思い出のチョコレートエッグ

ライヒェル

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待ち受けていた景色

色付く秋の曇り空

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火曜日の夜になって、ようやくアナからメールが来た。
時差ぼけがひどかったので、月、火と学校を休んだけれど、明日の水曜日には行くので、授業の後に会おうとのことだった。勿論、即OKの返事を送る。お互い話したいことは山のようにあるけれど、メールでそれを書き始めると延々と続いてしまうし、アナも私が今はクラウスのアパートに居るため、長電話が出来ない事情も知っているので、積もる話は会ってから、ということだ。
アナに返信したら、同時にフーゴからのメールを受信。
たった今、アダムの作品が無事に着いたとのこと。あちらは今、午後2時過ぎくらいだ。フーゴのメールだと、大変素晴らしい出来らしい。今、会議室に集まったプロジェクトメンバー全員でその作品を囲んで驚嘆の声をあげている最中とのことだった。これからそのアダムの作品を組み入れてイベント用のHPや広告を完成させる作業にはいるらしい。そして、12月1日のイベントの一ヶ月前である11月1日の0時にイベント用HPを正式UP、イベント用のパネルもサンフランシスコの広告ボードに貼り、フライヤー配布も開始するとのこと。どんな作品だったのかものすごく気になるけれど、当然ながら11月1日までは見る事が出来ない。フーゴの話だと、相反する「強靭さ」と「儚さ」が融合し、インパクトの強い線と色彩が特徴的な作品だそうだ。
私はそれを聞いて意外だった。
アダムの作品は、どちらかというと色を最小限に押さえたスタイリッシュな作品が多かったと思う。抽象的なデザインやラインアートなど、高度な技巧を凝らした緻密さが目を引くスタイルだったはずだが、今度がインパクトの強い線と色彩とは、随分と違う気がする。
でも、芸術家はふとしたことからそのスタイルが大きな変貌を遂げる事もあるから、アダムの作風が変わっても不思議ではない。
早くその作品が使用されたHPや広告ボードを見てみたいものだ。
その日、クラウスは仕事で遅くまでオフィスに残るとの連絡が来ていた。今はほぼ毎日オフィスのほうへ出ていて、ヨナスと、彼らのアシスタントであるスタッフが5人ほど出勤しているらしく、すっかり通勤が当たり前になったらしい。マリアも、「これでヨナスが規則正しい生活をしてくれるようになった」とものすごく喜んでいた。彼女にとっては、これまで突然ふらりとアトリエに現れていたヨナスは時には迷惑だったらしい。でも、オフィスを構えたことで、クラウスもヨナスも今までと違って毎日顔を合わせるようになったせいか、二人とも以前より更に仲がよくなった様子で、私はそれが嬉しい。
私はクラウスに約束している購入項目リストの作成をしばらくして、週末UKでインタビュー取材するニットデザイナー用の資料を読んだり、質問内容を見直ししたりして、いつも通りに11時にはベッドに潜り込んだ。クラウスがいないので、シナモンも連れて行く。
シナモンを横に置いてベッドに入り、ふとあの白猫のことを思い出す。
今あのお屋敷のご主人は、イスタンブールに行っていて月末までは不在らしく、毎日家政婦さんが来て屋敷の手入れをしたり猫にエサをあげたりしてくれるだけで、夜は誰もいないらしい。一匹でいるだろう猫のことを考えて可哀想になる。それに、来月からはクラウスのほうで手配している改装工事も始まるから、猫にとってはストレスの日々になるだろう。なんだか悪いことをしているようで気が引けるけど……でも、一緒に住めるようになったらいっぱい遊んであげよう。猫が喜びそうなネズミのおもちゃでも毛糸で編んでみようかな。
そんなことを考えているうちに眠りに落ちていった。
そして、深い眠りの中を彷徨いつつ浅い意識の中でベッドがゆっくりと揺れたのを感じて、クラウスが戻って来たことを知る。彼はいつも静かに帰って来て、私を起こさないようにそっとベッドに潜り込む。ほぼ無意識のまま寝返りをうって彼の側に身を寄せると、いつものように彼が優しく私を抱き寄せてその腕の中に包み込んでくれた。彼の手がゆっくりと私の髪や背中を撫でてくれるのを感じながら、再び、温かで幸せな気持ちに満たされて優しい夢の中に落ちて行く。



翌日の授業の後、学校の外でアナと待ち合わせる。
3ヶ月ぶりに会うせいか、私はかなりドキドキしていた。まるで長く会わなかった恋人に会うみたいな胸の昂りで、自分でも笑ってしまうくらい興奮していた。
最初になんて言おう?
おかえり?かな。
会いたかった!のほうがもっと正確?
そんなことを考えていたら、後ろから元気な声が飛んで来た。
「カノン!」
アナだ!
私はドキンとしてぱっと振り返った。
「!?」
第一声を発しようとして私はそのままぽかんと口を開けたまま身動きが出来ない。
「?!?!」
これは、どういうこと?!
私は呆然として彼女の顔を眺め、言葉を失う。
「な……な、な、なんでっ」
3ヶ月ぶりに会えたというのに、私が最初に口にした言葉がこれだった。
「え?あ、あはは、これ?」
アナは髪に手をやって、照れたようにふふふと笑う。
「なんで?!どうして?!」
私はアナに飛びつき肩を掴んでその顔と髪をまじまじと見た。
腰に届きそうなくらい長かった、まっすぐで美しかった黒髪が。
肩の長さでばっさりと切られている。
30cm以上は切ったに違いない。
「さっき、切って来たの。どう?」
アナはくるんと首を振って、にっこりと花が咲くような笑顔を見せた。
さらさらと髪が彼女の頬を滑り落ち、アナは笑いながらその黒髪を右耳に髪をかけた。
「どう……って」
私は言葉に詰まって彼女を見つめた。
似合っているといえば似合っているかもしれない。
以前よりも随分と大人っぽく見えるし、片耳にその髪をかけた様子は見とれるほど美しい。
「そりゃ、似合っているけど……でもせっかく奇麗に伸びてたのに……」
「うーん、ま、とりあえず、カフェに入ろう?風が冷たくなって来たし」
「う、うん……」
アナに腕を取られて歩きながら、近くのカフェへ向かう。
歩きながらアナを見ると、いつものようにバラ色の頬で元気そうだ。彼女がちらりと私を見ると、にこにこして微笑んだ。
「ねぇカノン」
「うん?」
「カノン、すっごく奇麗になったよ」
「あ、そ、そうかな」
思わず照れて頬が熱くなると、カノンはあははと笑った。
「それに、とっても女の子っぽくなってる!似合ってるよ、ニットのワンピも。お姉さんらしい」
「……ありがと」
私は思わず赤面しつつ笑った。
ジーンズやパンツばっかりだった私も、スカートやワンピースを着ることが増えたせいか、最初は似合わなかったのにだんだんとそれなりに似合うようになって来た気がする。
