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待ち受けていた景色
木枯らしのラベンダー畑
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その日夕方帰宅したクラウスに、エミールの日本語レッスンの話を正直に話して、大目玉をくらったのは言うまでもない。
もともと、最終的には何か理由を付けて断るつもりだったから、相談することもないと思っていたのが、結果的に了承してしまったので、事後報告になってしまった。
最初は普通に、日本語を教えるのもいい経験じゃないかと肯定的だったクラウスだが、話の最後で、実はそのシュナイダーさんの孫は、あの時、クラブの前に居た子だと説明したら、たちまち顔色を変えた。
「君ってやつは、油断しすぎる!」
コーヒーテーブルを挟んで向かい合わせに座っている私たち。厳しい叱責が容赦なく飛んできて、私は反射的に背筋を伸ばした。
「わかってる!失敗したと、自覚してる……」
「失敗?いや、これは危機感に欠けた君を証明しているようなものだ」
「危機感、というのは」
「もう、忘れてるじゃないか」
ますます憤慨した様子でクラウスが私を睨んだ。鋭い目が恐ろしいくらい光っていて、彼が怒りを沈めようと努力しているのが伝わって来る。
「あの時、あいつは嫌がる君を掴んで離そうとしなかった。俺がクラブから出て来るのが遅かったら、どこかへ連れて行かれていたかもしれない」
「それは、覚えてるよ。でも、そんなことはもうしないみたい」
「……しないみたい?」
私の言葉をオウム返ししたクラウスが、呆れたように大きく溜め息をした。
「そこが、危機感に欠けていると言うんだ!お茶屋の前で犬を連れて待ち伏せされておいて、よくそんな悠長なことを」
「でも、ほんとに割と普通になってるっていうか、もう、私が困る事はしないって言うし……やっぱりまだ20歳だし」
「君に男の何がわかる?」
「何がと言われても、あまりに大雑把すぎて答えようがないんだけど」
思ったままを言うと、クラウスが腕組みをしてじっと私を見た。
「20歳なりたてだろうと、30歳だろうと40歳だろうと、男の本質は同じ。性格こそ違いがあるとはいえ、そいつは初対面の君に無理強いするやつだ。いつ同じ行動に出ても不思議はない。しかも、俺がいると分っていてそれでも諦めずに君に接触しているあたり、普通じゃないだろう。君も、明らかに自分に興味を持っている相手と会うことに違和感もないのか」
「でも、それを言うならクラウスだって」
私は言い訳がましいと分っていながら、反抗を試みる。
「昔付き合った女性とか、仕事繋がりだからって会ってるじゃない。仕事の話だからって、ディナーに行ったり、宿泊先まで送り届けたりしてるし、相手だってまだ、貴方のこと好きでいる人も当然いるでしょう?明日だって、昔付き合った人が大きな商談で来るから、夜も接待で食事に行くって言ってたじゃない?仕事繋がりだったりして切ることが出来ない相手なんだから、私だって気にしないようにしているけど、やっぱり嬉しくはないよ」
私の言葉に、クラウスは露骨に嫌な顔をした。
「それとこれは違う」
「どこが違うの?」
クラウスは眉を潜めて私を睨んだ。
「理論的な点ではさして違いはないだろうが」
彼は溜め息をつきながら続けた。
「俺は、昔の交際相手には君のことを話しているし、相手は女性だから俺を無理矢理どうこうすることは出来ないからだ。だが、君はどうやったって、そいつが本気を出せば、手さえ振り払う力はないだろう」
「それは、そうだけど、だから、断ろうと思ってたのに、お得意さんのお孫さんだし、真面目に勉強するとか言うし、それが意外と本気みたいだったから私も断りにくくなって……結局、真剣にやるなら勉強は協力すると言ってしまったわけなの。だから、貴方にこうして相談しているわけで……」
「相談というのは、返事をする前にしてもらいたいものだ。完全に相手のペースに巻き込まれてしまってから相談するのは、これで最後にしてくれ」
「……はい」
クラウスがもう一度、大きく溜め息をついた。
それから腕組みをしたまましばらく考え込んでいたが、やがて、苦々しい顔で私を見た。
「それじゃぁ、こうするんだ。閉店したお茶屋の店内でレッスンをすること。きっとご主人も店内のどこかに残っている時間だろう。回数は週に一回、時間は、45分。終る時間に俺が君を迎えに行く」
「貴方がわざわざ迎えにくるの?仕事の迷惑になるんじゃ……」
申し訳なさで声も小さくなりつつ、そう尋ねると、クラウスは眉を潜めて私を睨んだ。
「こうでもしてそいつにプレッシャーを与えておくしかない。その日だけ少しだけ早めにオフィスを出るだけのことだから大したことはない。どうしても俺が行けない時があれば、ヨナスか、オフィスのスタッフか、とにかく誰かを迎えに行かせる」
「そこまでしなくても、ちゃんと帰るよ」
「信用できない。すでに仕事帰りに二回も付き合わされているということを忘れるな」
「それは、そうだけど……」
「とにかく」
クラウスは私の声を遮ると、きっぱりと条件を確認するように繰り返した。
「お茶屋のご主人に連絡するんだ。レッスンは、週に一回、閉店後の店内で45分間のみ。それ以外の場所や方法を希望するなら、この話は断ると」
「は、はい」
私は背筋を伸ばして頷いた。
クラウスの言うことは最もだし、迎えに来てもらうことが申し訳ないけれど、変な誤解を生まないためにも、この方法が一番だろう。
私はすぐに、テーブルに置いてあったラップトップを開いて、お茶屋のご主人へメールを打ち始めたのだった。
翌日の朝、クラウスがテーゲル空港まで私を送ってくれた。
1時間の短時間パーキングに車を駐車して、クラウスがトランクからシルバーのスーツケースを取り出す。今回はボストンバッグにすべての荷物が収まらず、彼が持っているスーツケースのコレクションを見せてもらったら、丁度いいのがあったのでそれを借りることにしたのだ。スイスのvictorinoxというブランド製で、ソフトな材質で軽量化されていて、しかも機内持ち込みサイズ、と使い勝手もよさそう。
今日はこのまま仕事に行くというので、彼もスーツ姿で、上にダークブラウンのレザージャケットを羽織っている。スーツもジャケットもZ ZEGNAというイタリアのブランドのものだ。やはりイタリア製のものがよく似合うなと思うけれど、彼自身はスーツよりも、ジーンズやシャツなど身軽な服装が好きらしく、いつか、スーツを着なくてもいい生活をしたいと言っている。ヨナスは仕事上、カジュアルダウンした服装で割と自由だけれど、クライアントとの打ち合わせや商談を主に担当しているクラウスは、流石にジーンズでというわけにはいかない。
チェックインまで済ませると、搭乗時間まで1時間ほどだ。
「私、もう中に入るよ。出発まで搭乗口の近くで飛行機を見てる」
クラウスも今日は早めにオフィスに行く必要がある日なので、あまり彼の時間を無駄に取りたくないというのもある。
時計の時間を見て、クラウスも頷いた。
「わかった。じゃぁ、明日の夕方に会おう。ホテルでの待ち合わせで、本当に大丈夫だったか?」
「うん、自分で行ける!英語圏だし、心配ないよ」
私は自信たっぷりに頷いた。
名残惜しげにお互いを見つめて、同時に笑い出す。
たった1日、離れるだけだというのに、場所が空港だということもあり、何故か少し感傷的になってしまう。
「なんだか変な感じだね」
私がそう言うと、クラウスが笑って頷いた。
「君のいないアパートに帰るのは夏以来だ。きっと落ち着かないことだろう」
「夜、電話する?」
「11時前に帰宅したら電話する」
クラウスはそう言うと、にっこり笑って両腕を広げた。
私はぎゅっと彼の背中を抱きしめ、その温もりに抱かれながら心の中で謝罪する。
勝手に、レオナ・ローサに会いに行く私を許してね。
本当に、ごめんね。
相談もしないで行くことを、許してね。
でも、きっと何かいい結果に繋がると思うから。
私はどうしてもこの秋のラベンダー畑に、行きたかった。
これからの未来へ繋がる扉を開けるために。
私が搭乗したGermanwings 4U8460は早朝にも関わらず満員御礼で、定刻通り7時30分に離陸した。2時間を切るフライトなので、本当にあっという間だ。
クラウスは私がどうしてこんな朝早いフライトで行くのか、当然ながら疑問に思ってその理由を聞いて来た。なぜなら、表向きは取材は翌日の土曜日となっているので、金曜日の夕方までにロンドン入りすれば間に合うからだ。
それに、ロンドンくらいだったら、日帰り出張出来る距離というのもあるから、たった一件の取材のために、私が金曜日の早朝から二泊三日、というのは、どこか不自然な感じがするのだろう。
言い訳として、せっかくロンドンに行くのなら、街のカフェやレストランなどを今後の記事執筆の参考までに見て回りたいから長く居たい、と釈明した。
そのこと自体は決して嘘ではなく、ロンドンの街で人気のあるカフェを見て回りたいというのは本当だ。結局その最もらしい理由付けに、クラウスもしぶしぶながら了承してくれた。
今回、Germanwingsという航空会社を初めて使った 。LCC(Low Cost Carrier)なので、飲食等は全て有料。でも、乗っている時間があまりに短いので、殆ど誰も何も注文している様子はなかった。
ヒースローに到着したのは8時25分。
ドイツとUKでは時差が1時間あるので、今、ドイツは1時間先の9時25分だ。
預けている荷物はないので、さっさと税関を通り抜け、あっという間に電車のターミナル駅に辿り着く。ヒースローエクスプレスというピカピカの青い電車だ。市内まで所要時間およそ20分だというので、プラットフォームのすぐ前にある乗車券自販機でセカンドクラスのチケットを買う。クラウスが面倒な換金をせずにいいからと、彼が持っていたポンドをくれたので、すべてがサクサクと進む。
お金といえば、時々悩む問題だ。
彼は金銭面に関して特に何も考えていないように見えるけれど、私はやっぱり、一応付き合っている関係上、彼にすべておんぶにだっこ状態であることは良くないと思っている。だから、極力自分のものは自分で払うようにしているし、スーパーでの買い物も自分が行く時は自分のお金で購入している。クラウスと一緒に行動している時は、買い物も食事も彼が払ってしまうので、もうその際は私も財布を出すのは諦めたけれど……
今回のポンドについては、後日経費としてはるの会社から支払われるので、クラウスにはきちんと返すと伝えてある。
今度引っ越す予定のお家や、家具などについては、一度きちんと話す必要があるだろう。
正直なところ、私が半分負担するというのは非現実的。
どう考えてもそれは無理なのだけど……
家具や家電だって、総額にしたら半端ない金額になるだろうし、屋敷自体はもう、到底私なんかが支払える世界じゃない。
ベルリンに戻ったら、家具のショールームに行くという話になっているから、そのタイミングでこの件について話をしてみよう。
恐らく彼は、彼自身の希望でアパートを出るわけだから、屋敷も、家具家電も私が負担する必要は一切ないと言うだろう。でも、やっぱり全部負担してもらうのは、フェアじゃない気がする。
結局、二人で使うわけだし。
せめて光熱費を払うとか、月々支払いをする方法を提案したい。
どうしてそこまでこだわるかというと、私達は付き合っている関係だから。
結婚して家計を共にしている夫婦とは違う。
……結婚?
