思い出のチョコレートエッグ

ライヒェル

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ゼロ地点

旅立ちの日

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発作的に決行した私の傷心旅行から半年がたった。旅行に旅立った当時はまさか、近い将来、私がこの地に降り立つことになるとは全く想像は出来なかった。
そう、私は今、ベルリンに居る。しかも、ひとりで。

オランダを訪ねて帰国した後、私は漠然とドイツ行きを考え始めていた。
調べてみると、日独間ではワーキングホリデービザが発行されており、参加資格者は18歳以上30歳以下ということだった。しかも、申請に必要な書類さえきちんと揃えて、大使館での審査に無事通れば、ほんの1週間程で発給される。
海外生活とかあまり考えた事も無く、あえて言えば昔、従兄弟のいるアメリカへ夏休みだけお世話になったりして留学気分を楽しんだくらいの経験しかない。それに、英語圏以外に住むということなど一度も想像しなかった。でも、マリアに出会って急にドイツに興味を持ち、図書館の本やネットで情報を集めて行くにつれて、一生に一度くらい、思い切って新しい世界に飛び込んでみるのも人生の糧として得る事は多いのではないかと思い始めた。
たまに元彼がメールを送って来ては、遠く離れた南米のチリで苦戦しつつも新しい環境にたった1人で果敢に挑んでいる様子を教えてくれる。彼との別れに未練がないとは言い切れないが、彼がそうやって頑張っている様子がとても誇らしく、心から応援したいと思えるようになっていた。

当時は5年勤め続ける外資系のIT企業で海外事業部の一員として、それなりにやりがいのある仕事に就いていたし、同僚にも恵まれ、お給料も満足していたから、何の不満もない日々だった。
ただ、結婚を意識していた彼に去られたことで、ほぼ理想そのものだった生活の形が崩れてしまった。彼がいなくなった部分を他に埋めるものがあるわけではなく、そのせいか空いた時間には国外へ出ることに想いを巡らせ始めたということだ。
最初はさすがに突飛すぎるかなと我ながら非現実さを感じて、ただの妄想で留めておこうかとも思った。
恵まれた生活をゼロにして、新しい世界を開拓したところで、それが結果的に良い方に辿り着くとは限らない。仕事を辞めて、1年ドイツで過ごして帰国したとして、果たしてドイツ語の向上がどれほどかなんて見当もつかないし、それに帰国後、今と同じくらい満足出来る職場を見つけることが出来るかなんて予測出来ないことだ。

美妃に相談してみたら、最初は驚いていたが、もともと根っからの楽観主義者で「物事は勢いが大事」というポリシーの持ち主なので、すぐに私を応援する側に回ってくれた。両親はかなり動揺していたが、「さすがにいい年した娘の進路を親のエゴで邪魔したくないから」とあくまで私自身に決断はまかせるというスタンスだった。
悩むこと数ヶ月。やっぱり優柔不断なのか、最終的な結論は出なかった。
結局また人に意見を聞くという意思の弱い自分に負けて、マリアにもらったカードにあったメールアドレスに今考えていることを書いてメールしてみた。送って2時間後、丁度、仕事を終えて帰宅する電車の中で返信が来て、内容はシンプルに4行のみ。
******************************************
久しぶり、カノン。マリアよ!

1月3日からMitte地区のウィークリーアパートが空いてたから、
1ヶ月間リザーブしたわ。
後で写真送る。到着時間がわかったらメールして!

******************************************
「リッ……リザーブ?!」
それを読んだ時にはそれこそ、驚きのあまり頭が真っ白になった。
すぐに自分が送ったメールを読み返したが、私は「ワーホリで1年そちらに行こうか迷っている。仕事も楽しいし今の生活で満足しているんだけど、なんだかベルリンが気になって、どうしようか考え中」という悩みを綴っている。
決断しかねて悩んでいるから、マリアの意見を聞こうとしたのに、なぜいきなり「1月3日から1ヶ月滞在する場所」の連絡が来るのか。動揺し、一気に血圧がカーッと上がり、数秒後は不安でドーッと血の気が引き、頭がフラフラした。
やっとの思いでつり革に掴まって立っていたが、バクバクと動悸がして冷や汗が出た。
最寄りの駅で電車を下りてヨロヨロとベンチに腰を下ろし、もう一度、マリアのメールを確認した。
いや、本当にそう書いてある。
深呼吸して、少し冷静さを取り戻し、自分に言い聞かせる。
気を利かせて予約してくれただけだ。別にキャンセルしてもらうことは出来るんだし、パニックになる必要はない。きっと、万が一私があちらに行く事を決断することを考えて、先回りして滞在先を探してくれたということだ。