「ニッキー……じゃない、クラウスが選んでるの?」
「えーとね、半々くらいかな。時々買って来たりしてくれる」
「彼、センスいいね。カノンの似合うデザインとかよく分っていそう」
「うん、それはそうかも」
答えながら、私はもう一度アナの髪に目を向ける。昔よく言った「天使の輪」という美しい光沢がある黒髪。私の髪の毛は細くこしがないので、彼女のようにくっきりとした光沢が出ない。だから彼女のこの濡れたように艶やかに煌めく黒髪に憧れていたので、それをばっさり切ったというのがどうしても気になる。
腑に落ちない気持ちでアナを見たら、店内に入ろうと扉を開けた彼女が、一度ぶるっと武者震いをした。
「ああっ、ほんとに寒くなった!髪が無くなると背中が寒い!プードル犬の気持ちが分るなぁ」
すきま風の入って来ない奥のほうの壁側の席の方へ向かう。
アナがそう言いながら席に座ると、メニューも見ずにウエイトレスに向かって手を挙げる。
「ホットチョコレート!」
「あ、私も」
ついでに私も注文する。
ここのホットチョコレートも普通のとはちょっと違う。ホットチョコレート用の小さいチョコレートの粒がたくさんミルクの中に沈んでいて、それを自分でゆっくりかき混ぜて溶かして飲むものだ。かなり濃厚になるので、ここのホットチョコレートを飲む時は、ケーキとか他に甘いものを注文する必要はないくらい、これだけでお腹も心も大満足になる。
「お父さんはどう?」
まず一番気になっていたことを聞く。調子が良くなって来たからこちらへ戻って来たとは知っているが、現状がどういう感じなのかは実際に聞くのは始めてだ。
「うん、とりあえず心臓には問題はないから、過労からくるものだったっていうんで、本人も少しは気が楽になってる。大病じゃないかって心配して、かえってストレス貯めていたみたいだし。薬のほうは量が多すぎたみたいだから、お医者様が調整してくれたの。普通の人の3分の1くらいの量が一番体に合っているみたいで、平日は寝る前に飲んで、週末は飲まなくても大丈夫だよ。仕事の量も無理しなくてすむように、大学のほうも協力してくれているみたい。最初の一ヶ月は自宅療養していたんだけど、だんだんつまらなくなったみたいで、早く大学に戻りたいって言い始めてね。やっぱりやりがいのある仕事から離れるのもストレスだったみたいだから、結局、ストレスから逃げる生活は不可能だって気がついて、うまくそれと付き合えるように自己管理に気をつけなきゃってわかったみたい」
「そうなんだ。そうだよね。仕事がストレスの原因でも、仕事しないで在宅しているのもストレスだしね。結局、なにかしらストレスがあるのが生きている証拠だし」
「そう、そうなんだよね。あとは、心配性だから、そこを少しでも強くしてほしいんだけど、性格までは私がどうこう出来るものじゃないし」
アナはそう言って、ちょうど運ばれて来たホットチョコレートのグラスを両手で包んだ。
「あー、あったかい」
「外、寒かったもんね」
私も同じように両手でグラスを包んでみる。じんわりとした温かさが手に広がって気持ちいい。
「厚手のスカーフ買わなきゃ!」
アナが温かくなった手を自分の首の後ろに回して笑う。
「何年伸ばしてたの?」
「髪?うーん、2年くらいかな」
「そうなの?思い切り切っちゃったねー」
やっぱり残念な気持ちになっていると、アナは首を振った。
「ううん、これでいいの」
「これでいいって、どういうこと?」
意味が分らなくて聞き返す。
アナは、長いステンレスのスプーンでゆっくりとミルクの下に沈んでいるチョコレートの粒をかき混ぜる。ゆっくりと一回、二回と丁寧にかき混ぜて行くと、溶けたチョコレートがミルクの上にあがってきて、チョコレート色の渦が見えて来る。
同じようにスプーンでミルクをかき混ぜながら、アナを見る。彼女は長い睫毛を伏せたまましばらくその渦を見つめていた。混ぜ終わって、スプーンをそっと取り出し、ソーサーの上に置く。そして、アナは顔を上げて私を見た。
彼女の目は、ちょっとだけ子猫のように潤んでいた。
「願掛けは終ったから」
「願掛け……?」
びっくりしてアナを見つめる。彼女はちょっとだけ照れたように瞬きして、それからふふふーと笑った。
「……アダムがついに落ちたの」
「えっ」
驚いて思わずスプーンごとグラスを倒しそうになり、あわてて手でグラスを押さえる。
「お、落ちた?落ちたって、あの」
「そうなの、落ちた」
アナはあはははと照れ笑いをしながら、こくんと音をたてホットチョコレートを飲んだ。
「願いが叶ったら、それが変わらないように、ばっさり切ったてわけ」
私は唖然としてアナを眺めた。
なるほど。
願掛けで伸ばすことは知ってはいたが、じゃぁ、願いが叶ったら切るということもあったんだろうか。
私は元彼にフラれた時に、ばっさり切ろうかと思ったけれど、美妃に「あてつけみたいだからやめたほうがいい。それに短いと膨張して醜くなる」と言われて思いとどまった。
アナの髪を切った理由を聞いて納得すると、今度は急にその「落ちた」真相に興味が沸いて来る。
「そういう理由があったなら、納得出来たよ。でも、落ちたっていうことは、じゃぁ……」
「うん、これでやっと彼氏という特別な人間になったってこと!一年半もかかったけど」
アナはきっぱりとそう言って、幸せそうに微笑んだ。バラ色に染まる頬が愛らしい。雪の中に咲く椿とは、アナの化身じゃないかと思うくらい、彼女を見る度にその景色を思い出す。
「簡単に言えばね、ま、離れて気がついたみたいなのよね」
にこにこと微笑むアナ。
こんなに無邪気に微笑んでアダムの話をする彼女は初めてだ。
いつも大抵、あーでもない、こーでもないと彼の愚痴を言いながら唇を尖らせていたものだ。
「この3ヶ月?うん、アダム、すっごく心配してたからね。少し痩せた気もするし」
「そうだね。私もさ、連絡しようか迷ったんだけど、パパの病状を逐一説明して逆に心配されてもやだなと思って。一回だけ、体は問題ないけどちょっと残ってパパの世話してるってメールはしたんだけど、それからは連絡しなかったんだ」
「アダムからはメール来てたんでしょ?」
「そんなには来てなかったよ。大したこと書いてなかったし。別に付き合ってもいなかったしからそんなものかと思って。私もパパのことで忙しかったし、こっちに戻って来たらまたどうせ会えるからいいや、って思ってたんだけど。目新しいニュースもなかったし。でも、アダムは彼なりにいろいろ考えることがあったらしくて」
「うん、なんか思い詰めている感じがしてたよ。一度、クラウスのアパートに来たんだけど、クラウスもアダムの様子がおかしいって気がついてたみたいだった」
「へぇ、そうだったんだ」
アナが少しびっくりしたように目を丸くした。
「土曜日にさ、カノンが見当たらないなーって探してたらいきなりアダムが居たからすっごくびっくりして」
私も見ていたのだが、それを言うのもどうかと思い、とりあえず頷いて相づちをうつ。
