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ゼロ地点
東奔西走のセレナーデ
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帰宅して、マリアからメールが入っていたことを思い出し、早速携帯をチェックしてみると、思いがけないニュースが入っていた。
なんでも、私がアルバイト出来そうな所の情報が入ったらしい。
さすが、私の麗しき女神、マリア様!!!
ドキドキして携帯を握りしめ、メールの続きを読む。
マリアの友人、ブラジル出身のレギアという女性が、お茶関係のお店で耳にした情報らしい。
マリアは明日の日曜日、昼前にMauer Parkの蚤の市に行くつもりなので、私が来れるならそこで会おう、とのことだった。
もちろん!絶対行く!蚤の市も大好きだし、話をすぐにでも聞きたいっ!マリア、最高っ!
胸が弾んで小躍りしたい気分だ。早速返信を送る。
少し生活リズムが整って、簡単な会話くらいならドイツ語でもなんとかやりすごせるようになってきたので、ワーホリのビザを活用すべく、なにか仕事を探していたのだ。でも、語学学校があるので、フルタイムでバイトする時間はない。定期的にネットで日本人コミュニティサイトの求人欄をチェックしているが、大抵がレストランのヘルプでランチタイム、もしくは夕方から夜中だとか、後はベビーシッター的なものが殆どだった。夜遅い仕事はしないつもりだから、私が働けるのは月~木の授業後から夕方まで、金土日なら終日。
とてもフレキシブルとは言いがたい私の空き時間だから、そう簡単に都合の合う時間帯で、しかもドイツ語があまり出来ない私の能力で対応出来る仕事は見つからないだろうとは思っていた。
そのことをしばらく前にちらっとマリアに話したのだが、女神マリアはきちんとそのことを覚えていてくれた。
ほんと、なにからなんまでマリアに手助けしてもらって……このまま他力本願が代名詞の人間にならないよう、もっと自立しなきゃ!!!
明日、午前中から出かけるとなると、はるに送信すべきデータは今日中に完成させておいたほうが安心だ。今日はこのまま、昨晩の作業を続けて、明日の夜、最終チェックをして送信する段階にまで仕上げておこう。
私は髪をぐるっと巻き上げてピンでお団子にまとめると、デスクに向いラップトップを開けた。
Cafe Zeit
Connection Cafe & Diner
M's Kaffee Haus
これが今回取材候補に選んだ店舗だ。
「Cafe Zeit」は恐らくビジネスシーンでも利用されるだろうと思われるくらい、黒と白、シルバーを基調にしたモダンなお店だ。カフェメニューの種類は多くないが、店長のこだわりらしい高品質の有機コーヒー豆が何種類も並び、豆に敏感な知識人にとっては大変魅力的。ここなら、フレバーシロップや生クリーム入りでなく、エスプレッソやブラックコーヒーでその味を確かめたい。ちなみに、紅茶もやはり有機のものを揃えてあって、私はまだ試していないが紅茶好きにも対応しているようだ。美味しそうなビスコッティが何種類もあって、「イタリア・トスカーナの老舗商品」と説明書きがあった。この間はアーモンドのビスコッティをカプチーノといただいたが、かりっとした噛みごたえもいいし、新鮮な香ばしさと控えめな甘さがくせになりそうだった。ダークチョコのものや、オレンジ&ビターチョコ、ココナッツ入りなど、バラエティ豊かなビスコッティは視覚的にも楽しい。
「Connection Cafe & Diner」はミッテ地区のレストラン街にあって、昼間はサンドイッチ類もカウンターに並び、夜はイタリアンメニューを中心とした食事も提供する店で、若者に大人気のお店だ。お店のスタッフも元気いっぱいで平均年齢はおよそ20代前半。外国人も気軽に訪れるようで賑やか、家族連れや友達との食事やスナックタイムにはもってこいの場所。
ここの目玉はなんといってもホームメイドのイタリアンジェラート。ドイツでイタリアンのお店を取材ってのはボツかもしれないと思ったけれど、乳製品と甘いものが大好きなドイツ人を語るのにアイスクリームなしじゃつまらない。それに、きっとはるがOKを出すんじゃないかと思う理由がひとつある。ここでは、Spaghettieis、つまり、スパゲティアイスがオーダー出来るのだ!アイス大好きドイツ人の発想らしいが、簡単に言えばアイスのスパゲティ。バニラアイスをまるで糸寒天を作るようにむにゅ~と押し出してパスタ麺のようにお皿に盛りつけ、その上にミートソースならぬ苺ソースをこれでもかと乗せ、見た目はミートソーススパゲティのデザートというわけだ。
様々なテイストのアイスに果物、チョコレートやナッツを駆使して作られる作品?はバラエティに飛んですごく面白い。きっとそのうち日本でもクレープ屋のように広がるんじゃないだろうか。
最後の、「M's Kaffee Haus」は猫付きのカフェ。日本の猫カフェとはちょっと違うが、通常2、3匹の猫が店内をうろうろしていて、ほぼ9割は女子じゃないかと思うくらい女性が多いお店だ。カントリー調で手作り感のある木目のインテリアは、落ち着いたホワイトでペイントされていて、ピンクのギンガムチェックのカバーがついたランプやパッチワークのクッションが可愛らしい。コーナーに置かれている白いソファは、多分、猫の毛をきれいに拭き取る目的で選ばれたと思われるフェイクレザーの生地。メニューも女の子を意識した内容で、パンケーキ類やマフィン、野菜を多くつかったスープやサンドイッチもあるし、勿論、ハイティーも提供している。飲み物も暖かいカフェメニューのみならず、フルーツスムージーもあるし、牛乳のかわりに豆乳も使ってもらえる。まさに、女の子のおしゃべりタイムに持ってこいの場所だ。私もここの分厚くてしっとり焼かれたパンケーキに、たっぷりのメイプルシロップかけていただくのが大好きで、もう3回も食べたくらいだ。
お店の概要や写真、私の簡単なコメントを添えて、何度も見直したリストがほぼ完成した頃、外はもう夕方になって空がオレンジ色に染まっていた。
翌朝、私はNordbahnhof駅からトラムに乗ってMauer Parkに向かっていた。
トラムの窓からちょうどベルリンの壁の一部が見える。観光客がたくさん、壁のあたりを歩いていて、芝生の広場ではひっくりかえって日光浴をしている若者もいる。日差しは暖かいけれど、まだ薄手のコートなしじゃ寒い。
でも、お日様がある限り上着を脱ぎたくなるのは、いつも暗く長い冬を過ごす国の人の性なのかもしれない。アナも言っていたけれど、日が短く曇った日が続く極寒の冬が長いので、冬に鬱を煩う人も少なくないらしい。日光を浴びると気持ちもUPするから、鬱予防にも日光浴は欠かせないのかもしれない。
あっと言う間に下車する停留所に到着し、トラムを下りる。ここで下車するのはおそらく皆、蚤の市を目当ての人じゃないかと思う。
信号が青に変わると皆が一斉に道路を横断し、Mauer Parkのほうへ向かう。すでに入り口のほうは混雑しているようだ。
「カノン!こっち」
入り口でもうマリアが何かを片手に持って私のほうに手を挙げた。
「おはよー!」
マリアと軽く抱き合ってから彼女が持っているものを見ると、串刺しになったポテトチップスみたいらしい。
「こんなの売ってたの?気がつかなかった」
「そう?美味しいんだから、ほら」
差し出されてその出来立てポテチを一つ、手で串から抜き取ってぱくりと食べる。
「うん、美味しい。塩加減もいい感じ」
「でしょ。さ、中に入ろう」
「今日はヨナスは一緒じゃないんだね、めずらしい」
この二人は週末は大抵一緒に行動しているので、今日もてっきりヨナスも一緒かと思っていた。
マリアはふふふっと笑い、最後のポテトを口に入れると串をゴミ箱にぽいっと投げた。
「たまには1人も気楽!ヨナスは弟と約束があるんだって。滅多に会わない兄弟の久しぶりの再会ってやつ」
「そうなんだ!ヨナスがいるとマリアの取り合い競争で気疲れしちゃうから、私はちょっと嬉しいかも」
「あははー、カノンったら正直者なんだからー」
マリアが大笑いして私と腕を組む。ほんとに、大、大好きな友達のひとりだ。
ヨナスがメロメロなのも仕方が無い。女の私でさえ、ヨナスがマリアを独占しているのを見ると、つい嫉妬してヨナスが嫌いになりそうな時があるんだから……
はぐれないように、腕を組んでぴったりとくっついて歩く。かなり混むので気をつけないとすぐにはぐれてしまう。前回アナと来た時は案の定はぐれてしまって、携帯で連絡をとりあって再会したのは30分後というくらい、来場者の数は半端ない。
いろんなお店をゆっくりと歩きながら見る。これといって何か絶対欲しいものをゲットする目的で来たわけではないが、古いものから新しいもの、価値があるものからまるでゴミ同然のようなものまでいろいろあるので、見飽きることはない。
「レギアってね、ブラジル人なんだけどポルトガル人と結婚してて、娘が二人。私がドイツ語クラスに通ってたころ、彼女も同じクラスだったの。サンバが上手そうな23歳」
マリアが売り物のレザージャケットを手に取りながら言う。えらくジッパーがたくさんついた重そうなレザージャケットだが、これくらいファンキーなデザインも彼女なら余裕で着こなせそうだ。
「それでね、なんかお茶屋さんがバイトさがしているって聞いたんだって」
「お茶屋さんってお茶の葉を売っているお店?」
「そう。日本のお茶もたくさんあるらしいの。トルコ系のご主人らしいんだけど、日本茶が好きらしくて」
「そういうお店ってあるんだ!知らなかった」
「ベルリンって結構日本茶を扱っているお茶専門店ってあると思うわ」
マリアは試着したジャケットをハンガーにかけて元の位置に戻しながら、少し背伸びして奥のほうを見た。
「ね、あっちに行かない?食べ物買って、座れるところもあるし。歩きながらだとよく聞こえないわよね」
「うん、そうしよう!私もあそこのジュース買いたかったし」
人ごみをかきわけて、フード系のトレーラーが並ぶ広場のほうへ向かう。
いつも通り、マイケルジャクソンの曲をギターで演奏するイギリス人のパフォーマーが中央で演奏中らしく、結構な観客がベンチに腰掛けなつつ飲み食いしていた。彼が足下に置いた帽子の中にもかなり小銭が入っているが、自作CDのほうはあまり売れていない感じだ。
焼き栗のスタンドに気を引かれつつ、私はホットドッグと絞り立てのフレッシュオレンジジュースを買って、座る所を探した。はじっこのベンチは先ほどまで人がいたのか、テーブルにはケチャップのついた紙皿とビール瓶が置きっぱなしになっている。とりあえずそこに決めて、放置されたゴミを片付けて腰掛けたら、マリアがソーセージにポテトが乗ったお皿とビールを持ってやってきた。
「フランクフルトソーセージ?」
マリアのプレートを見ると、カレー粉がかかっていた。
「カレーソーセージ。あんまり好きじゃないんだけど、蚤の市に来るとなんだか食べたくなっちゃうのよね。変な私!」
マリアはあはは、と笑いながらベンチに座った。
とりあえず冷めないうちに、と食べることに集中する。
私はホットドッグはあまり食べないんだけど、ピクルスやカリカリのフライドオニオンがたっぷり乗ったタイプは割と好きなのだ。
朝ご飯は果物とヨーグルトくらいで出て来たので、すでにお腹がすいていたらしく、ぺろりと食べてしまった。
「貴女もポテト食べて」
マリアに差し出されて少しポテトをつまむ。マリアがふと思い出したように顔を上げた。
「カノン、今度、お寿司つくってよ。私、作り方も見たいのよね」
「そうだったよね!うん、アナも寿司パーティやりたいって言ってたから、今度企画しよう」
「楽しみにしてるから、実現させてよ?」
「もちろん」
力強く頷いてみせると、マリアがにこっとお日様のように笑い、キラキラしたオリーブグリーンの瞳が宝石のように瞬く。
「で、さっきの話の続きなんだけどね。お店の名前は、Tee Tea Ocha、だって」
「わ、おもしろい名前っ!」
ドイツ語の「Tee」英語の「Tea」そして日本の「Ocha」を繋げて店名にするとは、結構ユーモアのある店長っぽい。
「それでね……ん?」
マリアが言いかけて、胸のポケットに手をやる。リズミカルなサンバの音楽が聞こえて来た。
「ごめん、電話。やだ、ヨナスだ!」
携帯のスクリーンを見るなり眉をひそめるマリア。
「まさか、今から合流するとか言い出すんじゃないでしょうね。いやな予感だわ」
スクリーンを睨み応答しないマリア。電話の向こうで苛立つヨナスの姿が脳裏に浮かんだ。
「マリアったら!早く出てあげたほうがいいよ」
そう促すとマリアはビールをテーブルに置き、携帯に指を走らせて耳にあてた。
「ハロー?なにかあったの?え、あ、ヨナス?……あら」
マリアの眼が一瞬宙に浮いて、それから押し黙った。しばらくして、一度私のほうを見て、それから眼を伏せて少し低めの声でぶつぶつ言う。
「なんで?意味不明なんだけど?えっ?それは別にいいけど……えっ、なに、パリ?私?」
パリ?フランスのパリがどうかしたんだろうか。
しばらくマリアが不満そうな口調で、なんで私が!そんな急に!などと言い返していたが、やがてしぶしぶ「オッケー」と呟いて携帯を切った。
ハァーっと大層なため息をつくので、少し心配になってマリアに聞いた。
「大丈夫?なんかあったの?」
「え」
マリアははっとしたように私のほうを見て、それから肩をすくめた。
「パリに行けっていうの。来週末よ。唐突すぎる話よね、いくらなんでも」
「パリ?」
「そう。どうしても手に入れなきゃいけないものがあるから、ヨナスと一緒に行けって」
「ヨナスと一緒に行けって?」
なんだか話が変だと思って首をかしげると、あぁ、とマリアが苦笑した。
「今の、ヨナスじゃなかった。クラウス。途中から電話変わってね、私とヨナスに行ってくれって。自分は忙しいからって、ひどくない?」
「そうだったの!でも、いいじゃない、二人なら旅行も兼ねて。花の都、パリ!悪くないと思うな」
そういうと、マリアがつまらなさそうに首をすくめた。
「ヨナスはもうOKしたって私を脅すのよ。性格悪いやつよね。あーぁ、来週末、お寿司パーティしてもらえるかもと思ったのに、エスカルゴのパリなんて、色気ないわ。ゲンメツ」
「じゃ、マリアが帰って来たらお寿司パーティということで!再来週に企画出来ないか、アナに聞いてみるから。ねっ!」
私が励ますようにそう言うと、マリアが少し機嫌を直して頷いた。
その晩、私は前夜に仕上げておいたカフェのリストを再チェックし、いくつか写真をまた入れ替えてから、はるに送信した。
ついでに結局連絡しそびれていたアナにメールする。
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アナ~!