帰宅して妹に見せたら、これが意外にも驚かない。
「だってさ、カノンがうじうじ悩んでるって内容のメールするってことは、私の背中を押して!と言っているようなもんじゃない。だから、マリアが決断できないカノンを助けようと行動してくれたってわけだよ。カノンってさ、こうでもしないと決断しないまま永遠に悩んでそう」
「……ミキ、まるで心理学を勉強した人間みたいな口ぶりじゃない」
「心理学ってか、カノンのことなら、行動も思考もほぼ全部読める」
ふふーん♪と言いながらネイルを始めたミキを見て、私は我ながら読まれ易い性格なんだなと少し落ち込んだ。

翌日、マリアから写真が数枚送られて来た。
アパートの建つ通り、アパートの中の写真、そしてカフェでなぜか金ピカのヘルメットをかぶってビールを飲むマリアの写真、彼女のアトリエらしい場所に人が集まっている様子……メールの最後にただ一言、「アパート周辺はカフェだらけ」と書いてあった。
いや、芸術家ってすごいもんだなと妙に感心してしまった。
マリアの魅力というのだろうか、彼女の不思議なリズムに巻き込まれて振り回されてしまう。しかも、それが心地いいというのが、彼女が人間として特別な魅力があるからなんだと思う。

年明けの1月3日。
何故か指定されてしまった到着日から逆算し、私は退職願いを提出、仕事の引き継ぎ、ビザ申請の諸々の準備、往復航空券の手配……気がついたらトントン拍子で準備は整い、年末に連続して開かれた忘年会、歓送会が過ぎ、新年が来てまもなく、本当に出国してしまったのだ。
「絶対遊びに行くー!!!」
何度もしつこく言う美妃と、やっぱり心配なのか少し涙ぐんだ両親を背に、成田空港から旅立ったのだった。
飛行機が離陸してあっという間に窓の下へ離れて行く日本の景色に、本当に自分は海外に行ってしまうのかと今更自問自答してしまったが、27歳にもなって一人暮らしもせず親元でのうのうと過ごしていたことを考えると、これで大人として成長出来る機会が出来たんだと思った。

ベルリンには日本から直行便がなく、フランクフルトを経由してやっとテーゲル空港に着いた時はさすがに疲れていたが、予測していた状態だったので当日は空港の近くのメルキュールホテルで一泊した。翌朝、ホテルまでマリアが迎えに来てくれて、会うのはまだ2回目というのにまるで昔からの友人のように大喜びで抱き合って再会。
車の中でものすごい勢いでいろいろ話したくれたが、私は彼女の荒っぽい運転が気になってとても会話に集中出来なかった。市内に入ると、車の数も増え、道路幅も広くなってきて、しかもあっちこっち工事しているので迂回したりと落ち着かないし、それなりに渋滞もある。大きな交差点の赤信号で停車中の車の前に突然、道化師みたいな人が私達の前に立ちはだかった。かと思うと、何個もの赤いボールをお手玉のように空中に飛ばすこと10秒そこそこで止め、車の窓に寄って来て「金、金」と手振りで催促して回る。もう信号は青になるっていうのに、このおじさんはなんという所で芸を披露しているんだと唖然、呆然。
「あれはまだ許してあげちゃう芸なんだけど、たまに窓掃除させろと寄って来るやつがいて、あれは押しつけがましくて好きじゃないわ」
なんて彼女は言いながら、思い切りスピードも落とさずハンドルを切る。
「ひっ」
私達の車と隣の車の間をギリギリで自転車が通り抜けたかと思うと、さっと正面を横切った。
「なっ、なんていう危険な運転っ」
勿論今のこれはその自転車のことを言った。マリアの運転にケチつけたわじゃじゃない。
あの自転車、自殺行為かと思うくらいのタイミングで正面を横切るなんて最低っ!
「あー、ベルリンはね、オランダと違って自転車レーンが完全には整備されてないから、時々、自転車も歩道や車道を走ってるのよね。あんなのまだマシなほうだから」
なんてことないわ、というようにマリアが私に笑いかける。素敵な笑顔だ。じゃない!
お願いっ、こっち見ないで前を見て運転してっ!
ハラハラドキドキが続いて、アパートに着いた頃にはもう完全に脱力状態だった。

