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破天荒な交響曲
気まぐれな混迷の波
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『えっ、もう一回言って?』
アナが聞き返した。
「式を挙げたら奥様も一緒に住むらしいって聞いたら、アナはどういう意味だと思う?」
『……なにそれ……ニッキーのこと?』
電話の先のアナが、静かな声でそう聞く。
携帯を持つ私の手が少し震えている。パニックにはなっていないと思うけれど、寒気がするくらい緊張しているのが自分でもよくわかった。
「うん……ニッキーのアパートの階下に住んでいるご夫人がね、私に、ニッキーの奥さんなのかと聞いたから、違うって答えたの。そしたら、挙式したら奥さんもここに住むって聞いたから、私がその人なのかって思ったって……」
電話の向こうでアナが考え込んでいるのが伝わって来る。彼女がなんて言うだろうかと思って、胸が苦しくなる。アナは正直者だから、絶対に本当に思ったことを言う。私のためにも、気休めみたいな嘘はつかないと知っていた。
『うーん、少し、おおざっぱ過ぎてなんとも言えないって印象だねぇ……』
「……」
少しほっとしたような、でもだからといって安心したわけではないような、複雑な気持ちで溜め息をした。
アナが電話の向こうでまたしばらく沈黙して、それから注意深く彼女の考えを説明してくれる。
『そのおばさんがニッキーに、ずっと一人暮らしなのかって聞けば、結婚するまでは一人暮らしだって答えたとしても別に変じゃないと思うんだよね。それに、その話をニッキー本人が答えたかもわからない。近所の噂で聞いたとか、情報的にも信用性があるかもわからないね。こういう話って、当てにならないことあるじゃない?基本的に、おばちゃん連中は噂話が好きだから、そういう話が一人歩きしているうちに、事実とは違う内容になってる可能性もある。唯一、ひっかかることと言えば、挙式をしたら云々ってところかな』
私が一番、気になっているところもその点だ。式を挙げたら、という言葉が出るとしたら、そういう相手が実際に存在するとしか考えられないし、あのご夫人も何か根拠があってそう言ったんだと思ってしまう。
「私もそう思って……式を挙げたら、なんて言葉、ニッキーにそういう相手がいると知っていないと言わないと思うんだよね」
『うん……でも、それがいつの情報かはわからないじゃない?』
「え?」
『そのおばさんが、そのことをいつ頃知ったのかなんて、わからないじゃない?ニッキーが以前に付き合っていた人が居たって不思議はないっていうか、率直な話、絶対に何人も恋人がいた訳だろうし、それが過去の彼女の話だったとしたら別に驚くことでもないよね』
「あ……そっか」
つい現在進行形の状況として話を受け取っていたけれど、よく考えたら、これが前の恋人の話だということもありえることだ。
そう考えたら全く不思議な話ではない。
少し、気持ちが軽くなってきて寒気が収まって来た。
「そうだよね……ニッキーも、かなりの人数と付き合って来たのは事実だって認めているし、あのアパートに前の恋人が出入りしていたとしてもそれは自然なことではあるよね……」
『そうだよ。それに、カノンと付き合い始めてから全然他の女の影なんてないみたいじゃん?浮気する暇なんてなさそうだし?カノンに散々振り回されているって本人が言っているんでしょ?』
「うん……それは、そうかも。週の半分は近くに居ないから様子が見れるわけじゃないけど、毎日連絡はくれてるし」
『彼って嘘つくタイプじゃないと思うな。だって、前、どっかのホテルの入り口で他の女と一緒に居た話の時も、昔付き合ったことあるって正直に言ってたんでしょ?』
「うん」
『私の想像だけどさ、彼ってかなりモテる人だから、付き合って来た昔の彼女達も結構執着してたんじゃないかと思うんだよね。彼女達がニッキーを完全確保しようと先走って、周りの人にさ、私達は結婚するんだ、とか言いふらしてたっておかしくないと思うよ。よくあるじゃない、そういう話。周りから外堀固めて結婚に持ちこむ攻め方って』
「うん、そうだね」
『それにさ、不安なら、正直にニッキーに聞いてみるのもありだよ。うじうじしているより、さっさと聞いてしまえば不安も消えてすっきりするもんだよ。案ずるより産むが易しってやつ』
「うーん、それはちょっと……出張に行って忙しいところに、くだらないことで困らせたくないっていうか」
『くだらなくないよ!カノンがこのことで何日も暗い顔で過ごすとか、そっちのほうが良くないってば』
「うん……」
アナの言うことはもちろん、理解している。彼女みたいに、はっきりと自分の意思を持ってきびきび行動したいのは山々なんだけど、私はやっぱり弱虫だ。いろいろ詮索して1人で悩んで、それをニッキーに打ち明けて困らせたり心配されたりするのは嫌だし、それにそんなに重い女だと思われて嫌われるのは怖い!
『だからさー……えっ?なに?』
電話の向こうで、アナの声が遠くなった。しばらくして、電話の向こうでアダムの声が聞こえる。二人で何か話しているようだ。アダムも、私が誰かと付き合っているのは一応知っているので、もしかしたら私達の電話の様子がおかしいので、何があったのかアナに聞いているのかもしれない。
アダムまで巻き込むのはちょっと恥ずかしいなと思っていると、アナが電話に戻って来た。
『カノン?あのさ、アダムにちょっと聞いてみたの、男の心理、みたいなの』
「男の心理?』
『一般論としてね。ちょっと彼にかわろうか?』
「あ、う、うん」
アナにぐいぐい押されるままについそう返事してしまい、少し間を置いてアダムの声が聞こえて来た。
『カノン?』
「あ、アダム……なんか、妙なこと聞かせちゃったね」
気まずくてそう言うと、電話の向こうでアダムが小さく笑うのが聞こえた。
『妙なことじゃないさ。女ってそういう噂とか耳にするとめっきり弱くなるもんだろう?』
「う……ん、まぁ、私もその典型的なタイプみたいで……情けないんだけど」
『それが自分なんだから否定することはない。そいつだってカノンがそういう性格だってことくらい、わかっているだろう?』
「うん」
やっぱりこういうのは、男性から意見を聞くとまた気分が違う。
女性にありがちな感情論じゃなくて、分析して理屈ぽく話してくれると、こちらも理性を取り戻せる。
『俺からこれというアドバイスはないけれど、カノンは、自分がやつを信じたいのかどうか、それだけよく考えればいい。そいつが信用に値する人間だと思うなら、疑うのは一切やめるんだ』
アダムのその言葉に、どきりとした。まるで、ニッキーに言われたのかと一瞬錯覚するくらい、はっと目を見開いてしまった。
そうだ、私は何を落ち込んでいるんだろう。
私は彼を信じたいんだ。
いや、心から信じてる!
彼は疑われるような人間じゃない。
彼ほど誠実な人はいない。
そんなこと、私が一番知っていることなのに!
たった一言、気になることを耳にしたくらいで、彼に対する私の気持ちがぐらつくことはない。
気持ちがぐらつくどころか、逆にもっと彼のことが気になって、もっと知りたいと思ってる。でもだからこそ、私は、勝手に他の女性を想像して嫉妬して、さらに妄想までしてどんどんネガティブな方へ考えていたんだ。
「うん、アダムのいう通りだね。私、きっと単に嫉妬してたんだと思う、、、私の知らない彼の過去とか、勝手に想像しちゃって、どんどん悪い方に考えてしまってたっていうか。後ろ向きな生き方はよくないよね」
『知らないほうがいいこともあるだろうし、知るべきこともある。でも、物事には、同じ事実であっても、知るタイミングを間違えると全く違う結果をもたらすことがある。やつがバカな男じゃなければ、そういうことも考えているはずだ』
「うん、わかる」
ニッキーも言っていた。わずらわしいことや彼の抱える問題も、追々説明するつもりだと。もしかしたら、こういうことも、彼がいずれタイミングを待って、私に教えてくれようとしていることのひとつなのかもしれない。
私はどうしてあんなに動揺していたんだろう。
まるで世界がひっくりかえったかのように強い不安に捕われてたなんて!
悪夢から目が覚めたように頭がすっきりしてくる。
肩の力も抜けて呼吸が楽になった気がした。
「ありがとう、アダム!アナにも、お礼を伝えて。二人のお陰で、すっきりした!もう、大丈夫!」
私が元気を取り戻してそう言うと、電話の向こうで笑うアダムの声が聞こえた。
電話を切って、私は大きく深呼吸してソファにひっくり返った。
本当にどうかしてた、私。
あんな一言を聞いただけで気が動転して、余計な妄想をどんどん膨らませてしまって、必要の無い不安を作り出していた。
ごめんね、ニッキー。
私って本当に弱い。
心の中で彼に一生懸命、何度も謝罪する。
私がこんなにくだらないことで悩んでいる間も、彼は自分のやるべき仕事に集中しているというのに。
私も、自分の仕事をきちんとこなさないと!
そう思って、よいしょと身を起こし、デスクに向かった。
執筆の続きをするべく、ラップトップを開いて、作業中のファイルを開く。
撮影写真データもいくつか開き、取材時に取ったメモ用紙を見ながら、記事の手直しや追加作業を始める。
さすがに初回とは違って今回は割とスムーズに文章が書けるようになっていて、我ながら少なからずとも進歩したものだとびっくりしてしまう。前回は、たったひとつの形容詞が見つからず30分以上もネット辞書を検索し続けていたのに、今は数分くらいで使いたい言葉が脳裏に浮かぶ。その単語を辞書検索し、その単語かもしくはもっと最適な類語を調べてその意味を確認し、最終的に選んだ単語を文中に挿入していくという流れが身に付いた。
記事を書いていると没頭してしまい、ふっと気がつくと数時間過ぎていることがある。これまでは海外事業部で市場調査や分析をして戦略会議に使えるデータを作成する仕事をしていたけれど、私は自分が、こういうカフェやレストラン業界にとても興味があるんだと知った。
時計を見ると、夜の9時を過ぎていた。明日は早起きしてアムステルダム行きの新幹線に乗らなくてはならないので、10時くらいには寝たほうがいいだろう。
今日はまだ、ニッキーとは連絡を取っていないので、メールで一言連絡を入れて寝ることにした。
夜も夕食を取引先関係の人と取ることが多いと聞いているので、今もまだビジネスディナータイム中かもしれない。
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今日は一日どうだった?
午後にアパートに洗濯物置いて来たよ。
明日は朝、早くに出るから、もうすぐ寝るね。
貴方がいい夢を見れますように。
ベルリンより愛をこめて
カノン
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メールを送信して、もう一度明日の荷物のチェックをする。パスポートと乗車券を忘れないようにボストンバッグの上に置いてベッドに潜り込んだ。
今日は精神的にすごく疲れてしまったのか、電気を消してすぐにうとうとしてくる。もうすぐ完全に眠りに落ちる、とその時に携帯がバイブしてはっと目が覚める。
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カノン?もう眠ってる?
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ニッキーからのSMSだった。時間を見ると10時。私は普通は11時くらいに寝るので、いつもなら寝ている時間ではなかった。暗闇の中、SMSを送り返す。
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まだ眠ってないよ。お仕事終ったの?
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返信すると、直後に電話がかかってきた。
嬉しくなってすぐに応答する。
「ニッキー?お仕事、お疲れさま!」
電話の向こうでクスクスと笑う声が聞こえる。
『さっきホテルに戻って来たところだ。PCの電源は入ってる?』
「ラップトップ?うん、入れっぱなしだよ。明日、移動中も作業するつもりだから、今回は持って行くの」
『仕事人間っぽいな』
「貴方の足下には及ばないけどね!〆切前だけの期間限定」
『それくらいが丁度いいだろう。カノン、今から、ラップトップでスカイプしよう』
「あ、スカイプ?」
そう言えば、ニッキーとは一度もスカイプをしたことがなかった。
どうして考えつかなかったんだろう!
「今、すぐに立ち上げるね」
急いでデスクのランプを付けて、携帯を横に置いたままラップトップを開き、スカイプを起動しながら、すでにすっぴんだと気がつく。でも今からメイクなんて出来ないし、デスクのランプくらいの明るさなら平気かな、なんて考える。
『ログインネームは?』
「CinnamonKitty」
『シナモン・キティ?』
デスクに置いた携帯から笑い声が聞こえて来た。
「昔飼っていた猫がシナモン色だったの」
『そう。カノンは猫が好きなのか?』
「うん、猫は大好き。でも犬も、小鳥も、動物は大好き」
『だったら今度は動物園に行こう』
そう話していると、スカイプのほうで呼び出し音が鳴り始めた。早速応答してみると、音声が繋がる。
『携帯のほうを切る。スカイプをビデオ設定にした?』
「あ、なってなかった。今、ビデオ設定に変えるね」
ビデオアイコンをクリックすると、画面が広がってニッキーが映り、ドキリとした。彼はまだスーツ姿でソファに腰掛けて、ネクタイを外しリラックスした様子でこちらのほうを見て笑っている。
相変わらずなんて素敵なんだろう!