その二文字が頭に浮かび、そのときめく響きにどこか切ないような胸の苦しさを感じた。
当然ながら、私達の間でその話題が出た事は一度も無い。
それに、マリアやヨナスでさえ、結婚はしていない。
ヨナスはSommerfeld家を戸籍上は出ているとはいえ、多分、一族会議とやらで協議がなされないと、彼らでさえそう簡単に結婚は出来ないのかもしれない。
私から見て、もう何年も交際しているマリアとヨナスはとうに結婚しているのと変わらない関係に見えるのだけど、やっぱり、マリアが外国人でしかもラテン系というのがネックになって、未だ結婚には至っていないのかもしれない。
私とクラウスなんてまだ、付き合い始めて日も浅いし、それに彼は事実上は本家の跡取りという特殊な立場にあり、しかも私は国籍上、日本人というややこしさ。
普通の国際カップルでさえ結婚に至るまでは面倒なことが多いのに、私達なんてそれ以上に大きな課題を抱えている。
いつか、彼と私の間で、結婚ということを意識する日が来たとしても、自分達の気持ちだけでそれを実現出来るという単純なものじゃないだろう。
でも、ずっと彼と一緒に居たい。
死が別つまで……ううん、死しても尚、共に居られたら。
彼と一緒に家庭を持つなんて、そんな夢を見ても良いのだろうか。
いつか、そういう日が訪れてくれたら、どんなに幸せなことだろう。
と、そこまで飛躍していく自分の願望に気がついて、はっと我に返る。
今、これほど幸せなのに、それ以上を求めるなんて罰当たりすぎる!!!
欲深さは自己を陥れてしまう。
足るを知る者は富むというではないか。
人間の欲望にはきりがないが、欲深くならずに分相応のところで満足することができる者は、心が富んで豊かであるということ。
欲に捕われた人間は醜いものだ。
気をつけないと!!!
自分を戒めるつもりで何度もそう自分に言い聞かせる。
そんなことを考えているうちに私が乗る予定の電車がプラットフォームに入って来た。
辺りを見渡しながら、安堵の溜め息が出る。
全てが英語表示というのが、これほどリラックスするものだとは!
アナウンスもしかりだ。
つまり、私のドイツ語力はまだまだ発達途上だということだろう。
生活する上で全く問題がなくなるレベルに達するまで、まだまだ先は遠そうだ。
ヒースローエクスプレスに乗車して、ショルダーバッグから携帯を取り出す。
クラウスは恐らく夜まで終日忙しいので、すぐに返信は出来ないだろうが、無事に到着したかどうかは必ず連絡するようにと言われていた。
クラウスに短いSMSを打つ。
ヨーロッパ内ならSMSなら何処でも送れるのが便利だ。
1時間後、私はロンドン市内のヴィクトリア駅に到着していた。
例のニットデザイナーが運営するCafe Singleが、ビクトリア駅というロンドンでも規模の大きい駅の近くだったので、空港から乗り継ぎをしてこちらへ来た。だが、この駅構内がものすごく広くしかも大勢の利用客で溢れ返っていたたため、到着直後はちょっとした迷子になってしまった。
とはいえ、約束の時間にはまだ余裕があったので、大体の位置と方向を確認すると駅構内へ戻り、二階の「ヴィクトリアプレイス」というショッピングセンターに行き、久しぶりにマクドナルドに入った。
ベルリンでファーストフード店もあることはあるけれど、カフェの数の方が圧倒的に多いせいもあり、それほど目につく事はない。それに、クラウスはファーストフードには一切興味がないらしい。なんでも、アメリカ留学中に散々食べたせいか、もう二度と口にしたくないとまで言うほど飽きたらしい。その話をアナにしたら、「女遊びと一緒じゃない?ジャンクフードも食べ過ぎるともう受け付けなくなるんだよ」なんて笑っていた。それが事実なのかどうかは定かではないが、彼の様子からして、恐らく二度と口にしないのは確かだろう。かくいう私もベルリンに来てからもうすぐ11ヶ月になるけれど、一度もファーストフードに入ったことがなく、まさかの初マクドナルド@ヨーロッパが今日この日だった。注文してみたのは、朝メニューのパンケーキ&シロップとラテ。日本でたまに食べていたメニューなので、懐かしさを感じつつ食べた。ドキドキしながら食べ始めたけれど、久しぶりのせいか、味や食感に違和感を感じたのが残念。でも、東京に戻った様な気がしてちょっぴり楽しい。
インタビュー取材用のメモやデジカメの確認をしながら、1時間ほどゆっくりと過ごす。
スーツケースを持って移動するのに慣れていないので、これを忘れたりしないように椅子の真横に付けている。
出勤時間ということもあり、マクドナルドも注文カウンターのほうは混んでいるが、席のほうは空いていて静かだ。
ヨーロッパは個性溢れるカフェが地元に定着している国々が多い。
文化的に歴史を重んじる国民性もあるのかもしれない。
ファーストフードだけでなく、あのスタバさえ軒数が少ないのは、人々がそれぞれ行きつけのカフェがあるからだろう。
そのカフェに行けば、顔なじみのお客さんがいる。
お店の人も自分のことを覚えていてくれる。
そうなると、ますます浮気出来なくなって、お気に入りのカフェに足繁く通うようになってしまうわけだ。
私はもっといろんなカフェを食べ歩きして、それを日本に発信していきたい。
ロンドン滞在中に訪ねることが出来るカフェの数はたかが知れているけれど、思い切り楽しもう、そう強く思いながらマクドナルドを出た。
駅を出て賑やかな通りを歩き、路地にはいるとすぐにレインボーカラーにペイントされたベンチが見えた。
これが、Cafe Singleの目印。
近くへ寄ると、大きなガラス窓のディスプレイには、白いトルソーが何体も並び、眩しい色合いのニットの作品が展示されていた。すべてがかぎ針だけで作られているというのが驚きだ。
真っ赤にペイントされたドアを開けて入ると、お昼前のせいか、客は誰もいなかった。
「こんにちは!クリスティーナ?」
私はキッチンのほうへ向かって声をあげた。
奥から声が聞こえて、やがて彼女らしき人が現れた。
「いらっしゃい!あなたがカノンね!待ってた」
奇麗な赤毛を刈り上げたボーイッシュな女性で、薄い青い目に、そばかすがキュート。鼻にダイヤのピアスをしている。化粧っけはないけれど、とても活発そうな魅力に溢れた人だ。真っ赤なニットセーターとブラックのパンツ姿で、いかにもアーティストっぽい。
フーゴの親友ということもあり、初対面感もなく笑顔でハグし合う。
「フーゴの従妹っていうから、楽しみにしてた!うん、やっぱりどこか似てるね」
クリスティーナが腕組みをして私の顔を見て笑う。
「今日は本当に有り難う。普段は取材NGなのに、無理矢理お願いしちゃって」
私はベルリンから持って来たお土産のチョコレートを差し出した。
「あ、気を使ってくれちゃって!ずうずうしいフーゴとは全然違うんだ」
彼女は大笑いしながら受け取って、ありがとう、と言った。
「ジョン!アシュリー!ちょっとアトリエに行っているから、後はまかせた」
クリスティーナが声をキッチンを振り返ってそう声を張り上げると、呼ばれた二人の顔がこちらをのぞき、オッケー!と返事をした。
「とっても楽しそうなカフェだね」
彼女のニット作品の取材に来たのに、カフェのほうまで気になってしまい、カウンターの上にあるメニューに目がいく。
「後で、おすすめのランチセットを上に持ってこさせるから、食べていってよ」
クリスティーナはにこにこしながら私の背中を押して、二階へと続く階段へ向かう。階段もカラフルにペイントされていて、ピンクや赤、イエローなど、原色系のカラーをベースに、太い黒い線で幾何学模様や花、星など様々なものが描かれていて、とても面白い。
「このカフェの内装も、クリスティーナさんが?」
階段を上りながら聞くと、彼女が私を振り返り頷いた。
「ま、仲間で一緒にわいわいやりながら気の向くままに塗ったって感じよ。カフェの運営自体、共同運営という形態だからね」
「気の合う仲間で集まる場所って感じかな?すごく、居心地良さそうなカフェ!色合いもユニークで楽しい!」
私はこのカフェの写真も後で撮影させてもらえるか聞いてみようと思いながら、ゆっくりと階段を上った。
真っ赤にペイントされた縦長の扉を開けると、その向こうは異世界だった。
真っ昼間なのに薄暗いのは、窓がカーテンで覆われているせいだ。
空気まで少しひんやりして、カーテンの隙間からわずかに差し込む光で、空中のホコリがキラキラと輝いている。
「ここは、アトリエ兼、私の居住スペース」
クリスティーナは私の背中を押して部屋の中へ誘導した。
使い込まれた感じのあるゴールドカラーのカウチにはニットの膝掛けが幾重にも掛けられていて、ランプのシェードも、丸いテーブルにかかる黒いニットのテーブルクロスも、奥に見える彼女のベッドのカバーもすべて、彼女の作品らしかった。家具の合間にはトルソーやハンガースタンドがいくつも置いてあって、それらにも多くの作品が掛けられている。
「すごい……まるで、ニットの森!地球以外の場所に居るみたい……」
あたりを見渡してあまりの衝撃と感動に圧倒されている私を見て、彼女が大笑いした。
「そんな大したものじゃないよ。整理整頓とか苦手で、編んだ物を放置しているだけだから」
「ううん、ニットの美術館みたいですごい。一体、ここにある作品数はどれくらいなの?」
「そうねぇ、数えた事もないからなぁ……編み掛けのものもそのへんに放置してるし……」
クリスティーナは腕組みをして、苦笑いしながら自分の周りをぐるりと見渡した。
無事にインタビューと撮影を終えた私は、ヴィクトリア駅に戻っていた。
ここで、今晩お世話になるビルと待ち合わせしている。
巨大な出発案内の電光掲示板の下がバーガーキングで、その前で3時半の待ち合わせになっていた。
クリスティーナのところで撮った写真をデジカメで確認しながらビルが来るのを待つ。
写真のクオリティはまぁ、まずまずという感じだ。
アダムみたいにプロじゃなくて、完全にアマチュアだから、スナップ写真ぽくなってしまっている感じは否めない。今回、自分で写真を撮ることになったので、前もってアダムに「写真の撮り方」の基本を聞いておいた。だから、逆光にならないようにするとか、人物撮影の際の角度、作品の撮る角度や背景の選び方など極力気をつけていたので、ネットで掲載する分では大きな問題はないレベルのものが撮れた気がする。印刷向けには絶対アウトだろう。ネット掲載用で本当によかった。
ベルリンに戻ったら、アダムが画像をチェックして、画像加工が出来るphotoshopというプログラムで色彩や明度、コントラストを調整してくれることになっていた。彼の心遣いには本当に感謝してもしきれない。
「カノン?」
ハスキーな太い声がして顔を上げたら、小太りで人の良さそうなヒゲのおじさんが柔和な笑顔で立っていた。
この顔は、フーゴが前もって送ってくれた写真のビルだ!