「カノンが気を利かせて代わりにアダムをよこしたのかなと思ってたら、いきなり抱きしめてきたからすっごくびっくりして」
「そ、それは確かに……」
私も見ていて仰天したから、当の本人の驚きはさぞかし大きかっただろう。
アダムはこれまでずっと、アナには必要以上に近づかないよう注意していて、彼女が少しでも必要以上に近づこうとすると逃げていたくらいだ。そんな彼が、自分が築いた垣根を突如一気に乗り越え突然抱きしめてきたら、それは驚きの行動以外のなにものでもない。
「びっくりした後、嬉しいとかいうよりも、すっごく頭に来ちゃって。私にさ、これまで散々、触るなとか近づくなと言っておいて、一体どういうつもりなんだって怒ったの」
「うん、それはわかる」
アナが目を三角にして怒っていたのは私にも見えた。
「そしたらさ」
アナはグラスを両手で包んで、少し黙った。それから思い出すようにゆっくりと続きを言う。
「そしたらさ……あのままだと自分はいずれ後悔すると気づいたって」
あのまま、というのは、これまでの二人の関係ということだろうか。
私は黙って彼女の顔を見つめてその続きを待つ。
アナは私の視線に少し照れたように微笑んだ。
「アーティストとしての人生と、ひとりの人間としての人生、同時に両立は出来ないから、今はアートに全てをかける時だと決めていたけれど、人間らしく生きることが出来なければ、人の心を揺さぶるアートなんて産み出せないんだと思ったらしいの。それで」
「きっと……アーティストである前に、人間として生きるべきだって考え直したんだね。アートの世界は、人間の心を表現するものだから、自分の心と向き合わずしてそれを表現することは出来ないよね」
私は大きく頷きながらそう言った。
喜びも、悲しみも、すべてを全身で感じて生きることこそ、人間の本来の生き方だ。
私は黒水晶のように静かに煌めくアナの目を見つめた。
「付き合っていなくても、二人が一緒の時はとても楽しそうだった。アダムは、アナがそばから居なくなってその存在がどれだけ彼にとって大きいものだったかと気がついて、とても驚いたんじゃないかな。アナが居ない間、アダムはまるで何かが欠けたみたいに見えてたよ。まるで、道しるべを見失ったみたいな目をしていたから。多分、アナが二度と戻って来ないなんてことになったら、取り返しがつかないって気がついたんだと思う。アダムが気がついてくれて、私も本当に嬉しい」
心に溜めていた言葉をやっと口に出せて、気持ちの高揚に絶えられず涙目になってしまう。
「ごめん、私って変」
目をこすりながら笑うと、アナが照れたように微笑んで首を振った。
「ううん、ありがとう!カノンが応援してくれていて、ほんとに心強かった。あんな頑固なやつ、嫌いになれたらいいな、なんて思ってたけど、そう都合よく気持ちなんて変えられなかったし。カノンも幸せを取り戻したし、私もやっと願いが叶ったし、もう、これ以上、神様に求めることはないよ」
「ほんとだね!一生分のお願いを叶えてもらったよね」
二人で笑って大きく頷いた。
それからしばらくたわいのない話をして盛り上がる。
私も、レオナ・ローサの話はしなかったものの、ニッキーがクラウスと同一人物だったことが判明した時のこと、ダニエラの話やミュンヘンでのことなどいろいろ話して、あっという間に2時間が過ぎてしまった。ホットチョコレート一杯でよくも長々と粘ったものだ。
もう6時になるので、そろそろ帰らなくてはならない。
一人暮らしの時は時間なんて気にした事はなかったけれど、今は、クラウスと一緒なので、彼が遅くならない日は夕食を準備したりやることもあるので、7時前には必ず戻るようにしている。
アナの携帯が鳴って、彼女がバッグに手を入れたので、私はくすっと笑った。
「アダムじゃない?」
アナが携帯を取り出しながら笑う。
「あたり。ご飯食べに行く約束してるから」
「わぁー、もうデートだね。今までは、ただの友達とのご飯だったけど、もうデート、ってやつだね」
「行くお店は前と同じなんだけどね」
アナが笑いながらバッグの中に携帯を仕舞い、黒めがちの目をキラキラさせて私を見た。
「近くに来るから、カノンも顔見せて」
「えっ」
私はドキンとして思わず固まる。
「えーと、ちょっと、お邪魔じゃないのかなぁ……」
「なんで?アダムだよ?別に初めて会う人じゃないし」
アナがきょとんとした顔で私を見る。
「それはそうだけど……なんていうか、恥ずかしいっていうか」
「恥ずかしい?」
「だって、アダムがアナの彼氏だって思うと、なんか気を使うっていうか」
説明が難しいが、なんというか、二人を前にすると照れてしまいそうでしんどい気がする。
アナは私のそういう微妙な恥ずかしさがよく分らないのか、全然気にする様子もなく笑う。
「気を使う相手じゃないでしょ。それを言うなら私じゃない?クラウスに会ったのってバイクのヘルメットごしの一回なんだから、面と向かって会う時を考えたら緊張しちゃう。顔だってよくわからないし」
「そうかな……」
「ま、いいじゃん。さ、いこ!」
「あ、う、うん」
強引なアナに腕を組まれてカフェを引きずり出される。
待ち合わせ場所だという線路の上に架かる橋のほうへと引っ張られていく。待ち合わせ場所として使う人も多いのか、夕暮れの中に見える人影が結構ある。でも、アダムは大体かなり目立っているからすぐに見つかるだろう。
街灯の明かりの下に、ブラックジーンズにダークブルーのジャケット、ホワイトのストールを首に巻いた彼が居た。街灯の明かりでアダムのブロンドが眩しく輝くのですぐに気がつく。
アダムがこちらに目を向けて、それからそのブロンドの向こうの目が大きく開かれた。驚きが大きすぎたのか、口まで少し開いて呆然としている。
そりゃそうだろう。
アダムも、アナの髪に驚いているのに違いない。
「アダム」
アナがいつものように元気よく手を上げた。私はアナにぐいぐい引っ張られて躓きそうになりながら歩く。
アダムの前に来て、私はアナの影に半分隠れるように少し下がって彼のほうを見た。案の定、アダムは私の存在よりも、アナの髪の短さに度肝を抜かれた様子だった。
「アナ!一体どうしたんだ!」
「やだなぁ、アダムまでカノンと同じくらい驚いちゃって!昨日、言ったでしょ、切りに行くって」
アナがあははと笑うと、アダムが少し呆れた様子で首を振った。
「……まさか、そこまで切るとは思わなかった」
「いいでしょ?それとも、似合わないって言いたいの?」
「そうは言ってない」
「じゃ、いいじゃない」
アナは楽しそうにそう言うと、いきなり後ろにいた私をひっぱってアダムの前に突き出した。
「アナ?!」
一体なんだと思って驚いていると、アナがにっこりとアダムを見上げた。
「カノンには話しちゃったから」
すると、アダムが少しだけ照れたように瞬きをして、それから明るい笑顔になった。
「ひさしぶり、カノン」
「アダムも」
「この間はメールありがとう」
メール?