少し薄暗い部屋で、ラップトップから反射している柔らかい光の中に浮かぶ彼の姿はとても大人びて美しい。照れてしまい思わず何度か瞬きをして画面を見つめると、スクリーンの向こうにいる彼が笑顔で立ち上がり、ちらっとこちらを覗き込んで画面から消えた。
「ニッキー?」
どうしたんだろうと思っていると、スクリーンに突然、クマの顔が映ってびっくりする。
「あっ」
突然だったのでびっくりしていると、笑い声がして画面に彼が映り、クマのぬいぐるみをかかえてソファに座った。
『残念ながらネコじゃないが、偶然シナモン色だ』
そう言って、クマを画面に近づけて見せてくれる。
つぶらな瞳をした柔らかそうな子グマのぬいぐるみは、左耳にオレンジ色のタグがついてて、ドイツの有名なシュタイフ・ベアだとわかった。青いベルベットの大きなリボンを首に巻いて、とっても可愛いらしいあどけない表情をしている。
「可愛いテディベア!ほんとにシナモン色の毛色だ!」
身を乗り出してスクリーンを見つめていると、ニッキーがいたずらっ子のように微笑んで、子グマを片手で抱いてその頭にキスをしてみせる。ニッキーがテディベアにキスしているなんて、あまりにも微笑ましいその様子に私は笑った。
「すごーく可愛いよ、二人とも!」
そう言うとニッキーが笑ってこちらに子グマを向ける。
『ホテルのほうからそちらへ送らせる。オランダから戻った頃に配達されるようにしておく』
私は胸が熱くなってちょっと涙ぐみながら笑顔で頷いた。
「ありがとう。すごく嬉しい!」
私があんなくだらないことに悩んでいる時に、彼は仕事の合間を縫って私のためにプレゼントを用意してくれていたんだ。きっと私が寂しい思いをしているんじゃないかと心配してくれたんだろう。なんて優しい人だろう。
しばらく無言でお互い画面の中の相手を見つめていた。
ニッキーの腕の中にいるテディベアが羨ましいな、なんて思ってしまう。
「早く会いたいな……」
思わず独り言のようにそう呟くと、画面の向こうの彼に聞こえたのか、彼が目を細めて微笑んだ。
『時間があれば、8月のバケーションの行き先でも考えておけばいい』
「うん、そうする。ニッキーは行きたいところとか考えてるの?」
そう聞くと、彼は少し考えるように黙って、それからまたいたずらっ子のような顔で笑う。
『君の水着姿を見れるところ』
「水着?」
嬉しそうにそんな事をいうニッキーを見て、妙に恥ずかしくなって一瞬黙ってしまった。でも、やっぱり夏は水辺が気持ちいいのは間違いないし、私も彼と一緒に海に行きたい。一緒に砂浜を走って海に飛び込んだら、どんなに楽しいことか。
「わかった!海のほうを調べてみるね。ついでに、水着も探してみる」
水着なんて持って来ていないので、この際旅行ついでにオランダで探すのもありだと思いついた。
するとニッキーが急にこちらのほうに身を乗り出してきて、目を煌めかせて画面を覗き込む。
『俺の希望を言っておこうか?』
「希望?」
『君にはVictoria's Secretが合うはずだ。なんなら、どのデザインが似合うか後で調べておく』
「……いえ、そこまで調べてくれなくても、色とかの好みさえ聞ければ」
あまりに張り切ってこの話題に食い込まれるのも恥ずかしくて、少し弱気になっていると、ますます調子に乗ってきたニッキーがニヤニヤしてこちらを見る。
『色?そうだな、柄じゃなくて単色がいい』
「あ、そう?一色のシンプルなやつね、うん、わかった」
ほっとしながらそう言うと、ニッキーが怪しい笑顔でこちらにウインクする。
『ストリング部分は全部俺が責任を持って結ぶから大丈夫だ』
「ストリング……?」
『紐が多いほうがいい』
「……」
思わず赤面して下を向く。
この人は、一体どういう水着を想像しているんだ!!!
紐が多いって、それはかなりきわどいデザインを意味しているんじゃないの?!
『カノン?』
「あ、うん。えっと、希望はわかった。まぁ、そういうのが見つかれば、ね……あはは」
この話題を無難に終らせようと思ってそう曖昧に答えると、ニッキーが怪訝な顔をして、疑わしそうにこちらを見ている。
『じゃぁ、俺が探しておこう』
「いっ、いいっ!いいよ、そんなことまでは!自分でお店に行って、きちんとサイズとか調べて買うから!こういうのはやっぱり試着しないと、ね?」
『それなら心配ない』
「えっ?」
自信たっぷりに言われてびっくりして聞き返すと、ニッキーがテディベアのお腹を両手で掴んでこちらに向ける。
『君の3サイズはこの手が正確に覚えている』
「……っ、えーっとね、でも、やっぱり一応、自分で、ね……」
恥ずかしくてしどろもどろになりながらも一応断る。ニッキーは一度残念そうな顔をしたが、でもまたニヤニヤと怪しい微笑みを浮かべて言う。
『遠慮しなくていい。まぁ、君も探してみればいいさ。水着が何枚あろうと困らないだろう』
「えっ」
『離れている間の楽しみが増えたな』
からかうような声でそう言って、ニッキーが大笑いしている。
一体どんな水着を入手しようというんだろう?!
見当も付かなくてドキドキする。
どうなることやらと心配になりながらも、スクリーンの向こうで楽しそうに笑っているニッキーを目の前に、結局私もつられて笑い出してしまったのだった。
翌日朝早くから私は新幹線に乗っていた。
今回はもう早くから外は明るいし、荷物も少ないので電車で中央駅まで行き、駅構内のベーカリーに寄って、サンドイッチと水、チョコレートを買ってから乗車した。駅にはいくつもお店が入っていて、聞いた所によると殆どのお店が24時間営業らしい。ベーカリーも何軒もあるので、どのお店で買うか迷って数カ所回ってしまったが、結局自分が乗る13番線ホームのエスカレーター側にあるベーカリーで購入した。
新幹線ICEの車内は思ったより冷房が効いていて、念のためと思って持って来ていたフリースを羽織りながら、私は記事の執筆を続けていた。時々窓の外を眺めて目を休める。
私はやっぱり、電車の旅が好きだなと思う。
飛行機も、車もいいけれど、電車の中はもっと旅をしているという気分を感じる気がする。いつか、ニッキーと一緒に電車で旅行出来たら楽しいだろう。彼もきっと、電車の旅が好きなはずだ。
静かな車内の中で作業も捗って、水曜日に取材した2件分の記事はオランダ国内に入るころにはほぼ完成した。
あとは、ベルリンに戻って来て残りの1件を取材して、記事を仕上げれば無事、入稿〆切に間に合うはず。それまでに、間違っても風邪なんかひかないように気をつけなくちゃ!今、病気をする暇はない!
そんなことを考えながらラップトップを片付け始めたら、携帯が振動して、おばぁちゃん宅の番号が表示される。
「もしもし?」
『俺。今、どのへん?』
「さっき、ユトレヒト駅を通過したよ。後、1時間半くらいでアムスかな」
『わかった。じゃぁ、今から出るから、アムスの駅で降りたらそのプラットホームで動かず待ってろよ』
「え、来るの?疲れてるんなら無理しなくていいのに」
『さっき起きたから十分に寝た』
「どうやって来るの?電車だよね?」
『ばぁちゃんの車。こっちの運転許可持ってる。この間、ロンドンに行く時に取ったのがまだ有効期限内』
「ふーん、そうなんだ」
『ばぁちゃんも行くかって聞いたら、俺の運転は嫌だってさっき逃げるようにテニスに出かけた』
「え?逃げた?どういうことそれ。私もまだ死にたくないんだけど?」
『あたりまえだろ!?これでもアメリカ縦断した腕前だ!バカにするな』
「アメリカのだだっぴろい道路とこっちの道路は全然作りも違うじゃない。なんか不安だなぁ……」
『うるさいな。カノン、今からすでにババァみたいな口ぶりじゃないか』
「ババァとはなによっ」
むかっとして思わずきつく言い返すと、けらけらと笑う声が聞こえて、「じゃぁな」と電話が切れた。
失礼な言葉で頭に来たが、でも同時におかしくなって1人でこっそり笑ってしまう。
子供のころを思い出してしまった。昔は食べ物を争って取っ組み合いのケンカもしたし、みんなでいろんなイタズラや悪さをして見つかって、伯母さんに全員一列に並ばされてこっぴどく叱られたこともあった。そういえば、幼稚園児だった美妃がフーゴに虐められて、泣きながらもフーゴの腕に噛み付いて青い歯形がついたこともあったっけ。あの時はさすがのフーゴも涙目になってたんだった。
懐かしい思い出がいろいろと蘇ってくる。
後で3人で写真を取って、日本の家族にも送信しておこう。
やがて私の乗る新幹線ICEは定刻通りアムステルダム中央駅へ到着する。
ここに来るたびに東京駅を思い出す。東京駅はアムステルダム駅のデザインを参考に建てられたわけではないらしいけれど、正面から見るとやっぱり作りが似ているような気がして、日本人が見たら望郷の念にかられてしまう。
駅構内は勿論、全然雰囲気が違う。
アムステルダム駅の構内も、勿論モダンな所もあるけれど、屋根はドーム式に大きな半円形になっていて、明かり取りのガラスから光が差し込んでくるプラットホームはいかにもヨーロッパという感じだ。木製のベンチなどを見ると、ここが東京駅とは全く違う場所だと実感する。
ボストンバッグと、ラップトップが入ったショルダーバッグを抱えて新幹線を下りる。
とても長いプラットホームなので、下手に動かないほうがいいだろう。フーゴは携帯は持ってないだろうから、行き違いになったらお互いを見つけるのは困難だ。
アムステルダム駅は多くの人でごったがえしている。ジプシーっぽい集団が練り歩いていたり、パンク系のバンドなのかファンキーな髪型に大きなギターを抱えたグループもたむろしていたり、ユニークな人達があちこちに居る。
そして、やっぱり平均身長が高い!!! 外国人もかなりいる駅だけど、それでもベルリンよりも背の高い人ばかりで、さすが世界一の高身長国だと実感する。
それに、ベルリンと顕著に違う点は色彩だ。ここでは明るい色合いの服が好まれるようで、鮮やかな赤いパンツや、オレンジ色のシャツなど、どっちかというと暗い色合いの服装を好むドイツ人とは真逆の嗜好らしい。
郷に入れば郷に従え、じゃないけれど、私もこちらへ来るので明るい色合いの服装を選んで来た。今日は、ミントグリーンのチュニックにホワイトレザーのベルト、ボトムスは同じくホワイトのG-Starスリムジーンズだ。サンダルはブラックだけど、トルコ調のカラフルなビーズ飾りがたくさんついていて足下を明るくしてくれる。
ふと、水着のことを思い出して、どういう色がいいかなぁと考える。
海だと思うと、ブルーやグリーンの色が浮かぶけど、夏らしく明るい暖色系もいいかもしれない。
「相変わらずぼさっとしてるな」
後ろから声が聞こえて振り返ると、7年ぶりのフーゴが立っていた。
「……フーゴ?」
私はぽかんとしてフーゴを見上げた。
この間、おばぁちゃんがメールで送ってくれた写真では、短く刈り上げたスポーティな風貌だったのが、今ここに立っているのは、肩まで無造作に伸ばした髪に、薄く短い顎ひげを生やしている男だ。
「ど、どうしたの?」
思わずそう聞いてしまった。
フーゴはずっと、アメリカンフットボールをやっていて、髪は常に短く刈り上げていかにもスポーツマンという感じだったのに、その爽やかさはどこへやら、まるでワイルド系ギタリストか何かみたいだ。
それに、いつもTシャツにジーンズ、迷彩柄やレザー物を着ていたのに、今日は、ホワイトにブラックの細いストライプ柄の襟付のコットンシャツに、オリーブグリーンのパンツ、と大人っぽい出で立ちだ。よく見れば、右耳には三つも小振りなリングピアスまでついている。
「なんだよ、お前まで」
明らかにうんざりした様子でフーゴが腕組みをして私を見下ろし、鼻でふん、と笑った。
「カノンもそろそろ老眼鏡買った方がいいんじゃないか」
「はぁ?私をいくつだと思ってるのよ」
相変わらずの毒舌ぶりは間違いなくフーゴだ。
よく見れば、明るい栗色の目も前と同じヘーゼルナッツ色だ。眩しげに目を細めて人を見るくせも変わらない。
「老眼じゃなければ近眼なんだろ。メガネはどうした」
「失礼ね。視力に問題はないよ。だってフーゴ、写真で見たのと全然違うから、やっぱり別人みたい。その髪にヒゲ」
「何言っているんだ、誰だって髪は伸びるし、ヒゲだって伸ばす伸ばさないは俺次第だろ」
「そりゃそうだけど……だって服装も違うし。ジーンズじゃない姿、初めて見たかも」
「それは学生時代の話じゃないか」
「別にジーンズは学生限定じゃないよ」
「減らず口は健在だな。まぁいいだろう」
フーゴはそう言って私の持っていたショルダーバッグとボストンバッグを取り肩にかけ、昔と同じように朗らかに笑って私の肩をぐっと抱きしめた。
「久しぶりで嬉しいからその無礼も許してやる」
許してやる、という上から目線もどうかと思うが、私も再会は嬉しいので思わず笑いながらフーゴを見上げた。
「中身はかわらないね」
「どうだか。さぁ行こう、ばぁちゃんが待ってる」
おばぁちゃんが乗車拒否したと聞いてからフーゴの運転がどうなのか正直少し心配だったが、身の危険を感じるほどでもなかったのでほっとする。
あえて気になる点を言えば、運転が攻撃的で、追い抜き時の加速が早く背中が座席に押し付けられそうなところだ。しかも、誰かが追い抜くと必ずその車を追い抜きかえすっていうの強気丸出し。
「ね、なんかストレスたまってんの?」
「は?なんで?」
左肘は開けた窓に乗せ、右手はハンドルに添えて指が触れているくらい、両膝で下からハンドルを押さえている状態のフーゴが横目でこちらを見た。
「ちょっと、手ぐらい使ってくれない?」
膝でハンドルの舵取りなんて見ていてハラハラする!