フーゴのバンクーバー時代の昔の同僚。
ワインレッドのパンツにブラックのシャツ、薄手のグレーのセーター姿で、どこか英国っぽい雰囲気。ベルトの上にぽっこりと出ているお腹に親しみを感じて、思わず私も笑顔になる。
「こんにちは!」
「ロンドンへようこそ」
ビルが両手を出したので、右手を差し出すとぎゅうと握手してくれた。肉厚のあったかい手で、なぜか彼の顔がサンタクロースに見えてしまう。
「フーゴにこんな可愛い従妹がいたとはねぇ。さっき遠くから君を見つけたけれど、フーゴが、自分と目元が似てるっていうからすぐにわかったよ」
「そうですか」
私は笑いながら頷いた。
私とフーゴは、背格好も髪の色も肌のトーンも違うけど、どうやら本当に目元の印象は似ているらしい。
ビルさんが私の肩に手をやってにっこりした。
「ついこの夏、フーゴに会ったばかりだから記憶も新しいしね。さぁさぁ、では行こうか。この駅はいつも混むから落ち着いて話なんかできやしない」
「わざわざお迎えしてもらって恐縮です。今晩はお世話になります」
思わず頭を下げるとビルさんが笑った。
「やっぱり日本人だね」
「あ、つい」
自動的に頭を下げてしまったことに私も気がついて笑い出した。
「そういうところはフーゴとは全然違うらしい。さて、それじゃ先に、ジンジャーをお迎えしてからでいいかな」
「勿論です!」
私は大きく頷いた。
ビルの現パートナー、ジョナサンには、以前普通の結婚をしていた際に生まれた娘、ジンジャーがいる。離婚して彼が娘を引き取ったので、現在はビルとジョナサンが共同で育児をしているらしい。今、自宅近くの幼稚園に通っているので、二人で交互に送迎をしているらしく、私が来る日は丁度、ビルが仕事を早くあがって、ジンジャーをお迎えする日だった。
私達は電車に乗って、彼らの住むエリアへと向かった。
アットホームなお宅でのホームステイ気分で、私はすっかり楽しんでいた。
ジンジャーはまだ5歳だけどおしゃべりが達者で、人見知りも全くなくて、私相手にお人形遊びやらボール遊びとすっかり懐いてしまった。私は小さい子と遊んだ経験はなかったけれど、もう5歳くらいになると会話も成り立つし、ベビーシッターという仕事なんかも楽しんじゃないかなんて思ってしまう。キッチンで、ビルとジョナサンが特製のフィッシュ&チップスをこしらえてくれる間、私はジンジャーと一緒にソファに座ってテレビのディズニー・キッズ・チャンネルを見てくつろぐ。
まるで、親戚の家に遊びに来た様なリラックスぶりの自分に笑ってしまう。
ビルとジョナサンが中年のゲイカップルだということ以外、ここは普通の温かい家庭だ。
ミッキーマウスの番組なんてテレビでやっているなんて知らなかったので、結構真剣に見ていると、ソファの横に置いてあったショルダーバッグから僅かな振動を感じ、急いでバッグを開けて携帯を取り出す。
クラウスからの電話だ!
「ハロー?」
応答すると、いつもより若干遠くに感じる彼の声が聞こえて来た。
『やぁカノン、どうしてる?ロンドンはどうだ?』
「うん、楽しいよ!今、ビルのお家に来てて、娘さんと一緒にテレビ見てるの」
そう言うと、テレビを見ていたジンジャーが私の膝に身を乗り出した。
「カノン、その電話、だれ?」
私はジンジャーの赤茶色の髪を撫でて笑いながら答えた。
「ドイツにいる彼だよ」
「ふうん、カノン、ボーイフレンドがいるんだ!あたしも幼稚園にいるよ、マイケルって、ピアノが上手な子なの」
「ピアノが出来る彼なんて素敵だね!」
私は無邪気なジンジャーの頭をそっと撫でながら、携帯のほうへ話しかけた。
「クラウス?」
『楽しいおしゃべり相手がいるようで何よりだ』
電話の向こうでは、私達の会話を聞いていたらしいクラウスが笑っていた。
「ベルリンはもう、夜の7時だよね?」
『そうだ。ということは、そちらは6時か。俺はこれからしばらくヨナスと打ち合わせして、それから例のゲストを夕食に連れて行くから、今晩の帰宅は遅くなってしまいそうだ』
「うん、だから今、かけてくれたのね。有り難う」
『忙しかったせいか、今日は一日があっという間に過ぎた気がする』
「私も!」
そこまで言いかけて、危うく、今日、取材したことを口走りそうになって冷や汗が出た。
取材は明日、ということになっている。
嘘をつくというのは、こんなに大変なことなんだと今更強く認識した。
もう、二度とこういう嘘をつきたくない。
『カノン?』
今更ながら己の嘘を呪っていると、妙な沈黙に違和感を感じたらしいクラウスが私の名前を呼んだ。
本当に彼は、私の様子を感じ取るのが早い。
まるで私の姿を見ているかのようだ。
「あっ、ごめんね。つい……ミッキーマウスのほうに気を取られて」
苦しい言い訳をしたら、電話の向こうで不機嫌そうな声が聞こえて来た。
『……ミッキーマウスに負けるとは、屈辱的だ』
「……っ、ごめんなさい!あの、こんな子供番組、初めて見たからつい……」
慌てて謝罪する。
嘘に嘘を重ねる苦しさに加え、ミッキーマウスに気を取られてクラウスとの会話に集中していないなんて、失礼な言い訳まで口走った自分が情けない。
電話の向こうでしばしの沈黙の後、少しだけ笑う声が聞こえて来た。
『いや、冗談だ。子供のいる家はそんなものだろう。ニコルと電話すると大抵話も上の空だし、何かと邪魔が入るから、重要な話はいつも甥っ子達が不在の時間帯か、あるいは寝静まった後にしているくらいだから』
「そうなんだね。確かにこれくらいの歳の子って、じっとしていることはないみたい」
横を見れば、テレビに映るミッキーマウスを時々みながら、今度は膝の上で塗り絵にプリンセスシールを貼り始めているジンジャー。しかも、片足は床のボールを転がしている。
『そろそろ打ち合わせの時間だ。じゃぁカノン、明日』
「うん、電話ありがとう」
携帯を耳にあてたまま頷く。
数秒の沈黙の後、少しだけ低めの声が耳に流れて来た。
『……カノン、愛してる』
その言葉に胸がドキンとする。
何度聞いても心の奥深くまで響く彼からのこの言葉。
私は両手で携帯を握りしめ、想いを込めて囁き返した。
「私も。愛してる!明日、会うの楽しみにしてるね」
電話の向こうで笑い声が聞こえ、彼は小さく『チャオ』と囁いて電話を切った。
私はふうと溜め息をついて携帯をバッグに戻した。
「カノン、顔が赤いよ?」
「えっ」
ジンジャーが青い目をまんまるにして私の顔を覗き込んでいる。急に恥ずかしくなって照れ笑いをすると、ジンジャーがにこにこして私の腕を両手で掴んだ。
「暑いの?後で一緒にアイス食べてね!あたしの大好きなキャラメルナッツアイスがあるの」
「うん、もちろん!私もアイス、大好き!」
私は大きく頷いてジンジャーの頭を撫でた。
翌朝の土曜日、早朝からヴィクトリア駅まで車で送ってくれたビルさんにお礼を言ってお別れをする。たった一泊お世話になっただけだけど、とても心が暖まる体験だった。ジンジャーにきちんとお別れを言いたかったのだけど、彼女はまだ夢の中だったので起こすのも可哀想だったから、手紙を置いて来た。ベルリンからそう遠くはないし、きっとまたいつか会えそうな気がする。
駅でコーヒーとベーグルサンドを購入した後、私は予定通りに6時58分初のFirst Great Westernという高速電車に乗車していた。Bathに到着するのは8時55分の予定になっている。
窓の外に目をやりながらコーヒーを飲んだ。
全く味がしない。
ただの熱い黒い液体?