あぁ、あの、アナの戻りの便のことだ。
笑いながらお互いの肩を抱いて軽く右頬を合わせ挨拶を交わすと、彼が小声で耳に囁いた。
「君には借りが出来た。ありがとう」
その言葉に思わずクスっと笑ってしまった。
「私のほうがもっと沢山、助けてもらってるよ」
アダムにだけ聞こえるようにそう言うと、アダムが澄んだ青い目を細めて笑う。この間見たあの陰りのある目じゃない。顔色もよくて、生き生きとした表情だ。まるで、からっぽだったクリスタルガラス製の光輝くワイングラスに、芳醇な甘い香りのする深紅のワインがなみなみと注がれたよう。至福の喜びで満たされ安らぎを感じるその微笑み。こんなアダムの表情を見たのは初めてだ。
本当によかった。
感動と喜びでまた視界が歪んだのに気がついて、私はそれをごまかすように瞬きをする。
私はアナを振り返った。
「じゃぁ、私はそろそろ行くね」
「うん、じゃぁま……たっ」
アナがそう言いかけて、くしゅん、とクシャミをした。
髪を切ったばかりでこの冷たい夜風に慣れないのだろう。
私は笑いながら、アダムのほうへとアナの背を押してやる。アダムが首に掛けていた真っ白なストールを取ると、ふわりとアナの肩にかけ、くるりと巻いてやる。闇に浮かぶ純白の光に包まれて、天使のようなアナ。秋風に吹かれて乱れた黒髪を、アダムの指がそっと触れて整えると、少し頬を染めたアナが眩しそうに彼を見上げた。
彼女は雪椿だ。
アナは今まさに、白雪の中に煌めく椿のように美しい。
どこまでも純粋で高貴な彼女。
燃えるような深紅の椿は、彼女の力強い愛そのものだ。
「クラウスによろしく。また近いうちに」
アダムがにっこり笑ったので、私も笑顔で手を振る。
こちらに背を向けた二人。
アダムがアナの肩を抱き寄せて二人で橋の向こうへ歩いて行く。
今までも二人が一緒に歩いているのはよく見たけれど、あんな風に一緒に歩くのを見たのは始めてた。今の二人にはもう無理に開けた空間はなくなった。
二人の後ろ姿を見送る。
歩きながら何度もアダムが身を屈めてアナに話しかけている。二人が一度立ち止まってキスを交わす影が見えて私はひとり微笑んだ。
胸一杯にどんどん膨らんでいく幸せな気持ちで足が空に浮いてしまいそうだ。
私は踵を返し、小走りで駅へ向かう。
この胸の高鳴りでじっとしていられなかった。





その日の晩、お茶屋のご主人から電話が来た。
ちょうど夕食の準備が殆ど出来て、クラウスが帰って来るのを待つだけになった時だ。
『こんばんは、カノン。今、大丈夫かな?』
「はい、大丈夫ですよ!お客様の注文の件ですか?」
携帯を片手に私はカウンターの上のメモ用紙とペンを取った。
たまに、店頭でご主人に直接商品を予約される方がいる。その時はこうやって電話で、在庫数の確認や追加注文の指示をもらうことがある。管理表や発注表は私がサーバで管理しており、ご主人はノータッチになっているため、きちんと数字を確認しておくのは私の責任だ。
メモの準備万端でご主人の言葉を待っていると、今回は全く違う話だった。
『いや、今日は注文じゃなくてね。日本語の個人レッスンをお願いしたいという話が来て』
「えっ、日本語?」
思わぬ話に私はびっくりして、ペンをカウンターに置いた。
『そうなんだよ。カノンに教えてもらいたいから、是非取り次いでくれと言われてね。時間や時給は直接会って相談ということでと頼まれているんだが、どうだろう?興味はあるかな』
「そうですね、教えたことはないですけど……それに、どの程度のレベルの方かにもよりますよね」
全く未経験の分野だから、どう答えたらいいのかよくわからない。ひらがな、カタカナの読みから始めるレベルなのか、それとも基礎があって、会話力を伸ばしたいとかいうのか、それにもよって教える側の必要能力も変わって来る。
『全く初めてらしいんだが、やる気はあるらしくて、真剣に学びたいとのことだったよ』
「ゼロからのスタートですか。となると、本当に1から始めるわけですね」
私はちょっと考えてみた。
初歩の初歩から始めるとしたら、教えながら私もどうやって教えて行くか試行錯誤する余裕もある。全くの未経験でも、幼児に日本語を教える感覚でやっていけばなんとかなるだろうか。
私自身、外国語を学んでいる身なので、ネイティブに教わることが一番上達が早い方法だとよくわかっている。ベルリンはただでさえ日本人が少なく、日本語を学べる場所も少ないだろうし、せっかくの機会だから、ものは試しでやってみてもいいかもしれない。
「そうですね。私も未経験なので、果たしてどれくらいお役に立てるかわからないですけど……とりあえず、お話を伺ってみましょうか」
何事も即答はよくないと思うので、まずはちゃんと会ってみて、相手がどのレベルを目指しているのかとか、日本語をどう活用したいのかなど話を聞いてみてからでないと、気安くOKするわけにもいかない。ノリや勢いでやりますというのも無責任だろう。
『そうか、よかった。じゃぁ、明日来るということだったから、まずは話をしてからと連絡しておくよ』
「わかりました」
私はそう答えて、それからふと気になってご主人に尋ねた。
「ところで、どのお客様ですか?この間、日本に旅行に行かれたといっていたバウアーさんだったりします?」
初めての日本旅行から戻って来たバウアーさんという60代の女性内科医のお客様が、この間お店で覚えたての日本語の挨拶などをご披露してくれたことを思い出した。
『バウアーさんじゃないよ』
ご主人は笑いながら言った。
『いやいや、若い学生さんだよ。シュナイダーさんところのお孫さん』
「えっ?!」
驚いて携帯を落としそうになる。
シュナイダーさんの孫!
それは、エミールじゃないか!
『明日は夕方にお店に来るように伝えとくよ。ありがとさん』
「あっ」
何かを言おうとしたら、電話が切れていた。
思わず掛け直そうとして、手が止まる。
掛け直して、なんと言えばいいんだろう。
エミールには教えることは出来ません……?
そしたら、どうして?と聞かれるだろう。
どうしてと言われても……それに答える理由が、うまく説明出来ない……
しかも、大得意のお客様の孫。
日本語を学びたいという正当な理由。
本気で日本語を学びたいと思っているだけだったら、それを断るのって、自意識過剰?
いや、でも、エミールは……本気で日本語を学びたいんだろうか?
それとも……
携帯を握りしめたまま立ち尽くす。
一体、どうしたらいいんだろう?
明日、お茶屋に来るのを阻止することは出来ない。
会って、話すしかないのだろう。彼の真意を聞く為に。
しかし、真意を聞くといっても……
そんな話、お茶屋のご主人に聞かれたら……
予想外に巡って来た新たな問題に、カウンターの前で放心していると、外で聞き慣れたバイクの音がした。クラウスは、その日の気分や天気で、自転車やバイク、車と使い分けて通勤している。今日は雨も降らない予報だったからバイクで行っていた。
帰って来た!
急いで玄関のほうへ走ってサンダルに足を滑り込ませ、扉を開けた。
駐輪場の方から歩いて来るクラウスの姿が見えたので、階段を降りて走る。
「クラウス!」
近寄るより早くそう叫ぶと、彼が私を見て笑いながら片手を挙げた。走り寄ると両手を広げた彼に飛びつく。
「mein schatz」
ぎゅっと抱きしめてそう囁いてくれる彼。
嬉しくてしばらく抱きついたまま離れられずにいると、彼が笑いながら右腕で私を肩に抱え上げて歩き出した。
「ごめん、おりる!歩くよ!重いからっ」
慌てて下りようとしたら、彼が首を振って今度は両腕でしっかりと抱きかかえた。
「あと20kgくらい増えても平気だ」
そう言ってにやっと笑って私を見た。
「20kg?!絶対そんなに太らないよ!」
焦って言い返しながら、もしかして重くなったと言っているのかとびびる。
「……重くなってる……?」
食欲の秋という季節柄も気になって、恐る恐る聞いてみた。
「いや。全然」
クラウスは可笑しそうに笑いながら階段を上り始めた。
「すこし怖いかも……」
クラウスの胸の高さから階段を見下ろすと、揺れるたびにその高さに怖くなる。動くと落ちるんじゃないかと思っておとなしくじっとしていると、無事に玄関に着いて彼が下ろしてくれた。
「ジムのベンチプレスにくらべたら、まるで子猫を運んでいるようなものだ」
「ベンチプレス?何キロ挙げてるの?」
「体調にもよるが、普通は120kgから140kgくらい」
「140kg?!」
驚いて目を丸くする。
まるで重量挙げとかそういう世界みたいじゃないか。
2kgとか5kgのダンベルさえ続かない私には未知の世界だ。
「ヨナスも似た様なものだが、アダムは160kgを挙げたことがある。あいつはもともと素質があるんだろう。俺達とは骨格から全く違う」
「160kg……」
聞いているだけで気が遠くなりそうだ。
そんな重いものを持ち上げる必要なんて、日常生活ではないだろうに、そこまで鍛える必要なんてあるんだろうか、なんて疑問に思ったりしてしまう。
リビングのほうへ歩いていると、クラウスが私の後ろからからかうように声をかけてきた。
「君は逆に、もっと食べてもいいんじゃないか?」
「えー、そんなこと言って……もともと太り易い体質だし、ジムにも行ってないから、気をつけないと数キロくらいあっと言う間に増えちゃう」
そう答えながら、逆にもしかして、肉が足りなくて女性らしくないという意味かと思い、くるりと振り返った。
「ね、クラウス?」
「なんだ」
私は注意深くクラウスを見上げた。彼は面白そうに目を煌めかせて私を見下ろしている。
「もしかして、やっぱり」
「やっぱり?」
「えーと……」
どうやって聞けばいいんだろうか。
凹凸が足りない?