アパートは5階建ての3階で、1ベッドルームにリビングルーム、小さなキッチンやバスルームが着いて、とてもかわいい。
オーナーは英国人の女性らしい。どうりで小物がおしゃれなわけだ。
オーナーは殆ど国外にいるので、友人やその繋がりで希望する人にウィークリーとして貸し出しているらしい。短期滞在に使われるため、テレビ契約はしてていないのでテレビは無いが、勿論Wifiはちゃんとある。家電も家具も揃っているし、本当にスーツケースだけで十分生活していけるくらい便利そうだ。
スーツケースを置いてすぐ、アパート周辺を見せてくれるということで、マリアと一緒に外へ出る。
ベルリンの「中心」を意味するミッテ地区は、多くのアーティストが集まり、観光客も多く訪れるエリアだ。カフェもレストランもギャラリーも数えきれないほど集まっていて、連夜のようにイベントが催される。まさにベルリンの「心臓部」という感じだった。
アパートは少しそういう賑やかな通りから離れて静かな住宅街の中にあり、バスや電車、地下鉄の駅も数分歩けばあるという利便のよいところにあった。
「私も時々このあたりでギャラリーを開いたり、イベントに参加しているのよ」
「アトリエもこのあたりなの?」
「ううん、アトリエはもうちょっと西のほう。今度連れて行くわ」
マリアの案内で、彼女のお気に入りのベーカリーやカフェ、スーパーなどを教えてもらい、水はやっぱり水道水は普通は飲まないということだったので、スーパーで1リットルのミネラルウォーターを4本購入。エコバッグを持って行くのを忘れたので、5セントでプラスチックの袋も2枚買った。
「重いよね。一度、アパートに帰るしかないんじゃない?」
マリアに指摘されて、今更気がつく。確かに、これを持ってうろうろするのは無理だ。
なんでアパートに戻る直前に買わなかったんだろう、アホ!と自分で自分を罵倒しつつ、がっくりとうなだれた。不毛すぎる。
「ま、疲れているだろうし、一度アパートでゆっくりするのも悪くないと思うわ。カノン、携帯あるの?」
うなだれる私が持つ、重い袋のひとつをひとつをマリアが持ってくれる。
「うん、プリペイの持ってる。近いうちにこっちで契約するつもりだけど、それまではプリペイで」
「じゃ、夕方、体力あったら電話して」
「うん。あっでも、この間もらった番号、2つあったんだけどどっち?」
「最後が8で終るやつが私の携帯電話番号。もうひとつのはアトリエの番号だから。今日はアトリエには行かないから、携帯のほうにかけて」
「了解。いろいろ有り難う、マリア。ほんとに感謝してる」
お礼を言うと、マリアがちょっとはにかんだように目を細めた。褐色のつやつやした肌に、宝石のようなオリーブグリーンの瞳が神秘的で毎回見とれてしまう。
「じゃぁまたあとでね」
アパートの前に留めていた車に乗り込んで、威勢良くエンジンをふかして彼女が去って行った。
それにしてもあの運転でこれまで無事故って、よほど反射神経がいいんだろうな。