明日、明後日のクラスの後、時間ある?
もしあったらお茶したいな。
あのね、もしかしたらバイト見つかるかもなの。
またまたマリア様の情報なんだけど、ポツダマープラッツの近くにあるお茶専門店で、求人があるらしいの。
店主がティーセレモニーレッスンの生徒さんと奥に籠っている間だけ、店番とレジをやってくれる人を探しているらしい。
しかも、火曜日と木曜日の夕方4時から閉店までって、時間的にも私、ばっちりOKなのよね!
これからコンタクトしてみるから、どうなるかわからないんだけど、かなり期待中。
ヤル気だけはまかせてって感じ。
それから、再来週末って空いてる?
寿司パーティ、そろそろ実現させたいなと思うんだけど、都合、どうだか教えてね!
じゃぁまた近いうちに!
かのん
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なんだか忙しくなってきた!!!
はるのOKをもらったら、カフェのオーナーにアポを取って実際に取材に行き、写真を撮り、記事を執筆しなくてはならない。それに出来たらお茶屋さんのほうも早めに伺ってアルバイトさせてもらえるか聞いてみたい。それと、再来週末にお寿司パーティを開くとなると、呼ぶ人やメニュー、場所とかも決めなくてはいけないし。
でも、こうやって仕事やイベントに追われるのってワクワクして悪くない。というか、割と好きだったりする。
明日は学校だから、今晩は早めに寝ようと思ったが、元彼からメールが来ていたので、忘れないうちに返信を送る。
チリでは週末毎に現地の同僚達と一緒にワイナリーを回ったりして、随分満喫している様子だった。私も、負けじとベルリンでの忙しい日々について書き綴る。最近はメル友みたいな感じで、お互いの新しい生活を報告しあう。別れた頃のドロドロした気持ちもふっとんでしまい、いい友人関係になっている。お互い、それぞれの新地で成長してきているのかもしれない。
それに……
こうやって、別れてたったの半年ほどでこんな吹っ切れた気持ちになるなんて、当時は考えられなかった。もしかしたら、二人の間にあった「愛」はいわゆる「男女の愛」でなく「友愛」だったのかもしれない。本当に一生を共にしたい相手が彼だったのなら、私はきっと何年も失恋を引きずっていたはずだ。
別れという悲しみは、私の前に突如現れた巨大な扉だったのかもしれない。人生の次のステージへと私を導く扉の向こうには、想像以上に壮大な世界が広がっていて、その躍動感のある大きな波に飲み込まれるように私はますます魅了されていく。毎日が新しい日で、同じ日はない。その日その日が新しい色を帯びているようだった。
翌週はかなりバタバタの日々が続いた。
はるからはすぐに返事が来て、私の予想に反して3件ともOKとのことだった。
時間もないので、早速、それぞれのカフェのオーナーに電話でコンタクトを試み、2件にはすぐ連絡がついたが、1件はオーナーが出張中とのことで連絡がつかず。取材の申込はメールで送り、質問内容等をあらかじめ連絡した。写真撮影については最初は自分でやろうと思っていたが、話を聞き付けたアダムが、撮影の日時が都合に合えば同行してくれて、プロ仕様の撮影機材でお店のオーナーやスタッフのポートレイト、外観や内装、お店の看板メニューなどの撮影をしてくれると連絡をくれた。勿論、誰か写真の知識がある人が撮影してくれるなら「撮影料」として支払ってもらえるので、なるべくアダムの空いている日時を書き出して、取材先に都合を問い合わせているところだ。
そして、マリアから連絡がきて、金曜日にお茶屋さんへ伺うようにとのことだったので、約束した午後4時にお茶屋Tee Tea Ochaに行く。
こじんまりとしたお店だったけど、中に入ると壁一面に渋い色合いの錫製の茶壷が所狭しと並んでいて、その種類の豊富さに圧倒された。掛け軸に生け花まで飾ってあり、ご主人がいかに真剣にお茶屋を営んでいるか明かだった。
「日本の全国各地のお茶を揃えているよ。有機のお茶も、これだけある。特に九州産はオススメだ。こっちのほうには、中国茶、セイロン茶なんかもあるけど、メインは日本茶なんだ」
トルコ系移民の店主は、自慢のコレクションの説明に余念がなかった。
有田焼、伊万里焼などの茶碗は勿論、ティーセレモニーのクラスを行っているというくらいだから、お店の中央にロの字に敷かれた畳の中央には風炉や釜など、様々なお茶の道具もあった。ティーセレモニーの話をされて、完全無知の自分が恥ずかしく、顔から火が出るかと思ったが、正直に「お茶の経験がなくて全くわかりません」と答えた。
呆れられるかと思ったが、ご主人は、無知な日本人のために自分が教えてやらねばと逆に気合が入ったらしく、ますます熱心に、茶器の道具を見せてくれたり、これが茶入れだのあれが棗だの、袱紗がどうとか、懐紙がなんだとか、やたら熱弁してくれた。
こんなにたくさん、到底覚えられないとパニックになったものの、必死で話を聞く。頭はすでにパンク状態だ。
ご主人はとても優しく親切な方で、日本人なのに日本茶の知識が「ほうじ茶、煎茶、緑茶、番茶」レベルの私を雇ってくれることになった。
せめて、ご主人に迷惑をかけないように、商品のことくらいきちっと覚えなくては。
お茶の世界はかなり深いが、大丈夫だろうか、私。
いや、大丈夫にならなくてどうする!為せば成る、為さねば成らぬ何事も……とおばぁちゃんの座右の名を思い出す。
取材の仕事もあるし、〆切後のイースター休暇明けからの仕事開始でお願いしたら、快諾してくれた。イースター中はお店も休みなので、逆に都合がよかったようだ。
「一番大事なのは、お客様をもてなす心だよ。日本人の君にはいわなくてもわかるだろうけど。お客さんがきたら、試飲したいとおっしゃるお茶を美味しく煎れて差し上げて、お好みに合う商品を探すお手伝いをする。君の仕事はそれだけだから」
ご主人が優しくそう言ってくれ、私は嬉しくて勢い良く頭を下げた。
「ありがとうございます!!!頑張りますので、宜しくお願いします!」
「こちらこそ。じゃぁ、イースター休暇明けの火曜日、4時に待ってるよ」
「はいっ!」
ご主人に差し出された手をしっかり握って握手して、私は意気揚々とお店を出た。
よしっ!
これでアルバイトも無事、ゲットしたっ!
急いで家へ帰って、みんなにメール報告しなくちゃ。
私は早足でPotsdamer platzの駅へ向かった。なんだか興奮していて、やたら喉が乾いてしまった。
お茶屋さんのご主人に、3杯も緑茶をいただいたのに。
いや、きっと逆にカフェインを取りすぎて興奮しているのかもしれない。体がカッカして、暑い。
駅の階段を下りようとして、ふと駅の後方に広がるSony Centerを見た。
Sony Centerは、ソニー・ヨーロッパの本社をはじめ、ソニースタイルストア、オフィスビル、高級アパート、フィルムハウス、ドイツ・メディアテーク、 商業施設、映画館などが入っているガラスばりの巨大な建造物だ。ベルリンの壁崩壊後のポツダム広場の再開発の目玉として建設され、ドイツ現代建築の最高峰として注目を浴びる現代ベルリンの象徴の一つ。
そういえば、こっちのほうは見たことがなかったかもしれない。ポツダマープラッツ自体、ショッピングモールに一度来たきりだった。
せっかくなので、ちょっとだけこの巨大ビルの中央広場のほうをチェックしてみることにした。
近づくと急にものすごい勢いでビル風が吹いて、一瞬背筋がぞぞぞっとしたが、広場に入るとほぼ無風。サッカーでも観戦するのか大きなTVスクリーンも設置されてあるし、木や花の植え込みに噴水などもあって、見渡せば観光客があちこちで記念写真を撮っている。
なんだか、東京の都会を彷彿とさせる景色だ。
不思議な懐かしさを感じて、広場の中央で360度、ぐるっと周りと見渡すと、スタバが目に入った。
そういえば、ベルリンに来てから一度もスタバに入っていない。入り口にピンクと黄色のフラペチーノの写真看板が見えたので、近くへよって見た。Red Berry YoghurtとBanana Yoghurtのフラペチーノだ。
久しぶりにスタバに入ってみようかな。
東京を思い出し、懐かしさもあってそのままスタバに入る。Red Berry Yoghurtをテイクアウトで注文し、久しぶりのフラペチーノを楽しみながら電車に乗る。ドイツの車内って飲食ダメだったっけ?よくわからないけど、普通にサンドイッチ食べたりしている人もいるし、まぁいいかと思いながら温かい車内で冷たいドリンクを楽しむ。
最寄りの駅についたら、もう夕方の6時半と薄暗くなっていた。
道路に出て、一瞬、スーパーのことを考えて立ち止まる。
このまま買い出ししてしまえば、明日はスーパーに行かずに宿題したり家事をしたり出来るが、どうしよう?