いや、そんな分り易い聞き方も恥ずかしい!
「やっぱり、どうした?」
「その、えっと、やっぱり、た、足りないということ、かなと……」
「足りない?なにがだ?」
意地悪な微笑みを浮かべて聞いて来る。
絶対に、私がいわんとすることを分っていて、わざと分らないふりをしている。
むっとしてクラウスを睨んだ。
「だから!私が言いたいのは、私が、女性っぽさが足りないから、もっと食べろっていっているのかって、聞いてるの……」
恥を忍んでそう言うと、クラウスがぷっと吹き出した。
「もう、なんで笑うのよ……」
なんだか情けなくなる。
聞いてしまった自分がバカみたいだ。
彼は可笑しくてたまらないというように笑っている。
あれじゃぁ肯定しているようなものだ。
笑い続けているクラウスに背を向けてキッチンへ行き、溜め息をつきながら食事の準備を始める。やっぱり、私ももっと食べて、ジムに通った方がいいのかもしれない。
プロテインを飲んで、筋トレやピラティスでもやれば……
締まるべきところは引き締まり、出るべきところは出てくる?
それとも、朝、ランニングでもやるとか?
いや、もっと気軽に、電車に乗ったら一駅前で降りて歩く?
お鍋の中のクラムチャウダーを温めながら、長続きしそうなトレーニングの方法を考えていると、笑いが収まったらしいクラウスがやってきた。きっと私のご機嫌を取りに来たんだろう。
「別に怒ってないよ」
正直にそう言うと、クラウスがクスクスと笑いながら私の後ろに来て、両手を私のお腹に回して抱きしめる。
「君があまりに真剣だから、つい調子に乗ってからかってしまった」
「いいの。プロテイン飲んで、ウォーキングから始めるから」
そう答えると、またツボにはまったのか、クラウスがクスクスと笑い出した。
頭の上から聞こえて来るその笑い声を聞いていると、私まで可笑しくなって笑い出してしまう。しばらく二人で笑った後、お鍋の中が熱くなっているのに気がついてパネルヒーターのスイッチを消した。
「カノン、君はそのままでいてくれ。何もかわらないでほしい」
大きく息をついてクラウスがそう言った。
私は彼に向き直ってその目を見上げた。気休めで言っているのかどうか確認しようとじっとその目を見つめてみる。
「そうかなぁ……本当にそう思ってる?」
「本当だ」
「……そう?」
ちょっとだけほっとして安堵の笑顔を浮かべると、クラウスは優しい目を細めて頷き、両手を私の背中に回してそっと抱き寄せて、じっと私の目を覗き込んだ。
「いつも言っているだろう?」
「なにを?もっと食べろって?」
いや、それは別に言ってないか。
毎日たくさん話しているから、急にいつも言っていることを思い出そうとしても難しい。
なんのことだか考えていると、クラウスが私の背に回していた手でゆっくりと背骨を撫でた。
「俺を魅了するこの体」
「っ!」
いきなりの過激発言にドッキンと心臓が跳ね、そのまま鼓動が暴走を始める。こういう言葉を口にする時のクラウスはものすごく大人の色気があって、それを目の当たりにする私には刺激的すぎて理性が吹っ飛びそうになる。何も言えずにドッキンドッキンとうるさい胸を押さえて必死に緊張を押し殺そうと深呼吸をした。クラウスが私の耳もとに唇を寄せて、何かの呪文のように囁く。
「触れた時の滑らかさ、柔らかさも、そのしなやかさも全部」
「ク、クラウスっ」
恥ずかしさが限界を突破する前に彼の暴走を止めようと声をあげると、彼の指が私の唇を押さえて声を封じ込めた。
満足げに妖しい微笑みを浮かべた彼がなおも囁く。
「……全部、俺だけのものだ。そうだろう?」
一気に耳が熱くなる気がする。身動きも出来なくてただじっと彼を見つめると、彼が私の右手を取って自分の頬にあてた。私の手が、その精悍な頬骨、そして彼の逞しい首から肩へと滑って、その心臓の真上で止まる。私の手のひらに彼の心臓の鼓動が振動となり伝わってくる。振動するたびに固く引き締まったその胸を感じてどきりとする。
「俺のすべても、君ひとりのものだ」
低く甘い響きのする言葉が耳元で聞こえて、思わずびくっと震えてしまう。
彼のこういう声にぞくぞくして鳥肌が立ってしまう。
「違うか?」
更に魅惑する囁きに悩殺され、もう立っているのもやっとだ。
もう勘弁してほしい。
私が完全崩壊してしまう前に。
心臓が暴走しておかしくなりそうだ。
彼をじっと見つめることしか出来ない。
クラウスが私の目を覗き込み、そのブルーグレーの瞳を妖しく煌めかせた。
「悪い子だ。返事も出来ないか」
「……ち、がう」
息も絶え絶えに、つっかえながら反論を試みるが、緊張と動揺で声もうわずってうまく喋れない。どうしたら、冷静になれるんだろう?!
うろたえる私とは逆にクラウスの暴走は加速する。
「その目だ」
クラウスがじっと私の目を見つめた。
「君はそうやって俺を挑発しているという自覚はないらしい」
独り言のように静かにそう呟いたクラウスが、いきなり私を抱き上げた。
「きちんと返事が出来るまで、食事はお預けだ」
そのまま私を抱き上げたままキッチンから歩き出した。
「えっ、あっ、ちょっと待ってっ」
「待たない」
きっぱりとそう言って、クラウスが楽しそうに目を細めて私を睨んだ。
「君が俺に火を点けた」
「火?」
聞き返した時にはもう寝室のドアを通り過ぎ、どさりという音と一緒にベッドに沈む。左右を彼の両腕に挟まれ、真上から私を見下ろしているその熱っぽい目に釘付けになる。
「さぁ、カノン。ここに君の男がいる。これから君はどうすればいい?」
挑戦的な微笑みを浮かべて私を見下ろすクラウス。
何よりも愛しい、私の恋人だ。熱い光を含んだその力強い目に胸が高鳴って行く。
私の手が操られたように彼のネクタイに伸びる。ネイビーブルーにダークレッドのピンストライプのネクタイ。結び目を緩めてそれをほどいてするりと手に巻き取ると、彼が片手でシャツのボタンを外しはずめた。4つ目のボタンを外した時、彼が身を屈めて私にキスをする。私は両手を彼の首に回して抱き寄せた。
「クラウス」
呼びかけると彼がそっと目を開いて私を見つめた。
愛しい人の目をじっと見つめると、胸に熱い想いがいっぱいになって他に何も考えられなくなる。彼は私の恋人だ。
彼のすべては私だけのもの。
そう思うと幸福感で胸が破裂しそうなくらい苦しくなる。
愛しい彼の頬に手を伸ばすと、彼が首を傾けて私の手のひらにキスをした。私の心の奥まで入り込んで来るまっすぐな視線に捕われる。私の腕をそっと撫でる彼のその手を引き寄せて、私も彼の大きな手のひらにキスをした。その手をゆっくりと絡めてぎゅっと握りしめる。
この手を絶対に離したりはしない。
彼の唇が優しく頬を伝って私の唇と重なった。
夢心地の中で私は思う。
私はきっと永遠に、彼に恋し続けるのだろうと。





私は溜め息をつきながらお茶屋へ向かっていた。
別に、バイトが嫌なわけじゃない。
この仕事はとても好きだ。
お得意さんとのおしゃべりも、香り高いお茶を試飲用に入れることも、ひとつひとつがユニークな茶器を磨くのも、全部楽しくてやりがいがある。
お茶屋のご主人もとても親切で優しくて、自分の伯父さんじゃないかと思うくらいすっかり馴染んでいる。出来る事なら、ずっとこのお店と関わっていたいと思うくらい、居心地がいい。日本のものに囲まれて、慣れ親しんだ日本茶の香りの中にいると、ほっと気持ちが落ち着くせいかもあるだろう。
それくらい、楽しみにしているバイトの日。