もう一口飲んで思わず顔が歪む。
やっぱり熱さしかわからない。
でもそれは、コーヒーが不味いからじゃない。
私が、極度に緊張しているからだ。
クリームチーズのベーグルサンドも、味はしない。
噛み応えのある弾力感のある塊が喉を通過して胃に下りて行くのは感じるけれど、それはただ、お腹を満たすだけのものであって、到底味わうなんてものじゃなかった。
勝手に、レオナ・ローサに会いに行く罪悪感。
クラウスにも嘘をついてこんな身勝手な行動をしている事実の重さ。
その瞬間が近づくにつれて、私がやろうとしていることの重大さに気がつく。
勢いでここまでつっぱしって来てしまったけれど、よく考えたらとてつもなく異常な行動なのかもしれない。
私なんて、本当にユリウスとレオナにとって全く無関係の立場にいる人間なのに。
考えだすとどんどん暗くなっていくので、私は無理矢理そのことを頭の隅においやって、また昨日のデジカメを取り出し、テーブルの上に昨日の取材メモを取ったノートとペンを取り出した。
今のうちに、出来る限りの内容を復習しておいて、記事の構成を考えておくことにしよう。
レオナ・ローサに会った後、もしかしたら気が動転して数日は何も手に付かないなんてこともありえる。
そんなことになっても、〆切は必ずやってくるのだから、理性がある今のうちに、出来るだけ作業を進めておくべきだ。
重大な悩みや問題を抱えている時に、〆切というものは、現実逃避する最適な方法だ。
夏には、あの不審な手紙で気が狂いそうな時に、〆切というもので半日以上は理性を保つことが出来たくらい、その効力は強い。
昨日の写真を確認しながら、取材内容をリビューしていくと、あっという間にすべてを忘れて私は作業に没頭していた。
今回は、ニットウェアなどの作品をメインに取材するつもりが、最終的にカフェまで取材させてもらったので、記事のボリュームが二倍近くに増えそうだ。でも、ネット記事なので、出版する雑誌と違って文字数の変更も割と融通が利くようだし、基本的に情報量は多いほうが喜ばれるだろう。
写真を見ながら取材内容を整理しているうちに、外の景色はあっと言う間に都会の喧噪から田舎の風景へと変わっていた。
懐かしいオランダの牧場を彷彿とさせる、広々とした草原だ。
季節柄、その色合いはもう青々とした草原とは呼べないくらい色あせていたけれど、うっすらと朝靄に覆われた草原はのどかな中にも秋の風情が漂って美しい。
もうすぐ、レオナ・ローサに会う瞬間。
ユリウスが愛した人。
のどかな草原の風景が遠のいて行くに連れ、また街並が見えて来て、まもなく、First Great Westernは予定より5分遅れの9時きっかりにBath Spa駅へ到着した。
Bathという街は今まで聞いた事もなかったけれど、観光やスパで有名な場所らしく、駅もかなりの利用客で賑わっていた。私が降りた駅も、スパという名前がつく駅で、駅舎も薄いベージュ色のお城のようなデザインでベルリンとは全く違う雰囲気だ。周辺は多くの建築物で思ったよりも都会だけれど、高層ビルのようなものが目につかないので、頭上に広がる空は大きく開放感があって、リゾート地らしい雄大な自然を感じることができる。
ここの空気は格別に美味しい。
こんな街に、彼女はどれくらい住んでいるんだろう。
私はスーツケースを引きながらタクシー乗り場を探し、しばらく歩いてようやく一台のタクシーを発見した。
ボンネットに寄りかかってタバコを吸っていた運転手さんが私に気がつくと、すぐにタバコを消して、笑顔で後部座席のドアを開けてくれた。
「行き先は?」
「Summer Filedってわかりますか?」
「Summer Filed?あぁ、ラベンダー畑?」
車に乗り込んだ運転手さんは私を振り返って、それから不思議そうな顔をした。
「でも、もうラベンダーの季節は終っているよ。予約は入れているのかな?」
「いいえ、牧場の人を尋ねるので」
「そうかい、だったら問題ないね」
運転手さんは笑顔でそう言うと、シートベルトを締めてエンジンをかけた。
車はゆっくりと発進し、Bath Spa駅を離れて行く。
窓の外を眺めながら、駅周辺を離れると本当に大自然に溢れた街だと気がつく。
ラベンダーの季節は終ったけれど、人々はスパを目指してBathにやってくるらしい。こんな美しい大自然の中にあるスパなんて、どんなに素晴らしいことだろう。
日々の疲れを癒し、心身を温めてくれる温泉。
デジカメや携帯で風景の写真を撮ろうかと思って、やっぱり止めた。
そんなことをして、その写真を誰かに見られたら、私がこっそりBathに来た事がバレてしまう。
昨日の取材写真だって、自動的に日付までデータに入っているから、これを全部、今日の日付に書き換えてからアップロードしないといけない。アダムにも、取材は今日だと言っているからだ。
ひとつの嘘で、つじつまを合わせるために使う労力は想像以上のものだった。
これって、証拠隠滅?
それとも、情報操作?
まるで、犯罪に加担したスパイみたいな気分になる。
本当のところ、もう、すべてクラウスに吐き出したい。
いや、場合によっては、今日中にもう本当のことを話したい。
やっぱり、彼に嘘をつくのは耐えられない……
そんなことを考えながら、空に浮かぶ雲を見上げる。
今頃貴方は、アパートで朝食を取っているんだろうか。
そして、甥っ子達へのプレゼントをスーツケースに詰めて、午後には1人でテーゲル空港へ向かう。
彼の事を考えたら急に会いたくなって、胸が苦しくなった。
今すぐにクラウスに会って抱きしめたい。
今日の夕方には会えるのに!
そして、もう一度、これから会うレオナ・ローサに、どのように話を切り出そうか考えてみる。
やっぱり、自己紹介から?
それから、クラウスのこと。
そして、ユリウスのこと……
うまく、説明出来るだろうか。
彼女の迷惑にならないように、必要以上に動揺させなくてすむように、きちんと話せるだろうか。
「お客さん、もうすぐだよ」
「あ、はいっ」
私はドキンとして背筋を伸ばした。
あたりはすっかり牧場の風景で、地平線が見えるくらい壮大な景色が広がっていた。
時計をみると、9時40分。
タクシーはやがてロッジ風の平屋が見える道路で止まった。
「ここからは敷地内だから、歩いていってもらうしかないんだよ」
「わかりました、有り難うございます」
私はチップ代も含めて少し多めに渡して、帰りのことを考えて質問した。
「あの、帰る時にタクシーを呼ぶにはどうしたらいいですか?多分、あちらで電話をお借りしようとは思っているんですが」
「帰る時間、決まっているのかな?」
「それが、はっきりとは分ってなくて。多分、午後の2時前後だとは思うんですけど」
「それじゃぁ、おじさんの番号をあげておこう。電話をくれた時に空車だったら、20分、30分でここに来るよ」
運転手さんが名刺をくれたので、ありがたくいただく。
「ありがとう、助かります。じゃぁ」
私はタクシーを降りて、運転手さんに会釈した。
タクシーはプップー、と短いクラクションを鳴らして来た道をUターンして走り去って行った。
豆粒くらいに小さい影となったタクシーから目を離し、私はそのロッジ風の可愛らしい建物を見た。ネットのHPに載っていた、カフェ兼ショップの建物のはずだが、見た所、開いてはいないようだ。
ラベンダーシーズンの夏期以降は基本的には閉まっていて、クリスマスの6週間前からクリスマスまでは、ギフト販売のために期間限定で開店しているとネットには書いてあった。
だから、今は時期的には閉店している期間。
今更だけど、もし、誰もいなかったらどうしよう?
急な不安に襲われながら、芝生の上に敷かれた石畳の上を歩いてその平屋のほうへ向かう。
店は閉まっていても、誰かが居るだろうと勝手に思い込んで来てしまったけれど。
嫌な予感を感じながら、呼び鈴を押すが、反応はない。
誰も、いないの?!
扉をノックしてみる。
やっぱり反応はなし。
困ったことになった!!!
私は途方に暮れて、しばらく扉の前に立ち尽くした。
どれだけ長い間、ただ呆然と立っていたかわからない。
建物の中からは誰も出て来ないと100%確信すると、諦めて扉から離れ、芝生のベンチに腰掛けた。
さぁ、困った!
どうしたらいいんだろう!
クラウスにも相談しないで勝手にやってきた上、レオナどころか、誰もいないなんて。
勢いで後先も考えずに行動した結果がこれだ。
単細胞な私の辿りついた所は、行き止まりってやつ。
自己嫌悪にうなだれ、大きな溜め息をついてあたりを見渡した。
あたりに、人の気配は全くない。
遠くで、牛の鳴く声が聞こえるだけだ。
牛が人間と会話出来るのなら、どこに人が居るのか聞けるのに!
……牛?
あれ……?
ふと、私はあることに気がついた。
ここは、ラベンダー畑というだけでなく、牧場でもあり、確か、乳牛を放牧していたはずだ。
ということは、牛乳を毎朝、絞っているということ。
誰かが、その作業をしているわけだ!
私は急いでベンチから立ち上がり、スーツケースを引っ張って牛の鳴き声がした方へ歩き出した。
歩きながら、期待は確信に変わって行く。
絶対に、人がいるはずだ!