「仕方ないだろ!この車、狭くて乗りづらいんだ!あぁ、イライラする」
そう腹立たしげに言って、眉間にシワを寄せて前方を睨む。
まぁ、言い分はわからないでもない。
おばぁちゃんの車は普通乗用車だから、大柄な人には狭苦しく感じるのも当然だ。見上げれば、フーゴの頭は天井にくっつくんじゃないかと思うほどの隙間しかない。
「やっぱり、電車がよかったんじゃない?」
申し訳ない気分になってそう言うと、フーゴがちょっと首を傾けて小さく笑った。
「電車は駅まで行くのがめんどくさい。基本的に待つのは大嫌いなんだ。いいから黙って座ってろ」
「でも、ハンドルは手で持ってよ」
「うるさいな、わかったよ」
はぁとわざとらしく溜め息をして、フーゴが両手をハンドルに乗せた。
アメリカンフットボールをやっていた時も、かなり攻撃的な性格だと思っていたけど、見かけが変わってもやっぱりそこは変わっていないようだ。加速の仕方や追い抜き方もその闘争心が剥き出し。言うなればサバンナの野獣みたいな性格。
三つ子の魂百までというくらいだから、外見が変わっても中身はそう違わないものだ。
無事に高速を下りて、イースター休暇ぶりにおばぁちゃん宅に到着。
先に車を下ろしてもらって、フーゴが駐車に行っている間におばぁちゃん宅の庭のほうの扉をあけて入ると、予想通り、おばぁちゃんが庭のテーブルでお友達2人とお茶しているところだった。
「おや、噂をすればだよ。カノン、いらっしゃい」
おばぁちゃんが満面の笑顔で手をあげて、立ち上がる。
「おばぁちゃん、ひさしぶり!っていっても、ついこの間も来たんだけどね」
笑いながらおばぁちゃんと抱き合って、それからテーブルに座っているおばぁちゃんの友達に挨拶した。1人は、前回一緒に海で会ったモニカだ。もう1人はテニス仲間ののマーガレットらしい。
「カノンも何か飲み物を持って来るかい?」
「うん、そうだね」
燦々とお日様が降り注ぐ庭だけど、大きなオーニングが出ているのでテーブルの下は気持ちのいい日陰になっている。
「ばぁちゃん、車は駐車場のはじっこに停めておいた」
私の荷物をかかえたフーゴが同じく庭の扉を開けて入って来た。おばぁちゃんがニコニコして、モニカとマーガレットにフーゴを紹介する。
「こっちがフーゴ。アメリカに住む私の娘のところの暴れん坊」
その言葉にモニカとマーガレットが大笑いして、フーゴが苦々しい笑顔を浮かべながら、モニカとマーガレットと握手をする。悪ガキのフーゴも、実の母親と、おばぁちゃんの前だとめっきり弱い。
「暴れん坊だなんてねぇ、とってもハンサムな紳士にしか見えないわよ」
マーガレットが目をまんまるくしてフーゴを見上げている。
マーガレットもモニカも、英語が堪能だ。基本的にオランダ人は皆、英語が喋れるからやっぱりすごい。
「そうかねぇ、昔はもっと爽やかな少年だったのに、今はヒゲなんか生やしてみっともないと思うんだけどねぇ」
おばぁちゃんがそう言いながらフーゴの顎を掴んで眉をひそめた。フーゴは苦笑いしてされるがまま棒立ちしている。口答えしたら倍になって返って来るのはわかっているらしい。
「あら、最近はそういうヒゲが若者の間で流行っているのよ。うちの娘のダンナだって、口の周りを生やし始めたらしいの。そういうのがオシャレで通る年齢なのよ」
モニカがにこにこしてそう言うので、フーゴが少しにやにやしておばぁちゃんを見下ろした。
「ばぁちゃんもたまにはトレンド情報でも読んでくれ」
その言葉におばぁちゃんがピクリと眉をあげたけど、さすがに怒るほどの内容でもないと思ったのか、黙って椅子に座り直した。
「私も飲み物を持って来るね。フーゴはどうするの」
キッチンのほうへ行こうとしてそう聞くと、フーゴは荷物を持ったまま私の後について中に入りながら答える。
「上の書斎のほうに行くつもりだ。あの話の輪に参加するのは遠慮しとく」
「そっか。ま、その気持ちはわかるかも」
「俺はジュース」
「え?」
「冷蔵庫にグレープフルーツジュースあるから。氷忘れるなよ」
そう言うと荷物を持ったまま逃げるようにさっさと上に上がって行った。
よほどおばぁちゃん連中にからまれるのが苦手らしい。
そしてそのからまれている様子を楽しんで見ていた私も、ひょっとしたらおばぁちゃん達の一味かもしれない。
私は自分用にカプチーノを作り、フーゴ用にちゃんと氷をいれたグレープフルーツジュースを持って2階へ上がる。書斎で何をしているのかと思ったら、ラップトップを前にヘッドホン着用してスカイプ中。仕事の話をしている様子だったので、デスクにジュースを静かに置いて即、退散。根っからのスポーツバカと思っていたフーゴも、いつの間にか仕事人間になっていたらしい。
庭でおばぁちゃん達と歓談していると、モニカが思い出したように声をあげた。
「あっ、忘れるところだったわ」
どうしたんだろうと皆が目を点にしてモニカを見ると、彼女がポケットから1枚のメモを取り出した。
「明日、あの海のレストランが一般公開されるのよ」
「あぁ、あのロイヤルファミリーの親戚がオーナーっていうnordwijkのレストランだね。ついに工事が終ったのねぇ」
おばぁちゃんが身を乗り出してメモ用紙を覗き込む。
「午後の3時から5時までが関係者のみ招待されるらしいんだけど、一般客も5時からは入れるらしいよ」
「当日は混みそうだね」
おばぁちゃんがそう言うと、モニカも頷く。
「そりぁこの天気のよさだと海に行く人も多いしね。しかも日曜日だから。私は、その関係者が中に入れる時間帯にお邪魔することになっているんだけど、残念ながら人数制限が厳しくて、その時間帯には他に誰も同行は出来ないの」
私はふと、その店内の写真を撮ることが出来ないかと思いついてモニカに聞いて見た。
「モニカ、そこは写真は撮っていいの?」
「写真?もちろん好き放題撮っていいんじゃないの?」
「ううん、雑誌に載せるための写真」
「雑誌?」
私はモニカに、今、私が日本のライフスタイル雑誌に、ベルリンのカフェ情報を載せていることを説明し、まだ編集担当には確認していないけど、ロイヤルファミリーに縁のあるレストランを写真と場所情報だけでも載せて紹介したいと思うと話した。はるにはまだ聞いていないけど、トピック的にはとても珍しいし、店内の様子を撮影して、場所や開店時間等を載せるだけでも十分読者の興味を引きそうな気がする。
「なるほどね、日本のライフスタイル雑誌の取材なら面白そうだね。じゃぁ、後でちょっと友達に聞いてみて、夜にでも連絡してあげるわ」
モニカはオーナーに交渉することを快諾してくれた。
その晩、モニカからおばぁちゃんに連絡が来て、夕方5時以降の一般人向けに公開する時間帯に写真を撮ることは問題ないとのことだった。オーナーの話だと、恐らく一般客も携帯やカメラで写真を撮って、ネットに載せたりするだろうし、レストラン側としても、日本の雑誌に掲載されることは嬉しいらしい。ただ、オープンしてしばらくはとても予定外の取材対応は無理なので、インタビュー等を受けることは出来ない。そのため、お店の基本情報はHPからそのままコピーして使って欲しいとのこと。
勿論、それでも十分有り難いことだ。
まだ、レストランの中を見ていないから、本当に雑誌に載せるほど興味深いお店かまでは確信はとれないけれど、ロイヤルファミリーの親戚がオーナーというだけでも話題としては魅力的だろう。私ははるに、この件についてメールを入れておくことにした。
日曜日、私とおばぁちゃんは庭で朝食を取りながら今日のことを話していた。
今日は夕方はビーチに行くので、昼間は街のほうへ出ようということになった。デンハーグ市内は午後からならデパートお開いている。
「フーゴはまだ寝ているようだね」
おばぁちゃんが上を見上げて言う。
「時差ぼけがあるんじゃないの?昨日も、遅くまで仕事してたっぽいし」
「そうだね。いっつも外でボールばっかり追いかけてたと思ったのに、あの子がコンピュータの前で仕事だなんて、不思議な感じだよ」
おばぁちゃんがそう言ってニコニコ笑いながらコーヒーカップに手を出した。
「なんだったらあの子は留守番させて、私らだけで街へ行った方がいいかもしれないね」
「そうだね。デパート巡りなんて嫌だって言いそうな気がする」
私も大きく頷いた。
フーゴが私達の後をくっついてデパートやブティックに行くとは思えない。きっと不機嫌になりそうな気がする。
「カノン、ちょっとフーゴの様子を見て来てくれる?ついでに、私らは出かけるから、家に居たければ残っていいと言っといて」
「うん、わかった」
私はテーブルの上にあった空のプレート類とカトラリーをまとめて立ち上がった。キッチンに行ってそれらを片付けて、三階で寝ているはずのフーゴの様子を見に行こうと階段を上り始めたら、ちょうどフーゴが下りて来た。
「あ、起きたんだ?今、様子見に行こうとしてた」
フーゴは、グレーのスエットパンツにブラックのシャツを着ていたが、まだドライヤーをしていない濡れた髪のままだ。
「ドライヤーしたら?」
ついそう言うと、フーゴが大きなあくびをした。
「庭にいたらすぐ乾くだろ。コーヒーよろしく」
「え?あ、コーヒーね、はいはい」
フーゴは大きく背伸びをしながら庭のほうへ行って、日が照るベンチにひっくり返った。おばぁちゃんが「ドライヤーは?」と言っているのが聞こえて思わず笑ってしまった。私もおばぁちゃんも口うるさい母親みたいなことを言ってしまって、フーゴもきっとうんざりしているに違いない。
コーヒーと、朝ご飯のプレートを持って庭に戻ると、ベンチにひっくり返っているフーゴは新聞を顔面に乗せている。
「何やってるの?」
そう聞くと、新聞を取ってフーゴが身を起こし、苦々しく笑う。
「顔が焼けるって、ばぁちゃんが乗せたんだ」
「あ、紫外線?」
おばぁちゃんを振り返ると、憮然とした様子でおばぁちゃんがフーゴを睨んでいた。
「日焼けを侮ってはいけないよ。紫外線を浴びすぎると皮膚癌になるんだからね。テニス仲間でもう3人くらい、皮膚癌の手術を受けているんだから、人ごとじゃないんだよ」
「まぁ、確かにね」
私は頷きながらテーブルにフーゴの朝食を並べた。
黙って食べ始めるフーゴ。本人が言ったように、もう髪は乾き始めていて、栗色のウェーブがふわふわと浮き始めていた。フーゴは日本人の血が4分の1だから、髪の毛も随分と細く繊細で乾くのも早いらしい。ここの空気は乾燥しているし、海からさほど遠くないため、いつも風が吹いている。夏なんかあっと言う間に洗濯物も乾く。
おばぁちゃんが、私と一緒に買い物に出かける旨を話すと、フーゴが意外にも同行すると言う。
「へぇー、おまえがデパートについて来てくれるとはねぇ……人間、変わるもんだねぇ」
おばぁちゃんが心底驚いたように言うと、フーゴが首をすくめて笑う。
「別に、女物売り場にいなくたっていいわけだろ?他に見るところもあるし」
「それはそうだよね。フーゴも、買いたいものあるんじゃない?」
見た所、以前よりファッションにこだわっているようだから、今は買い物も好きなのかもしれない。
「靴くらいはチェックしとくか」
スクランブルエッグをフォークに山盛りのせたフーゴが言う。
「あ、そういえば、G-Star Rawのお店があるよ。私は必ずチェックしてるけど」
「G-Star?あぁ、オランダのジーンズブランドか。俺もいくつか持ってる」
「じゃ、そこも行こう」
私達はランチも市内で食べることにして、出発までそれぞれ仕事や家事をして過ごした。
私はデパートの水着売り場でもう30分以上歩き回っていた。
おばぁちゃんは地下のアート画材売り場、フーゴは男物の靴売り場、私は女性物フロアとそれぞれ散らばって、1時間後に最上階のカフェで待ち合わせすることになっている。
水着はたくさんある。カラフルな楽しいものから、いかにも大人っぽいセクシーなものまで、シーズンまっただ中の今は相当なデザイン数が揃っている。問題は、そのコレクションの中に私に合うものがあるかどうか、ということだ。
一番気になっているのはやはり、上半身のほうのフィット感。
こちらの女性は体格の凹凸がはっきりしている人が多いから、いわゆる鳩胸タイプ向けにデザインされたものが多い。私がこういうデザインを着ようとすると、パットで思い切り上げ底でもしないと、胸の上部がガパガパになってしまう気がする。
だからといって、いかにも!とパットが入ったものを買うのも気が進まない。パット付のものを手に取ってみると、薄っぺらい水着だというのに重みまであって、不自然な感じがする。
やっぱり、無理に大きく見せるのは嫌だし、パットというのがどうも受け付けない。
かといって、ガパガパになる水着というのもみっともない。
なんて難しいんだ!
「お探しですか」
店員さんが満面の笑顔で声をかけてきて、慌てて首を振る。
「大丈夫です、見てるだけなので」
「何かあれば言ってくださいね。今のオススメは、こちらのセクションですから是非ご覧になってください」
言われてそちらへ目を向けると、目の覚めるようなターコイズブルーやショッキングピンク、トロピカルグリーンの色彩が目に入る。明るい夏らしくてとっても奇麗な元気カラーだ。
「ありがとうございます、見てみます」
色に惹かれてハンガーにかかっている水着をチェックしてみる。見ているだけで海の潮騒が聞こえて来そうなくらい海に似合う鮮やかな色だ。特にこの、ターコイズブルーにホワイトがアクセントになっているものは、ちょっとスポーティだけど女性らしいラインで私好みだ。この胸のカット具合だったら、着用してもガパガパにはならないだろう。
手に取ってデザインをじっくり確かめてみる。
ーーー紐が多いほうがいい。
ニッキーが嬉しそうな顔でそんなことを言っていたのを思い出す。
その時の恥ずかしさが戻って、つい唇を噛み締めてしまう。
紐が多い水着って、基本的にカバーされる面積も狭いってことじゃないだろうか?!そんな恥ずかしいデザイン、到底着こなせない!