今日は午前中はアポ取り関係やらメールやらで落ち着かず、午後はお茶屋に行ったから、掃除も買い出しもしていない。
でも、フラペチーノを飲んだこともあって、夕方の肌寒さを強く感じてしまい、このままスーパーに行くことを躊躇してしまう。
スーパーの方角を見つつ、しばし考え込む。買い物用のバッグも持って来てないし、明日の朝一番に行けばいいか……
そう思ってやっぱり家に帰ろう、とスーパーの方角から目を逸らして前方を向くと、大型バイクが辺りを振動させるような大きなエンジン音を立てて道路を通り過ぎる。ドイツは結構、大型バイクが走っているのだ。
よく見かけるのは、日本のKawasakiやHONDA、SUZUKI、YAMAHAそして勿論ドイツのBMWだ。多分、7割方は日本の大型バイクだろう。
あれはちょっと見慣れない深紅のボディカラーのバイクだから、日本のメーカーのやつじゃないのかも。
そう思って走り去るバイクを見ながら歩いていくと、そのバイクが角で曲がって停車した。丁度バイクの横のボディが見えて、脚の部分の赤いところにホワイトでapriliaとある。あれは、多分イタリア製?そういえば、フェラーリを連想させるような美しいラインのボディかも。
そんなことを思いつつ、バイクの車体を見ながら通り過ぎようとしたら、
「今朝はどの林檎だった?」
突然そんな声が聞こえて驚いて立ち止まる。どこから聞こえたんだろうと顔を上げたら、私が眺めていたそのバイクにまたがっていた人が、両手でヘルメットを勢いよく外すと、ぶわっと爆発したような髪をぐしゃぐしゃと手でかきあげながら私を見下ろした。
「あっ、ニッキー」
先週末、カフェでさんざんご馳走になったニッキーだった。不意を突く登場にびっくりして眼が点になる。
「君はひどいやつだ。まるで気がついてくれない」
冗談なのかよくわからないが、ややすねたように私を軽く睨み、ヘルメットを小脇に抱える。
確かにさっきからじーっとバイクの車体を凝視していて、乗っている人のほうは全然見ていなかった。
「ごめんなさい。つい、バイクばかり見ちゃって、気がつかなかった」
「それだけじゃない」
「え?」
ニッキーはじろっと私を睨む。なんか他にも失礼なことしたっけ?
少しびびって固まっていると、ニッキーは大げさに、ハァとため息をして空を見上げた。
「あれから、連絡先を送ったのに、待てども待てども音沙汰なしで、俺は深く傷ついてる」
「あっそれは」
そうだった。
週の半ば、ニッキーからメールが来たんだった。連日あれこれと忙しくて、返信しそびれていた。というか、何を書けばいいのかもわからなかったし……
「ごめんなさいっ!今週いろいろと立て込んでいて、返信する余裕がなかっただけで」
そう言って頭を下げ、釈明し、ついでに、話題を逸らすべくバイクを褒めてみる。
「とってもかっこいいバイクに乗っているのね。apriliaってイタリアっぽい名前」
ニッキーのさっきまでの険しい顔が少し緩んだ気がする。彼はバイクを見下ろして、ちょっと笑った。
「こいつは、RSV 1000R Milleというバイクだ。オーストラリア製のエンジンを搭載しているが、君の推測通り、イタリアのバイク」
「ふーん、そうなの。ボディラインがイタリアって感じでとても奇麗」
少し身を屈めてもう一度よく見ようとした時、バッグの中の携帯が振動した。もしかしたら取材申込関係の連絡かもしれない。
「ごめんなさい、ちょっと電話でるね」
一応断ってから急いで携帯を取り出して耳にあて、「ハロー?」と答えてみる。
すると、電話の向こうから聞こえて来たのは聞き覚えのある、
『モシ、モシ?』
だった。
「アダム!」
なぜか最近アダムは電話で『モシモシ』と言うのを気に入っている。私やアナが電話している時にそれを耳にしてから真似するようになったらしい。
『お茶屋さんどうだった?』
「うん、大丈夫だった!イースター開けから週二日の予定。あっ、それで撮影のことなんだけど、週末空いてる?』
取材OKの返事が来たところに、どういう写真を撮らせてもらうか取材前に連絡することになっている。出来たら早めにアダムに相談して、撮影内容をまとめたい。
『わかってるよ。日曜日なら空いてる。3時くらいでどうだろう』
「うん、助かる!日曜日だね。じゃぁ場所はまかせるから、決めたらメール送ってくれる?」
『了解。じゃぁ日曜日』
「オッケー。またね」
よかった、日曜日に撮影の内容や手順を打ち合わせ出来る。こんな仕事は未経験なので、アダムに前もっていろいろ教えてもらっておかないと、取材先で周りに迷惑をかけてしまいかねない。運良く撮影に詳しい友人がいて助かる。これもまた、マリア様のおかげ……
ほっとしながら携帯から眼を離すと、明らかに気分を害した様子でこちらをじろっと睨むニッキーが目に入った。
「あ、ごめんね。仕事のことでちょっと」
まるでサラリーマンみたいな言い訳を言いつつ、少し失礼が過ぎたかもと思って気まずくなる。
「まさか自分の目の前でデートの約束をされるとは、ショックだ」
ニッキーが威圧感のある低い声で独り言のように言う。
「え?デート?いえ、全然違うんだけど」
「日曜日だって?」
「日曜日?うん、そうだよ」
「明日は空いている?」
「明日?えーっと……」
いきなり人の予定をストレートに聞いてくるが、彼はまだ会って2回目の言うなれば知人であって、まだ友人でもない。確かに先週末はかなりお世話になったし、カッコいい人に予定を聞かれるのは正直嫌な気分じゃない。
「明日は、いろいろやらなくちゃいけないことが溜まってて……」
正直に答えてみる。嘘じゃない。宿題も、家事も、仕事のことも、本当にあれこれやるべきことがある。
ニッキーはしばし、沈黙した。私も、どうしたらいいか分からず黙って彼を見ていた。
やがて、ニッキーが携帯を取り出して何かをチェックしながら言う。
「日曜日は何時なら空いてる?」
「うーん……」
アダムと3時に待ち合わせて、打ち合わせして終るまで2、3時間くらいはかかるだろうか。
「日曜日は多分、6時くらいまでは忙しいかな」
「6時か」
アダムは携帯から眼をあげて、私を見るとにっと微笑んだ。
「オッケー、カノン。じゃぁ6時で」
「え?」
「6時にカフェのほうに来てくれ。近くに美味しいタイ料理のレストランがあるから、そこでディナーを食べよう」
「タイ料理?あっ、ニッキー、あの」
びっくりして聞き返した時にはもう、彼はヘルメットをかぶって両手はバイクのハンドルを掴んでいた。
地響きのするようなエンジン音を立て、バイクが力強く振動する。そのド迫力に思わず1、2歩、後ろへ後ずさる。低音で響くエンジン音が骨までぶるぶると揺さぶるようだ。
「チャオ」
片手を上げてそう言うと、あっと言う間にニッキーはエンジンを吹かして去って行った。
もう姿も見えず、音も聞こえない。
あれ、なに?! じゃぁ6時でいいって……
話のぶっ飛び方に驚いて、すっかり寒気も吹っ飛んだ。
……でも、これって、いわゆるナンパってやつ???? ベルリンに来て、初のナンパ?!
そういう考えが頭をよぎり、思わず赤面してしまった。いやいや、我ながら、思い上がりもいいところだ!
こっちじゃ、男女関係なく、友人関係の一環として食事を共にすることも多いのだから、食事に誘われたから即ナンパだなんて思い込みは、いい年をした女としてはかなりイタイかもしれない。
勘違いや先走りは良くない。気をつけなくては!
反省しつつも先ほどのことを思い返すと胸がドキドキしてしまい、なんだかティーンエイジャーの頃の自分を思い出す。
どっちにせよ、特に断る理由もないし、タイ料理は久しぶりだから、ま、いっか。
なんとなく日曜日が楽しみになって、テンションがあがってきたし、寒気も吹っ飛んだということもあり、私は結局そのままスーパーへ買い出しに行ったのだった。
翌日の土曜日は終日アパートに籠って、予定通りのTo Doリストをこなす。
パリに行っているマリアから午前中にメールが来て、用事はもう済んで午後は街を散策するので、何か欲しいものがあれば買って来るから連絡するように、と優しい一言があった。
マリアってどうしてあんなに気配りが出来るんだろう?
私もあれくらい人間として魅力のある女性になれたらと思った。
マリアにはお礼と、もし近くを通ることがあれは、バティスリー•サダハル・アオキのマカロンをお願いしたいと返信した。
来週末のお寿司パーティにも合うし、サダハル・アオキのマカロンは絶品だから、知らない人には是非一度食べてもらいたい。
そして日曜日。3時に私はシャルロッテンブルク駅近くのカフェでアダムと打ち合わせをしていた。
ちなみに、シャルロッテンブルクは日本人も多いエリアで、アナのアパートもこの近辺だ。
いかにも北欧人らしいブロンドに青い眼のアダムは、ベルリンのドイツ人女性にも人気があるようで、一緒にいると周りの視線を感じることが多い。それに、どうやらゲイの方々にもモテるようで、この間は夜のアートイベントで両サイドをゲイにがっちり固められていたとマリアから聞いた。アダムは別に気が合えばストレートだろうとゲイだろうと気にしない様子で、友人にもゲイの人が結構いるらしい。
まぁ、ニューヨークに長年住んでいたら、それくらいオープンになっても不思議ではない。
ベルリンはドイツ国内の他の都市に比べたら断然、オープンな文化がメインストリームだと思う。これが、もっと頭の固そうな人が多い古めかしい街だったら、人々の様子も全く違うだろうと思う。きっと、人種差別とか、ゲイ差別とかがもっと身近な街も少なくないだろうと思う。
「オーナーの写真。スタッフが店内で働く写真。あと、お店の外観と内観」
アダムが流れる様な美しい字を紙に書いていく。彼は、こういう時にラップトップは使わない主義らしい。
「メニューから何品くらいオーダーする予定?」
「うーん、まだ決めてないんだけど、ドリンクは3、4品。お食事系は5品くらいになると思う」
「そう。まずは一品ずつ撮って、それからテーブルに並べて全体の雰囲気を撮る」
「あ、それがいいね」
完全に初心者なので、いちいち納得し、感心してしまう。
「湯気が出てるものは時間勝負だ。なるべく、冷たいものを先に注文するようにして」
「確かに、おっしゃる通り」
私も自分のノートにしっかりとメモる。聞いてみれば当然のことだが、撮影の状況をきちんと理解していないと、注文の順序などは意外とそこまで考えないものだ。
「カノンにも撮影のアシストしてもらわないといけないしね。それから」
アダムはいたずらっ子のような目をして、クスッと笑う。
「お腹は空かせて行かないと」
「え?」
お腹がからっぽだと取材も撮影も集中出来ないんじゃないの?
そう思って疑わしそうにアダムを見ると、彼は少し大げさに驚いた様子で言う。
「カノン、注文したもの、どうする気だ?」
「ん?あ、そうか」
私ははっとして目を見開いた。注文した後のことを考えてなかった。
「全部、たいらげる……ってわけ?だよね?」
テーブルを埋め尽くす食事を想像し、少しびびりながらアダムに確認すると、彼は頷いた。
「当然だろう」
アダムは肩肘をテーブルについて、カプチーノの皿に添えてあった小さなチョコレートクッキーを口にし、うすら笑いを浮かべて私を見つめた。
「君なら1人でも難なくたいらげそうだけど?」
「ひどいっ!そこまで大食いじゃないっ」
少し傷ついてアダムをキッと睨む。
いくら大食漢でも、限界がある。いや、それにしてもアダム、女性に対してそういう言い方って失礼すぎるんじゃないの?!