どんどん歩いて行くと、少し離れたところに、牛舎と工場っぽい近代的な建物、そして広い牧場に散らばる牛の影も見えて来て、思わず安堵の溜め息が出る。
よかった。
誰かがいる。
ここにいる人に、彼女のことを聞いてみよう。
柵に沿って歩いていくと、牛舎のあたりに人影が数人見えて来た。
「ハロー!」
歩いて牛舎のほうへ向いながら、私は大声をあげてみた。
私の声に気がついたのか、彼らがこちらを振り返る。
そのうちの1人が、柵のほうへと歩いて来た。
いかにも力仕事が得意そうな、赤ら顔のおじさんが、笑顔で私に声をかけてくる。
「どちらさん?」
「すみません、カノンっていいます」
「カノン?」
私は大きく息を飲み込み、覚悟を決めてはっきりと言った。
「レオナ・ローサさんに会いに来ました」
すると、おじさんはびっくりしたような顔をして、それから面白そうに私の顔を眺めた。
「レオナにアジアからお客さんとは初めてだ。もしかして、以前、ラベンダーファームのほうへ来たお客さん?」
「いえ、違うんですが、個人的にお会いしたくて来ました」
「そうかい。じゃ、今、呼んで来るからちょっとそこで待ってなさい」
「えっ、ここにいらっしゃるんですか?あ、ありがとうございますっ!」
興奮で声が裏返ってしまった。
緊張も一瞬にして最高潮まで達し、膝がガクガク震え始めているのもわかる。
嬉しいのか、不安なのか、わけのわからない興奮で武者震いする。
ついに、その瞬間だ。
そう思うと、ますます膝が震えてまともに立っていられなくなり、私は柵に寄りかかるようにして必死で呼吸を整える。
どうか、すべてがいい方向に向かいますように。
「いらっしゃい」
私が背を向けていた柵の後ろから、優しい声が聞こえてきて、ドキンとして振り返った。
「私を尋ねてきてくれたって聞いたわ」
目の前でそう言ってにっこりと微笑む女性。
あの、レオナ・ローサだ。
私は雷に打たれたように身動きが出来ず、彼女を見つめた。
ゆるやかに波打つ栗色の髪は、肩のところで切りそろえられていて、所々白い髪が混じっている。苔色の美しい深緑色の目は、穏やかに細められ、優しい微笑みを浮かべた大人の女性。目尻に薄く皺があるけれど、健康的でつややかなその肌は、彼女が20代だった時の様子を容易に想像出来るくらい、とても若々しい美しさがあった。年齢を感じさせないのは、彼女がジーンズに青のギンガムチェックのシャツと若々しい服装だったせいもあるだろう。
包み込むような温かさで辺りを照らす、明るい春の光のような人だ。
さっきまでどうしようもないくらいガクガクしていた膝の震えがぴたりと止まっているのに気がつく。
私はレオナ・ローサを目の前に、すべての緊張を忘れる程リラックスしていた。
私の様子をただ黙って見ている彼女。
柔らかな微笑みを浮かべて、私が何か言うのを待ってくれている。
私は心の奥底から、ユリウスに彼女を会わせてあげらえたら、と思った。
「……急に押し掛けてきて、本当に失礼だとわかっています」
私は、ゆっくりと口を開いて、彼女を見つめた。
レオナは少し驚いたように目を見開いた。
「どうして、失礼だなんて思うかしら?遠くから、私に会うためにわざわざ来てくれたのに」
そう言うと、彼女はにっこり微笑んで、私の肩に手を置いた。
「あちらにいらっしゃい。こんなところで立ち話したら、風邪をひいてしまうわ。もう、木枯らしが吹き始めたのよ」
「はい」
感極まって涙が溢れそうになる。
自分の声が震えているのに気がついた。
「あら」
レオナが私を見て苦笑し、それから優しく私の背中を撫でてくれた。
「貴女には、温かいホットミルクが必要ね。泣く子にはミルク、がよく利くわ」
「ふふ、ほんとですね」
私は可笑しくなって、目元を手で拭いながら笑って頷いた。
牛舎の向こうにある工場のほうには、小さなキッチンがあって、中に入ると言われるままにステンレスのテーブル席に座った。待っていると、本当に絞り立てのミルクを冷蔵庫から取り出して、コンロで温めたものを運んで来てくれた。
「有り難うございます」
ミルクと同じくらい真っ白なマグカップを受け取り、感謝の気持ちを述べる。
絞り立てのミルクは、まるでクリームのように濃厚でとても甘い。
確かミルクには、精神を安定させるメラトニン効果があったはずだ。お腹の中でじんわり広がる温かさで、心身がリラックスしていくのがよくわかる。
半分くらい飲んだところで、私はやっと、話を始める決意をした。
私の向いに座って、柔らかな微笑みを浮かべているレオナを見つめ、私はついに、その名を口にした。
「ユリウス・ゾマーフェルドをご存知ですか」
その瞬間、彼女の苔色の目に衝撃の光が走る。その驚きと動揺から、彼女が間違いなく、ユリウスが想い続けているレオナ・ローサなのだと確信した。
私がじっと彼女を見つめていると、しばらくの沈黙の後、レオナは大きな溜め息をついて、ふっと微笑んだ。
「その名前を聞いたのは、随分久しぶりだわ」
その声は、懐かしさを含んだ優しいものだった。
「ユリウスは、貴女と別れてから、再婚したんです」
そう言うと、彼女は少しびっくりしたように私を見つめた。
「まさか、貴女がユリウスの娘さん?」
「あっ、いえ、違います!」
私は慌てて否定した。
「あの、ややこしいんですが、私は、ユリウスの息子さんとお付き合いしていて……」
「そうなの。ユリウスには、息子さんがいるのね」
彼女は目を細めて嬉しそうににっこり微笑んだ。
私はふと、ダニエラを思い出した。
やっぱり、ダニエラとは全く違う。
レオナは心から、ユリウスのことを想って嬉しく感じている。自分と別れて再婚し、子供が生まれたと聞いて、普通なら嫉妬したり憎んでもおかしくないのに、彼女は、本当によかった、と感じている。
それはきっと、本当に、ユリウスの幸せを願っていたからだろう。
「ユリウスは、まだ、貴女のことを愛していると思うんです」
ユリウスの気持ちを想うと、我慢出来なくなってしまい、その他のややこしい説明をすっとばして結論を口走ってしまった。
すると、レオナは目を見開いて私の顔を見つめた。
「……カノン、貴女はそれを私に伝えるために、ここまで来たの?」
「……はい」
私は小さく頷いて、この行動に至った理由を説明した。
「ユリウスが、脳梗塞で倒れて……」
「まぁ」
レオナが小さく悲鳴のような声をあげ、それから沈黙した。
「それで、お見舞いに行きました。その時に、ユリウスが、何度か貴女のことを話されて」
「……でも、今は奥様もいるだろうに、そんな昔のことを」
レオナは困惑したように眉を潜め、心配げな顔で溜め息をついた。
「ユリウスは、貴女と別れた後、3回結婚して、もう2回、離婚しています。そして、今の奥さんとは、別居状態になっていて……でも、多分それは、ユリウスが、貴女のことを忘れられないから……それで、私達がお見舞いに行った時に」
私は喉に突っ返そうになる言葉を必死でコントロールしようと息をついた。
「昔、肺炎で入院した際に、病院食を拒否していたユリウスをなだめようと、貴女が退院後のメニューを聞いたという話をされて……ものすごく、懐かしそうにおっしゃられて。でも、同時にとても寂しそうな感じで、ずっと、後悔を引きずっている様子だったんです」
「あぁ、あの、病院で我が侭を言ってた時のことね」
思い出したのか、レオナがクスッと笑った。
「ユリウスは貴女を守れなかったことで自分をずっと責めていると思うんです」
「そうなの……それは、残念なことね……この長い年月、自分を責めていたなんて」
レオナはそう呟いて、しばらく考え込むように黙りこんだ。
私は彼女の指に、結婚指輪があるのか確認しようと目を向けたけれど、どの指にもついていなかった。でも、牧場の仕事をする時だけ外しているということもあるし、普段から指輪をしない既婚者だっている。
レオナは今、結婚しているのだろうか。
そこまで図々しくも聞いて良いのだろうか。
「それで、貴女は、私に会ってどうしようと思って来たの?」
レオナの質問を受けて、心の準備が出来ていなかった私は少し動揺した。
「えっと、あの、よく考えてなくて……ただ、まずは、ユリウスのことを伝えたいという気持ちで貴女に会いたいと思って……もし、いつか、また再会してもらうことが出来たら、あの、いつか、会って、もらうことは、出来ますか?」
結局、聞いてしまった。
口にしてしまったことは取り戻せない。
どうか、悪い返事ではありませんように。
祈る様な気持ちを必死に込めて、私はレオナの深緑色の目を見つめた。その、慈愛に満ちた優しい瞳が、一瞬だけ曇った。
「気持ちは、有り難いと思うわ。でも……私も、いろいろ事情があるから、そう簡単には……」
「……そう、ですよね……」
私は落胆して、はぁと溜め息をついた。
当然といえば、当然の結果だろう。
いきなり突撃訪問して、再会の約束を取り付けるところまでいくとは思っていなかったけれど、万が一にも、と期待していたのは確かだ。
明らかにがっくりしている私に、レオナは苦笑した。
「まぁ、貴女がそんなに落ち込まなくても。私は、貴女が来てくれて、とても嬉しく思っているわ」
「……そうでしょうか?いきなり来て、無茶苦茶なこと言って、迷惑だったのでは……」
気力も落ちて、弱々しい自分の声に苦笑いしてそう答えると、レオナがゆっくりと首を振ってにっこりと微笑んだ。
「本当に、来てくれて有り難う。さぞかし勇気がいることだったでしょう。ユリウスはきっと、そんな貴女の事をかわいいと思っているはずよ。私も、貴女みたいな女の子に会った事はない気がするの」
その言葉に、私はふと、ユリウスが言っていたことを思い出した。
「ユリウスが、私が貴女を思い出させるって、言ってました。どこかが、似ているって……」
「まぁ、そうなの」
レオナは嬉しそうに目を細めて微笑んだ。
「そうね。もしかしたら、そうかもしれないわ」
「そうでしょうか」
レオナはクスクスと笑うと、私の肩を軽く叩いて立ち上がった。
「せっかく来てくれたのだもの。牧場や、ラベンダー製品の倉庫とか、いろいろ見て行きたいでしょう?」
「えっ、ほんとですか?!」
私はびっくりして立ち上がった。
レオナはにこにこして頷き、楽しそうに微笑んだ。
「もちろんよ。是非、見ていってちょうだい。きっと、貴女の気に入る場所だと思うわ」
「わぁっ、ほんとに!すっごく、嬉しいです!」
私は大きく頷いて、残りのホットミルクを一気に飲んだ。
「よろしくお願いします!」
そう言って頭を下げると、レオナが楽しそうに微笑んだ。
もともと、最終的には何か理由を付けて断るつもりだったから、相談することもないと思っていたのが、結果的に了承してしまったので、事後報告になってしまった。
最初は普通に、日本語を教えるのもいい経験じゃないかと肯定的だったクラウスだが、話の最後で、実はそのシュナイダーさんの孫は、あの時、クラブの前に居た子だと説明したら、たちまち顔色を変えた。