でも、今日は足取りも重い。
なぜなら、エミールが来るからだ。
個人的に彼が嫌いとか、そういうことはない。
生意気だなと思うけど、どこか憎めないヤツだというのが正直なところだろう。
この間、かわいいダルメシアンを連れてやってきたエミールと話していて、昔のフーゴと似ていることに気がついて、彼が根は悪いヤツじゃないと確信してしまった。
ただ、ちょっと質の悪い、極度の負けず嫌いというのが難点。
扱いにくい子といえばいいのだろうか。
一般常識がまかり通らない相手に接するのは骨が折れるものだ。
だから、日本語を学びたいという申し入れをしてきたのが本当にエミールだとすると、先が思いやられる。
どうやって対応すればいいのか、今の時点では解決策は思いつかない。
そんなことを考えているうちにお店に着いた。
ご主人はもう、奥の部屋で生徒さんとティーセレモニーの授業を始めているらしく、姿が見えない。もともと頻繁にお客さんが来るお店ではないので、1時間以上、誰もお店に来ないということもよくあるくらい静かなので、最初は一体どうやってお店の経営を回しているのかと疑問に思ったものだ。でも、やがて、いらっしゃるお客様の一回あたりの購入金額がかなりであることや、シュナイダーさん達のように、高級茶器などを取り寄せ注文したりされるお得意様もかなりいて、思ったよりもネット注文の数が多いことを知った。ドイツ全国から注文が入って来るので、細々とやっている割に、週に10件から多い時は30件くらい受注していることを考えれば、かなりの好調な売上げだと思う。
制服代わりの藍染めの前掛けをかけると、気合いが入る。
お茶屋に来る時は、いつもジーンズやパンツで来る。ワンピで前掛けは似合わないからだ。
それに、配達された段ボールを移動したりと肉体労働もあるので、やっぱり動き易いジーンズにスニーカーだろう。
今日はAmerica Todayというブランドのブルージーンズに、赤のスポーツシューズだ。スニーカーでなく、スポーツシューズという理由は、昨日決心した通り、一駅分歩いて来たからだ。クラウスはあんな風に言ったけれど、やっぱり少しくらい鍛えようと決意をした。ジョギングをしようかと思ったけれど、「朝も夕方も、秋冬は暗くて危険だから、週末とか俺が一緒に走れる時以外は駄目だ」とクラウスに却下された。確かに一理あるので、ジョギングは春夏にすることにして、まずは昼間、チャンスがあれば歩くことにして、朝からプロテイン代わりに無調整豆乳をコップ一杯飲んできた。
いつものルーティンの仕事を始める。
今日配達された荷物の中身チェックと片付け。夕方に集荷される荷物の準備。
店頭の在庫数チェックと、棚に並べる商品の数を在庫を出して調整。
それが終ると、ディスプレイや窓のガラスを磨いたり、茶器のホコリを落としたりと掃除に入る。茶器を磨きながら、ユリウスへのプレゼントにはどれを選ぶか考える。
あれから、カテキンのことを調べてみたら、やはりコレステロールを下げる効果があるようだったので、クラウスに相談してみたら、茶器セットに日本茶を付けてプレゼントしようということになった。ドレスデンのほうへいつ行くかは分らないため、近いうちに郵送するつもりなので、なるべく早くどの茶器セットにするか決めたい。
新しい家にも、茶器セットを準備しようと言う話になって、だったらヨナスとマリア、アダムとアナにもプレゼントしてしまおうということになった。つまり、全部で4セット。
彼らそれぞれに合う茶器を選ぶのは、結構時間がかかる。
それに、店頭にある茶器は、色合いも、手触りも、形もすべて違っていて、同じものはないのだから。
でも、彼らの顔を思い浮かべながら、どの茶器が一番合うだろうと考えるのはとても楽しい。
今、私が決めてあるのは2セット。
波佐見焼の茶器「椿」は、勿論、アダムとアナのための分だ。雪を連想させる白磁に、水墨画のように筆で描かれた、赤い椿と濃淡の美しい葉。優雅で気品に満ちたその絵柄は、湯のみの裏面や内側にまで描かれている。
有田焼の香蘭社製、利休茶器セットは、ヨナスとマリア用。侘と寂の茶の湯の精神がデザインに現れている、土瓶と蓋付湯のみのセットだ。やや黄味がかかった白い急須と湯のみに、亀の甲羅のように滑らかな光沢がある黒い蓋。ゴールドの丸いボタンのような持ち手が蓋の中央についていて、どこか欧風なモダンさが、彼らの性格にぴったりだと思った。
私達の分と、ユリウスの分はまだ決めていない。
ユリウスはどんなものが好きなんだろうか……個人的に深く知らないから、直感で選べなくて難しい。
お店にある茶器をじっくり見ていると、ちりん、とドアが開く音がした。
お客様だと思って振り返ると、そこに居たのはエミール。
ブルージーンズに、ホワイトのシャツ、キャラメルカラーのレザージャケット姿で、今日はスケボーは持って来ていないようだ。
日本語を学びたいと言っていたのは、やっぱり、エミールだったんだ。
まるで慣れたカフェに入るような落ち着いた態度で店内に入ると、まっすぐに私のほうに笑顔を向ける。
「やぁ、カノン。そろそろ、あがり?」
「え?もうそんな時間だっけ」
言われて店内の時計を見ると、もう6時前だ。
ここにいるとあっという間に2時間が過ぎてしまう。
「今日は、ソフィはいないの?」
エミールの背後に目をやって聞くと、彼は笑って首を振った。
「今日は置いて来た。次は連れて来る」
いや、別にそういうお願いをしたかったわけじゃないんだけど……
返事に困って黙る。
エミールはぐるりと店内を見回し、隅に椅子があるのを見つけるとそちらへ歩いて、どかっと座り、偉そうに足を組んでこちらを見た。
「じゃ、終るまでここで待たせてもらうから、仕事してて」
「はぁ?」
ふんぞりかえって余裕の笑顔のエミールに呆れる。
「あ、なんだったらお茶の試飲でもさせてもらうけど?じいさんのハマっているお茶ってどれ?」
「えー……シュナイダーさんのお気に入りは、京都の玉露……」
「じゃ、それでいい。正直なところ、日本茶はティーバッグのしか飲んだ事はないし、そのギョクロっていうの、飲ませて」
「……はい……」
心の中で、どこまで俺様なんだ!と叫びながら、私は静かにカウンターへ戻る。
エミールが、シュナイダーさんの孫じゃなければ、試飲なんてさせたくもないくらい高級なお茶だ。それに、試飲を要求される事自体、おかしいんじゃないだろうか。
納得のいかない気持ちではあったけれど、玉露が初めてというエミールに、せっかくならその味の深さをわかってもらおうと思い、いつものように丁寧にお茶の準備をする。
玉露の入れ方の手順。
ポットの熱湯をまず、急須に入れる。そしてその急須の中のお湯を今度は湯のみへ注ぐ。空になった急須に、玉露の茶葉を入れて、湯のみを温めているお湯を、急須へ戻す。この時点で、熱湯が玉露に適した温度、50度から60度に下がっているからだ。
急須の蓋をして、二分半ほど待って、茶葉が開いていたらお茶の完成。味や濃さが均一になるように、2つの湯のみへ交互に注いでいく。
「この玉露は、新芽が伸び始めた頃、茶畑に覆いをして直射日光から守り、有機肥料を与えたりと大事に育てて、手摘みされたお茶なの。数種類あるお茶の中でも最上級品の部類で、奥深い甘味と玉露独特の旨味と香りが特徴」
一応説明をしながら、美しい緑色のお茶が入った熱い湯のみをお盆に乗せた。