本気でムカついたが、当の本人は結構いいジョークを言ったとでも思ったのか、機嫌よくニコニコしている。
「もちろん、俺も食べるから心配はない。撮影用とはいえ、注文してあらかた残すのは失礼だからね」
確かにそうだ。私ひとりじゃ到底無理な量だっただろう。アダムが撮影を手伝ってくれるのはそういう役割的にもものすごく助かる。
そう思えば、さっきのひどいジョークも許してあげなくてはならない。
「ありがとう。いろんな意味で、ほんとに助かる」
頭を下げてお礼を言うとアダムが笑った。
「借りはいつか返してもらうから、お礼なんていらない」
「そう?でも有り難う」
来週半ばから再来週前半にかけて取材を申し込んでいるので、先方から返事が来次第、すぐに連絡することを約束してアダムと別れた。
携帯で時間を確認すると、すでに6時05分。あたりも暗くなってきている。
これから移動して、ニッキーのカフェに着くのは6時半過ぎるかもしれない。
急いでシャルロッテンブルク駅に向い、丁度タイミングよくホームに入って来た電車に飛び乗る。
6時半くらいになることを、SMSで連絡したほうがいいのだろうか。
いや、でも、6時くらいまでは忙しいと言ってあるから、6時きっかりに到着出来るとは思っていないだろう。それに、ニッキーもカフェの仕事で忙しくしているかもしれないし、今SMSを送るのも逆に迷惑かもしれない……
そんなことを思っているうちに、気がつけばもう6時20分を過ぎていたので、SMSを送るのは止めた。
割とスムースに乗換えも出来て、最寄りの駅に着いたのは6時27分。カフェに着くのは6時40分前くらいかもしれない。
とりあえず急いで歩く。基本的に遅刻とか大嫌いな性格なので、はっきり6時とは約束していないけど、なんだか罪悪感を感じるのは否めない。機嫌が悪かったら謝るしかないーーーと思いながら歩いてこの間の広場へ到着した。
Café Bitter-Süßの前に到着。
先日は表に出て開いていたパラソルもしっかり閉じられて束ねられている。もう閉店している様子なので、当然なのかもしれない。
もしかして、もういない?!
びっくりして入り口に駆け寄ってみる。店内も薄暗くて防犯用の電気くらいしか点いていないらしく、中はよく見えない。
どうしよう。
約束の6時も過ぎちゃったし、もしかしたら帰ってしまったのかも?
だったら、シャルロッテンブルク駅からSMSで連絡しておけばよかった!
結構がっかりして、カフェの前で立ち尽くしてしまった。
今から、電話をかけてみるべきかーーー
バッグから携帯を出して、登録情報をスクロールしてニッキーの電話番号を探す。
……あった。
電話マークを触れば、ダイヤルされる。とわかっているものの、どうも勇気が出ない。
携帯のスクリーンをじーっと眺めて、睨めっこをする。
かける。かけない。かける。かけない……かける?
「カノン」
「キャッ」
突然、背後から声をかけられ、驚いて飛び上がった。
「ニッキー!!!ちょっと、心臓が止まるかと思ったじゃない、ひどいっ、最低っ」
心底びびって、少し涙目だ。気配も全く消したまま突然背後から声をかけるなんて、ひどすぎる。
腕組みをしてなんだかニヤニヤと笑うニッキーが、嫌みっぽく言い返して来る。
「6時過ぎても現れず、連絡もよこさずで、君も随分とひどい女だと思うけど」
「う……」
痛いところをつかれ、図星だったせいか言葉につまる。それは、事実だ。確かに、私が元凶といえばそうだ。
若干不本意ではあるが、正当な理由で責められたので、きちんと謝罪する。
「遅れてごめんなさい。連絡しようと思ったけど、仕事の邪魔になるかと思って……カフェがこの時間にもう閉まっているとは知らなかったの」
ニッキーは腕組みをしたまま、街灯に寄りかかって立っていたが、やがて静かにくすっと笑うと私の背中を片手で押した。
「まぁいい。さぁ、行こう」
促されるままに歩く。携帯をバッグにしまいながら、とりあえずほっとしている自分に気がつく。
なんだろう、急に冷静さが戻って来て落ち着いてきた。さっきはあまりに驚いて興奮していたのに。
特に話すこともなく並んで歩く。
ニッキーはダークグレーのDIESELフルジップハイネックパーカーに、同じくDIESELらしいネイビーブルーのジーンズとラフな格好だった。この間あのド迫力のバイクに乗っていた時は、レーシングバイク向けのいわゆるレザースーツ?みたいなのを着ていたんだった。あんな格好じゃ誰だかわからなくても当然だったかもしれない、なんてことを考えていたら、ニッキーが立ち止まった。
「辛いの平気だった?」
見れば、タイ料理店の前に来ていた。もうすでに美味しそうな匂いが漂ってきている。
「辛いの好き!そういえば、ベトナム料理ばかり行って、ベルリンでタイ料理は初めて」
久しぶりのタイ料理にウキウキして、声が弾んでいるのが自分でもわかり、少し恥ずかしくなった。
背中を押されて中に入ると、奇麗なタイ人ぽいお姉さんがすぐにやってきて、席に案内してくれた。
アジアンぽい間接照明がとてもいい雰囲気で、大きな水槽がライトアップされている。ちょどその水槽の近くの席を案内されたので、メニューを受け取りながら水槽をのぞいてみる。赤い鳥居や橋が沈んでいて、ゆらゆらと緑の藻が揺れ、真っ白い、顔が鯉に似ている魚達が5匹、優雅に身を揺らしながらゆっくりと泳いでいる。5匹とも真っ白で、魚といえば赤色を想像する私にはなんだかとても珍しく思えた。
「カノン、飲み物は」
ニッキーに聞かれ、魚から目を離してメニューを開く。
基本的にアルコールは飲まないので、ソフトドリンクのほうをチェックする。タイ料理は辛いから、温かいお茶じゃなくてやっぱり冷たいものが無難だろう。
「うーん、じゃぁ、ジンジャエールにしようかな?」
やがてお姉さんが戻って来て、飲み物と食事の注文をした。
食事のほうはなかなか私が決められないので、気を利かせてか、あるいは苛立ったのかわからないが、ニッキーが注文してくれた。
やがて運ばれて来たのは、前菜の揚げ春巻き、タイ風焼きそばのパッタイ、それからチキンのグリーンカレー。
どれもこれも美味しくて、私はすっかりご機嫌だった。
仕事のことや学校のことを聞かれたので、通っている語学学校のことと、取材の仕事、それからイースター明けのお茶屋さんでのアルバイトのことを話した。
ニッキーは私がお茶屋さんであまりに知識がなくて恥ずかしかった話にウケたのか、その様子を見てみたかったとまで言う。
からかわれていたものの、あまり悪い気はしなくて私も笑ってしまう。
デザートに揚げバナナのココナッツアイス添えまでしっかり食べて、もうこれ以上は無理というくらい食べた。
お腹いっぱいになって言葉も少なくなった私を見て、ニッキーがくすっと笑う。
「さすがに、あの魚を使った料理は注文出来なかった」
「えっ」
「君が真剣に魚を見ていただろう?俺が、あれを食べると言ったら?」
「ええっ」
あれは生け簀なの?まさか!?あんな、鯉みたいな顔をした、真っ白なきれいな魚を……
網ですくいあげられて、キッチンのまな板に置かれる白い魚を想像して固まる。
すると、ニッキーが突然、片手で顔を覆ってクスクスと笑い出した。
「……そんなわけないじゃないか。冗談だ」
「じょっ……冗談って」
むっとしたが、よく考えればいかにも観賞魚らしく奇麗な水槽を泳いでいる魚を取って料理するはずがない。
こんなレベルの低い冗談にひっかかる自分も自分だ。
情けなさと説明のしようのない苛立ちに、黙り込んだ。
「冗談はこれくらいにしてそろそろ出よう。残念ながら俺はこれから空港に行かなくちゃいけないんだ」
「空港?」
思い掛けない話にびっくりして私も席を立つ。
今から空港に行くって、夜の飛行機に乗るということだろうか。
どちらにせよ、そんな忙しい人を長々と夕食に付き合わせてしまったなんて、なんだか悪かったかもしれない。せめて、さっさと店を出ないと。
バッグを持ってレジのほうへ行くと、ニッキーがカードを店員に渡していた。
「ニッキー!現金でいい?」
いそいで50ユーロ札を差し出すと、ニッキーはお姉さんに差し出されたレシートにサインをしながら首を振った。
「……でも」
困って50ユーロ札を持っていると、ニッキーが私の手からそれを取り、そっと私のバッグの中に入れた。そのまま背中を押されて外へ出る。
「ニッキー」
何か言おうとすると、彼は首を振って笑う。
「レディはこういう時は黙って、ありがとう、と言えばいい」
「う……」
ごもっともな指摘をされ、気まずくなる。私はゆっくりと息を飲み、ニッキーを見上げてお礼を言った。
「ごちそうさま。とっても美味しかった。ありがとう」
「どういたしまして」
急に紳士的に首を傾げて微笑むニッキーに少しびっくしつつ、もと来た道を戻る。
「これから空港だなんて知ってたら、あんなにベラベラ喋り続けなかったんだけど」
我ながら変な言い訳だと思いながら言うと、ニッキーはたいしたこと無いというように首を振る。
「まだ余裕で間に合うから平気だ。アパートまで送る」
「え、でも、近いから私ひとりで平気よ」
「もうあたりは真っ暗だ。街灯はついてはいるけれど、悪い奴がどこに潜んでいるかわからないだろう」
「それはそうだけど……一応、少しは武道やってるから、悪漢1人くらいならなんとか対応出来そう」
「武道?」
ニッキーが立ち止まり、驚いたように目を見開いて私を見た。
「空手を少しやってたから、護身術レベルでなんとか」
「それは意外だったな」
ニッキーは感心したように言って、また歩き出す。どうやらやっぱり送ってくれるつもりらしい。
遠慮したところでまた、レディならこういう時は~、と言われかねないかなと思い、おとなしく歩くことにする。
レストランを出た時はまだタイ料理の余韻で体はぽかぽかだったが、歩いているとどんどん冷えて来た。まだまだ朝夕の冷え込みが厳しいベルリンだ。信号が赤になり、立ち止まっていたら首もとがぞくっとして思わず武者震いしてしまった。
「寒い?」
私の様子に気がついたのか、そう聞かれた。
「うん、少しだけ。でも平気、もうその先がアパートだから」
そう答えて信号の向こうの通りを指差した。すると、ニッキーがその手を掴んで下ろしたかと思うと、そのまま、ぎゅっと握りしめてパーカーのポケットにつっこんだ。
え?
ニッキーに繋がれた私の右手が。
そのまま彼のパーカーのポケットに。
驚いて彼を見上げると、しっとりとした甘い光を讃えた優しい目がじっと私を見下ろしていた。
「このほうが温かいだろう」
「……」
答えようがなくて何も言えず、私の常識を遥かに超越したこの状況にひとり静かにパニクる。
信号が青になり、そのまま無言で歩き出す。右手はしっかりと彼の手の中に、そしてポケットの中に。
ニッキーの大きな温かい手は、少し固く骨っぽい。私の2倍はありそうな、大きな力強そうな手だ。
ぎゅうっと握りしめられて手だけが熱く感じてしまい、そればかりに神経がいってしまったのか頭の中は完全にショートしていた。
危うく自分のアパートの前を通り過ぎそうになり、立ち止まる。
「あっ、ここなの」
ニッキーは立ち止まるとアパートを一度見上げ、それからようやくポケットから手を出した。そしてその繋いだ手を私の目の前に掲げると、少し意地悪そうに微笑んだ。
「てっきり、空手で吹っ飛ばされるかと思ったけど」
「……っ」
思わず赤面し、なんと答えようかと必死で考えるものの、いい言葉が思いつかない。
動揺して黙ったまま恨めしそうにニッキーを見上げると、彼は急にまたとっても優しい目をして、すっと私の肩を抱き寄せて耳元で囁いた。
「おやすみ、カノン」
くすぐったい感触にびくっとなり、身を縮める。
こうやって肩を軽く抱き合うのは誰だってする社交辞令、挨拶だ。私もみんなとよくやっている!なのに、私はどうして動揺しちゃっているのっ?!