私は大きく深呼吸をし、よいしょと重い袋をふたつ抱えてアパートへ戻った。
3階まで水を4本抱えて登るのは思ったより大変で後悔した。次回からはよく考えて買い物しないと、階段の途中でぶっ倒れそう。
こちらのアパートは天井が高いせいか、各階をつなぐ階段もかなりの段数で、たかが3階と思ったが日本のマンションの感覚だときっと5階まで登った感覚だ。
それも、気をつけないとこの3階は実は2階。
最初マリアに2階と聞いていたのに、3階まで登って行くからおかしいと思って聞いたら、日本で言う1階はこちらでは0階らしい。つまり、数え方が違ったわけだ。
とりあえずキッチンの棚からグラスを出してボトルの水を注ぎ、一気に飲んだ。空気はかなり乾燥しているのかもしれない。
昨晩、ホテルから日本のほうへは到着の連絡メールを送ったから、今日は別に連絡しなくてもいいだろう。
今からWifiの設定をするのは面倒くさい。
まずはスーツケース!
入り口に起きっぱなしだったスーツケースをごろごろと押して、ベッドルームへ移動させた。
クローゼットがあったので、自分の衣類をハンガーにかけて片付け、コスメ類は全部バスルームに持って行った。
シャワーの中には、すでにシャンプー類も常備されていて、新たに買う必要もない。必要な日常用品がそろっていて助かる!
思ったよりスイスイと片付いて、すぐにスーツケースは空っぽになる。
住民登録とか携帯電話の購入とか、そういう面倒なこともTo Doリストにあるが、仮住まい中の今は住民登録しなくてもいいはずだから、当分考えない事にする。
それより、語学学校を探さないと!
本当は出国前に決めたかったが、実際に何カ所か訪問してから決めた方がいいと思って、いくつか候補の学校をリストアップしただけ。
でもそれでいいと思う、とマリアも言ってくれた。実際に学校を訪れて、雰囲気や、アクセスの利便など確認したほうが間違いないだろうと。
当面のところは、次のアパート探しだ。決まれば、ウィークリーは早めに出る事も可能らしいし、自分の拠点を作ってから行動を広げるべきだろう。
やっぱりネット接続くらいはやっておいたほうがいいかな……と思ったが、なんだか小腹が空いて来たので一度ベーカリーにでも行ってみることにした。
1人で外に出るのはやっぱりドキドキする。
緊張しながら先ほどマリアが教えてくれたベーカリーに行くと、先客が居た。観光客かわからないが、英語で話している!!!
思わずほっとしてしまう自分に気がつく。
仕方ないよね……まだドイツ語の学校にも行ってないし、喋る自信もないし。
ミッテ地区は観光客や外国人も多いから、英語が通じる率が高いんだろう。
たくさんのパンや焼き菓子がずらっと並ぶガラスケースを覗き込み、一瞬ですべてを忘れてガン見した。
美味しそうっ!!!どれもこれも食べたい!!!
甘そうなデニッシュに大きくカットされた色とりどりのケーキ達、ドイツ人のオニギリと言えるあの独特の形がかわいいプリッツエル、様々な種類のパンと新鮮そうなサンドイッチロール。
これはまたまた迷ってしまうじゃないの!
自分の順番が来るまでの限られた時間にどうしても決めなくてはならないという勝手なプレッシャーを感じて、緊張し必死でキョロキョロと商品を見渡す。
前にいたご夫人が、プリッツエルを3つと、アボカド、モッツアレラ、ハムとトマトのサンドイッチを注文している。
美味しそうなサンドイッチ……あれ、甘いのは注文しないんだ……なんてご夫人を見ていると、
「はい、どれですか?」
はっとすると、すでにもうご夫人は支払いをすませて出口のほうへ向かっていて、ケースの向こうのお店のお姉さんが私の顔を見ている。
しまった、どれにするかまだ決めてない……が、決めてないと認めるのが苦手な私はとっさに、
「あの、プリッツエルを2こと、そのブルーベリーのチーズケーキをひとつ……持ち帰りで」
考えるより早く、口が出てた。そして、押し寄せる後悔……
なんでケーキなんだ、全部おやつじゃないか、肉も野菜もないっ!!!