……でも、私はやっぱり彼が好きだから、あんなことを言われたら、少しくらい彼の希望に合うものを買いたいと思ってしまう。さすがに、あっちもこっちも紐だと、いつほどけるかと心配でろくに泳げないとは思うけど……
ターコイズブルーの水着は、残念ながら紐はどこにもついていないので、候補から却下。
ショッキングピンクのほうは、ワンピースタイプでサイドが大きくカットされていて、これはウエストが細く見せる効果も期待出来るし、ワンピースだから胸もガパガパにはなる心配はなさそうだけど、やっぱり紐はどこにもついていない。
これもダメだ。
これだけたくさん水着があるのに、コレ!というものは1枚も見つからなかった。
自分の好みだけで選ぶなら簡単なのに、他に1人、意見をする人がいるだけで、買い物がこんなに難しくなるとは。
私は今回は諦めることにして、水着売り場を離れ、一足先に最上階のカフェへ向かった。
ビュッフェランチも提供するのカフェなので、約束の待ち合わせの時間より10分ほど早かったけれど、席取りも兼ねて自分のランチを買ってしまうことにした。プレートをお盆に乗せてビュッフェコーナーを回る。
プレートのサイズが3サイズあって、その大きさで値段が決まっている。だから、選んだプレートに乗せれるだけ乗せても値段は同じ。私は中サイズのプレートを選んだので、6ユーロぽっきりだ。
あれもこれも美味しそうで迷った挙げ句、ツナのマカロニサラダ、フェンネルという甘みのある野菜をグリルしたもの、トマトとキュウリのサラダ、それからマッシュルームの炒め物を乗せて、あっと言う間に山盛りのプレートになってしまった。飲み物コーナーでミネラルウォーターをお盆に乗せていると、フーゴがやってきて、私のプレートを後ろからのぞいた。
「おっと、カノン、すごいな」
すごいとはどういう意味だ、と思ったけれど、確かにプレートにてんこ盛り状態なので言い返す言葉もない。それに、全部食べきる自信もある。
「先に座ってるね。おばぁちゃんはまだ?」
「さっきエレベーターのところで会ったよ。あっちでなんか友達につかまってる」
後ろのほうを見ると、エレベーター前でおばぁちゃんが誰かと立ち話をしていた。
レジで合計8ユーロを払って、カトラリー、ペーパーナプキンを持って席を探し、窓際の空きテーブルを見つけてそちらにお盆を置いた。
窓の外にはテラス席があるけれど、タバコを吸っている人が多いし、見ればハトだけでなく、カモメまでが手すりに並んで誰かがエサをあげるのをじっと待っている。人が去ったテーブルにちゃっかり舞い降りて、残っているパン屑を食べているカモメまでいる!挙げ句にコーヒーカップにクチバシをつっこんでいるけど、あれは鳥が飲むものじゃないだろうに、大丈夫なのだろうか。
さすがにちょっと心配になったが、当のカモメは当たり前のように食事を続けている。もともと雑食というカモメだし、カフェイン慣れした一羽なのかもしれない。
オランダにはカモメのほうがカラスより多いと思う。ゴミ荒らしも基本的にカモメの仕業らしい。ベルリンは勿論、海のそばではないので、カモメはいない。窓の外のテーブルで食事中のカモメをじっと見ると、そのカモメはとても賢そうな顔をしていた。クチバシの周りにレタスの切れ端がついていて、お茶目な表情だ。
「あぁ、腹減った」
目の前に山盛りのプレートが置かれて、フーゴがどさっと音を立てて椅子に座った。
「すごいじゃない。一番大きいプレートでその山盛りは、、、こんなに食べれるの?」
さすがに驚いて目の前の皿を見ていると、フーゴがぷっと笑い出した。
「まさか!ばぁちゃんが、シェアするから大きいプレートで買えっていうから」
「あ、なーんだ、びっくりした」
そうじゃなければありえない量だ。相撲取り用の食事にしか見えない。
フーゴが余分に持って来たプレートやカトラリーをおばぁちゃんの席に準備していると、おばぁちゃんがオレンジジュースを2本持ってやってきた。
おばぁちゃんのお皿にフーゴが料理を分けているのを、ほのぼのした気持ちで眺めた。
おばぁちゃんは口厳しいけれど、フーゴのことをとても可愛いと思っているのは見れば誰でもわかる。それはフーゴ本人もよく知っていることだ。いつまでもこうやって仲の良い家族でいられるといいな、と思った。血のつながった家族というものは、どんな時も自分の味方でいてくれて、無償の愛を分かち合う大切な仲間なのだから。
ランチの後、おばぁちゃんは洋服の生地屋さんに寄ると言うので、私達は二人でG-Star Rawに寄って、それから駐車場で合流することにした。その後はまっすぐ、海のほうに行く予定だ。
「日曜日に店が開いているなんて、オランダも進歩したな」
フーゴが辺りを見渡しながらそう言う。午後から急に混んで来て、かなりの人が街を出歩き買い物や食事を楽しんでいる。
「そうだね。しばらく前までは、日曜日は全部閉まっていたみたいだよね。やっぱり、観光客も増えて来たから、日曜日も開けるようになったんじゃない?」
「ベルリンのほうはどうなんだ?」
「うーん、大きなショッピングセンターも日曜日は殆ど閉まっている。でもレストランとかカフェ、ミュージアムとかは全部開いているよ」
「ドイツの首都でもそんな感じか」
「でも、フーゴが居る間は平日だから、関係ないんじゃない?」
「それはそうだな」
オシャレなお店が並ぶ通りにやってきた。ZARAやH&Mなどのファストファッションは勿論、Max MaraやREPLAYなど、一息に回ってみれるエリア。
「REPLAYに入ってみよう」
REPLAYのお店の前を通りかかった時にフーゴがさっさと中に入って行ったので、私も後から店内に入ってみた。
そういえば、REPLAYで買い物をしたことはない。せっかくなので私も女性物をチェックしてみると、意外にも割と好きなデザインがありそうだったので真剣にコレクションを見てみる。1枚、ダークグリーンのポリエステル生地ワンピで、ショルダーは覆われているのにノースリーブのデザインのものが気にいって、試着してみた。ストンとしたラインで、丈は膝上、胸元にブ黒のスパンコールビーズがたくさんついていて、ちょっとしたお出かけにも良さそう。値段は139ユーロと、驚くほどの金額でもなかったので、即決してレジに並ぶ。これくらいなら、荷物にならないし、かさ張らない。
「なんかあった?」
フーゴもTシャツを数枚持って私の隣に並んだ。
「初めてここに来たんだけど、結構好きかも」
それほど時間に余裕がないので、REPLAYでの支払いを終らせるとすぐにG-Star Rawの店へ行く。店内はそれほど大きくないので見て回る時間はそれほどかからない。ここでは私は基本的にジーンズばかりをチェックする。豊富なバリエーションの中から選ぶのは至難の業だ。それに、試着せずに買うなんてのはありえないし、今日はもう、時間に余裕がないから購入は無理かもしれない。
フーゴの様子を見てみると、あちらもジーンズの棚の前であれこれ見ているようだ。
残り時間が10分もないので、私は自分の方は諦めてフーゴの様子を見に行った。
「どう?見つかった?」
「これ持っといて」
フーゴがさっき買ったREPLAYの紙袋を私に押し付けると、ジーンズを一本持って試着室へ行った。
しばらくして、着替えたフーゴが出て来た。
「Navy Blueの3D TAPEREDです。よくお似合いだと思いますが」
店員のお兄さんが私の隣に立ってフーゴを眺める。
確かに、あか抜けてかっこいい。若干横柄な態度にもぴったり合っている気がする。
「うん、似合ってるよ。やっぱ、フーゴはジーンズが似合うなぁ」
そう褒めると、フーゴが横目で私を見てにやりと微笑む。
「ジーンズも、だろ。そこを間違えるなよ」
「細かい!ほら、時間がないから、早く買ったらどう?」
つっこみが厳しいやつだと苦笑いしながら試着室へ追い返した。
時間的にも予定通りだとほっとしながらレジの支払を見ていると、店員のお姉さんがカード用のレシートとペンをフーゴに渡しながらにっこりした。
「アメリカからですか」
英語のアクセントで気づいたんだろう。
フーゴが笑って頷く。
「新婚旅行でこちらへ?」
そう聞かれて、二人で思わず顔を見合わせて、同時に笑い出した。
「私達は、従兄妹です」
そう答えると、お姉さんが少しびっくりしたように目を丸くした。
「従兄妹?全然似ていないからてっきりカップルかと」
フーゴが苦笑しながら私の顔を見て言う。
「まぁ、似てないといえばそうかもな」
実際、私達は殆ど似てない。おじぃちゃんの血が強めに出ている美妃だと、少しフーゴと似ている気がするけど、フーゴは大体アジアの血が入っているように見えないから、尚更私達が親戚同士にはに見えないのだろう。
「私達、似てるとこってあったかなぁ?」
店を出て歩きながらそう呟くと、フーゴが首を傾げて、それからじっと私の顔を眺めた。
「そうだな、あえていえば、目が似てるんじゃないか?」
「目?」
「昔から、ばぁちゃんが言ってた」
「そうだっけ?」
言われてみれば、確かに私の目の色は薄めの茶色なので、フーゴの目の色をワントーン暗くしたと思えば似ているのかもしれない。フーゴの目の形は大きなアーモンド型で、少しだけアジアっぽく釣り上がり気味なので、そこも私と似てるかも。欧米人は割と垂れ目気味の人が多い気がするので、フーゴの目はおばぁちゃんの血が現れた部分ということだろう。
このちょっぴり釣り上がった目が、フーゴの精悍な顔立ちを更に勇ましくみせる。女の子達がフーゴに夢中になるチャームポイントでもあったのは確かだ。アメリカンフットボールの試合には、フーゴ目当てのファンの子がいつもたくさん観戦に来てたのを思い出す。フーゴの近くに居たいからとチアリーダーを目指している子が何人もいるらしい、と伯母さんが笑って言っていたこともあった。
「どちらにせよ、微妙な部分だね。目なんて、超至近距離で見なきゃわからない」
「言えてるな。でも、お前のところのおじさんと、俺のママはやっぱり似てる」
「姉弟だからね。性格は違うみたいだけど」
「そうそう。おじさんはママみたいにヒステリックじゃなくて物静かだしな。おじさんはじぃちゃんに似たんだろ」
「叔母さんは完全におばぁちゃん似ってわけね」
「だろうな」
そんなことを話しているうちに駐車場について、待っていたおばぁちゃんと合流する。おばぁちゃんは赤いギンガムチェックの生地を一巻き横にかかえていた。
「可愛い生地だね!何を作るの?」
生地を触りながら聞くと、おばぁちゃんがにこにこしてそれをフーゴに渡す。
「テーブルクロスを作ろうと思ってね」
フーゴが、買い物をした紙袋とその生地を車のトランクへ入れる。
「さて、そろそろビーチのほうへ行きましょう。ここからは私が運転するから」
おばぁちゃんが運転席のほうへ周り、私は後部座席へ、そしてフーゴが助手席へ座る。後部座席に乗り込むなり、前の助手席が一気に後方へバックしたので、私はあわてて運転席の後方へ寄った。
「ちょっと!座席を動かすんなら、一言、声かけてよね!」
文句を言うと、助手席で思い切り伸びをしているフーゴが振り向きもせずに、はいはい、と呟いた。
全く、こいつにはマナーというものはないのだろうか。
この態度のでかさは昔から変わらないが、社会に出たら少しくらい大人らしい作法を学ぶ機会はあるだろうに。
おばぁちゃんがハンドバッグをフーゴの膝に乗せて、駐車券を探し出せと命令したので、さっきまで態度がでかかったフーゴがしぶしぶハンドバッグをあけて中を漁り始める。その様子がおかしくて、ついまたこっそり笑ってしまった。
レストランは、La Galleria Nordwijkと言う名前だった。
表のほうには何台も高級車が止まり、大使館関係と明らかにわかる車もある。オランダの黄色いナンバープレートにCDと最初に記載されているものは、大使館関係の車だと聞いたので、車を見ればすぐにわかる。
私達が到着したのは夕方5時直後だったので、レストランの中から大勢の人が出て来る時だった。皆、スーツや奇麗なドレスで正装した感じの人ばかりで、このレストランが巷の大衆向け飲食店とは格が違うことは確かだ。
この間は、あちこち穴だらけで様々な工事機材が散乱していたこの周辺も、一面美しいなだらかな砂浜になっていて、レストランの外観も、まぶしいくらい真っ白に輝いている。
海を望むテラス席には、真新しいアンティーク調の街灯が設置されていて、高級感を感じる作りになっていた。シンプルで装飾に凝りすぎず、そして安っぽさを全く感じられない高級感溢れるアンティークな空間は、クラシック・モダンと言うべきだろうか。
テラスのインテリアは、テーブルや椅子も現代的なデザインのものが使用されている。砂浜側のコーナーにはブラックの籐製の巨大なL字型のカウチが置いてあり、座るところと背もたれは厚みのある純白のマットレスが敷き詰められている。ゴールドやシルバーなど光沢のある飾りがついたクッションがずらりと並べられていて煌びやかだ。こういう場所で海を眺めながら、夕暮れや夜の時間を過ごすのはさぞかしロマンチックなことだろう。
テラス席のあたりを回って何カ所かカメラで撮影する。おばぁちゃんが持っていた高性能のCannonのデジタルカメラを借りれて本当に助かった。流石に携帯写真を雑誌に使用するわけにはいかない。
大勢の一般客に混じって、テラス席のほうから奥へ入って行くと、モニカが向こうで手を振っているのが見えた。
「おばぁちゃん、あっちにモニカがいるよ」
「あれ、ほんとだ。ちょっと行って来るよ」
おばぁちゃんが人ごみをかきわけながらモニカのいるほうへ行く。
「中のほうに行ってみよう」
フーゴに背中を押されて、人の流れにそってゆっくりと店内に入って行く。
中も息を飲む程の美しさで言葉を失う。
天井に連なる、ガラスの装飾で煌めくシャンデリア、真っ白な羽飾りのついた、黄色いバラや真っ白なカサブランカの美しいフラワーアレンジメント。オークウッドのフロアは洗いざらしたようなシックな色合いで、クラシックな雰囲気にぴったり合う。カウンターのほうには世界各国から集めたと思われるアルコールのボトルと美しいグラスがずらりと陳列されていて、カウンターの向こうにいるスタッフも、ブラックとホワイトのユニフォーム姿で整列し、姿勢よく微笑んでいる。
まぶしいばかりの豪華さなのに、どこか静かで落ち着きの漂う、心地よい空間だった。どこか、神聖な空気が漂うくらい、汚れを感じない場所。
これだけ豪華絢爛な場所だと普通は緊張して大抵居心地が悪くなるものだが、ここはなぜか、そういう圧迫してくるような雰囲気ではなく、ゆったりとくつろげる空間になっている。
素晴らしい景色にカメラを持ったまま写真も取らずに見とれていると、隣のフーゴが私の腕を掴んだ。
「あれ」
フーゴが指を差す方向に目を向けて、私は硬直した。
あれは……?!
自分の目を疑い、息が止まるかと思う程驚愕した。
どうして、あれが?!
どうして、ここに?!