恥ずかしさにうつむいたまま、彼に背を向けて扉に鍵を差し込む。
慌てているせいなのかわからないが、鍵を回して扉を押してもなかなか開かない。焦っていると、笑いをこらえた様子のニッキーが片手でぐいと扉を押す。すると、キィーという音を立ててドアが開いた。
中に入り、ちらりと振りかえった。お礼は忘れちゃダメだ。
「あの……送ってくれてありがとう」
「楽しい時間だった。また連絡する」
ニッキーは片手を上げて笑った。
私がホールを抜けて中庭に差し掛かった時、もう一度振り返ったら、ちょうど扉がガタン、と音を立てて閉まったところだった。
なんでも、私がアルバイト出来そうな所の情報が入ったらしい。
さすが、私の麗しき女神、マリア様!!!
ドキドキして携帯を握りしめ、メールの続きを読む。
マリアの友人、ブラジル出身のレギアという女性が、お茶関係のお店で耳にした情報らしい。
マリアは明日の日曜日、昼前にMauer Parkの蚤の市に行くつもりなので、私が来れるならそこで会おう、とのことだった。
もちろん!絶対行く!蚤の市も大好きだし、話をすぐにでも聞きたいっ!マリア、最高っ!
胸が弾んで小躍りしたい気分だ。早速返信を送る。
少し生活リズムが整って、簡単な会話くらいならドイツ語でもなんとかやりすごせるようになってきたので、ワーホリのビザを活用すべく、なにか仕事を探していたのだ。でも、語学学校があるので、フルタイムでバイトする時間はない。定期的にネットで日本人コミュニティサイトの求人欄をチェックしているが、大抵がレストランのヘルプでランチタイム、もしくは夕方から夜中だとか、後はベビーシッター的なものが殆どだった。夜遅い仕事はしないつもりだから、私が働けるのは月~木の授業後から夕方まで、金土日なら終日。
とてもフレキシブルとは言いがたい私の空き時間だから、そう簡単に都合の合う時間帯で、しかもドイツ語があまり出来ない私の能力で対応出来る仕事は見つからないだろうとは思っていた。
そのことをしばらく前にちらっとマリアに話したのだが、女神マリアはきちんとそのことを覚えていてくれた。
ほんと、なにからなんまでマリアに手助けしてもらって……このまま他力本願が代名詞の人間にならないよう、もっと自立しなきゃ!!!
明日、午前中から出かけるとなると、はるに送信すべきデータは今日中に完成させておいたほうが安心だ。今日はこのまま、昨晩の作業を続けて、明日の夜、最終チェックをして送信する段階にまで仕上げておこう。
私は髪をぐるっと巻き上げてピンでお団子にまとめると、デスクに向いラップトップを開けた。
Cafe Zeit
Connection Cafe & Diner
M's Kaffee Haus
これが今回取材候補に選んだ店舗だ。
「Cafe Zeit」は恐らくビジネスシーンでも利用されるだろうと思われるくらい、黒と白、シルバーを基調にしたモダンなお店だ。カフェメニューの種類は多くないが、店長のこだわりらしい高品質の有機コーヒー豆が何種類も並び、豆に敏感な知識人にとっては大変魅力的。ここなら、フレバーシロップや生クリーム入りでなく、エスプレッソやブラックコーヒーでその味を確かめたい。ちなみに、紅茶もやはり有機のものを揃えてあって、私はまだ試していないが紅茶好きにも対応しているようだ。美味しそうなビスコッティが何種類もあって、「イタリア・トスカーナの老舗商品」と説明書きがあった。この間はアーモンドのビスコッティをカプチーノといただいたが、かりっとした噛みごたえもいいし、新鮮な香ばしさと控えめな甘さがくせになりそうだった。ダークチョコのものや、オレンジ&ビターチョコ、ココナッツ入りなど、バラエティ豊かなビスコッティは視覚的にも楽しい。
「Connection Cafe & Diner」はミッテ地区のレストラン街にあって、昼間はサンドイッチ類もカウンターに並び、夜はイタリアンメニューを中心とした食事も提供する店で、若者に大人気のお店だ。お店のスタッフも元気いっぱいで平均年齢はおよそ20代前半。外国人も気軽に訪れるようで賑やか、家族連れや友達との食事やスナックタイムにはもってこいの場所。
ここの目玉はなんといってもホームメイドのイタリアンジェラート。ドイツでイタリアンのお店を取材ってのはボツかもしれないと思ったけれど、乳製品と甘いものが大好きなドイツ人を語るのにアイスクリームなしじゃつまらない。それに、きっとはるがOKを出すんじゃないかと思う理由がひとつある。ここでは、Spaghettieis、つまり、スパゲティアイスがオーダー出来るのだ!アイス大好きドイツ人の発想らしいが、簡単に言えばアイスのスパゲティ。バニラアイスをまるで糸寒天を作るようにむにゅ~と押し出してパスタ麺のようにお皿に盛りつけ、その上にミートソースならぬ苺ソースをこれでもかと乗せ、見た目はミートソーススパゲティのデザートというわけだ。
様々なテイストのアイスに果物、チョコレートやナッツを駆使して作られる作品?はバラエティに飛んですごく面白い。きっとそのうち日本でもクレープ屋のように広がるんじゃないだろうか。
最後の、「M's Kaffee Haus」は猫付きのカフェ。日本の猫カフェとはちょっと違うが、通常2、3匹の猫が店内をうろうろしていて、ほぼ9割は女子じゃないかと思うくらい女性が多いお店だ。カントリー調で手作り感のある木目のインテリアは、落ち着いたホワイトでペイントされていて、ピンクのギンガムチェックのカバーがついたランプやパッチワークのクッションが可愛らしい。コーナーに置かれている白いソファは、多分、猫の毛をきれいに拭き取る目的で選ばれたと思われるフェイクレザーの生地。メニューも女の子を意識した内容で、パンケーキ類やマフィン、野菜を多くつかったスープやサンドイッチもあるし、勿論、ハイティーも提供している。飲み物も暖かいカフェメニューのみならず、フルーツスムージーもあるし、牛乳のかわりに豆乳も使ってもらえる。まさに、女の子のおしゃべりタイムに持ってこいの場所だ。私もここの分厚くてしっとり焼かれたパンケーキに、たっぷりのメイプルシロップかけていただくのが大好きで、もう3回も食べたくらいだ。
お店の概要や写真、私の簡単なコメントを添えて、何度も見直したリストがほぼ完成した頃、外はもう夕方になって空がオレンジ色に染まっていた。
翌朝、私はNordbahnhof駅からトラムに乗ってMauer Parkに向かっていた。
トラムの窓からちょうどベルリンの壁の一部が見える。観光客がたくさん、壁のあたりを歩いていて、芝生の広場ではひっくりかえって日光浴をしている若者もいる。日差しは暖かいけれど、まだ薄手のコートなしじゃ寒い。
でも、お日様がある限り上着を脱ぎたくなるのは、いつも暗く長い冬を過ごす国の人の性なのかもしれない。アナも言っていたけれど、日が短く曇った日が続く極寒の冬が長いので、冬に鬱を煩う人も少なくないらしい。日光を浴びると気持ちもUPするから、鬱予防にも日光浴は欠かせないのかもしれない。
あっと言う間に下車する停留所に到着し、トラムを下りる。ここで下車するのはおそらく皆、蚤の市を目当ての人じゃないかと思う。
信号が青に変わると皆が一斉に道路を横断し、Mauer Parkのほうへ向かう。すでに入り口のほうは混雑しているようだ。
「カノン!こっち」
入り口でもうマリアが何かを片手に持って私のほうに手を挙げた。
「おはよー!」
マリアと軽く抱き合ってから彼女が持っているものを見ると、串刺しになったポテトチップスみたいらしい。
「こんなの売ってたの?気がつかなかった」
「そう?美味しいんだから、ほら」
差し出されてその出来立てポテチを一つ、手で串から抜き取ってぱくりと食べる。
「うん、美味しい。塩加減もいい感じ」
「でしょ。さ、中に入ろう」
「今日はヨナスは一緒じゃないんだね、めずらしい」
この二人は週末は大抵一緒に行動しているので、今日もてっきりヨナスも一緒かと思っていた。
マリアはふふふっと笑い、最後のポテトを口に入れると串をゴミ箱にぽいっと投げた。
「たまには1人も気楽!ヨナスは弟と約束があるんだって。滅多に会わない兄弟の久しぶりの再会ってやつ」
「そうなんだ!ヨナスがいるとマリアの取り合い競争で気疲れしちゃうから、私はちょっと嬉しいかも」
「あははー、カノンったら正直者なんだからー」
マリアが大笑いして私と腕を組む。ほんとに、大、大好きな友達のひとりだ。
ヨナスがメロメロなのも仕方が無い。女の私でさえ、ヨナスがマリアを独占しているのを見ると、つい嫉妬してヨナスが嫌いになりそうな時があるんだから……
はぐれないように、腕を組んでぴったりとくっついて歩く。かなり混むので気をつけないとすぐにはぐれてしまう。前回アナと来た時は案の定はぐれてしまって、携帯で連絡をとりあって再会したのは30分後というくらい、来場者の数は半端ない。
いろんなお店をゆっくりと歩きながら見る。これといって何か絶対欲しいものをゲットする目的で来たわけではないが、古いものから新しいもの、価値があるものからまるでゴミ同然のようなものまでいろいろあるので、見飽きることはない。
「レギアってね、ブラジル人なんだけどポルトガル人と結婚してて、娘が二人。私がドイツ語クラスに通ってたころ、彼女も同じクラスだったの。サンバが上手そうな23歳」
マリアが売り物のレザージャケットを手に取りながら言う。えらくジッパーがたくさんついた重そうなレザージャケットだが、これくらいファンキーなデザインも彼女なら余裕で着こなせそうだ。
「それでね、なんかお茶屋さんがバイトさがしているって聞いたんだって」
「お茶屋さんってお茶の葉を売っているお店?」
「そう。日本のお茶もたくさんあるらしいの。トルコ系のご主人らしいんだけど、日本茶が好きらしくて」
「そういうお店ってあるんだ!知らなかった」
「ベルリンって結構日本茶を扱っているお茶専門店ってあると思うわ」
マリアは試着したジャケットをハンガーにかけて元の位置に戻しながら、少し背伸びして奥のほうを見た。
「ね、あっちに行かない?食べ物買って、座れるところもあるし。歩きながらだとよく聞こえないわよね」
「うん、そうしよう!私もあそこのジュース買いたかったし」
人ごみをかきわけて、フード系のトレーラーが並ぶ広場のほうへ向かう。
いつも通り、マイケルジャクソンの曲をギターで演奏するイギリス人のパフォーマーが中央で演奏中らしく、結構な観客がベンチに腰掛けなつつ飲み食いしていた。彼が足下に置いた帽子の中にもかなり小銭が入っているが、自作CDのほうはあまり売れていない感じだ。
焼き栗のスタンドに気を引かれつつ、私はホットドッグと絞り立てのフレッシュオレンジジュースを買って、座る所を探した。はじっこのベンチは先ほどまで人がいたのか、テーブルにはケチャップのついた紙皿とビール瓶が置きっぱなしになっている。とりあえずそこに決めて、放置されたゴミを片付けて腰掛けたら、マリアがソーセージにポテトが乗ったお皿とビールを持ってやってきた。
「フランクフルトソーセージ?」
マリアのプレートを見ると、カレー粉がかかっていた。
「カレーソーセージ。あんまり好きじゃないんだけど、蚤の市に来るとなんだか食べたくなっちゃうのよね。変な私!」
マリアはあはは、と笑いながらベンチに座った。
とりあえず冷めないうちに、と食べることに集中する。
私はホットドッグはあまり食べないんだけど、ピクルスやカリカリのフライドオニオンがたっぷり乗ったタイプは割と好きなのだ。
朝ご飯は果物とヨーグルトくらいで出て来たので、すでにお腹がすいていたらしく、ぺろりと食べてしまった。
「貴女もポテト食べて」
マリアに差し出されて少しポテトをつまむ。マリアがふと思い出したように顔を上げた。
「カノン、今度、お寿司つくってよ。私、作り方も見たいのよね」
「そうだったよね!うん、アナも寿司パーティやりたいって言ってたから、今度企画しよう」
「楽しみにしてるから、実現させてよ?」
「もちろん」
力強く頷いてみせると、マリアがにこっとお日様のように笑い、キラキラしたオリーブグリーンの瞳が宝石のように瞬く。
「で、さっきの話の続きなんだけどね。お店の名前は、Tee Tea Ocha、だって」
「わ、おもしろい名前っ!」
ドイツ語の「Tee」英語の「Tea」そして日本の「Ocha」を繋げて店名にするとは、結構ユーモアのある店長っぽい。
「それでね……ん?」
マリアが言いかけて、胸のポケットに手をやる。リズミカルなサンバの音楽が聞こえて来た。
「ごめん、電話。やだ、ヨナスだ!」
携帯のスクリーンを見るなり眉をひそめるマリア。
「まさか、今から合流するとか言い出すんじゃないでしょうね。いやな予感だわ」
スクリーンを睨み応答しないマリア。電話の向こうで苛立つヨナスの姿が脳裏に浮かんだ。
「マリアったら!早く出てあげたほうがいいよ」
そう促すとマリアはビールをテーブルに置き、携帯に指を走らせて耳にあてた。
「ハロー?なにかあったの?え、あ、ヨナス?……あら」
マリアの眼が一瞬宙に浮いて、それから押し黙った。しばらくして、一度私のほうを見て、それから眼を伏せて少し低めの声でぶつぶつ言う。
「なんで?意味不明なんだけど?えっ?それは別にいいけど……えっ、なに、パリ?私?」
パリ?フランスのパリがどうかしたんだろうか。
しばらくマリアが不満そうな口調で、なんで私が!そんな急に!などと言い返していたが、やがてしぶしぶ「オッケー」と呟いて携帯を切った。
ハァーっと大層なため息をつくので、少し心配になってマリアに聞いた。
「大丈夫?なんかあったの?」
「え」
マリアははっとしたように私のほうを見て、それから肩をすくめた。
「パリに行けっていうの。来週末よ。唐突すぎる話よね、いくらなんでも」
「パリ?」
「そう。どうしても手に入れなきゃいけないものがあるから、ヨナスと一緒に行けって」
「ヨナスと一緒に行けって?」
なんだか話が変だと思って首をかしげると、あぁ、とマリアが苦笑した。
「今の、ヨナスじゃなかった。クラウス。途中から電話変わってね、私とヨナスに行ってくれって。自分は忙しいからって、ひどくない?」
「そうだったの!でも、いいじゃない、二人なら旅行も兼ねて。花の都、パリ!悪くないと思うな」
そういうと、マリアがつまらなさそうに首をすくめた。
「ヨナスはもうOKしたって私を脅すのよ。性格悪いやつよね。あーぁ、来週末、お寿司パーティしてもらえるかもと思ったのに、エスカルゴのパリなんて、色気ないわ。ゲンメツ」
「じゃ、マリアが帰って来たらお寿司パーティということで!再来週に企画出来ないか、アナに聞いてみるから。ねっ!」
私が励ますようにそう言うと、マリアが少し機嫌を直して頷いた。
その晩、私は前夜に仕上げておいたカフェのリストを再チェックし、いくつか写真をまた入れ替えてから、はるに送信した。
ついでに結局連絡しそびれていたアナにメールする。
******************************************
アナ~!
