている、あのやる気ない奴のこと?」
「知り合いなのか?」
「知り合いというか、あいつにはいろいろと迷惑をかけられたというか」
「そう。僕の部族では、梟は崇拝の対象だ。だが、あのように美しく、人語が話せるものは初めて見た」
黒く濁った瞳が心なしかきらきらしている。
あのミミズクに向けられた崇拝の念に、微妙に納得が行かなかった。
「かのミミズクによって王都に出ることができた。さすらううちに、ランファの旦那様に身元を預かってもらうことになったのだ」
「ランファ。商人の一族よね」
「ああ、この王都では五本指に入る盛況ぶりらしい。よくは知らないけど」
王都に出てきた経緯は分かったが、これから先どうするかだ。差し当たっていえば、私を殺さないようにか持っていかなくてはならない。
温和に会話しているようだが、首に手はかけられたままだし、緊張状態はまだ続いている。それどころか、気を緩めればすぐさま殺してやろうとする気概が感じられた。
穏やかな口調なのが恐ろしい。彼は穏やかな顔のまま私の首をへし折ることも可能だろう。
「お前は、私を殺したいのよね」
「ああ。だが、この殺意の原因はお前ではない」
「……どういうこと?」
「お前は襲われただけ。直接殺したわけでも、痛めつけたわけでもない」
「でも、私はお前達を買った国の王女でしょう?」
「それは殺す明確な動機にはならない」
藍色のサテンシルクが私の頬に当たった。
ラーは私の髪を触っている。首に置かれていた指が、髪を梳いている。
歳の離れた妹にやるような、慈愛に満ちた行為だった。
ラーは何歳なのだろう。おそらく成人はしていないだろう。浮世離れした風貌だが、肌は若々しい。
「だが、同じだけ殺してしまえと胸が騒めく。虫のように惨めに這いつくばらされた。だから、這いつくばらせてやりたくなる。だが、これをし返しては、お前達と同じになるだろう?」
この人は、こうなる前はどんなに清廉な人間だったのだろうか。公平をよしとして、穏やかな少年だったに違いない。正義を胸に抱いていたのだろう。
髪はきっと白髪ではなくて、瞳はもっと綺麗だった。いたぶられ、拷問され、いつ終わるともしれない苦悩にすべて変えられてしまった。
けれど、その精神は強固な意志を持っていた。狂ってはいないのだ。
こんなに皮肉なことがあるだろうか。復讐されるべき相手達に対しても、恐怖を覚えそうになるほどの慈悲で憤怒を諫めようとしている。
「殺してしまいたい。殺せないならば、僕は死んでしまいたい。だが、それは不可能だ。僕には償わなければならない罪があり、助けなければならない同胞がいる」
「罪?」
「僕は人を食った。食いたくなどなかったのに、空腹で我を忘れて食らった。何十と肉を食らった。美味しいとさえ感じた。このままずっと食べていたいとさえ思った。僕は化物になり果てた」
涙をこぼさないまま泣いているようだった。
声が震えている。その振れ幅があとになるにつれて大きくなる。
「僕らが食べるのは、死体だけだった。死者を口にすることで、死に打ち勝った彼らの強さを讃えるのだ。それが、どうだ。度重なる苦悩を受けただけでーー爪をはがされ、体を切り刻まれ、指や腕を何度も折れられただけで、屈してしまった。尊厳もなにもなく、ケモノのように理性を手放した」
髪を引っ張られる。痛いのに、それ以上に目の前にいるラーの方が何倍も痛そうだった。
地獄の責め苦を受けても、彼は自分を正当化しない。
たったそれだけのことで。そういって、唾棄すべきだと自分自身を断罪しようとしている。
「ランファの旦那は僕が稼ぎ頭になるならば、奴隷としてあちこちに散らばった同胞達を買い戻す手伝いをすると言ってきた。僕が食らった人間の遺族も支援すると。君を殺したら、その母数が増える。それに僕は、もう二度と人殺しはしたくない」
「……そう。私も、殺されたくない」
声が震えた。本当に殺されたくなかった。
そしてそれ以上に、目の前の男が、人を殺して傷つく姿をもう見たくない。
「君は、僕を殺したくないのか」
唐突な質問にひるむ。
「第四王女カルディアは、様々な災厄の元凶だと書き立てられているだろう。新聞で見た。僕の前に起こった大虐殺も、僕とセラが起こした人死も、君が原因だと書かれていた」
「それは……」
本当のことだった。
犯人は見つかっていない。けれど、誰かを悪者にしなければ、民衆は納得しない。
私の名前は女神と同じ名前をしている。しかも、王族だ。神聖な名を持つ人間が貶められる。高貴な位のものが失墜する。自分より上位に位置するものが虐げられるのは、興奮する。
長い沈黙のあと、私は口を開く。
「お前と同じよ。お前を殺しても解決しない。それに、私、お前を殺すことなんてできないもの」
「それはどういった意味?」
「力がそもそもないし、それに覚悟もないわ」
「覚悟、か」
「殺してしまったら、何をしても償えないから」
ふっと笑われ、髪から手が離れていく。
「そうだ。金や謝罪では償えない。死を持って償っても、死人は蘇らない。何を持ってしても、到底許されるものではない。だから、僕がお前を殺そうとするのは、衝動に駆られた、理性のない快楽的な行為だ」
彼の悲痛な瞳は、それでもまだ憎悪で濡れていた。
それを強固な理性で押さえ込んでいるのだ。
並外れた自制心に心が疼いた。
「さっきの奴らは、君を呪う国民達なの?」
「分からない。人から怨みを買うのが特技なの。私を殺したい人間はごまんといる」
「……それは君が嫌な奴だから?」
「その理由で人を殺していいならば、きっと私は何十回も殺されているわね」
自虐を込めて呟く。
サラザーヌ公爵令嬢は私なんかに夢を見ていた。
彼女にとって、カルディアという存在は、どんなにきらきらとしていたのだろうか。実際には泥の中でもがき、馬鹿みたいに虚勢を張って生きているのに。
「殺されそうになるのは慣れたわ。もう、嫌ってほど経験したもの。でも、未だに死にたくないと思う。これって、変よね?」
「……どうしてそう思うんだ?」
「周りでは沢山の死が転がっているの。本当に私の行動のせいで死んだ人がいる。私が動かなかったことで死んだ人がいる。それなのに、自分の命に固執するなんて、浅ましい行為だわ」
ラーは頭をゆるく振った。
「……僕の部族は、犠牲となって死んだ人間が一番善良だとされる。死んだとしても彼らは天国に行く」
犠牲となって死んだものが、一番善良?