今更注文を変えるわけにもいかず、引きつる笑顔で料金を支払い、ベーカリーを後にする。
健康管理だけはきちんとするように!とママに何度も言われたのに、ほぼ全部小麦粉のランチ……いや、チーズとブルーベリーが入っているか……
でもやっぱりこれは食事とは言えない。
仕方がないので、のろのろと歩いてさきほども行ったスーパーに寄り、せめて野菜ジュースをと飲み物売り場へ向かう。
思ったより種類が豊富で少し興奮してしまい、あれこれと手に取ってチェック。フルーツミックスジュースや、野菜ジュースなどバラエティが多くてまた選ぶのにひと苦労だったけど、無難な「有機果物&人参ジュース」を選んでみた。8種類の有機果物に、全体の10%が有機人参らしい。やっぱり昨今はどこも有機ブームなのか、Bio商品が多く揃えてあるようだ。
乳製品売り場やお菓子売り場などいろいろ見て回って、明日の朝食に良さそうなドイツパン、ハム、ラズベリー入りのヨーグルトを買った。
ちゃんと全体の総合重量も考えたし、マイエコバッグも持参した。
一応学習して進歩を見せる自分にちょっぴり安心する。
帰宅してとりあえず冷蔵庫に片付けるべきものを入れて、グラスに注いだオレンジ色のジュースと、大きいプリッツエルをひとつお皿に乗せ、リビングのソファへ移動。
プリッツエルの表面に塩の固まりがたっくさんくっついているので、いくつかぽろぽろと落としてから食べてみる。
うん、もっちもち!そして、噛み締めると小麦の甘みが出て、塩かげんも丁度いい感じ。少し塩を払い落としたのは正解だったと思う。
ジュースも飲んで、お腹もいい感じになったのでソファにひっくりかえって少し手足を伸ばちてストレッチ。
本当に来ちゃったなぁ……なんて思いながら真っ白な高い天井を見上げていると、なんだかまぶたが重くなって来て……