「……あれ、お前じゃないのか?」
フーゴが独り言のようにそう呟く。
真っ白い壁にある、海が見える大きな二つの窓。その二つのガラス窓の間に、美しい金色のバロック式額縁に入れられた、セピアカラーの大きな写真。
それは、このオランダの海辺でマリアが撮った、私だった。
アナが聞き返した。
「式を挙げたら奥様も一緒に住むらしいって聞いたら、アナはどういう意味だと思う?」
『……なにそれ……ニッキーのこと?』
電話の先のアナが、静かな声でそう聞く。
携帯を持つ私の手が少し震えている。パニックにはなっていないと思うけれど、寒気がするくらい緊張しているのが自分でもよくわかった。
「うん……ニッキーのアパートの階下に住んでいるご夫人がね、私に、ニッキーの奥さんなのかと聞いたから、違うって答えたの。そしたら、挙式したら奥さんもここに住むって聞いたから、私がその人なのかって思ったって……」
電話の向こうでアナが考え込んでいるのが伝わって来る。彼女がなんて言うだろうかと思って、胸が苦しくなる。アナは正直者だから、絶対に本当に思ったことを言う。私のためにも、気休めみたいな嘘はつかないと知っていた。
『うーん、少し、おおざっぱ過ぎてなんとも言えないって印象だねぇ……』
「……」
少しほっとしたような、でもだからといって安心したわけではないような、複雑な気持ちで溜め息をした。
アナが電話の向こうでまたしばらく沈黙して、それから注意深く彼女の考えを説明してくれる。
『そのおばさんがニッキーに、ずっと一人暮らしなのかって聞けば、結婚するまでは一人暮らしだって答えたとしても別に変じゃないと思うんだよね。それに、その話をニッキー本人が答えたかもわからない。近所の噂で聞いたとか、情報的にも信用性があるかもわからないね。こういう話って、当てにならないことあるじゃない?基本的に、おばちゃん連中は噂話が好きだから、そういう話が一人歩きしているうちに、事実とは違う内容になってる可能性もある。唯一、ひっかかることと言えば、挙式をしたら云々ってところかな』
私が一番、気になっているところもその点だ。式を挙げたら、という言葉が出るとしたら、そういう相手が実際に存在するとしか考えられないし、あのご夫人も何か根拠があってそう言ったんだと思ってしまう。
「私もそう思って……式を挙げたら、なんて言葉、ニッキーにそういう相手がいると知っていないと言わないと思うんだよね」
『うん……でも、それがいつの情報かはわからないじゃない?』
「え?」
『そのおばさんが、そのことをいつ頃知ったのかなんて、わからないじゃない?ニッキーが以前に付き合っていた人が居たって不思議はないっていうか、率直な話、絶対に何人も恋人がいた訳だろうし、それが過去の彼女の話だったとしたら別に驚くことでもないよね』
「あ……そっか」
つい現在進行形の状況として話を受け取っていたけれど、よく考えたら、これが前の恋人の話だということもありえることだ。
そう考えたら全く不思議な話ではない。
少し、気持ちが軽くなってきて寒気が収まって来た。
「そうだよね……ニッキーも、かなりの人数と付き合って来たのは事実だって認めているし、あのアパートに前の恋人が出入りしていたとしてもそれは自然なことではあるよね……」
『そうだよ。それに、カノンと付き合い始めてから全然他の女の影なんてないみたいじゃん?浮気する暇なんてなさそうだし?カノンに散々振り回されているって本人が言っているんでしょ?』
「うん……それは、そうかも。週の半分は近くに居ないから様子が見れるわけじゃないけど、毎日連絡はくれてるし」
『彼って嘘つくタイプじゃないと思うな。だって、前、どっかのホテルの入り口で他の女と一緒に居た話の時も、昔付き合ったことあるって正直に言ってたんでしょ?』
「うん」
『私の想像だけどさ、彼ってかなりモテる人だから、付き合って来た昔の彼女達も結構執着してたんじゃないかと思うんだよね。彼女達がニッキーを完全確保しようと先走って、周りの人にさ、私達は結婚するんだ、とか言いふらしてたっておかしくないと思うよ。よくあるじゃない、そういう話。周りから外堀固めて結婚に持ちこむ攻め方って』
「うん、そうだね」
『それにさ、不安なら、正直にニッキーに聞いてみるのもありだよ。うじうじしているより、さっさと聞いてしまえば不安も消えてすっきりするもんだよ。案ずるより産むが易しってやつ』
「うーん、それはちょっと……出張に行って忙しいところに、くだらないことで困らせたくないっていうか」
『くだらなくないよ!カノンがこのことで何日も暗い顔で過ごすとか、そっちのほうが良くないってば』
「うん……」
アナの言うことはもちろん、理解している。彼女みたいに、はっきりと自分の意思を持ってきびきび行動したいのは山々なんだけど、私はやっぱり弱虫だ。いろいろ詮索して1人で悩んで、それをニッキーに打ち明けて困らせたり心配されたりするのは嫌だし、それにそんなに重い女だと思われて嫌われるのは怖い!
『だからさー……えっ?なに?』
電話の向こうで、アナの声が遠くなった。しばらくして、電話の向こうでアダムの声が聞こえる。二人で何か話しているようだ。アダムも、私が誰かと付き合っているのは一応知っているので、もしかしたら私達の電話の様子がおかしいので、何があったのかアナに聞いているのかもしれない。
アダムまで巻き込むのはちょっと恥ずかしいなと思っていると、アナが電話に戻って来た。
『カノン?あのさ、アダムにちょっと聞いてみたの、男の心理、みたいなの』
「男の心理?』
『一般論としてね。ちょっと彼にかわろうか?』
「あ、う、うん」
アナにぐいぐい押されるままについそう返事してしまい、少し間を置いてアダムの声が聞こえて来た。
『カノン?』
「あ、アダム……なんか、妙なこと聞かせちゃったね」
気まずくてそう言うと、電話の向こうでアダムが小さく笑うのが聞こえた。
『妙なことじゃないさ。女ってそういう噂とか耳にするとめっきり弱くなるもんだろう?』
「う……ん、まぁ、私もその典型的なタイプみたいで……情けないんだけど」
『それが自分なんだから否定することはない。そいつだってカノンがそういう性格だってことくらい、わかっているだろう?』
「うん」
やっぱりこういうのは、男性から意見を聞くとまた気分が違う。
女性にありがちな感情論じゃなくて、分析して理屈ぽく話してくれると、こちらも理性を取り戻せる。
『俺からこれというアドバイスはないけれど、カノンは、自分がやつを信じたいのかどうか、それだけよく考えればいい。そいつが信用に値する人間だと思うなら、疑うのは一切やめるんだ』
アダムのその言葉に、どきりとした。まるで、ニッキーに言われたのかと一瞬錯覚するくらい、はっと目を見開いてしまった。
そうだ、私は何を落ち込んでいるんだろう。
私は彼を信じたいんだ。
いや、心から信じてる!
彼は疑われるような人間じゃない。
彼ほど誠実な人はいない。
そんなこと、私が一番知っていることなのに!
たった一言、気になることを耳にしたくらいで、彼に対する私の気持ちがぐらつくことはない。
気持ちがぐらつくどころか、逆にもっと彼のことが気になって、もっと知りたいと思ってる。でもだからこそ、私は、勝手に他の女性を想像して嫉妬して、さらに妄想までしてどんどんネガティブな方へ考えていたんだ。
「うん、アダムのいう通りだね。私、きっと単に嫉妬してたんだと思う、、、私の知らない彼の過去とか、勝手に想像しちゃって、どんどん悪い方に考えてしまってたっていうか。後ろ向きな生き方はよくないよね」
『知らないほうがいいこともあるだろうし、知るべきこともある。でも、物事には、同じ事実であっても、知るタイミングを間違えると全く違う結果をもたらすことがある。やつがバカな男じゃなければ、そういうことも考えているはずだ』
「うん、わかる」
ニッキーも言っていた。わずらわしいことや彼の抱える問題も、追々説明するつもりだと。もしかしたら、こういうことも、彼がいずれタイミングを待って、私に教えてくれようとしていることのひとつなのかもしれない。
私はどうしてあんなに動揺していたんだろう。
まるで世界がひっくりかえったかのように強い不安に捕われてたなんて!
悪夢から目が覚めたように頭がすっきりしてくる。
肩の力も抜けて呼吸が楽になった気がした。
「ありがとう、アダム!アナにも、お礼を伝えて。二人のお陰で、すっきりした!もう、大丈夫!」
私が元気を取り戻してそう言うと、電話の向こうで笑うアダムの声が聞こえた。
電話を切って、私は大きく深呼吸してソファにひっくり返った。
本当にどうかしてた、私。
あんな一言を聞いただけで気が動転して、余計な妄想をどんどん膨らませてしまって、必要の無い不安を作り出していた。
ごめんね、ニッキー。
私って本当に弱い。
心の中で彼に一生懸命、何度も謝罪する。
私がこんなにくだらないことで悩んでいる間も、彼は自分のやるべき仕事に集中しているというのに。
私も、自分の仕事をきちんとこなさないと!
そう思って、よいしょと身を起こし、デスクに向かった。
執筆の続きをするべく、ラップトップを開いて、作業中のファイルを開く。
撮影写真データもいくつか開き、取材時に取ったメモ用紙を見ながら、記事の手直しや追加作業を始める。
さすがに初回とは違って今回は割とスムーズに文章が書けるようになっていて、我ながら少なからずとも進歩したものだとびっくりしてしまう。前回は、たったひとつの形容詞が見つからず30分以上もネット辞書を検索し続けていたのに、今は数分くらいで使いたい言葉が脳裏に浮かぶ。その単語を辞書検索し、その単語かもしくはもっと最適な類語を調べてその意味を確認し、最終的に選んだ単語を文中に挿入していくという流れが身に付いた。
記事を書いていると没頭してしまい、ふっと気がつくと数時間過ぎていることがある。これまでは海外事業部で市場調査や分析をして戦略会議に使えるデータを作成する仕事をしていたけれど、私は自分が、こういうカフェやレストラン業界にとても興味があるんだと知った。
時計を見ると、夜の9時を過ぎていた。明日は早起きしてアムステルダム行きの新幹線に乗らなくてはならないので、10時くらいには寝たほうがいいだろう。
今日はまだ、ニッキーとは連絡を取っていないので、メールで一言連絡を入れて寝ることにした。
夜も夕食を取引先関係の人と取ることが多いと聞いているので、今もまだビジネスディナータイム中かもしれない。
******************************************
今日は一日どうだった?
午後にアパートに洗濯物置いて来たよ。
明日は朝、早くに出るから、もうすぐ寝るね。
貴方がいい夢を見れますように。
ベルリンより愛をこめて
カノン
******************************************
メールを送信して、もう一度明日の荷物のチェックをする。パスポートと乗車券を忘れないようにボストンバッグの上に置いてベッドに潜り込んだ。
今日は精神的にすごく疲れてしまったのか、電気を消してすぐにうとうとしてくる。もうすぐ完全に眠りに落ちる、とその時に携帯がバイブしてはっと目が覚める。
******************************************
カノン?もう眠ってる?
******************************************
ニッキーからのSMSだった。時間を見ると10時。私は普通は11時くらいに寝るので、いつもなら寝ている時間ではなかった。暗闇の中、SMSを送り返す。
******************************************
まだ眠ってないよ。お仕事終ったの?
******************************************
返信すると、直後に電話がかかってきた。
嬉しくなってすぐに応答する。
「ニッキー?お仕事、お疲れさま!」
電話の向こうでクスクスと笑う声が聞こえる。
『さっきホテルに戻って来たところだ。PCの電源は入ってる?』
「ラップトップ?うん、入れっぱなしだよ。明日、移動中も作業するつもりだから、今回は持って行くの」
『仕事人間っぽいな』
「貴方の足下には及ばないけどね!〆切前だけの期間限定」
『それくらいが丁度いいだろう。カノン、今から、ラップトップでスカイプしよう』
「あ、スカイプ?」
そう言えば、ニッキーとは一度もスカイプをしたことがなかった。
どうして考えつかなかったんだろう!
「今、すぐに立ち上げるね」
急いでデスクのランプを付けて、携帯を横に置いたままラップトップを開き、スカイプを起動しながら、すでにすっぴんだと気がつく。でも今からメイクなんて出来ないし、デスクのランプくらいの明るさなら平気かな、なんて考える。
『ログインネームは?』
「CinnamonKitty」
『シナモン・キティ?』
デスクに置いた携帯から笑い声が聞こえて来た。
「昔飼っていた猫がシナモン色だったの」
『そう。カノンは猫が好きなのか?』
「うん、猫は大好き。でも犬も、小鳥も、動物は大好き」
『だったら今度は動物園に行こう』
そう話していると、スカイプのほうで呼び出し音が鳴り始めた。早速応答してみると、音声が繋がる。
『携帯のほうを切る。スカイプをビデオ設定にした?』
「あ、なってなかった。今、ビデオ設定に変えるね」
ビデオアイコンをクリックすると、画面が広がってニッキーが映り、ドキリとした。彼はまだスーツ姿でソファに腰掛けて、ネクタイを外しリラックスした様子でこちらのほうを見て笑っている。
相変わらずなんて素敵なんだろう!