黙って話を聞いているエミールのところへ持って行くと、彼は両手でゆっくりと湯のみを取った。黙って、しばらくお茶の色を眺めている。シュナイダーさんとそっくりだな、と少しびっくりした。シュナイダーさんも、お茶はいつもじっくりと見つめて、そして香りをしっかり確認して、それからそっと口をつける。目で楽しみ、香りを楽しんで、そして味わう。
見ていると、孫のエミールも全く同じだった。
意外に真剣な顔でお茶を飲んでいるので、なぜか感心してしまう。
私も自分の湯のみを両手に持って、ゆっくりと味わう。
「……ノーコメント」
ぼそっとエミールが呟いた。
ま、そんなもんだろう。
この味は、普通のお茶とは違うし、この甘みは好き嫌いが激しく分かれるかもしれないし。
「煎茶とか、ほうじ茶のほうが慣れ易いかもね」
そう言うと、エミールは微妙な微笑みを浮かべた。
「じいさんが好きな味って、こういうやつだったんだ。始めてコーヒーを飲んだ時のことを思い出した」
「あ、それ、いい例えかも」
思わず感心して頷いた。
私も、昔、始めてコーヒーを飲んだ時に、期待していた味とは全く違ったのでショックを受けた記憶がある。親が、あんなに美味しそうに飲むから、さぞかし美味いのだろうと思って飲んだら、苦くて渋くて酸っぱくて、こんな飲み物のどこがいいんだろうと思ったものだった。それが今では、大好きで毎日飲んでいるわけだから、不思議なものだ。
それでも、湯のみは空になっていたところを見れば、頑張って飲み切ったらしい。
「それで、どうしたの?日本語、勉強したいって聞いたんだけど」
片付けながらそう疑問を問いかけてみると、エミールは肩肘をついてあたりの茶器を見上げながら頷いた。
「そう。興味が沸いたから」
「日本語に?」
「君の言語だからね」
「……そんな理由?」
呆れて振り返ると、エミールはにやっと笑った。
「どんな理由だろうと、きっかけには変わりないじゃん?なんか、文句でもあるの」
「文句でもって……」
思わずいい返そうとして、慌てて口を閉じた。
気をつけないと、相手がシュナイダーさんの孫だってことを忘れてしまいそうだ。
フーゴと口論している時の勢いでペラペラと余計なことまで言いそうになる自分に焦る。
年下だろうと、フーゴっぽい性格だろうと、彼は、エミール、シュナイダーさんの孫。
自分にそう言い聞かせ、しばらく静かに黙って店じまいの準備を始める。
エミールは黙って座っている。
待っているということは、店が締まってから、その話をするつもりらしい。
面倒だなとは思ったけれど、店内で話すのもなんだったから、駅に歩きながらとかのほうが楽かもしれない。
片付けをしてレジを締め、ご主人への連絡事項のメモの準備まで済ませると、ぴったり6時になった。レジの側の壁にかけてあった黒いコートを手に取って振り返ったら、さっきまで座っていたエミールはもうドアの前に立って待っていた。
バッグから鍵を取り出して出口へ行くと、彼がドアを開けて外へ出る。続けて出て、締まったドアに鍵をかけた。
「さ、仕事は終ったし」
まるで自分の仕事が終ったかの様に明るい声のエミール。
「そのへんで話しよう」
「えっと、その、日本語のことだけどね」
ちょっと無理だと思う、と言いかけたら、エミールがぱっと振り返った。
そして、挑戦的な目を私に向けて、ずる賢そうに微笑んだ。
「断ってもいい。断るなら、他の理由を考えて君に会いに来る」
「えっ」
「なんだったら俺も同じ時間でバイトで入るとか?お茶の勉強をしたいからただ働きでも、とでも言えばそんなの楽勝だろ?日本語よりそっちのほうがいいなら、そうするけど」
「だめっ」
それだけは勘弁してくれ!
同じ時間にバイトなんて来られたらますます困る。
私は呆然としてエミールを見つめた。
こいつは、知能犯だ。
フーゴのずる賢いところまで似ている。
人をどんどん追いつめて、最終的に頷くしかなくなるような追い込み方をするやつだ。
「それじゃ、日本語レッスンのほうでいい」
勝ち誇ったようにそう言うと、立ち尽くしていた私の背中をぐいと押して歩き出した。
「ちょっと、どこへ行くつもりなの」
「そのへんの公園」
「公園?」
「カフェでもいいけど?公園のベンチとカフェ、どっちか選んで」
「じゃぁ、公園のベンチ……」
エミールとカフェに二人で入るなんてアウトだろう。
渋々歩き出すと、エミールが私の背中から手を離した。
困ったことになった。
このままじゃ、本当に日本語を教えなくてはならなくなってしまう。
考え込みながら歩いていると、少し前を歩いていたエミールが立ち止まる。なんだろうと思って顔をあげると、この間と同じ、表のカウンターからコーヒーのピックアップが出来るお店だ。
また、買わせるわけにはいかない!
私は急いでエミールを押しのけて、注文した。
「カフェラテふたつ、ソイミルクで」
前回、勝手におごられたから、今回おごり返してチャラにしなくてはならない。
さっさと支払いを済ませて何故かほっとする。
エミールに借りなんかつくっておいていい事なんて絶対なさそうだ。
「はい、この間の借り、返したからね?」
ラテを渡すと、エミールがクスクスを笑いながら受け取った。
「カノン、君って気が強いんだ」
「……まぁ、そういう人もいるから、そうなのかも」
自分のラテを取ってまた歩き出す。
黙ってしばらく歩くと、こじんまりした公園に着いた。遊具がほんの少ししかない公園で、一面が落ち葉で黄色に染まっている。
「そこ、空いてる」
エミールがラテを持った手で差した先に、ベンチがあったので、とりあえずそこへ歩いて順番に腰掛けた。目の前の広場では小学低学年くらいの子供達がサッカーボールを追いかけている。
ベルリンの秋の空は、なかなか晴れ間がない。白い雲がお日様をさえぎって、視界に写るものすべてには影がなかった。そのせいか、どこかこの景色が現実のものでなくて、静止している1枚の写真のように二次元ぽく見える。
「確かに動機が不純なのは認めるけど」
エミールはそう言うと、背もたれによりかかり両足を前に投げ出した。黒いスポーツシューズの靴紐が赤色なのに気がついて、物珍しさに思わず気を取られる。
「でも、アジア言語にはもともと興味があったし、じいさんが生きている間に日本縦断旅行したいって言っているし、だったら日本語やっとこうかって思って」
「シュナイダーさんが、旅行に?」
そういえば、日本には行った事がないと言っていたのを思い出す。
ヨーロッパの人にとってアジアとは、タイやフィリピンなど東南アジアのリゾートは近くても、中国や日本、韓国などは遥か遠くに感じるものらしい。なかなか日本まで旅行に行く人はいないというのが現実だ。
「それに、日本語喋れて損する事はなさそうだし」
「まぁ、それは確かに……」
ビジネス面を考えてみれば、未だに英語が得意でない人が多い日本の現状から、日本語が分る外国人は貴重な存在だろう。
もっともらしい理由を聞いているうちに、なんだ、真面目に日本語を勉強したいと思っているのかとびっくりする。
「結構、真剣に考えていたんだ」
そう聞くと、エミールは横目で私をちらりと見る。黒髪の向こうの青い目が、意味ありげに瞬いた。
「日本語での口説き方も教わりたい」
「口説き方?」
「言っとくけど、ナンパするって意味じゃない」
そう言ってエミールがじっと私の顔を見て、挑戦的に微笑んだ。
「君の口説き方。俺の最終目標レベルがそこだから」
「な、なに言って……」
唖然としてエミールの顔を眺める。
なんで私が、私自身の口説き方なんて教えなきゃいけないんだ!