バタン、とどこかのドアが閉まる音がしてはっと目が覚めた。
何の音だ?思わず回りを見渡して確認するが、部屋には誰もいないようだ。もしかするとお隣さんが帰って来た音とかだろうか。
玄関のほうも見るが、ちゃんと鍵が鍵穴にささったままになっているので、泥棒が入ったとかそういうのはなさそうだ。
外を見て、もう真っ暗になっているのに気がつき、慌てて携帯を取り出した。
あっ、もう夜の7時っ!夕方に電話すると約束したのに、もうとっくに夕方過ぎて夜じゃん!
居眠りしてしまった自分を責めたところで何も得るものはない。
急いでマリアに電話をかける。
しばらく呼び出し音がなるが、そのまま留守電に繋がってしまう。
そうだよねー……もう夕方じゃなくて、夜だし、マリアも他に用事もあって忙しいはずだよね、、、私の番号は知らないわけだし。
自己嫌悪に陥りつつ、留守電に簡単なメッセージを残して切る。居眠りしてたった今目が覚めたという言い訳と、また明日電話をかけるという内容だけ。
思わずため息をつきながら、またソファにごろんと転がる。
仕方がないから、Wifiの設定(といってもパスワードを入れるだけ)でもしようかな、と思い、Macのラップトップを取り出し、コーヒーテーブルに置く。
もしかしたらメールも何通か来ているかもしれないし、一応家族と、そしてオランダにいるおばぁちゃんに今日の様子くらい連絡しておいたほうがいいかも。
そう思ってラップトップを立ち上げながら、テーブルに置いてある書類を開き、パスワードを探し始めた。
パスワードらしきものを見つけてそれをメモに書き写そうとした瞬間、ものすごい大きな音でブザーが「ビビビーーーッ」と鳴りびっくりして飛び上がった。
なにっ?このアパートの呼び出し音?
って、どこで返事すればいいの?!?っていうか、誰?!
急いで玄関のほうへ向かってみると、入り口に受話器らしきものがあった。これだ。受話器を取ってみようとすると、またビビビビーッと鳴る。
「は、はろ?」
間の抜けた声で受話器に答えてみる。頼むからドイツ語で何も言わないでほしい……
「出て来て~、晩ご飯っ!!!」
大音響で耳に飛び込んで来たのはマリアの声だった。
ご飯!迎えに来てくれたんだっっ!
「オッケー!ありがと、今行くっ」
返事をして大急ぎでベッドルームへ戻り、ベッドに脱ぎ捨てていたお気に入りのバーガンディブラウンのダウンジャケットをひっかけると、バッグを片手に玄関を飛び出した。急いで鍵をかけながら、そういえばうたた寝の後メイクがどうなっているのか顔さえ確認していないことに気がついたが、それより人を待たせている事実(しかもそれが約束の時間に電話をかけていない相手)が最優先事項だったので、そのまま勢いよく階段を駆け下りた。
急いで1階、もとい0階の道路に面した扉を開くと、マリアがタバコを片手に片手車に寄りかかっていて、その目をまんまるに開いて驚いた様子で私を見つめた。
「カノン、すっごい早いわね!タバコ一本分くらい待つつもりだったんだけど、点けた瞬間にドアが開いた」
くすっと笑って彼女はもう一度深くタバコを吸ってぷーっと煙を吐き出し、街灯近くに備え付けられているオレンジ色のゴミ箱(タバコ用の穴があるようだ)で火を消し捨てた。
マリアがタバコを吸うことを知らなかったので少しびっくりしたが、準備が早すぎた自分にも凹む。
「ごめん、なんか……その、いろいろと」
的確な言葉が見つからず口ごもると、全く聞こえてないのか、マリアが携帯を耳に当てながらに私の腕を掴んで歩き出す。
「ハロー?イヴァン!そろそろ?」
電話の相手はイヴァンという人らしい。
どこに向かっているのかわからないが、マリアにひっぱられるままにミッテ地区の賑やかな通りの方へ進んで行く。夜の帳が下り、気温も急降下してきたらしく外気の冷え込みが強い。首もとがぞくぞく冷えて、歩きながらぶるっと武者震いしてしまった。今、零度くらいだろうか。ストールを忘れないように今後は気をつけないと。手袋も忘れてしまったけれど、空いた片手はダウンコートにつっこんでいるので今のところ大丈夫。
通りに居並ぶカフェやレストランには灯りがついて多くの人が出入りしている。人が住んでいるだろう建物の上階のほうもぽつぽつと暖色系が窓からもれて、とってもヨーロッパの古都らしい風情だ。
「Schnitzelでいい?」
電話が終ったマリアが聞いて来た。
「シュニッツエル?」
何だったっけと思いつつ名前を繰り返したら思い出した。あ、そうだ、いわゆるトンカツだ!
「うん、食べたい!大好き」
黄金色に輝くであろうジューシーなトンカツを想像し、思わず頬が緩む。お昼は冷たいプリッツエルとジュースだったから、温かいほかほかの食事は嬉しい。なんたって外は極寒!
「オッケー!あそこにカフェがあるでしょ。今日はシュニッツエル・アーベンドなの」
道路の反対側にある老舗っぽいカフェを指差し、マリアは立ち止まって左右を見渡し、車が来ないのを確認した。
シュニッツエルの夜ってなんだろ?
道路を横断しながらマリアが続けて説明してくれた。
「毎週木曜日は夜7時から、特別価格なのよ。大きなシュニッツエルが7ユーロ!」