少し薄暗い部屋で、ラップトップから反射している柔らかい光の中に浮かぶ彼の姿はとても大人びて美しい。照れてしまい思わず何度か瞬きをして画面を見つめると、スクリーンの向こうにいる彼が笑顔で立ち上がり、ちらっとこちらを覗き込んで画面から消えた。
「ニッキー?」
どうしたんだろうと思っていると、スクリーンに突然、クマの顔が映ってびっくりする。
「あっ」
突然だったのでびっくりしていると、笑い声がして画面に彼が映り、クマのぬいぐるみをかかえてソファに座った。
『残念ながらネコじゃないが、偶然シナモン色だ』
そう言って、クマを画面に近づけて見せてくれる。
つぶらな瞳をした柔らかそうな子グマのぬいぐるみは、左耳にオレンジ色のタグがついてて、ドイツの有名なシュタイフ・ベアだとわかった。青いベルベットの大きなリボンを首に巻いて、とっても可愛いらしいあどけない表情をしている。
「可愛いテディベア!ほんとにシナモン色の毛色だ!」
身を乗り出してスクリーンを見つめていると、ニッキーがいたずらっ子のように微笑んで、子グマを片手で抱いてその頭にキスをしてみせる。ニッキーがテディベアにキスしているなんて、あまりにも微笑ましいその様子に私は笑った。
「すごーく可愛いよ、二人とも!」
そう言うとニッキーが笑ってこちらに子グマを向ける。
『ホテルのほうからそちらへ送らせる。オランダから戻った頃に配達されるようにしておく』
私は胸が熱くなってちょっと涙ぐみながら笑顔で頷いた。
「ありがとう。すごく嬉しい!」
私があんなくだらないことに悩んでいる時に、彼は仕事の合間を縫って私のためにプレゼントを用意してくれていたんだ。きっと私が寂しい思いをしているんじゃないかと心配してくれたんだろう。なんて優しい人だろう。
しばらく無言でお互い画面の中の相手を見つめていた。
ニッキーの腕の中にいるテディベアが羨ましいな、なんて思ってしまう。
「早く会いたいな……」
思わず独り言のようにそう呟くと、画面の向こうの彼に聞こえたのか、彼が目を細めて微笑んだ。
『時間があれば、8月のバケーションの行き先でも考えておけばいい』
「うん、そうする。ニッキーは行きたいところとか考えてるの?」
そう聞くと、彼は少し考えるように黙って、それからまたいたずらっ子のような顔で笑う。
『君の水着姿を見れるところ』
「水着?」
嬉しそうにそんな事をいうニッキーを見て、妙に恥ずかしくなって一瞬黙ってしまった。でも、やっぱり夏は水辺が気持ちいいのは間違いないし、私も彼と一緒に海に行きたい。一緒に砂浜を走って海に飛び込んだら、どんなに楽しいことか。
「わかった!海のほうを調べてみるね。ついでに、水着も探してみる」
水着なんて持って来ていないので、この際旅行ついでにオランダで探すのもありだと思いついた。
するとニッキーが急にこちらのほうに身を乗り出してきて、目を煌めかせて画面を覗き込む。
『俺の希望を言っておこうか?』
「希望?」
『君にはVictoria's Secretが合うはずだ。なんなら、どのデザインが似合うか後で調べておく』
「……いえ、そこまで調べてくれなくても、色とかの好みさえ聞ければ」
あまりに張り切ってこの話題に食い込まれるのも恥ずかしくて、少し弱気になっていると、ますます調子に乗ってきたニッキーがニヤニヤしてこちらを見る。
『色?そうだな、柄じゃなくて単色がいい』
「あ、そう?一色のシンプルなやつね、うん、わかった」
ほっとしながらそう言うと、ニッキーが怪しい笑顔でこちらにウインクする。
『ストリング部分は全部俺が責任を持って結ぶから大丈夫だ』
「ストリング……?」
『紐が多いほうがいい』
「……」
思わず赤面して下を向く。
この人は、一体どういう水着を想像しているんだ!!!
紐が多いって、それはかなりきわどいデザインを意味しているんじゃないの?!
『カノン?』
「あ、うん。えっと、希望はわかった。まぁ、そういうのが見つかれば、ね……あはは」
この話題を無難に終らせようと思ってそう曖昧に答えると、ニッキーが怪訝な顔をして、疑わしそうにこちらを見ている。
『じゃぁ、俺が探しておこう』
「いっ、いいっ!いいよ、そんなことまでは!自分でお店に行って、きちんとサイズとか調べて買うから!こういうのはやっぱり試着しないと、ね?」
『それなら心配ない』
「えっ?」
自信たっぷりに言われてびっくりして聞き返すと、ニッキーがテディベアのお腹を両手で掴んでこちらに向ける。
『君の3サイズはこの手が正確に覚えている』
「……っ、えーっとね、でも、やっぱり一応、自分で、ね……」
恥ずかしくてしどろもどろになりながらも一応断る。ニッキーは一度残念そうな顔をしたが、でもまたニヤニヤと怪しい微笑みを浮かべて言う。
『遠慮しなくていい。まぁ、君も探してみればいいさ。水着が何枚あろうと困らないだろう』
「えっ」
『離れている間の楽しみが増えたな』
からかうような声でそう言って、ニッキーが大笑いしている。
一体どんな水着を入手しようというんだろう?!
見当も付かなくてドキドキする。
どうなることやらと心配になりながらも、スクリーンの向こうで楽しそうに笑っているニッキーを目の前に、結局私もつられて笑い出してしまったのだった。
翌日朝早くから私は新幹線に乗っていた。
今回はもう早くから外は明るいし、荷物も少ないので電車で中央駅まで行き、駅構内のベーカリーに寄って、サンドイッチと水、チョコレートを買ってから乗車した。駅にはいくつもお店が入っていて、聞いた所によると殆どのお店が24時間営業らしい。ベーカリーも何軒もあるので、どのお店で買うか迷って数カ所回ってしまったが、結局自分が乗る13番線ホームのエスカレーター側にあるベーカリーで購入した。
新幹線ICEの車内は思ったより冷房が効いていて、念のためと思って持って来ていたフリースを羽織りながら、私は記事の執筆を続けていた。時々窓の外を眺めて目を休める。
私はやっぱり、電車の旅が好きだなと思う。
飛行機も、車もいいけれど、電車の中はもっと旅をしているという気分を感じる気がする。いつか、ニッキーと一緒に電車で旅行出来たら楽しいだろう。彼もきっと、電車の旅が好きなはずだ。
静かな車内の中で作業も捗って、水曜日に取材した2件分の記事はオランダ国内に入るころにはほぼ完成した。
あとは、ベルリンに戻って来て残りの1件を取材して、記事を仕上げれば無事、入稿〆切に間に合うはず。それまでに、間違っても風邪なんかひかないように気をつけなくちゃ!今、病気をする暇はない!
そんなことを考えながらラップトップを片付け始めたら、携帯が振動して、おばぁちゃん宅の番号が表示される。
「もしもし?」
『俺。今、どのへん?』
「さっき、ユトレヒト駅を通過したよ。後、1時間半くらいでアムスかな」
『わかった。じゃぁ、今から出るから、アムスの駅で降りたらそのプラットホームで動かず待ってろよ』
「え、来るの?疲れてるんなら無理しなくていいのに」
『さっき起きたから十分に寝た』
「どうやって来るの?電車だよね?」
『ばぁちゃんの車。こっちの運転許可持ってる。この間、ロンドンに行く時に取ったのがまだ有効期限内』
「ふーん、そうなんだ」
『ばぁちゃんも行くかって聞いたら、俺の運転は嫌だってさっき逃げるようにテニスに出かけた』
「え?逃げた?どういうことそれ。私もまだ死にたくないんだけど?」
『あたりまえだろ!?これでもアメリカ縦断した腕前だ!バカにするな』
「アメリカのだだっぴろい道路とこっちの道路は全然作りも違うじゃない。なんか不安だなぁ……」
『うるさいな。カノン、今からすでにババァみたいな口ぶりじゃないか』
「ババァとはなによっ」
むかっとして思わずきつく言い返すと、けらけらと笑う声が聞こえて、「じゃぁな」と電話が切れた。
失礼な言葉で頭に来たが、でも同時におかしくなって1人でこっそり笑ってしまう。
子供のころを思い出してしまった。昔は食べ物を争って取っ組み合いのケンカもしたし、みんなでいろんなイタズラや悪さをして見つかって、伯母さんに全員一列に並ばされてこっぴどく叱られたこともあった。そういえば、幼稚園児だった美妃がフーゴに虐められて、泣きながらもフーゴの腕に噛み付いて青い歯形がついたこともあったっけ。あの時はさすがのフーゴも涙目になってたんだった。
懐かしい思い出がいろいろと蘇ってくる。
後で3人で写真を取って、日本の家族にも送信しておこう。
やがて私の乗る新幹線ICEは定刻通りアムステルダム中央駅へ到着する。
ここに来るたびに東京駅を思い出す。東京駅はアムステルダム駅のデザインを参考に建てられたわけではないらしいけれど、正面から見るとやっぱり作りが似ているような気がして、日本人が見たら望郷の念にかられてしまう。
駅構内は勿論、全然雰囲気が違う。
アムステルダム駅の構内も、勿論モダンな所もあるけれど、屋根はドーム式に大きな半円形になっていて、明かり取りのガラスから光が差し込んでくるプラットホームはいかにもヨーロッパという感じだ。木製のベンチなどを見ると、ここが東京駅とは全く違う場所だと実感する。
ボストンバッグと、ラップトップが入ったショルダーバッグを抱えて新幹線を下りる。
とても長いプラットホームなので、下手に動かないほうがいいだろう。フーゴは携帯は持ってないだろうから、行き違いになったらお互いを見つけるのは困難だ。
アムステルダム駅は多くの人でごったがえしている。ジプシーっぽい集団が練り歩いていたり、パンク系のバンドなのかファンキーな髪型に大きなギターを抱えたグループもたむろしていたり、ユニークな人達があちこちに居る。
そして、やっぱり平均身長が高い!!! 外国人もかなりいる駅だけど、それでもベルリンよりも背の高い人ばかりで、さすが世界一の高身長国だと実感する。
それに、ベルリンと顕著に違う点は色彩だ。ここでは明るい色合いの服が好まれるようで、鮮やかな赤いパンツや、オレンジ色のシャツなど、どっちかというと暗い色合いの服装を好むドイツ人とは真逆の嗜好らしい。
郷に入れば郷に従え、じゃないけれど、私もこちらへ来るので明るい色合いの服装を選んで来た。今日は、ミントグリーンのチュニックにホワイトレザーのベルト、ボトムスは同じくホワイトのG-Starスリムジーンズだ。サンダルはブラックだけど、トルコ調のカラフルなビーズ飾りがたくさんついていて足下を明るくしてくれる。
ふと、水着のことを思い出して、どういう色がいいかなぁと考える。
海だと思うと、ブルーやグリーンの色が浮かぶけど、夏らしく明るい暖色系もいいかもしれない。
「相変わらずぼさっとしてるな」
後ろから声が聞こえて振り返ると、7年ぶりのフーゴが立っていた。
「……フーゴ?」
私はぽかんとしてフーゴを見上げた。
この間、おばぁちゃんがメールで送ってくれた写真では、短く刈り上げたスポーティな風貌だったのが、今ここに立っているのは、肩まで無造作に伸ばした髪に、薄く短い顎ひげを生やしている男だ。
「ど、どうしたの?」
思わずそう聞いてしまった。
フーゴはずっと、アメリカンフットボールをやっていて、髪は常に短く刈り上げていかにもスポーツマンという感じだったのに、その爽やかさはどこへやら、まるでワイルド系ギタリストか何かみたいだ。
それに、いつもTシャツにジーンズ、迷彩柄やレザー物を着ていたのに、今日は、ホワイトにブラックの細いストライプ柄の襟付のコットンシャツに、オリーブグリーンのパンツ、と大人っぽい出で立ちだ。よく見れば、右耳には三つも小振りなリングピアスまでついている。
「なんだよ、お前まで」
明らかにうんざりした様子でフーゴが腕組みをして私を見下ろし、鼻でふん、と笑った。
「カノンもそろそろ老眼鏡買った方がいいんじゃないか」
「はぁ?私をいくつだと思ってるのよ」
相変わらずの毒舌ぶりは間違いなくフーゴだ。
よく見れば、明るい栗色の目も前と同じヘーゼルナッツ色だ。眩しげに目を細めて人を見るくせも変わらない。
「老眼じゃなければ近眼なんだろ。メガネはどうした」
「失礼ね。視力に問題はないよ。だってフーゴ、写真で見たのと全然違うから、やっぱり別人みたい。その髪にヒゲ」
「何言っているんだ、誰だって髪は伸びるし、ヒゲだって伸ばす伸ばさないは俺次第だろ」
「そりゃそうだけど……だって服装も違うし。ジーンズじゃない姿、初めて見たかも」
「それは学生時代の話じゃないか」
「別にジーンズは学生限定じゃないよ」
「減らず口は健在だな。まぁいいだろう」
フーゴはそう言って私の持っていたショルダーバッグとボストンバッグを取り肩にかけ、昔と同じように朗らかに笑って私の肩をぐっと抱きしめた。
「久しぶりで嬉しいからその無礼も許してやる」
許してやる、という上から目線もどうかと思うが、私も再会は嬉しいので思わず笑いながらフーゴを見上げた。
「中身はかわらないね」
「どうだか。さぁ行こう、ばぁちゃんが待ってる」
おばぁちゃんが乗車拒否したと聞いてからフーゴの運転がどうなのか正直少し心配だったが、身の危険を感じるほどでもなかったのでほっとする。
あえて気になる点を言えば、運転が攻撃的で、追い抜き時の加速が早く背中が座席に押し付けられそうなところだ。しかも、誰かが追い抜くと必ずその車を追い抜きかえすっていうの強気丸出し。
「ね、なんかストレスたまってんの?」
「は?なんで?」
左肘は開けた窓に乗せ、右手はハンドルに添えて指が触れているくらい、両膝で下からハンドルを押さえている状態のフーゴが横目でこちらを見た。
「ちょっと、手ぐらい使ってくれない?」
膝でハンドルの舵取りなんて見ていてハラハラする!