「君ってやつは、油断しすぎる!」
コーヒーテーブルを挟んで向かい合わせに座っている私たち。厳しい叱責が容赦なく飛んできて、私は反射的に背筋を伸ばした。
「わかってる!失敗したと、自覚してる……」
「失敗?いや、これは危機感に欠けた君を証明しているようなものだ」
「危機感、というのは」
「もう、忘れてるじゃないか」
ますます憤慨した様子でクラウスが私を睨んだ。鋭い目が恐ろしいくらい光っていて、彼が怒りを沈めようと努力しているのが伝わって来る。
「あの時、あいつは嫌がる君を掴んで離そうとしなかった。俺がクラブから出て来るのが遅かったら、どこかへ連れて行かれていたかもしれない」
「それは、覚えてるよ。でも、そんなことはもうしないみたい」
「……しないみたい?」
私の言葉をオウム返ししたクラウスが、呆れたように大きく溜め息をした。
「そこが、危機感に欠けていると言うんだ!お茶屋の前で犬を連れて待ち伏せされておいて、よくそんな悠長なことを」
「でも、ほんとに割と普通になってるっていうか、もう、私が困る事はしないって言うし……やっぱりまだ20歳だし」
「君に男の何がわかる?」
「何がと言われても、あまりに大雑把すぎて答えようがないんだけど」
思ったままを言うと、クラウスが腕組みをしてじっと私を見た。
「20歳なりたてだろうと、30歳だろうと40歳だろうと、男の本質は同じ。性格こそ違いがあるとはいえ、そいつは初対面の君に無理強いするやつだ。いつ同じ行動に出ても不思議はない。しかも、俺がいると分っていてそれでも諦めずに君に接触しているあたり、普通じゃないだろう。君も、明らかに自分に興味を持っている相手と会うことに違和感もないのか」
「でも、それを言うならクラウスだって」
私は言い訳がましいと分っていながら、反抗を試みる。
「昔付き合った女性とか、仕事繋がりだからって会ってるじゃない。仕事の話だからって、ディナーに行ったり、宿泊先まで送り届けたりしてるし、相手だってまだ、貴方のこと好きでいる人も当然いるでしょう?明日だって、昔付き合った人が大きな商談で来るから、夜も接待で食事に行くって言ってたじゃない?仕事繋がりだったりして切ることが出来ない相手なんだから、私だって気にしないようにしているけど、やっぱり嬉しくはないよ」
私の言葉に、クラウスは露骨に嫌な顔をした。
「それとこれは違う」
「どこが違うの?」
クラウスは眉を潜めて私を睨んだ。
「理論的な点ではさして違いはないだろうが」
彼は溜め息をつきながら続けた。
「俺は、昔の交際相手には君のことを話しているし、相手は女性だから俺を無理矢理どうこうすることは出来ないからだ。だが、君はどうやったって、そいつが本気を出せば、手さえ振り払う力はないだろう」
「それは、そうだけど、だから、断ろうと思ってたのに、お得意さんのお孫さんだし、真面目に勉強するとか言うし、それが意外と本気みたいだったから私も断りにくくなって……結局、真剣にやるなら勉強は協力すると言ってしまったわけなの。だから、貴方にこうして相談しているわけで……」
「相談というのは、返事をする前にしてもらいたいものだ。完全に相手のペースに巻き込まれてしまってから相談するのは、これで最後にしてくれ」
「……はい」
クラウスがもう一度、大きく溜め息をついた。
それから腕組みをしたまましばらく考え込んでいたが、やがて、苦々しい顔で私を見た。
「それじゃぁ、こうするんだ。閉店したお茶屋の店内でレッスンをすること。きっとご主人も店内のどこかに残っている時間だろう。回数は週に一回、時間は、45分。終る時間に俺が君を迎えに行く」
「貴方がわざわざ迎えにくるの?仕事の迷惑になるんじゃ……」
申し訳なさで声も小さくなりつつ、そう尋ねると、クラウスは眉を潜めて私を睨んだ。
「こうでもしてそいつにプレッシャーを与えておくしかない。その日だけ少しだけ早めにオフィスを出るだけのことだから大したことはない。どうしても俺が行けない時があれば、ヨナスか、オフィスのスタッフか、とにかく誰かを迎えに行かせる」
「そこまでしなくても、ちゃんと帰るよ」
「信用できない。すでに仕事帰りに二回も付き合わされているということを忘れるな」
「それは、そうだけど……」
「とにかく」
クラウスは私の声を遮ると、きっぱりと条件を確認するように繰り返した。
「お茶屋のご主人に連絡するんだ。レッスンは、週に一回、閉店後の店内で45分間のみ。それ以外の場所や方法を希望するなら、この話は断ると」
「は、はい」
私は背筋を伸ばして頷いた。
クラウスの言うことは最もだし、迎えに来てもらうことが申し訳ないけれど、変な誤解を生まないためにも、この方法が一番だろう。
私はすぐに、テーブルに置いてあったラップトップを開いて、お茶屋のご主人へメールを打ち始めたのだった。
翌日の朝、クラウスがテーゲル空港まで私を送ってくれた。
1時間の短時間パーキングに車を駐車して、クラウスがトランクからシルバーのスーツケースを取り出す。今回はボストンバッグにすべての荷物が収まらず、彼が持っているスーツケースのコレクションを見せてもらったら、丁度いいのがあったのでそれを借りることにしたのだ。スイスのvictorinoxというブランド製で、ソフトな材質で軽量化されていて、しかも機内持ち込みサイズ、と使い勝手もよさそう。
今日はこのまま仕事に行くというので、彼もスーツ姿で、上にダークブラウンのレザージャケットを羽織っている。スーツもジャケットもZ ZEGNAというイタリアのブランドのものだ。やはりイタリア製のものがよく似合うなと思うけれど、彼自身はスーツよりも、ジーンズやシャツなど身軽な服装が好きらしく、いつか、スーツを着なくてもいい生活をしたいと言っている。ヨナスは仕事上、カジュアルダウンした服装で割と自由だけれど、クライアントとの打ち合わせや商談を主に担当しているクラウスは、流石にジーンズでというわけにはいかない。
チェックインまで済ませると、搭乗時間まで1時間ほどだ。
「私、もう中に入るよ。出発まで搭乗口の近くで飛行機を見てる」
クラウスも今日は早めにオフィスに行く必要がある日なので、あまり彼の時間を無駄に取りたくないというのもある。
時計の時間を見て、クラウスも頷いた。
「わかった。じゃぁ、明日の夕方に会おう。ホテルでの待ち合わせで、本当に大丈夫だったか?」
「うん、自分で行ける!英語圏だし、心配ないよ」
私は自信たっぷりに頷いた。
名残惜しげにお互いを見つめて、同時に笑い出す。
たった1日、離れるだけだというのに、場所が空港だということもあり、何故か少し感傷的になってしまう。
「なんだか変な感じだね」
私がそう言うと、クラウスが笑って頷いた。
「君のいないアパートに帰るのは夏以来だ。きっと落ち着かないことだろう」
「夜、電話する?」
「11時前に帰宅したら電話する」
クラウスはそう言うと、にっこり笑って両腕を広げた。
私はぎゅっと彼の背中を抱きしめ、その温もりに抱かれながら心の中で謝罪する。
勝手に、レオナ・ローサに会いに行く私を許してね。
本当に、ごめんね。
相談もしないで行くことを、許してね。
でも、きっと何かいい結果に繋がると思うから。
私はどうしてもこの秋のラベンダー畑に、行きたかった。
これからの未来へ繋がる扉を開けるために。
私が搭乗したGermanwings 4U8460は早朝にも関わらず満員御礼で、定刻通り7時30分に離陸した。2時間を切るフライトなので、本当にあっという間だ。
クラウスは私がどうしてこんな朝早いフライトで行くのか、当然ながら疑問に思ってその理由を聞いて来た。なぜなら、表向きは取材は翌日の土曜日となっているので、金曜日の夕方までにロンドン入りすれば間に合うからだ。
それに、ロンドンくらいだったら、日帰り出張出来る距離というのもあるから、たった一件の取材のために、私が金曜日の早朝から二泊三日、というのは、どこか不自然な感じがするのだろう。
言い訳として、せっかくロンドンに行くのなら、街のカフェやレストランなどを今後の記事執筆の参考までに見て回りたいから長く居たい、と釈明した。
そのこと自体は決して嘘ではなく、ロンドンの街で人気のあるカフェを見て回りたいというのは本当だ。結局その最もらしい理由付けに、クラウスもしぶしぶながら了承してくれた。
今回、Germanwingsという航空会社を初めて使った 。LCC(Low Cost Carrier)なので、飲食等は全て有料。でも、乗っている時間があまりに短いので、殆ど誰も何も注文している様子はなかった。
ヒースローに到着したのは8時25分。
ドイツとUKでは時差が1時間あるので、今、ドイツは1時間先の9時25分だ。
預けている荷物はないので、さっさと税関を通り抜け、あっという間に電車のターミナル駅に辿り着く。ヒースローエクスプレスというピカピカの青い電車だ。市内まで所要時間およそ20分だというので、プラットフォームのすぐ前にある乗車券自販機でセカンドクラスのチケットを買う。クラウスが面倒な換金をせずにいいからと、彼が持っていたポンドをくれたので、すべてがサクサクと進む。
お金といえば、時々悩む問題だ。
彼は金銭面に関して特に何も考えていないように見えるけれど、私はやっぱり、一応付き合っている関係上、彼にすべておんぶにだっこ状態であることは良くないと思っている。だから、極力自分のものは自分で払うようにしているし、スーパーでの買い物も自分が行く時は自分のお金で購入している。クラウスと一緒に行動している時は、買い物も食事も彼が払ってしまうので、もうその際は私も財布を出すのは諦めたけれど……
今回のポンドについては、後日経費としてはるの会社から支払われるので、クラウスにはきちんと返すと伝えてある。
今度引っ越す予定のお家や、家具などについては、一度きちんと話す必要があるだろう。
正直なところ、私が半分負担するというのは非現実的。
どう考えてもそれは無理なのだけど……
家具や家電だって、総額にしたら半端ない金額になるだろうし、屋敷自体はもう、到底私なんかが支払える世界じゃない。
ベルリンに戻ったら、家具のショールームに行くという話になっているから、そのタイミングでこの件について話をしてみよう。
恐らく彼は、彼自身の希望でアパートを出るわけだから、屋敷も、家具家電も私が負担する必要は一切ないと言うだろう。でも、やっぱり全部負担してもらうのは、フェアじゃない気がする。
結局、二人で使うわけだし。
せめて光熱費を払うとか、月々支払いをする方法を提案したい。
どうしてそこまでこだわるかというと、私達は付き合っている関係だから。
結婚して家計を共にしている夫婦とは違う。
……結婚?