「なるほど」
いわゆる今晩の特別メニューなんだろう。大きなシュニッツエルか!楽しみになって来た!
中に入ると思ったより広く、殆どのテーブルはお客さんで埋まっている。時間的にも丁度ディナータイムだし、なんたって「シュニッツエル・アーベンド」だ。
やっぱりあちこちのテーブルに、大きな楕円形のお皿に堂々と載るシュニッツエルが威風堂々と存在を主張している。あれって一人分?まさかね。
「こっちこっち」
奥のテーブルにひっぱられて着席すると、すぐにウェイターのお兄さんがやってきて、私達の目の前のキャンドルに火をつけた。
「ごきげんよう、ご婦人方」
私達が英語を話しているのを聞いたのか、英語で挨拶しながらメニューを渡してくれた。
想ったより英語が通じて助かる!
メニューはドイツ語ばかりでイマイチよくわからないが、最初からシュニッツエルと心は決まっているのですぐにメニューを閉じた。
「マリア、私はそのシュニッツエルが食べてみたい。あとはまかせていい?」
「いいわよ。飲み物は?ビール?」
「えーと私はお水で……炭酸入りのほう」
「了解。じゃぁボトルで頼んでおこう」
マリアは手を挙げてウェイターを呼ぶと、シュニッツエルと、なにかパスタっぽい名前のものと、ビール、そしてボトルの炭酸水を注文した。
すぐに飲み物が来て、かんぱーい!とグラスをかわしたが、そういえばマリアは車じゃなかったんだろうか。
「マリア、アルコールいいの?車でしょ?」
「ん?あっ、平気よ。一杯だけにしとくし」
一杯ねぇ……かなり大きいグラスだけど?これ、500mlは余裕でありそうだけど……
いや、でも、なんたってビール大国ドイツだから、こんな量、水みたいなレベルかもしれない。
そんなことを考えて、周りを見渡すとどこのテーブルもビールが並んでいる。
「あっ、イヴァン、こっちー」
マリアが中腰になって手をあげるので振り返ると、入り口のほうで人を探しているような男性がこちらに気がついた様子で頷き、近くのウェイターに何かを言いながやってきた。
グレーのロングコート、そして同じくダークグレーのフェルトっぽいベレー帽を脱ぎながら彼はマリアと肩を抱き合って挨拶し、私も立ち上がって握手をかわして自己紹介した。
「こんばんは、カノンです」
「イヴァン」
イヴァンは厳しそうな目つきで私を見ながら口元だけでにっと笑った。笑っているようで笑っていないような微妙な笑顔に少しびびる。
「さ、座ろう」
マリアの声で3人とも座る。すぐにウェイターがビールを運んで来て、イヴァンの前に置いた。イヴァンがメニューも開かずに何かを注文している。
「イヴァンはドイツ人じゃないの。ロシア」
「ふーん?」
ロシアか。なんとなくしっくりくるな、あの目つき。一筋縄ではいかなような、厳しそうな目。絶対、頭が良さそう……
納得して彼に目をやると、先ほどより鋭さの抜けた目をしている。
「ねぇ、奥さん大丈夫だった?」
マリアがビールを飲みながら彼に聞く。イヴァンは肩をすくめて苦笑し、私のほうを見た。
「出てくるのはひと苦労だったけどね。まぁ、お察しの通りあまり長居は出来ない」
「奥さんも来ればよかったのに。ま、小さい子供がいたら難しいか」
マリアがそうつぶやいて私に笑いかける。
「彼の奥さん、ドイツ人なんだけどものすごい独占欲っていうの?今どこで何してるかとか、イヴァンの監視がすごいの。信用ないってことよね」
「ちょっとマリア、本人を前にいいの、そんな事言って」
身も蓋もない言い方に驚いて思わずそういうと、イヴァンがくすりと笑って首を振った。
「朝起きた時に、家の中が散らかっているだけでキィーッとヒステリーを起こしているよ。離婚は時間の問題だから、気にすることはない」
「あ、そ、そうなんだ」
返事に困ってとりあえず相づちを打つ。離婚、カウントダウン中でしたか。しかしまるで他人事のような言いぐさだが、それって人間としてどうなんだ?
それにしてもどうしてマリアはこの人を呼びつけたのだろうか。子供もいるのに一家の主が夜に女二人と食事なんて、奥さんがぶち切れて当然のことなのに。
私の疑問を悟ったのか、マリアがにこにこして私の肩を抱いた。
「イヴァンはいろいろ物件を知っているのよ。アパート関係、彼が紹介してくれるわ」
「あっそうなんだ!」
なにもかも用意周到なマリアにびっくりして、そして感激した。私のためだったなんて、マリアって、どこまで気配りの人なんだろう。
「昼から飲まず食わずでこの時間までずっと仕事に家庭にと振り回されていたんだ。食事が終ったら物件情報をいくつか見せよう」
イヴァンはいかにもお腹が空いた、というように胃の辺りを両手で支えておどけてみせた。
その様子が急に子供じみて面白い。彼って最初の印象と違って思ったよりいい人かも。
「ありがとう!すっごく助かります!マリアも本当に本当にありがとうっ!」
初日からいい感じでどんどん進んでいる!出だしとしてはこれ以上ないくらいスムーズな滑り出しだ。
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