明日、明後日のクラスの後、時間ある?
もしあったらお茶したいな。
あのね、もしかしたらバイト見つかるかもなの。
またまたマリア様の情報なんだけど、ポツダマープラッツの近くにあるお茶専門店で、求人があるらしいの。
店主がティーセレモニーレッスンの生徒さんと奥に籠っている間だけ、店番とレジをやってくれる人を探しているらしい。
しかも、火曜日と木曜日の夕方4時から閉店までって、時間的にも私、ばっちりOKなのよね!
これからコンタクトしてみるから、どうなるかわからないんだけど、かなり期待中。
ヤル気だけはまかせてって感じ。
それから、再来週末って空いてる?
寿司パーティ、そろそろ実現させたいなと思うんだけど、都合、どうだか教えてね!
じゃぁまた近いうちに!
かのん
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なんだか忙しくなってきた!!!
はるのOKをもらったら、カフェのオーナーにアポを取って実際に取材に行き、写真を撮り、記事を執筆しなくてはならない。それに出来たらお茶屋さんのほうも早めに伺ってアルバイトさせてもらえるか聞いてみたい。それと、再来週末にお寿司パーティを開くとなると、呼ぶ人やメニュー、場所とかも決めなくてはいけないし。
でも、こうやって仕事やイベントに追われるのってワクワクして悪くない。というか、割と好きだったりする。
明日は学校だから、今晩は早めに寝ようと思ったが、元彼からメールが来ていたので、忘れないうちに返信を送る。
チリでは週末毎に現地の同僚達と一緒にワイナリーを回ったりして、随分満喫している様子だった。私も、負けじとベルリンでの忙しい日々について書き綴る。最近はメル友みたいな感じで、お互いの新しい生活を報告しあう。別れた頃のドロドロした気持ちもふっとんでしまい、いい友人関係になっている。お互い、それぞれの新地で成長してきているのかもしれない。
それに……
こうやって、別れてたったの半年ほどでこんな吹っ切れた気持ちになるなんて、当時は考えられなかった。もしかしたら、二人の間にあった「愛」はいわゆる「男女の愛」でなく「友愛」だったのかもしれない。本当に一生を共にしたい相手が彼だったのなら、私はきっと何年も失恋を引きずっていたはずだ。
別れという悲しみは、私の前に突如現れた巨大な扉だったのかもしれない。人生の次のステージへと私を導く扉の向こうには、想像以上に壮大な世界が広がっていて、その躍動感のある大きな波に飲み込まれるように私はますます魅了されていく。毎日が新しい日で、同じ日はない。その日その日が新しい色を帯びているようだった。
翌週はかなりバタバタの日々が続いた。
はるからはすぐに返事が来て、私の予想に反して3件ともOKとのことだった。
時間もないので、早速、それぞれのカフェのオーナーに電話でコンタクトを試み、2件にはすぐ連絡がついたが、1件はオーナーが出張中とのことで連絡がつかず。取材の申込はメールで送り、質問内容等をあらかじめ連絡した。写真撮影については最初は自分でやろうと思っていたが、話を聞き付けたアダムが、撮影の日時が都合に合えば同行してくれて、プロ仕様の撮影機材でお店のオーナーやスタッフのポートレイト、外観や内装、お店の看板メニューなどの撮影をしてくれると連絡をくれた。勿論、誰か写真の知識がある人が撮影してくれるなら「撮影料」として支払ってもらえるので、なるべくアダムの空いている日時を書き出して、取材先に都合を問い合わせているところだ。
そして、マリアから連絡がきて、金曜日にお茶屋さんへ伺うようにとのことだったので、約束した午後4時にお茶屋Tee Tea Ochaに行く。
こじんまりとしたお店だったけど、中に入ると壁一面に渋い色合いの錫製の茶壷が所狭しと並んでいて、その種類の豊富さに圧倒された。掛け軸に生け花まで飾ってあり、ご主人がいかに真剣にお茶屋を営んでいるか明かだった。
「日本の全国各地のお茶を揃えているよ。有機のお茶も、これだけある。特に九州産はオススメだ。こっちのほうには、中国茶、セイロン茶なんかもあるけど、メインは日本茶なんだ」
トルコ系移民の店主は、自慢のコレクションの説明に余念がなかった。
有田焼、伊万里焼などの茶碗は勿論、ティーセレモニーのクラスを行っているというくらいだから、お店の中央にロの字に敷かれた畳の中央には風炉や釜など、様々なお茶の道具もあった。ティーセレモニーの話をされて、完全無知の自分が恥ずかしく、顔から火が出るかと思ったが、正直に「お茶の経験がなくて全くわかりません」と答えた。
呆れられるかと思ったが、ご主人は、無知な日本人のために自分が教えてやらねばと逆に気合が入ったらしく、ますます熱心に、茶器の道具を見せてくれたり、これが茶入れだのあれが棗だの、袱紗がどうとか、懐紙がなんだとか、やたら熱弁してくれた。
こんなにたくさん、到底覚えられないとパニックになったものの、必死で話を聞く。頭はすでにパンク状態だ。
ご主人はとても優しく親切な方で、日本人なのに日本茶の知識が「ほうじ茶、煎茶、緑茶、番茶」レベルの私を雇ってくれることになった。
せめて、ご主人に迷惑をかけないように、商品のことくらいきちっと覚えなくては。
お茶の世界はかなり深いが、大丈夫だろうか、私。
いや、大丈夫にならなくてどうする!為せば成る、為さねば成らぬ何事も……とおばぁちゃんの座右の名を思い出す。
取材の仕事もあるし、〆切後のイースター休暇明けからの仕事開始でお願いしたら、快諾してくれた。イースター中はお店も休みなので、逆に都合がよかったようだ。
「一番大事なのは、お客様をもてなす心だよ。日本人の君にはいわなくてもわかるだろうけど。お客さんがきたら、試飲したいとおっしゃるお茶を美味しく煎れて差し上げて、お好みに合う商品を探すお手伝いをする。君の仕事はそれだけだから」
ご主人が優しくそう言ってくれ、私は嬉しくて勢い良く頭を下げた。
「ありがとうございます!!!頑張りますので、宜しくお願いします!」
「こちらこそ。じゃぁ、イースター休暇明けの火曜日、4時に待ってるよ」
「はいっ!」
ご主人に差し出された手をしっかり握って握手して、私は意気揚々とお店を出た。
よしっ!
これでアルバイトも無事、ゲットしたっ!
急いで家へ帰って、みんなにメール報告しなくちゃ。
私は早足でPotsdamer platzの駅へ向かった。なんだか興奮していて、やたら喉が乾いてしまった。
お茶屋さんのご主人に、3杯も緑茶をいただいたのに。
いや、きっと逆にカフェインを取りすぎて興奮しているのかもしれない。体がカッカして、暑い。
駅の階段を下りようとして、ふと駅の後方に広がるSony Centerを見た。
Sony Centerは、ソニー・ヨーロッパの本社をはじめ、ソニースタイルストア、オフィスビル、高級アパート、フィルムハウス、ドイツ・メディアテーク、 商業施設、映画館などが入っているガラスばりの巨大な建造物だ。ベルリンの壁崩壊後のポツダム広場の再開発の目玉として建設され、ドイツ現代建築の最高峰として注目を浴びる現代ベルリンの象徴の一つ。
そういえば、こっちのほうは見たことがなかったかもしれない。ポツダマープラッツ自体、ショッピングモールに一度来たきりだった。
せっかくなので、ちょっとだけこの巨大ビルの中央広場のほうをチェックしてみることにした。
近づくと急にものすごい勢いでビル風が吹いて、一瞬背筋がぞぞぞっとしたが、広場に入るとほぼ無風。サッカーでも観戦するのか大きなTVスクリーンも設置されてあるし、木や花の植え込みに噴水などもあって、見渡せば観光客があちこちで記念写真を撮っている。
なんだか、東京の都会を彷彿とさせる景色だ。
不思議な懐かしさを感じて、広場の中央で360度、ぐるっと周りと見渡すと、スタバが目に入った。
そういえば、ベルリンに来てから一度もスタバに入っていない。入り口にピンクと黄色のフラペチーノの写真看板が見えたので、近くへよって見た。Red Berry YoghurtとBanana Yoghurtのフラペチーノだ。
久しぶりにスタバに入ってみようかな。
東京を思い出し、懐かしさもあってそのままスタバに入る。Red Berry Yoghurtをテイクアウトで注文し、久しぶりのフラペチーノを楽しみながら電車に乗る。ドイツの車内って飲食ダメだったっけ?よくわからないけど、普通にサンドイッチ食べたりしている人もいるし、まぁいいかと思いながら温かい車内で冷たいドリンクを楽しむ。
最寄りの駅についたら、もう夕方の6時半と薄暗くなっていた。
道路に出て、一瞬、スーパーのことを考えて立ち止まる。
このまま買い出ししてしまえば、明日はスーパーに行かずに宿題したり家事をしたり出来るが、どうしよう?