その二文字が頭に浮かび、そのときめく響きにどこか切ないような胸の苦しさを感じた。
当然ながら、私達の間でその話題が出た事は一度も無い。
それに、マリアやヨナスでさえ、結婚はしていない。
ヨナスはSommerfeld家を戸籍上は出ているとはいえ、多分、一族会議とやらで協議がなされないと、彼らでさえそう簡単に結婚は出来ないのかもしれない。
私から見て、もう何年も交際しているマリアとヨナスはとうに結婚しているのと変わらない関係に見えるのだけど、やっぱり、マリアが外国人でしかもラテン系というのがネックになって、未だ結婚には至っていないのかもしれない。
私とクラウスなんてまだ、付き合い始めて日も浅いし、それに彼は事実上は本家の跡取りという特殊な立場にあり、しかも私は国籍上、日本人というややこしさ。
普通の国際カップルでさえ結婚に至るまでは面倒なことが多いのに、私達なんてそれ以上に大きな課題を抱えている。
いつか、彼と私の間で、結婚ということを意識する日が来たとしても、自分達の気持ちだけでそれを実現出来るという単純なものじゃないだろう。
でも、ずっと彼と一緒に居たい。
死が別つまで……ううん、死しても尚、共に居られたら。
彼と一緒に家庭を持つなんて、そんな夢を見ても良いのだろうか。
いつか、そういう日が訪れてくれたら、どんなに幸せなことだろう。
と、そこまで飛躍していく自分の願望に気がついて、はっと我に返る。
今、これほど幸せなのに、それ以上を求めるなんて罰当たりすぎる!!!
欲深さは自己を陥れてしまう。
足るを知る者は富むというではないか。
人間の欲望にはきりがないが、欲深くならずに分相応のところで満足することができる者は、心が富んで豊かであるということ。
欲に捕われた人間は醜いものだ。
気をつけないと!!!
自分を戒めるつもりで何度もそう自分に言い聞かせる。
そんなことを考えているうちに私が乗る予定の電車がプラットフォームに入って来た。
辺りを見渡しながら、安堵の溜め息が出る。
全てが英語表示というのが、これほどリラックスするものだとは!
アナウンスもしかりだ。
つまり、私のドイツ語力はまだまだ発達途上だということだろう。
生活する上で全く問題がなくなるレベルに達するまで、まだまだ先は遠そうだ。
ヒースローエクスプレスに乗車して、ショルダーバッグから携帯を取り出す。
クラウスは恐らく夜まで終日忙しいので、すぐに返信は出来ないだろうが、無事に到着したかどうかは必ず連絡するようにと言われていた。
クラウスに短いSMSを打つ。
ヨーロッパ内ならSMSなら何処でも送れるのが便利だ。
1時間後、私はロンドン市内のヴィクトリア駅に到着していた。
例のニットデザイナーが運営するCafe Singleが、ビクトリア駅というロンドンでも規模の大きい駅の近くだったので、空港から乗り継ぎをしてこちらへ来た。だが、この駅構内がものすごく広くしかも大勢の利用客で溢れ返っていたたため、到着直後はちょっとした迷子になってしまった。
とはいえ、約束の時間にはまだ余裕があったので、大体の位置と方向を確認すると駅構内へ戻り、二階の「ヴィクトリアプレイス」というショッピングセンターに行き、久しぶりにマクドナルドに入った。
ベルリンでファーストフード店もあることはあるけれど、カフェの数の方が圧倒的に多いせいもあり、それほど目につく事はない。それに、クラウスはファーストフードには一切興味がないらしい。なんでも、アメリカ留学中に散々食べたせいか、もう二度と口にしたくないとまで言うほど飽きたらしい。その話をアナにしたら、「女遊びと一緒じゃない?ジャンクフードも食べ過ぎるともう受け付けなくなるんだよ」なんて笑っていた。それが事実なのかどうかは定かではないが、彼の様子からして、恐らく二度と口にしないのは確かだろう。かくいう私もベルリンに来てからもうすぐ11ヶ月になるけれど、一度もファーストフードに入ったことがなく、まさかの初マクドナルド@ヨーロッパが今日この日だった。注文してみたのは、朝メニューのパンケーキ&シロップとラテ。日本でたまに食べていたメニューなので、懐かしさを感じつつ食べた。ドキドキしながら食べ始めたけれど、久しぶりのせいか、味や食感に違和感を感じたのが残念。でも、東京に戻った様な気がしてちょっぴり楽しい。
インタビュー取材用のメモやデジカメの確認をしながら、1時間ほどゆっくりと過ごす。
スーツケースを持って移動するのに慣れていないので、これを忘れたりしないように椅子の真横に付けている。
出勤時間ということもあり、マクドナルドも注文カウンターのほうは混んでいるが、席のほうは空いていて静かだ。
ヨーロッパは個性溢れるカフェが地元に定着している国々が多い。
文化的に歴史を重んじる国民性もあるのかもしれない。
ファーストフードだけでなく、あのスタバさえ軒数が少ないのは、人々がそれぞれ行きつけのカフェがあるからだろう。
そのカフェに行けば、顔なじみのお客さんがいる。
お店の人も自分のことを覚えていてくれる。
そうなると、ますます浮気出来なくなって、お気に入りのカフェに足繁く通うようになってしまうわけだ。
私はもっといろんなカフェを食べ歩きして、それを日本に発信していきたい。
ロンドン滞在中に訪ねることが出来るカフェの数はたかが知れているけれど、思い切り楽しもう、そう強く思いながらマクドナルドを出た。
駅を出て賑やかな通りを歩き、路地にはいるとすぐにレインボーカラーにペイントされたベンチが見えた。
これが、Cafe Singleの目印。
近くへ寄ると、大きなガラス窓のディスプレイには、白いトルソーが何体も並び、眩しい色合いのニットの作品が展示されていた。すべてがかぎ針だけで作られているというのが驚きだ。
真っ赤にペイントされたドアを開けて入ると、お昼前のせいか、客は誰もいなかった。
「こんにちは!クリスティーナ?」
私はキッチンのほうへ向かって声をあげた。
奥から声が聞こえて、やがて彼女らしき人が現れた。
「いらっしゃい!あなたがカノンね!待ってた」
奇麗な赤毛を刈り上げたボーイッシュな女性で、薄い青い目に、そばかすがキュート。鼻にダイヤのピアスをしている。化粧っけはないけれど、とても活発そうな魅力に溢れた人だ。真っ赤なニットセーターとブラックのパンツ姿で、いかにもアーティストっぽい。
フーゴの親友ということもあり、初対面感もなく笑顔でハグし合う。
「フーゴの従妹っていうから、楽しみにしてた!うん、やっぱりどこか似てるね」
クリスティーナが腕組みをして私の顔を見て笑う。
「今日は本当に有り難う。普段は取材NGなのに、無理矢理お願いしちゃって」
私はベルリンから持って来たお土産のチョコレートを差し出した。
「あ、気を使ってくれちゃって!ずうずうしいフーゴとは全然違うんだ」
彼女は大笑いしながら受け取って、ありがとう、と言った。
「ジョン!アシュリー!ちょっとアトリエに行っているから、後はまかせた」
クリスティーナが声をキッチンを振り返ってそう声を張り上げると、呼ばれた二人の顔がこちらをのぞき、オッケー!と返事をした。
「とっても楽しそうなカフェだね」
彼女のニット作品の取材に来たのに、カフェのほうまで気になってしまい、カウンターの上にあるメニューに目がいく。
「後で、おすすめのランチセットを上に持ってこさせるから、食べていってよ」
クリスティーナはにこにこしながら私の背中を押して、二階へと続く階段へ向かう。階段もカラフルにペイントされていて、ピンクや赤、イエローなど、原色系のカラーをベースに、太い黒い線で幾何学模様や花、星など様々なものが描かれていて、とても面白い。
「このカフェの内装も、クリスティーナさんが?」
階段を上りながら聞くと、彼女が私を振り返り頷いた。
「ま、仲間で一緒にわいわいやりながら気の向くままに塗ったって感じよ。カフェの運営自体、共同運営という形態だからね」
「気の合う仲間で集まる場所って感じかな?すごく、居心地良さそうなカフェ!色合いもユニークで楽しい!」
私はこのカフェの写真も後で撮影させてもらえるか聞いてみようと思いながら、ゆっくりと階段を上った。
真っ赤にペイントされた縦長の扉を開けると、その向こうは異世界だった。
真っ昼間なのに薄暗いのは、窓がカーテンで覆われているせいだ。
空気まで少しひんやりして、カーテンの隙間からわずかに差し込む光で、空中のホコリがキラキラと輝いている。
「ここは、アトリエ兼、私の居住スペース」
クリスティーナは私の背中を押して部屋の中へ誘導した。
使い込まれた感じのあるゴールドカラーのカウチにはニットの膝掛けが幾重にも掛けられていて、ランプのシェードも、丸いテーブルにかかる黒いニットのテーブルクロスも、奥に見える彼女のベッドのカバーもすべて、彼女の作品らしかった。家具の合間にはトルソーやハンガースタンドがいくつも置いてあって、それらにも多くの作品が掛けられている。
「すごい……まるで、ニットの森!地球以外の場所に居るみたい……」
あたりを見渡してあまりの衝撃と感動に圧倒されている私を見て、彼女が大笑いした。
「そんな大したものじゃないよ。整理整頓とか苦手で、編んだ物を放置しているだけだから」
「ううん、ニットの美術館みたいですごい。一体、ここにある作品数はどれくらいなの?」
「そうねぇ、数えた事もないからなぁ……編み掛けのものもそのへんに放置してるし……」
クリスティーナは腕組みをして、苦笑いしながら自分の周りをぐるりと見渡した。
無事にインタビューと撮影を終えた私は、ヴィクトリア駅に戻っていた。
ここで、今晩お世話になるビルと待ち合わせしている。
巨大な出発案内の電光掲示板の下がバーガーキングで、その前で3時半の待ち合わせになっていた。
クリスティーナのところで撮った写真をデジカメで確認しながらビルが来るのを待つ。
写真のクオリティはまぁ、まずまずという感じだ。
アダムみたいにプロじゃなくて、完全にアマチュアだから、スナップ写真ぽくなってしまっている感じは否めない。今回、自分で写真を撮ることになったので、前もってアダムに「写真の撮り方」の基本を聞いておいた。だから、逆光にならないようにするとか、人物撮影の際の角度、作品の撮る角度や背景の選び方など極力気をつけていたので、ネットで掲載する分では大きな問題はないレベルのものが撮れた気がする。印刷向けには絶対アウトだろう。ネット掲載用で本当によかった。
ベルリンに戻ったら、アダムが画像をチェックして、画像加工が出来るphotoshopというプログラムで色彩や明度、コントラストを調整してくれることになっていた。彼の心遣いには本当に感謝してもしきれない。
「カノン?」
ハスキーな太い声がして顔を上げたら、小太りで人の良さそうなヒゲのおじさんが柔和な笑顔で立っていた。
この顔は、フーゴが前もって送ってくれた写真のビルだ!