「仕方ないだろ!この車、狭くて乗りづらいんだ!あぁ、イライラする」
そう腹立たしげに言って、眉間にシワを寄せて前方を睨む。
まぁ、言い分はわからないでもない。
おばぁちゃんの車は普通乗用車だから、大柄な人には狭苦しく感じるのも当然だ。見上げれば、フーゴの頭は天井にくっつくんじゃないかと思うほどの隙間しかない。
「やっぱり、電車がよかったんじゃない?」
申し訳ない気分になってそう言うと、フーゴがちょっと首を傾けて小さく笑った。
「電車は駅まで行くのがめんどくさい。基本的に待つのは大嫌いなんだ。いいから黙って座ってろ」
「でも、ハンドルは手で持ってよ」
「うるさいな、わかったよ」
はぁとわざとらしく溜め息をして、フーゴが両手をハンドルに乗せた。
アメリカンフットボールをやっていた時も、かなり攻撃的な性格だと思っていたけど、見かけが変わってもやっぱりそこは変わっていないようだ。加速の仕方や追い抜き方もその闘争心が剥き出し。言うなればサバンナの野獣みたいな性格。
三つ子の魂百までというくらいだから、外見が変わっても中身はそう違わないものだ。
無事に高速を下りて、イースター休暇ぶりにおばぁちゃん宅に到着。
先に車を下ろしてもらって、フーゴが駐車に行っている間におばぁちゃん宅の庭のほうの扉をあけて入ると、予想通り、おばぁちゃんが庭のテーブルでお友達2人とお茶しているところだった。
「おや、噂をすればだよ。カノン、いらっしゃい」
おばぁちゃんが満面の笑顔で手をあげて、立ち上がる。
「おばぁちゃん、ひさしぶり!っていっても、ついこの間も来たんだけどね」
笑いながらおばぁちゃんと抱き合って、それからテーブルに座っているおばぁちゃんの友達に挨拶した。1人は、前回一緒に海で会ったモニカだ。もう1人はテニス仲間ののマーガレットらしい。
「カノンも何か飲み物を持って来るかい?」
「うん、そうだね」
燦々とお日様が降り注ぐ庭だけど、大きなオーニングが出ているのでテーブルの下は気持ちのいい日陰になっている。
「ばぁちゃん、車は駐車場のはじっこに停めておいた」
私の荷物をかかえたフーゴが同じく庭の扉を開けて入って来た。おばぁちゃんがニコニコして、モニカとマーガレットにフーゴを紹介する。
「こっちがフーゴ。アメリカに住む私の娘のところの暴れん坊」
その言葉にモニカとマーガレットが大笑いして、フーゴが苦々しい笑顔を浮かべながら、モニカとマーガレットと握手をする。悪ガキのフーゴも、実の母親と、おばぁちゃんの前だとめっきり弱い。
「暴れん坊だなんてねぇ、とってもハンサムな紳士にしか見えないわよ」
マーガレットが目をまんまるくしてフーゴを見上げている。
マーガレットもモニカも、英語が堪能だ。基本的にオランダ人は皆、英語が喋れるからやっぱりすごい。
「そうかねぇ、昔はもっと爽やかな少年だったのに、今はヒゲなんか生やしてみっともないと思うんだけどねぇ」
おばぁちゃんがそう言いながらフーゴの顎を掴んで眉をひそめた。フーゴは苦笑いしてされるがまま棒立ちしている。口答えしたら倍になって返って来るのはわかっているらしい。
「あら、最近はそういうヒゲが若者の間で流行っているのよ。うちの娘のダンナだって、口の周りを生やし始めたらしいの。そういうのがオシャレで通る年齢なのよ」
モニカがにこにこしてそう言うので、フーゴが少しにやにやしておばぁちゃんを見下ろした。
「ばぁちゃんもたまにはトレンド情報でも読んでくれ」
その言葉におばぁちゃんがピクリと眉をあげたけど、さすがに怒るほどの内容でもないと思ったのか、黙って椅子に座り直した。
「私も飲み物を持って来るね。フーゴはどうするの」
キッチンのほうへ行こうとしてそう聞くと、フーゴは荷物を持ったまま私の後について中に入りながら答える。
「上の書斎のほうに行くつもりだ。あの話の輪に参加するのは遠慮しとく」
「そっか。ま、その気持ちはわかるかも」
「俺はジュース」
「え?」
「冷蔵庫にグレープフルーツジュースあるから。氷忘れるなよ」
そう言うと荷物を持ったまま逃げるようにさっさと上に上がって行った。
よほどおばぁちゃん連中にからまれるのが苦手らしい。
そしてそのからまれている様子を楽しんで見ていた私も、ひょっとしたらおばぁちゃん達の一味かもしれない。
私は自分用にカプチーノを作り、フーゴ用にちゃんと氷をいれたグレープフルーツジュースを持って2階へ上がる。書斎で何をしているのかと思ったら、ラップトップを前にヘッドホン着用してスカイプ中。仕事の話をしている様子だったので、デスクにジュースを静かに置いて即、退散。根っからのスポーツバカと思っていたフーゴも、いつの間にか仕事人間になっていたらしい。
庭でおばぁちゃん達と歓談していると、モニカが思い出したように声をあげた。
「あっ、忘れるところだったわ」
どうしたんだろうと皆が目を点にしてモニカを見ると、彼女がポケットから1枚のメモを取り出した。
「明日、あの海のレストランが一般公開されるのよ」
「あぁ、あのロイヤルファミリーの親戚がオーナーっていうnordwijkのレストランだね。ついに工事が終ったのねぇ」
おばぁちゃんが身を乗り出してメモ用紙を覗き込む。
「午後の3時から5時までが関係者のみ招待されるらしいんだけど、一般客も5時からは入れるらしいよ」
「当日は混みそうだね」
おばぁちゃんがそう言うと、モニカも頷く。
「そりぁこの天気のよさだと海に行く人も多いしね。しかも日曜日だから。私は、その関係者が中に入れる時間帯にお邪魔することになっているんだけど、残念ながら人数制限が厳しくて、その時間帯には他に誰も同行は出来ないの」
私はふと、その店内の写真を撮ることが出来ないかと思いついてモニカに聞いて見た。
「モニカ、そこは写真は撮っていいの?」
「写真?もちろん好き放題撮っていいんじゃないの?」
「ううん、雑誌に載せるための写真」
「雑誌?」
私はモニカに、今、私が日本のライフスタイル雑誌に、ベルリンのカフェ情報を載せていることを説明し、まだ編集担当には確認していないけど、ロイヤルファミリーに縁のあるレストランを写真と場所情報だけでも載せて紹介したいと思うと話した。はるにはまだ聞いていないけど、トピック的にはとても珍しいし、店内の様子を撮影して、場所や開店時間等を載せるだけでも十分読者の興味を引きそうな気がする。
「なるほどね、日本のライフスタイル雑誌の取材なら面白そうだね。じゃぁ、後でちょっと友達に聞いてみて、夜にでも連絡してあげるわ」
モニカはオーナーに交渉することを快諾してくれた。
その晩、モニカからおばぁちゃんに連絡が来て、夕方5時以降の一般人向けに公開する時間帯に写真を撮ることは問題ないとのことだった。オーナーの話だと、恐らく一般客も携帯やカメラで写真を撮って、ネットに載せたりするだろうし、レストラン側としても、日本の雑誌に掲載されることは嬉しいらしい。ただ、オープンしてしばらくはとても予定外の取材対応は無理なので、インタビュー等を受けることは出来ない。そのため、お店の基本情報はHPからそのままコピーして使って欲しいとのこと。
勿論、それでも十分有り難いことだ。
まだ、レストランの中を見ていないから、本当に雑誌に載せるほど興味深いお店かまでは確信はとれないけれど、ロイヤルファミリーの親戚がオーナーというだけでも話題としては魅力的だろう。私ははるに、この件についてメールを入れておくことにした。
日曜日、私とおばぁちゃんは庭で朝食を取りながら今日のことを話していた。
今日は夕方はビーチに行くので、昼間は街のほうへ出ようということになった。デンハーグ市内は午後からならデパートお開いている。
「フーゴはまだ寝ているようだね」
おばぁちゃんが上を見上げて言う。
「時差ぼけがあるんじゃないの?昨日も、遅くまで仕事してたっぽいし」
「そうだね。いっつも外でボールばっかり追いかけてたと思ったのに、あの子がコンピュータの前で仕事だなんて、不思議な感じだよ」
おばぁちゃんがそう言ってニコニコ笑いながらコーヒーカップに手を出した。
「なんだったらあの子は留守番させて、私らだけで街へ行った方がいいかもしれないね」
「そうだね。デパート巡りなんて嫌だって言いそうな気がする」
私も大きく頷いた。
フーゴが私達の後をくっついてデパートやブティックに行くとは思えない。きっと不機嫌になりそうな気がする。
「カノン、ちょっとフーゴの様子を見て来てくれる?ついでに、私らは出かけるから、家に居たければ残っていいと言っといて」
「うん、わかった」
私はテーブルの上にあった空のプレート類とカトラリーをまとめて立ち上がった。キッチンに行ってそれらを片付けて、三階で寝ているはずのフーゴの様子を見に行こうと階段を上り始めたら、ちょうどフーゴが下りて来た。
「あ、起きたんだ?今、様子見に行こうとしてた」
フーゴは、グレーのスエットパンツにブラックのシャツを着ていたが、まだドライヤーをしていない濡れた髪のままだ。
「ドライヤーしたら?」
ついそう言うと、フーゴが大きなあくびをした。
「庭にいたらすぐ乾くだろ。コーヒーよろしく」
「え?あ、コーヒーね、はいはい」
フーゴは大きく背伸びをしながら庭のほうへ行って、日が照るベンチにひっくり返った。おばぁちゃんが「ドライヤーは?」と言っているのが聞こえて思わず笑ってしまった。私もおばぁちゃんも口うるさい母親みたいなことを言ってしまって、フーゴもきっとうんざりしているに違いない。
コーヒーと、朝ご飯のプレートを持って庭に戻ると、ベンチにひっくり返っているフーゴは新聞を顔面に乗せている。
「何やってるの?」
そう聞くと、新聞を取ってフーゴが身を起こし、苦々しく笑う。
「顔が焼けるって、ばぁちゃんが乗せたんだ」
「あ、紫外線?」
おばぁちゃんを振り返ると、憮然とした様子でおばぁちゃんがフーゴを睨んでいた。
「日焼けを侮ってはいけないよ。紫外線を浴びすぎると皮膚癌になるんだからね。テニス仲間でもう3人くらい、皮膚癌の手術を受けているんだから、人ごとじゃないんだよ」
「まぁ、確かにね」
私は頷きながらテーブルにフーゴの朝食を並べた。
黙って食べ始めるフーゴ。本人が言ったように、もう髪は乾き始めていて、栗色のウェーブがふわふわと浮き始めていた。フーゴは日本人の血が4分の1だから、髪の毛も随分と細く繊細で乾くのも早いらしい。ここの空気は乾燥しているし、海からさほど遠くないため、いつも風が吹いている。夏なんかあっと言う間に洗濯物も乾く。
おばぁちゃんが、私と一緒に買い物に出かける旨を話すと、フーゴが意外にも同行すると言う。
「へぇー、おまえがデパートについて来てくれるとはねぇ……人間、変わるもんだねぇ」
おばぁちゃんが心底驚いたように言うと、フーゴが首をすくめて笑う。
「別に、女物売り場にいなくたっていいわけだろ?他に見るところもあるし」
「それはそうだよね。フーゴも、買いたいものあるんじゃない?」
見た所、以前よりファッションにこだわっているようだから、今は買い物も好きなのかもしれない。
「靴くらいはチェックしとくか」
スクランブルエッグをフォークに山盛りのせたフーゴが言う。
「あ、そういえば、G-Star Rawのお店があるよ。私は必ずチェックしてるけど」
「G-Star?あぁ、オランダのジーンズブランドか。俺もいくつか持ってる」
「じゃ、そこも行こう」
私達はランチも市内で食べることにして、出発までそれぞれ仕事や家事をして過ごした。
私はデパートの水着売り場でもう30分以上歩き回っていた。
おばぁちゃんは地下のアート画材売り場、フーゴは男物の靴売り場、私は女性物フロアとそれぞれ散らばって、1時間後に最上階のカフェで待ち合わせすることになっている。
水着はたくさんある。カラフルな楽しいものから、いかにも大人っぽいセクシーなものまで、シーズンまっただ中の今は相当なデザイン数が揃っている。問題は、そのコレクションの中に私に合うものがあるかどうか、ということだ。
一番気になっているのはやはり、上半身のほうのフィット感。
こちらの女性は体格の凹凸がはっきりしている人が多いから、いわゆる鳩胸タイプ向けにデザインされたものが多い。私がこういうデザインを着ようとすると、パットで思い切り上げ底でもしないと、胸の上部がガパガパになってしまう気がする。
だからといって、いかにも!とパットが入ったものを買うのも気が進まない。パット付のものを手に取ってみると、薄っぺらい水着だというのに重みまであって、不自然な感じがする。
やっぱり、無理に大きく見せるのは嫌だし、パットというのがどうも受け付けない。
かといって、ガパガパになる水着というのもみっともない。
なんて難しいんだ!
「お探しですか」
店員さんが満面の笑顔で声をかけてきて、慌てて首を振る。
「大丈夫です、見てるだけなので」
「何かあれば言ってくださいね。今のオススメは、こちらのセクションですから是非ご覧になってください」
言われてそちらへ目を向けると、目の覚めるようなターコイズブルーやショッキングピンク、トロピカルグリーンの色彩が目に入る。明るい夏らしくてとっても奇麗な元気カラーだ。
「ありがとうございます、見てみます」
色に惹かれてハンガーにかかっている水着をチェックしてみる。見ているだけで海の潮騒が聞こえて来そうなくらい海に似合う鮮やかな色だ。特にこの、ターコイズブルーにホワイトがアクセントになっているものは、ちょっとスポーティだけど女性らしいラインで私好みだ。この胸のカット具合だったら、着用してもガパガパにはならないだろう。
手に取ってデザインをじっくり確かめてみる。
ーーー紐が多いほうがいい。
ニッキーが嬉しそうな顔でそんなことを言っていたのを思い出す。
その時の恥ずかしさが戻って、つい唇を噛み締めてしまう。
紐が多い水着って、基本的にカバーされる面積も狭いってことじゃないだろうか?!そんな恥ずかしいデザイン、到底着こなせない!