今日は午前中はアポ取り関係やらメールやらで落ち着かず、午後はお茶屋に行ったから、掃除も買い出しもしていない。
でも、フラペチーノを飲んだこともあって、夕方の肌寒さを強く感じてしまい、このままスーパーに行くことを躊躇してしまう。
スーパーの方角を見つつ、しばし考え込む。買い物用のバッグも持って来てないし、明日の朝一番に行けばいいか……
そう思ってやっぱり家に帰ろう、とスーパーの方角から目を逸らして前方を向くと、大型バイクが辺りを振動させるような大きなエンジン音を立てて道路を通り過ぎる。ドイツは結構、大型バイクが走っているのだ。
よく見かけるのは、日本のKawasakiやHONDA、SUZUKI、YAMAHAそして勿論ドイツのBMWだ。多分、7割方は日本の大型バイクだろう。
あれはちょっと見慣れない深紅のボディカラーのバイクだから、日本のメーカーのやつじゃないのかも。
そう思って走り去るバイクを見ながら歩いていくと、そのバイクが角で曲がって停車した。丁度バイクの横のボディが見えて、脚の部分の赤いところにホワイトでapriliaとある。あれは、多分イタリア製?そういえば、フェラーリを連想させるような美しいラインのボディかも。
そんなことを思いつつ、バイクの車体を見ながら通り過ぎようとしたら、
「今朝はどの林檎だった?」
突然そんな声が聞こえて驚いて立ち止まる。どこから聞こえたんだろうと顔を上げたら、私が眺めていたそのバイクにまたがっていた人が、両手でヘルメットを勢いよく外すと、ぶわっと爆発したような髪をぐしゃぐしゃと手でかきあげながら私を見下ろした。
「あっ、ニッキー」
先週末、カフェでさんざんご馳走になったニッキーだった。不意を突く登場にびっくりして眼が点になる。
「君はひどいやつだ。まるで気がついてくれない」
冗談なのかよくわからないが、ややすねたように私を軽く睨み、ヘルメットを小脇に抱える。
確かにさっきからじーっとバイクの車体を凝視していて、乗っている人のほうは全然見ていなかった。
「ごめんなさい。つい、バイクばかり見ちゃって、気がつかなかった」
「それだけじゃない」
「え?」
ニッキーはじろっと私を睨む。なんか他にも失礼なことしたっけ?
少しびびって固まっていると、ニッキーは大げさに、ハァとため息をして空を見上げた。
「あれから、連絡先を送ったのに、待てども待てども音沙汰なしで、俺は深く傷ついてる」
「あっそれは」
そうだった。
週の半ば、ニッキーからメールが来たんだった。連日あれこれと忙しくて、返信しそびれていた。というか、何を書けばいいのかもわからなかったし……
「ごめんなさいっ!今週いろいろと立て込んでいて、返信する余裕がなかっただけで」
そう言って頭を下げ、釈明し、ついでに、話題を逸らすべくバイクを褒めてみる。
「とってもかっこいいバイクに乗っているのね。apriliaってイタリアっぽい名前」
ニッキーのさっきまでの険しい顔が少し緩んだ気がする。彼はバイクを見下ろして、ちょっと笑った。
「こいつは、RSV 1000R Milleというバイクだ。オーストラリア製のエンジンを搭載しているが、君の推測通り、イタリアのバイク」
「ふーん、そうなの。ボディラインがイタリアって感じでとても奇麗」
少し身を屈めてもう一度よく見ようとした時、バッグの中の携帯が振動した。もしかしたら取材申込関係の連絡かもしれない。
「ごめんなさい、ちょっと電話でるね」
一応断ってから急いで携帯を取り出して耳にあて、「ハロー?」と答えてみる。
すると、電話の向こうから聞こえて来たのは聞き覚えのある、
『モシ、モシ?』
だった。
「アダム!」
なぜか最近アダムは電話で『モシモシ』と言うのを気に入っている。私やアナが電話している時にそれを耳にしてから真似するようになったらしい。
『お茶屋さんどうだった?』
「うん、大丈夫だった!イースター開けから週二日の予定。あっ、それで撮影のことなんだけど、週末空いてる?』
取材OKの返事が来たところに、どういう写真を撮らせてもらうか取材前に連絡することになっている。出来たら早めにアダムに相談して、撮影内容をまとめたい。
『わかってるよ。日曜日なら空いてる。3時くらいでどうだろう』
「うん、助かる!日曜日だね。じゃぁ場所はまかせるから、決めたらメール送ってくれる?」
『了解。じゃぁ日曜日』
「オッケー。またね」
よかった、日曜日に撮影の内容や手順を打ち合わせ出来る。こんな仕事は未経験なので、アダムに前もっていろいろ教えてもらっておかないと、取材先で周りに迷惑をかけてしまいかねない。運良く撮影に詳しい友人がいて助かる。これもまた、マリア様のおかげ……
ほっとしながら携帯から眼を離すと、明らかに気分を害した様子でこちらをじろっと睨むニッキーが目に入った。
「あ、ごめんね。仕事のことでちょっと」
まるでサラリーマンみたいな言い訳を言いつつ、少し失礼が過ぎたかもと思って気まずくなる。
「まさか自分の目の前でデートの約束をされるとは、ショックだ」
ニッキーが威圧感のある低い声で独り言のように言う。
「え?デート?いえ、全然違うんだけど」
「日曜日だって?」
「日曜日?うん、そうだよ」
「明日は空いている?」
「明日?えーっと……」
いきなり人の予定をストレートに聞いてくるが、彼はまだ会って2回目の言うなれば知人であって、まだ友人でもない。確かに先週末はかなりお世話になったし、カッコいい人に予定を聞かれるのは正直嫌な気分じゃない。
「明日は、いろいろやらなくちゃいけないことが溜まってて……」
正直に答えてみる。嘘じゃない。宿題も、家事も、仕事のことも、本当にあれこれやるべきことがある。
ニッキーはしばし、沈黙した。私も、どうしたらいいか分からず黙って彼を見ていた。
やがて、ニッキーが携帯を取り出して何かをチェックしながら言う。
「日曜日は何時なら空いてる?」
「うーん……」
アダムと3時に待ち合わせて、打ち合わせして終るまで2、3時間くらいはかかるだろうか。
「日曜日は多分、6時くらいまでは忙しいかな」
「6時か」
アダムは携帯から眼をあげて、私を見るとにっと微笑んだ。
「オッケー、カノン。じゃぁ6時で」
「え?」
「6時にカフェのほうに来てくれ。近くに美味しいタイ料理のレストランがあるから、そこでディナーを食べよう」
「タイ料理?あっ、ニッキー、あの」
びっくりして聞き返した時にはもう、彼はヘルメットをかぶって両手はバイクのハンドルを掴んでいた。
地響きのするようなエンジン音を立て、バイクが力強く振動する。そのド迫力に思わず1、2歩、後ろへ後ずさる。低音で響くエンジン音が骨までぶるぶると揺さぶるようだ。
「チャオ」
片手を上げてそう言うと、あっと言う間にニッキーはエンジンを吹かして去って行った。
もう姿も見えず、音も聞こえない。
あれ、なに?! じゃぁ6時でいいって……
話のぶっ飛び方に驚いて、すっかり寒気も吹っ飛んだ。
……でも、これって、いわゆるナンパってやつ???? ベルリンに来て、初のナンパ?!
そういう考えが頭をよぎり、思わず赤面してしまった。いやいや、我ながら、思い上がりもいいところだ!
こっちじゃ、男女関係なく、友人関係の一環として食事を共にすることも多いのだから、食事に誘われたから即ナンパだなんて思い込みは、いい年をした女としてはかなりイタイかもしれない。
勘違いや先走りは良くない。気をつけなくては!
反省しつつも先ほどのことを思い返すと胸がドキドキしてしまい、なんだかティーンエイジャーの頃の自分を思い出す。
どっちにせよ、特に断る理由もないし、タイ料理は久しぶりだから、ま、いっか。
なんとなく日曜日が楽しみになって、テンションがあがってきたし、寒気も吹っ飛んだということもあり、私は結局そのままスーパーへ買い出しに行ったのだった。
翌日の土曜日は終日アパートに籠って、予定通りのTo Doリストをこなす。
パリに行っているマリアから午前中にメールが来て、用事はもう済んで午後は街を散策するので、何か欲しいものがあれば買って来るから連絡するように、と優しい一言があった。
マリアってどうしてあんなに気配りが出来るんだろう?
私もあれくらい人間として魅力のある女性になれたらと思った。
マリアにはお礼と、もし近くを通ることがあれは、バティスリー•サダハル・アオキのマカロンをお願いしたいと返信した。
来週末のお寿司パーティにも合うし、サダハル・アオキのマカロンは絶品だから、知らない人には是非一度食べてもらいたい。
そして日曜日。3時に私はシャルロッテンブルク駅近くのカフェでアダムと打ち合わせをしていた。
ちなみに、シャルロッテンブルクは日本人も多いエリアで、アナのアパートもこの近辺だ。
いかにも北欧人らしいブロンドに青い眼のアダムは、ベルリンのドイツ人女性にも人気があるようで、一緒にいると周りの視線を感じることが多い。それに、どうやらゲイの方々にもモテるようで、この間は夜のアートイベントで両サイドをゲイにがっちり固められていたとマリアから聞いた。アダムは別に気が合えばストレートだろうとゲイだろうと気にしない様子で、友人にもゲイの人が結構いるらしい。
まぁ、ニューヨークに長年住んでいたら、それくらいオープンになっても不思議ではない。
ベルリンはドイツ国内の他の都市に比べたら断然、オープンな文化がメインストリームだと思う。これが、もっと頭の固そうな人が多い古めかしい街だったら、人々の様子も全く違うだろうと思う。きっと、人種差別とか、ゲイ差別とかがもっと身近な街も少なくないだろうと思う。
「オーナーの写真。スタッフが店内で働く写真。あと、お店の外観と内観」
アダムが流れる様な美しい字を紙に書いていく。彼は、こういう時にラップトップは使わない主義らしい。
「メニューから何品くらいオーダーする予定?」
「うーん、まだ決めてないんだけど、ドリンクは3、4品。お食事系は5品くらいになると思う」
「そう。まずは一品ずつ撮って、それからテーブルに並べて全体の雰囲気を撮る」
「あ、それがいいね」
完全に初心者なので、いちいち納得し、感心してしまう。
「湯気が出てるものは時間勝負だ。なるべく、冷たいものを先に注文するようにして」
「確かに、おっしゃる通り」
私も自分のノートにしっかりとメモる。聞いてみれば当然のことだが、撮影の状況をきちんと理解していないと、注文の順序などは意外とそこまで考えないものだ。
「カノンにも撮影のアシストしてもらわないといけないしね。それから」
アダムはいたずらっ子のような目をして、クスッと笑う。
「お腹は空かせて行かないと」
「え?」
お腹がからっぽだと取材も撮影も集中出来ないんじゃないの?
そう思って疑わしそうにアダムを見ると、彼は少し大げさに驚いた様子で言う。
「カノン、注文したもの、どうする気だ?」
「ん?あ、そうか」
私ははっとして目を見開いた。注文した後のことを考えてなかった。
「全部、たいらげる……ってわけ?だよね?」
テーブルを埋め尽くす食事を想像し、少しびびりながらアダムに確認すると、彼は頷いた。
「当然だろう」
アダムは肩肘をテーブルについて、カプチーノの皿に添えてあった小さなチョコレートクッキーを口にし、うすら笑いを浮かべて私を見つめた。
「君なら1人でも難なくたいらげそうだけど?」
「ひどいっ!そこまで大食いじゃないっ」
少し傷ついてアダムをキッと睨む。
いくら大食漢でも、限界がある。いや、それにしてもアダム、女性に対してそういう言い方って失礼すぎるんじゃないの?!