やっぱりおかしい、この子の感覚。
「最初は挨拶からで我慢しとく。本気で、最短最速でレベル上げていきたい」
呆れている私に構うこともなく、朗らかにそう言って笑っている。
「とりあえずテキストと辞書選びから手伝ってもらおうか。時給、いくらがいい?カノンの希望に合わせる」
「あのね、でも、まだ」
このままエミールのペースに巻き込まれそうになり慌てる。
まだ教えるなんて言ってない!
そう言おうと思ってエミールのほうに体を向けて、口を開こうとした。その時、子供達が叫ぶ声が聞こえ、あっと思って横に目を向けるとこちらへサッカーボールが飛んで来るのが見えた。
ぶつかる!
思わず反射的に目をつぶった。
直後、体が傾いたと同時に何かにあたるような音が聞こえた。
とりあえず、私にはぶつからなかった……
恐る恐る目を開けてみれば、私はエミールに抱き寄せられていたことに気がついた。ボールがぶつかる直前に肩を引かれたのはこれだったんだ。
慌てて離れようと身を起こすと、目の前に子供達が立っていた。
「ほら。もっとあっちでやれよ」
隣のエミールが手に持っていたボールをぽいっと投げると、子供達が笑顔で頷いた。
「うん、ごめんなさい!お兄ちゃんの彼女、大丈夫だった?」
え、違うんだけど。
と言いそうになったが、こんな子供相手にいちいち説明するのも過剰反応っぽい。しかもドイツ語で女友達も彼女も単語は同じということもあり、雰囲気やニュアンスで、ただの女友達か恋人か察する。これは男友達と彼氏も同様で、単語はひとつしかなく使い分け出来ない。
ただ、子供達がどうも私達をカップルとして見ているように感じたので、違うと言おうかと思った。でも、わざわざ弁明するほど重要なことでもない。
何も言えずにただ笑って頷いてみせると、エミールがちらりとずる賢そうに私を見て、にやっと笑った。
「もちろん、”俺の彼女”は無傷だから心配ないさ」
なんだその紛らわしい言い方は!
じろりとエミールを睨みつけたが、子供達は無邪気に笑った。
「お兄ちゃん、クールだね。ボールありがとう!」
そう言うと、子供達は一斉に駆け出して行った。
一体、どういうつもりなんだ!
単なる子供相手とは言え、私にとっては困惑するセリフで、正直迷惑だ。
じーっと厳しい目で睨んでいたが、エミールは痛くも痒くもなさそうにまた背もたれによりかかると足を組んで堂々とラテを飲んでいる。そのふてぶてしい態度のでかさは、本当にフーゴとそっくりだ。こちらが頭に来ればくるほど、逆にそれを楽しんでいるような余裕っぷり。
何といえばこいつをぎゃふんと言わせられるんだろう?
ちらりと横目でこちらを見て、うっすらと楽しそうに微笑むエミール。
「あのねぇ……」
一言くらい言ってやろう。
そう思って口を開いた時、カサッと頭上から何か音がして、思わず上を見上げた。
空から何か落下してくる!
「……っ!」
がつん、と音がして、まんまるの大きなトチの実が、エミールの頭を直撃した。
「……っつ」
頭に手をやり、うつむくエミール。
ベンチに転がり落ちた、ピカピカに光る大きなトチの実。
そのトチの実を手に取って、目の前で痛みをに耐えてうつむくエミールを見た。
「……」
私はその滑稽な様子に急激に笑いがこみ上げて来て、ぷっと吹き出し、大笑いを始めてしまった。あまりにも可笑しすぎるこの光景!
まんまるで固く大きなトチの実が、生意気なエミールを直撃した!
「ボールは避けれても、トチの実までは無理だったね」
罰当たりな性格だから、天罰が下ったんだ!
可笑しくて涙が出て来る。
お腹が痛くなるくらいしばらく笑いが止まらず、やっと収まって、はぁと息をついた。
目尻にたまった涙を吹いて、息苦しくなった呼吸を整えていると、頭を抱えてうつむいていたエミールがようやく手を離した。まだ下を向いている。
よほど痛かったんだろうか。
「そんなに痛かった?」
少し気になって聞いて見た。
「……血、出てる?」
ぼそっとそんなことを言うので、頭のほうを見てみた。あたったらしいところを、黒髪をかきわけて見てみると、一カ所、少し赤くなっているところがあった。
「赤くなってるよ。でも、血は出てない。小さな、タンコブみたいな感じ」
そう言うと、ようやくエミールが顔を上げた。
見れば、少し頬が赤くなっている。
「そんなに痛かったんだ……」
あんなに大笑いしちゃって悪かったな、と思って少し申し訳ない気分になった。
人の不幸を喜ぶなんて、悪いことをした。
さっきは、サッカーボールが当たりそうなところを助けてもらったのに。
「笑っちゃって、ごめんね」
謝ると、エミールはじっと私を見て、それからクスッと笑って首を振った。
「やっと、笑った」
「……え?」
どういう意味だと思って、まじまじとエミールの顔を眺めていると、彼が今まで見た事もないような照れた微笑みを浮かべた。
「君が笑った顔、初めて見た」
「笑った顔?」
「すごく可愛い」
「……」
こんな年下の子に可愛いなんて言われたことがなくてリアクションに困る。
エミールはまだ少し照れた表情のまま、真っ直ぐに私の目を見つめた。
「勉強は冗談抜きで真面目にやるって約束するから。日本語能力試験を目標に取り組むことにする。だから、この話、OKしてほしい」
「……少し、考えてから……」
「いやだ」
きっぱりと拒否したエミール。
「OKしないならすぐに他の方法考えるから、今、決めて」
思い切り脅迫じゃないか!
呆れてまじまじ時はエミールを見る。仮面を剥いだら下からフーゴが出てくるんじゃないか?
エミールの澄んだ青い目をじっと見てみると、本気で日本語を学ぶ気らしいというのは分かった。私は大きく溜息をついて頷いた。
「わかった。でも、やる気が見えなくなったら即、終わりだからね?」
「オッケー!」
エミールが嬉しそうに声をあげると、私の手のひらにあったトチの実を取り上げた。
「こいつは持って帰る」
そして私に強い眼差しを向け、にっこりと微笑んだ。
「君の笑顔を見せてくれた特別な実だから」
エミールの笑顔が一瞬、 幼い少年のように見えた気がして、私は何度か瞬きをしたのだった。
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松丹子
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スパダリな父、優しい長兄、愛想のいい次兄、チャラい従兄に囲まれて、男に抱く理想が高くなってしまった女子高生、橘礼奈。 平凡な自分に見合うフツーな高校生活をエンジョイしようと…思っているはずなのに、幼い頃から抱いていた淡い想いを自覚せざるを得なくなり…… 恋愛、家族愛、友情、部活に進路…… 緩やかでほんのり甘い青春模様。 *関連作品は下記の通りです。単体でお読みいただけるようにしているつもりです(が、ひたすらキャラクターが多いのであまりオススメできません…) ★展開の都合上、礼奈の誕生日は親世代の作品と齟齬があります。一種のパラレルワールドとしてご了承いただければ幸いです。 *関連作品 『神崎くんは残念なイケメン』(香子視点) 『モテ男とデキ女の奥手な恋』(政人視点)  上記二作を読めばキャラクターは押さえられると思います。 (以降、時系列順『物狂ほしや色と情』、『期待ハズレな吉田さん、自由人な前田くん』、『さくやこの』、『爆走織姫はやさぐれ彦星と結ばれたい』、『色ハくれなゐ 情ハ愛』、『初恋旅行に出かけます』)

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