「我らの神は人を食べる。人は神の栄養となるため生まれてきたからだ。捧げよ、満たせ、血を流せと、神は言う。人柱になったもの、自己犠牲で死んだもの、すべからく善だ。死という悪を打ち負かし、神への愛を体現してみせた。死に打ち勝ったのだ。だから、その勇気を讃え、口に含み、体に取り込む」
壮絶な宗教観だ。野蛮だと言うものもいるかもしれない。
だが、彼らはそうやって生きてきたのだ。
死んだ人間の勇気を讃え、恭しく食する。
「次は己の番かもしれないと震える。だが、死んだ英雄を食せば違う。なぜなら死に打ち勝ったものの尊き血肉が自分に混じるからだ。自分も同じ、死に打ち勝つものになれる」
ラーはゆっくりと顔を上げて、赤黒い瞳で私をじっと見つめた。
「死は怖い。それは当たり前だ。君のその言葉は、皆が持つ当たり前の感情だ。それを浅ましいというのは、人間の驕りだ」
「……もしかして、励ましてくれている?」
「励まし? 僕は当然のことを述べただけだ。君が可哀想にも偏見で目を曇らせていたから、改心させてやろうと思って……」
顔を真っ赤にしながら、彼がそっぽを向いた。
図星だったようだ。顔がにやける。
「……にやにやするんじゃない」
「ありがとう。初対面の人間を励ますなんて、お前はいい奴なのね」
「別に。……笑うな。金を取るぞ?」
照れ隠しのつもりなのか、脅しつけるような声で呟かれた。
首を振ると、咳払いして、赤い顔をしながら私の瞳を見つめてきた。
「……それで、どこに行く? 学校までは流石に無理だが、行きたいところがあるならば送る」
手が差し出された。
はやく帰ったほうがいいのは分かっていた。だが、きっとこれはなにかの運命なのだろう。ラーの手を掴んだ。
「『黄色い貴婦人』に行きたいの」
ラーは目を丸くする。
空はすっかり太陽が落ちはじめ、茜色に染まっていた。
『黄色い貴婦人』についたのは、空がようやくインクを溢したように真っ黒になった頃だった。
雑多とした通りにその酒場はあった。橙色のほのかな光が暗闇を優しく照らしていた。
「ありがとう、ここまで連れてきてくれて」
「次は賃金を徴収するから、そのつもりで」
「……なにかあったら、中央公園前にある私の屋敷に来て。国外逃亡ぐらいならば、役に立てると思うわ」
これは背信の行為だった。善良な人間ならば、彼を捕まえて、罰を受けさせようとするだろう。協力者のような顔をしている自分が信じられなかった。
「お人よし。もう二度と会いたくないと言うべきだ。僕は忌むべき化物だろう?」
頭をつつかれる。その仕草に精一杯の慰めを感じた。
淡い情を持つ。目の前の人間は人をたくさん殺したのに、そうは思えなかった。
深く考えれば、私はきっと彼のことを拒絶するだろう。人を殺す人間は嫌いだ。嫌悪する対象だ。けれど、彼が人を殺す原因になったのは、私達だ。
どこで間違えたのだろう。
彼らが買われたときなのか、気の狂うような責め苦を耐え忍んでいたときか、空腹に耐えきれずに食らったときか、それとも彼が再び理性を取り戻してしまったときか。
だれが、償えばいいのだろうか。
死んだ者も生き残ったものも大勢いる。誰かが死んで終わるのならば、簡単な話だ。
彼は目的を遂げられずに死ぬだろう。復讐されるのか、それともまた別の原因でかは分からない。だが、世間知らずの私でも、彼が行おうとする行為の虚しさが分かる。
一度失ったものはもう二度と帰ってはこない。奴隷として散らばった同胞のそのほとんどを助けられないだろう。もう一度会うことさえ難しいかもしれない。
遺族に対しての補償も、それがどれだけ救いになるかわからない。
ラーは自分の行為が偽善だと分かっていて、それでもそれを心の支えとしてすえることで、生きようとしているのかもしれない。
ラーと別れて、胃液をのみこむ。吐きそうになっていたのを、今気が付いた。
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