……でも、私はやっぱり彼が好きだから、あんなことを言われたら、少しくらい彼の希望に合うものを買いたいと思ってしまう。さすがに、あっちもこっちも紐だと、いつほどけるかと心配でろくに泳げないとは思うけど……
ターコイズブルーの水着は、残念ながら紐はどこにもついていないので、候補から却下。
ショッキングピンクのほうは、ワンピースタイプでサイドが大きくカットされていて、これはウエストが細く見せる効果も期待出来るし、ワンピースだから胸もガパガパにはなる心配はなさそうだけど、やっぱり紐はどこにもついていない。
これもダメだ。
これだけたくさん水着があるのに、コレ!というものは1枚も見つからなかった。
自分の好みだけで選ぶなら簡単なのに、他に1人、意見をする人がいるだけで、買い物がこんなに難しくなるとは。
私は今回は諦めることにして、水着売り場を離れ、一足先に最上階のカフェへ向かった。
ビュッフェランチも提供するのカフェなので、約束の待ち合わせの時間より10分ほど早かったけれど、席取りも兼ねて自分のランチを買ってしまうことにした。プレートをお盆に乗せてビュッフェコーナーを回る。
プレートのサイズが3サイズあって、その大きさで値段が決まっている。だから、選んだプレートに乗せれるだけ乗せても値段は同じ。私は中サイズのプレートを選んだので、6ユーロぽっきりだ。
あれもこれも美味しそうで迷った挙げ句、ツナのマカロニサラダ、フェンネルという甘みのある野菜をグリルしたもの、トマトとキュウリのサラダ、それからマッシュルームの炒め物を乗せて、あっと言う間に山盛りのプレートになってしまった。飲み物コーナーでミネラルウォーターをお盆に乗せていると、フーゴがやってきて、私のプレートを後ろからのぞいた。
「おっと、カノン、すごいな」
すごいとはどういう意味だ、と思ったけれど、確かにプレートにてんこ盛り状態なので言い返す言葉もない。それに、全部食べきる自信もある。
「先に座ってるね。おばぁちゃんはまだ?」
「さっきエレベーターのところで会ったよ。あっちでなんか友達につかまってる」
後ろのほうを見ると、エレベーター前でおばぁちゃんが誰かと立ち話をしていた。
レジで合計8ユーロを払って、カトラリー、ペーパーナプキンを持って席を探し、窓際の空きテーブルを見つけてそちらにお盆を置いた。
窓の外にはテラス席があるけれど、タバコを吸っている人が多いし、見ればハトだけでなく、カモメまでが手すりに並んで誰かがエサをあげるのをじっと待っている。人が去ったテーブルにちゃっかり舞い降りて、残っているパン屑を食べているカモメまでいる!挙げ句にコーヒーカップにクチバシをつっこんでいるけど、あれは鳥が飲むものじゃないだろうに、大丈夫なのだろうか。
さすがにちょっと心配になったが、当のカモメは当たり前のように食事を続けている。もともと雑食というカモメだし、カフェイン慣れした一羽なのかもしれない。
オランダにはカモメのほうがカラスより多いと思う。ゴミ荒らしも基本的にカモメの仕業らしい。ベルリンは勿論、海のそばではないので、カモメはいない。窓の外のテーブルで食事中のカモメをじっと見ると、そのカモメはとても賢そうな顔をしていた。クチバシの周りにレタスの切れ端がついていて、お茶目な表情だ。
「あぁ、腹減った」
目の前に山盛りのプレートが置かれて、フーゴがどさっと音を立てて椅子に座った。
「すごいじゃない。一番大きいプレートでその山盛りは、、、こんなに食べれるの?」
さすがに驚いて目の前の皿を見ていると、フーゴがぷっと笑い出した。
「まさか!ばぁちゃんが、シェアするから大きいプレートで買えっていうから」
「あ、なーんだ、びっくりした」
そうじゃなければありえない量だ。相撲取り用の食事にしか見えない。
フーゴが余分に持って来たプレートやカトラリーをおばぁちゃんの席に準備していると、おばぁちゃんがオレンジジュースを2本持ってやってきた。
おばぁちゃんのお皿にフーゴが料理を分けているのを、ほのぼのした気持ちで眺めた。
おばぁちゃんは口厳しいけれど、フーゴのことをとても可愛いと思っているのは見れば誰でもわかる。それはフーゴ本人もよく知っていることだ。いつまでもこうやって仲の良い家族でいられるといいな、と思った。血のつながった家族というものは、どんな時も自分の味方でいてくれて、無償の愛を分かち合う大切な仲間なのだから。
ランチの後、おばぁちゃんは洋服の生地屋さんに寄ると言うので、私達は二人でG-Star Rawに寄って、それから駐車場で合流することにした。その後はまっすぐ、海のほうに行く予定だ。
「日曜日に店が開いているなんて、オランダも進歩したな」
フーゴが辺りを見渡しながらそう言う。午後から急に混んで来て、かなりの人が街を出歩き買い物や食事を楽しんでいる。
「そうだね。しばらく前までは、日曜日は全部閉まっていたみたいだよね。やっぱり、観光客も増えて来たから、日曜日も開けるようになったんじゃない?」
「ベルリンのほうはどうなんだ?」
「うーん、大きなショッピングセンターも日曜日は殆ど閉まっている。でもレストランとかカフェ、ミュージアムとかは全部開いているよ」
「ドイツの首都でもそんな感じか」
「でも、フーゴが居る間は平日だから、関係ないんじゃない?」
「それはそうだな」
オシャレなお店が並ぶ通りにやってきた。ZARAやH&Mなどのファストファッションは勿論、Max MaraやREPLAYなど、一息に回ってみれるエリア。
「REPLAYに入ってみよう」
REPLAYのお店の前を通りかかった時にフーゴがさっさと中に入って行ったので、私も後から店内に入ってみた。
そういえば、REPLAYで買い物をしたことはない。せっかくなので私も女性物をチェックしてみると、意外にも割と好きなデザインがありそうだったので真剣にコレクションを見てみる。1枚、ダークグリーンのポリエステル生地ワンピで、ショルダーは覆われているのにノースリーブのデザインのものが気にいって、試着してみた。ストンとしたラインで、丈は膝上、胸元にブ黒のスパンコールビーズがたくさんついていて、ちょっとしたお出かけにも良さそう。値段は139ユーロと、驚くほどの金額でもなかったので、即決してレジに並ぶ。これくらいなら、荷物にならないし、かさ張らない。
「なんかあった?」
フーゴもTシャツを数枚持って私の隣に並んだ。
「初めてここに来たんだけど、結構好きかも」
それほど時間に余裕がないので、REPLAYでの支払いを終らせるとすぐにG-Star Rawの店へ行く。店内はそれほど大きくないので見て回る時間はそれほどかからない。ここでは私は基本的にジーンズばかりをチェックする。豊富なバリエーションの中から選ぶのは至難の業だ。それに、試着せずに買うなんてのはありえないし、今日はもう、時間に余裕がないから購入は無理かもしれない。
フーゴの様子を見てみると、あちらもジーンズの棚の前であれこれ見ているようだ。
残り時間が10分もないので、私は自分の方は諦めてフーゴの様子を見に行った。
「どう?見つかった?」
「これ持っといて」
フーゴがさっき買ったREPLAYの紙袋を私に押し付けると、ジーンズを一本持って試着室へ行った。
しばらくして、着替えたフーゴが出て来た。
「Navy Blueの3D TAPEREDです。よくお似合いだと思いますが」
店員のお兄さんが私の隣に立ってフーゴを眺める。
確かに、あか抜けてかっこいい。若干横柄な態度にもぴったり合っている気がする。
「うん、似合ってるよ。やっぱ、フーゴはジーンズが似合うなぁ」
そう褒めると、フーゴが横目で私を見てにやりと微笑む。
「ジーンズも、だろ。そこを間違えるなよ」
「細かい!ほら、時間がないから、早く買ったらどう?」
つっこみが厳しいやつだと苦笑いしながら試着室へ追い返した。
時間的にも予定通りだとほっとしながらレジの支払を見ていると、店員のお姉さんがカード用のレシートとペンをフーゴに渡しながらにっこりした。
「アメリカからですか」
英語のアクセントで気づいたんだろう。
フーゴが笑って頷く。
「新婚旅行でこちらへ?」
そう聞かれて、二人で思わず顔を見合わせて、同時に笑い出した。
「私達は、従兄妹です」
そう答えると、お姉さんが少しびっくりしたように目を丸くした。
「従兄妹?全然似ていないからてっきりカップルかと」
フーゴが苦笑しながら私の顔を見て言う。
「まぁ、似てないといえばそうかもな」
実際、私達は殆ど似てない。おじぃちゃんの血が強めに出ている美妃だと、少しフーゴと似ている気がするけど、フーゴは大体アジアの血が入っているように見えないから、尚更私達が親戚同士にはに見えないのだろう。
「私達、似てるとこってあったかなぁ?」
店を出て歩きながらそう呟くと、フーゴが首を傾げて、それからじっと私の顔を眺めた。
「そうだな、あえていえば、目が似てるんじゃないか?」
「目?」
「昔から、ばぁちゃんが言ってた」
「そうだっけ?」
言われてみれば、確かに私の目の色は薄めの茶色なので、フーゴの目の色をワントーン暗くしたと思えば似ているのかもしれない。フーゴの目の形は大きなアーモンド型で、少しだけアジアっぽく釣り上がり気味なので、そこも私と似てるかも。欧米人は割と垂れ目気味の人が多い気がするので、フーゴの目はおばぁちゃんの血が現れた部分ということだろう。
このちょっぴり釣り上がった目が、フーゴの精悍な顔立ちを更に勇ましくみせる。女の子達がフーゴに夢中になるチャームポイントでもあったのは確かだ。アメリカンフットボールの試合には、フーゴ目当てのファンの子がいつもたくさん観戦に来てたのを思い出す。フーゴの近くに居たいからとチアリーダーを目指している子が何人もいるらしい、と伯母さんが笑って言っていたこともあった。
「どちらにせよ、微妙な部分だね。目なんて、超至近距離で見なきゃわからない」
「言えてるな。でも、お前のところのおじさんと、俺のママはやっぱり似てる」
「姉弟だからね。性格は違うみたいだけど」
「そうそう。おじさんはママみたいにヒステリックじゃなくて物静かだしな。おじさんはじぃちゃんに似たんだろ」
「叔母さんは完全におばぁちゃん似ってわけね」
「だろうな」
そんなことを話しているうちに駐車場について、待っていたおばぁちゃんと合流する。おばぁちゃんは赤いギンガムチェックの生地を一巻き横にかかえていた。
「可愛い生地だね!何を作るの?」
生地を触りながら聞くと、おばぁちゃんがにこにこしてそれをフーゴに渡す。
「テーブルクロスを作ろうと思ってね」
フーゴが、買い物をした紙袋とその生地を車のトランクへ入れる。
「さて、そろそろビーチのほうへ行きましょう。ここからは私が運転するから」
おばぁちゃんが運転席のほうへ周り、私は後部座席へ、そしてフーゴが助手席へ座る。後部座席に乗り込むなり、前の助手席が一気に後方へバックしたので、私はあわてて運転席の後方へ寄った。
「ちょっと!座席を動かすんなら、一言、声かけてよね!」
文句を言うと、助手席で思い切り伸びをしているフーゴが振り向きもせずに、はいはい、と呟いた。
全く、こいつにはマナーというものはないのだろうか。
この態度のでかさは昔から変わらないが、社会に出たら少しくらい大人らしい作法を学ぶ機会はあるだろうに。
おばぁちゃんがハンドバッグをフーゴの膝に乗せて、駐車券を探し出せと命令したので、さっきまで態度がでかかったフーゴがしぶしぶハンドバッグをあけて中を漁り始める。その様子がおかしくて、ついまたこっそり笑ってしまった。
レストランは、La Galleria Nordwijkと言う名前だった。
表のほうには何台も高級車が止まり、大使館関係と明らかにわかる車もある。オランダの黄色いナンバープレートにCDと最初に記載されているものは、大使館関係の車だと聞いたので、車を見ればすぐにわかる。
私達が到着したのは夕方5時直後だったので、レストランの中から大勢の人が出て来る時だった。皆、スーツや奇麗なドレスで正装した感じの人ばかりで、このレストランが巷の大衆向け飲食店とは格が違うことは確かだ。
この間は、あちこち穴だらけで様々な工事機材が散乱していたこの周辺も、一面美しいなだらかな砂浜になっていて、レストランの外観も、まぶしいくらい真っ白に輝いている。
海を望むテラス席には、真新しいアンティーク調の街灯が設置されていて、高級感を感じる作りになっていた。シンプルで装飾に凝りすぎず、そして安っぽさを全く感じられない高級感溢れるアンティークな空間は、クラシック・モダンと言うべきだろうか。
テラスのインテリアは、テーブルや椅子も現代的なデザインのものが使用されている。砂浜側のコーナーにはブラックの籐製の巨大なL字型のカウチが置いてあり、座るところと背もたれは厚みのある純白のマットレスが敷き詰められている。ゴールドやシルバーなど光沢のある飾りがついたクッションがずらりと並べられていて煌びやかだ。こういう場所で海を眺めながら、夕暮れや夜の時間を過ごすのはさぞかしロマンチックなことだろう。
テラス席のあたりを回って何カ所かカメラで撮影する。おばぁちゃんが持っていた高性能のCannonのデジタルカメラを借りれて本当に助かった。流石に携帯写真を雑誌に使用するわけにはいかない。
大勢の一般客に混じって、テラス席のほうから奥へ入って行くと、モニカが向こうで手を振っているのが見えた。
「おばぁちゃん、あっちにモニカがいるよ」
「あれ、ほんとだ。ちょっと行って来るよ」
おばぁちゃんが人ごみをかきわけながらモニカのいるほうへ行く。
「中のほうに行ってみよう」
フーゴに背中を押されて、人の流れにそってゆっくりと店内に入って行く。
中も息を飲む程の美しさで言葉を失う。
天井に連なる、ガラスの装飾で煌めくシャンデリア、真っ白な羽飾りのついた、黄色いバラや真っ白なカサブランカの美しいフラワーアレンジメント。オークウッドのフロアは洗いざらしたようなシックな色合いで、クラシックな雰囲気にぴったり合う。カウンターのほうには世界各国から集めたと思われるアルコールのボトルと美しいグラスがずらりと陳列されていて、カウンターの向こうにいるスタッフも、ブラックとホワイトのユニフォーム姿で整列し、姿勢よく微笑んでいる。
まぶしいばかりの豪華さなのに、どこか静かで落ち着きの漂う、心地よい空間だった。どこか、神聖な空気が漂うくらい、汚れを感じない場所。
これだけ豪華絢爛な場所だと普通は緊張して大抵居心地が悪くなるものだが、ここはなぜか、そういう圧迫してくるような雰囲気ではなく、ゆったりとくつろげる空間になっている。
素晴らしい景色にカメラを持ったまま写真も取らずに見とれていると、隣のフーゴが私の腕を掴んだ。
「あれ」
フーゴが指を差す方向に目を向けて、私は硬直した。
あれは……?!
自分の目を疑い、息が止まるかと思う程驚愕した。
どうして、あれが?!
どうして、ここに?!
「……あれ、お前じゃないのか?」
フーゴが独り言のようにそう呟く。
真っ白い壁にある、海が見える大きな二つの窓。その二つのガラス窓の間に、美しい金色のバロック式額縁に入れられた、セピアカラーの大きな写真。
それは、このオランダの海辺でマリアが撮った、私だった。
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