本気でムカついたが、当の本人は結構いいジョークを言ったとでも思ったのか、機嫌よくニコニコしている。
「もちろん、俺も食べるから心配はない。撮影用とはいえ、注文してあらかた残すのは失礼だからね」
確かにそうだ。私ひとりじゃ到底無理な量だっただろう。アダムが撮影を手伝ってくれるのはそういう役割的にもものすごく助かる。
そう思えば、さっきのひどいジョークも許してあげなくてはならない。
「ありがとう。いろんな意味で、ほんとに助かる」
頭を下げてお礼を言うとアダムが笑った。
「借りはいつか返してもらうから、お礼なんていらない」
「そう?でも有り難う」
来週半ばから再来週前半にかけて取材を申し込んでいるので、先方から返事が来次第、すぐに連絡することを約束してアダムと別れた。
携帯で時間を確認すると、すでに6時05分。あたりも暗くなってきている。
これから移動して、ニッキーのカフェに着くのは6時半過ぎるかもしれない。
急いでシャルロッテンブルク駅に向い、丁度タイミングよくホームに入って来た電車に飛び乗る。
6時半くらいになることを、SMSで連絡したほうがいいのだろうか。
いや、でも、6時くらいまでは忙しいと言ってあるから、6時きっかりに到着出来るとは思っていないだろう。それに、ニッキーもカフェの仕事で忙しくしているかもしれないし、今SMSを送るのも逆に迷惑かもしれない……
そんなことを思っているうちに、気がつけばもう6時20分を過ぎていたので、SMSを送るのは止めた。
割とスムースに乗換えも出来て、最寄りの駅に着いたのは6時27分。カフェに着くのは6時40分前くらいかもしれない。
とりあえず急いで歩く。基本的に遅刻とか大嫌いな性格なので、はっきり6時とは約束していないけど、なんだか罪悪感を感じるのは否めない。機嫌が悪かったら謝るしかないーーーと思いながら歩いてこの間の広場へ到着した。
Café Bitter-Süßの前に到着。
先日は表に出て開いていたパラソルもしっかり閉じられて束ねられている。もう閉店している様子なので、当然なのかもしれない。
もしかして、もういない?!
びっくりして入り口に駆け寄ってみる。店内も薄暗くて防犯用の電気くらいしか点いていないらしく、中はよく見えない。
どうしよう。
約束の6時も過ぎちゃったし、もしかしたら帰ってしまったのかも?
だったら、シャルロッテンブルク駅からSMSで連絡しておけばよかった!
結構がっかりして、カフェの前で立ち尽くしてしまった。
今から、電話をかけてみるべきかーーー
バッグから携帯を出して、登録情報をスクロールしてニッキーの電話番号を探す。
……あった。
電話マークを触れば、ダイヤルされる。とわかっているものの、どうも勇気が出ない。
携帯のスクリーンをじーっと眺めて、睨めっこをする。
かける。かけない。かける。かけない……かける?
「カノン」
「キャッ」
突然、背後から声をかけられ、驚いて飛び上がった。
「ニッキー!!!ちょっと、心臓が止まるかと思ったじゃない、ひどいっ、最低っ」
心底びびって、少し涙目だ。気配も全く消したまま突然背後から声をかけるなんて、ひどすぎる。
腕組みをしてなんだかニヤニヤと笑うニッキーが、嫌みっぽく言い返して来る。
「6時過ぎても現れず、連絡もよこさずで、君も随分とひどい女だと思うけど」
「う……」
痛いところをつかれ、図星だったせいか言葉につまる。それは、事実だ。確かに、私が元凶といえばそうだ。
若干不本意ではあるが、正当な理由で責められたので、きちんと謝罪する。
「遅れてごめんなさい。連絡しようと思ったけど、仕事の邪魔になるかと思って……カフェがこの時間にもう閉まっているとは知らなかったの」
ニッキーは腕組みをしたまま、街灯に寄りかかって立っていたが、やがて静かにくすっと笑うと私の背中を片手で押した。
「まぁいい。さぁ、行こう」
促されるままに歩く。携帯をバッグにしまいながら、とりあえずほっとしている自分に気がつく。
なんだろう、急に冷静さが戻って来て落ち着いてきた。さっきはあまりに驚いて興奮していたのに。
特に話すこともなく並んで歩く。
ニッキーはダークグレーのDIESELフルジップハイネックパーカーに、同じくDIESELらしいネイビーブルーのジーンズとラフな格好だった。この間あのド迫力のバイクに乗っていた時は、レーシングバイク向けのいわゆるレザースーツ?みたいなのを着ていたんだった。あんな格好じゃ誰だかわからなくても当然だったかもしれない、なんてことを考えていたら、ニッキーが立ち止まった。
「辛いの平気だった?」
見れば、タイ料理店の前に来ていた。もうすでに美味しそうな匂いが漂ってきている。
「辛いの好き!そういえば、ベトナム料理ばかり行って、ベルリンでタイ料理は初めて」
久しぶりのタイ料理にウキウキして、声が弾んでいるのが自分でもわかり、少し恥ずかしくなった。
背中を押されて中に入ると、奇麗なタイ人ぽいお姉さんがすぐにやってきて、席に案内してくれた。
アジアンぽい間接照明がとてもいい雰囲気で、大きな水槽がライトアップされている。ちょどその水槽の近くの席を案内されたので、メニューを受け取りながら水槽をのぞいてみる。赤い鳥居や橋が沈んでいて、ゆらゆらと緑の藻が揺れ、真っ白い、顔が鯉に似ている魚達が5匹、優雅に身を揺らしながらゆっくりと泳いでいる。5匹とも真っ白で、魚といえば赤色を想像する私にはなんだかとても珍しく思えた。
「カノン、飲み物は」
ニッキーに聞かれ、魚から目を離してメニューを開く。
基本的にアルコールは飲まないので、ソフトドリンクのほうをチェックする。タイ料理は辛いから、温かいお茶じゃなくてやっぱり冷たいものが無難だろう。
「うーん、じゃぁ、ジンジャエールにしようかな?」
やがてお姉さんが戻って来て、飲み物と食事の注文をした。
食事のほうはなかなか私が決められないので、気を利かせてか、あるいは苛立ったのかわからないが、ニッキーが注文してくれた。
やがて運ばれて来たのは、前菜の揚げ春巻き、タイ風焼きそばのパッタイ、それからチキンのグリーンカレー。
どれもこれも美味しくて、私はすっかりご機嫌だった。
仕事のことや学校のことを聞かれたので、通っている語学学校のことと、取材の仕事、それからイースター明けのお茶屋さんでのアルバイトのことを話した。
ニッキーは私がお茶屋さんであまりに知識がなくて恥ずかしかった話にウケたのか、その様子を見てみたかったとまで言う。
からかわれていたものの、あまり悪い気はしなくて私も笑ってしまう。
デザートに揚げバナナのココナッツアイス添えまでしっかり食べて、もうこれ以上は無理というくらい食べた。
お腹いっぱいになって言葉も少なくなった私を見て、ニッキーがくすっと笑う。
「さすがに、あの魚を使った料理は注文出来なかった」
「えっ」
「君が真剣に魚を見ていただろう?俺が、あれを食べると言ったら?」
「ええっ」
あれは生け簀なの?まさか!?あんな、鯉みたいな顔をした、真っ白なきれいな魚を……
網ですくいあげられて、キッチンのまな板に置かれる白い魚を想像して固まる。
すると、ニッキーが突然、片手で顔を覆ってクスクスと笑い出した。
「……そんなわけないじゃないか。冗談だ」
「じょっ……冗談って」
むっとしたが、よく考えればいかにも観賞魚らしく奇麗な水槽を泳いでいる魚を取って料理するはずがない。
こんなレベルの低い冗談にひっかかる自分も自分だ。
情けなさと説明のしようのない苛立ちに、黙り込んだ。
「冗談はこれくらいにしてそろそろ出よう。残念ながら俺はこれから空港に行かなくちゃいけないんだ」
「空港?」
思い掛けない話にびっくりして私も席を立つ。
今から空港に行くって、夜の飛行機に乗るということだろうか。
どちらにせよ、そんな忙しい人を長々と夕食に付き合わせてしまったなんて、なんだか悪かったかもしれない。せめて、さっさと店を出ないと。
バッグを持ってレジのほうへ行くと、ニッキーがカードを店員に渡していた。
「ニッキー!現金でいい?」
いそいで50ユーロ札を差し出すと、ニッキーはお姉さんに差し出されたレシートにサインをしながら首を振った。
「……でも」
困って50ユーロ札を持っていると、ニッキーが私の手からそれを取り、そっと私のバッグの中に入れた。そのまま背中を押されて外へ出る。
「ニッキー」
何か言おうとすると、彼は首を振って笑う。
「レディはこういう時は黙って、ありがとう、と言えばいい」
「う……」
ごもっともな指摘をされ、気まずくなる。私はゆっくりと息を飲み、ニッキーを見上げてお礼を言った。
「ごちそうさま。とっても美味しかった。ありがとう」
「どういたしまして」
急に紳士的に首を傾げて微笑むニッキーに少しびっくしつつ、もと来た道を戻る。
「これから空港だなんて知ってたら、あんなにベラベラ喋り続けなかったんだけど」
我ながら変な言い訳だと思いながら言うと、ニッキーはたいしたこと無いというように首を振る。
「まだ余裕で間に合うから平気だ。アパートまで送る」
「え、でも、近いから私ひとりで平気よ」
「もうあたりは真っ暗だ。街灯はついてはいるけれど、悪い奴がどこに潜んでいるかわからないだろう」
「それはそうだけど……一応、少しは武道やってるから、悪漢1人くらいならなんとか対応出来そう」
「武道?」
ニッキーが立ち止まり、驚いたように目を見開いて私を見た。
「空手を少しやってたから、護身術レベルでなんとか」
「それは意外だったな」
ニッキーは感心したように言って、また歩き出す。どうやらやっぱり送ってくれるつもりらしい。
遠慮したところでまた、レディならこういう時は~、と言われかねないかなと思い、おとなしく歩くことにする。
レストランを出た時はまだタイ料理の余韻で体はぽかぽかだったが、歩いているとどんどん冷えて来た。まだまだ朝夕の冷え込みが厳しいベルリンだ。信号が赤になり、立ち止まっていたら首もとがぞくっとして思わず武者震いしてしまった。
「寒い?」
私の様子に気がついたのか、そう聞かれた。
「うん、少しだけ。でも平気、もうその先がアパートだから」
そう答えて信号の向こうの通りを指差した。すると、ニッキーがその手を掴んで下ろしたかと思うと、そのまま、ぎゅっと握りしめてパーカーのポケットにつっこんだ。
え?
ニッキーに繋がれた私の右手が。
そのまま彼のパーカーのポケットに。
驚いて彼を見上げると、しっとりとした甘い光を讃えた優しい目がじっと私を見下ろしていた。
「このほうが温かいだろう」
「……」
答えようがなくて何も言えず、私の常識を遥かに超越したこの状況にひとり静かにパニクる。
信号が青になり、そのまま無言で歩き出す。右手はしっかりと彼の手の中に、そしてポケットの中に。
ニッキーの大きな温かい手は、少し固く骨っぽい。私の2倍はありそうな、大きな力強そうな手だ。
ぎゅうっと握りしめられて手だけが熱く感じてしまい、そればかりに神経がいってしまったのか頭の中は完全にショートしていた。
危うく自分のアパートの前を通り過ぎそうになり、立ち止まる。
「あっ、ここなの」
ニッキーは立ち止まるとアパートを一度見上げ、それからようやくポケットから手を出した。そしてその繋いだ手を私の目の前に掲げると、少し意地悪そうに微笑んだ。
「てっきり、空手で吹っ飛ばされるかと思ったけど」
「……っ」
思わず赤面し、なんと答えようかと必死で考えるものの、いい言葉が思いつかない。
動揺して黙ったまま恨めしそうにニッキーを見上げると、彼は急にまたとっても優しい目をして、すっと私の肩を抱き寄せて耳元で囁いた。
「おやすみ、カノン」
くすぐったい感触にびくっとなり、身を縮める。
こうやって肩を軽く抱き合うのは誰だってする社交辞令、挨拶だ。私もみんなとよくやっている!なのに、私はどうして動揺しちゃっているのっ?!
恥ずかしさにうつむいたまま、彼に背を向けて扉に鍵を差し込む。
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