フーゴのバンクーバー時代の昔の同僚。
ワインレッドのパンツにブラックのシャツ、薄手のグレーのセーター姿で、どこか英国っぽい雰囲気。ベルトの上にぽっこりと出ているお腹に親しみを感じて、思わず私も笑顔になる。
「こんにちは!」
「ロンドンへようこそ」
ビルが両手を出したので、右手を差し出すとぎゅうと握手してくれた。肉厚のあったかい手で、なぜか彼の顔がサンタクロースに見えてしまう。
「フーゴにこんな可愛い従妹がいたとはねぇ。さっき遠くから君を見つけたけれど、フーゴが、自分と目元が似てるっていうからすぐにわかったよ」
「そうですか」
私は笑いながら頷いた。
私とフーゴは、背格好も髪の色も肌のトーンも違うけど、どうやら本当に目元の印象は似ているらしい。
ビルさんが私の肩に手をやってにっこりした。
「ついこの夏、フーゴに会ったばかりだから記憶も新しいしね。さぁさぁ、では行こうか。この駅はいつも混むから落ち着いて話なんかできやしない」
「わざわざお迎えしてもらって恐縮です。今晩はお世話になります」
思わず頭を下げるとビルさんが笑った。
「やっぱり日本人だね」
「あ、つい」
自動的に頭を下げてしまったことに私も気がついて笑い出した。
「そういうところはフーゴとは全然違うらしい。さて、それじゃ先に、ジンジャーをお迎えしてからでいいかな」
「勿論です!」
私は大きく頷いた。
ビルの現パートナー、ジョナサンには、以前普通の結婚をしていた際に生まれた娘、ジンジャーがいる。離婚して彼が娘を引き取ったので、現在はビルとジョナサンが共同で育児をしているらしい。今、自宅近くの幼稚園に通っているので、二人で交互に送迎をしているらしく、私が来る日は丁度、ビルが仕事を早くあがって、ジンジャーをお迎えする日だった。
私達は電車に乗って、彼らの住むエリアへと向かった。
アットホームなお宅でのホームステイ気分で、私はすっかり楽しんでいた。
ジンジャーはまだ5歳だけどおしゃべりが達者で、人見知りも全くなくて、私相手にお人形遊びやらボール遊びとすっかり懐いてしまった。私は小さい子と遊んだ経験はなかったけれど、もう5歳くらいになると会話も成り立つし、ベビーシッターという仕事なんかも楽しんじゃないかなんて思ってしまう。キッチンで、ビルとジョナサンが特製のフィッシュ&チップスをこしらえてくれる間、私はジンジャーと一緒にソファに座ってテレビのディズニー・キッズ・チャンネルを見てくつろぐ。
まるで、親戚の家に遊びに来た様なリラックスぶりの自分に笑ってしまう。
ビルとジョナサンが中年のゲイカップルだということ以外、ここは普通の温かい家庭だ。
ミッキーマウスの番組なんてテレビでやっているなんて知らなかったので、結構真剣に見ていると、ソファの横に置いてあったショルダーバッグから僅かな振動を感じ、急いでバッグを開けて携帯を取り出す。
クラウスからの電話だ!
「ハロー?」
応答すると、いつもより若干遠くに感じる彼の声が聞こえて来た。
『やぁカノン、どうしてる?ロンドンはどうだ?』
「うん、楽しいよ!今、ビルのお家に来てて、娘さんと一緒にテレビ見てるの」
そう言うと、テレビを見ていたジンジャーが私の膝に身を乗り出した。
「カノン、その電話、だれ?」
私はジンジャーの赤茶色の髪を撫でて笑いながら答えた。
「ドイツにいる彼だよ」
「ふうん、カノン、ボーイフレンドがいるんだ!あたしも幼稚園にいるよ、マイケルって、ピアノが上手な子なの」
「ピアノが出来る彼なんて素敵だね!」
私は無邪気なジンジャーの頭をそっと撫でながら、携帯のほうへ話しかけた。
「クラウス?」
『楽しいおしゃべり相手がいるようで何よりだ』
電話の向こうでは、私達の会話を聞いていたらしいクラウスが笑っていた。
「ベルリンはもう、夜の7時だよね?」
『そうだ。ということは、そちらは6時か。俺はこれからしばらくヨナスと打ち合わせして、それから例のゲストを夕食に連れて行くから、今晩の帰宅は遅くなってしまいそうだ』
「うん、だから今、かけてくれたのね。有り難う」
『忙しかったせいか、今日は一日があっという間に過ぎた気がする』
「私も!」
そこまで言いかけて、危うく、今日、取材したことを口走りそうになって冷や汗が出た。
取材は明日、ということになっている。
嘘をつくというのは、こんなに大変なことなんだと今更強く認識した。
もう、二度とこういう嘘をつきたくない。
『カノン?』
今更ながら己の嘘を呪っていると、妙な沈黙に違和感を感じたらしいクラウスが私の名前を呼んだ。
本当に彼は、私の様子を感じ取るのが早い。
まるで私の姿を見ているかのようだ。
「あっ、ごめんね。つい……ミッキーマウスのほうに気を取られて」
苦しい言い訳をしたら、電話の向こうで不機嫌そうな声が聞こえて来た。
『……ミッキーマウスに負けるとは、屈辱的だ』
「……っ、ごめんなさい!あの、こんな子供番組、初めて見たからつい……」
慌てて謝罪する。
嘘に嘘を重ねる苦しさに加え、ミッキーマウスに気を取られてクラウスとの会話に集中していないなんて、失礼な言い訳まで口走った自分が情けない。
電話の向こうでしばしの沈黙の後、少しだけ笑う声が聞こえて来た。
『いや、冗談だ。子供のいる家はそんなものだろう。ニコルと電話すると大抵話も上の空だし、何かと邪魔が入るから、重要な話はいつも甥っ子達が不在の時間帯か、あるいは寝静まった後にしているくらいだから』
「そうなんだね。確かにこれくらいの歳の子って、じっとしていることはないみたい」
横を見れば、テレビに映るミッキーマウスを時々みながら、今度は膝の上で塗り絵にプリンセスシールを貼り始めているジンジャー。しかも、片足は床のボールを転がしている。
『そろそろ打ち合わせの時間だ。じゃぁカノン、明日』
「うん、電話ありがとう」
携帯を耳にあてたまま頷く。
数秒の沈黙の後、少しだけ低めの声が耳に流れて来た。
『……カノン、愛してる』
その言葉に胸がドキンとする。
何度聞いても心の奥深くまで響く彼からのこの言葉。
私は両手で携帯を握りしめ、想いを込めて囁き返した。
「私も。愛してる!明日、会うの楽しみにしてるね」
電話の向こうで笑い声が聞こえ、彼は小さく『チャオ』と囁いて電話を切った。
私はふうと溜め息をついて携帯をバッグに戻した。
「カノン、顔が赤いよ?」
「えっ」
ジンジャーが青い目をまんまるにして私の顔を覗き込んでいる。急に恥ずかしくなって照れ笑いをすると、ジンジャーがにこにこして私の腕を両手で掴んだ。
「暑いの?後で一緒にアイス食べてね!あたしの大好きなキャラメルナッツアイスがあるの」
「うん、もちろん!私もアイス、大好き!」
私は大きく頷いてジンジャーの頭を撫でた。
翌朝の土曜日、早朝からヴィクトリア駅まで車で送ってくれたビルさんにお礼を言ってお別れをする。たった一泊お世話になっただけだけど、とても心が暖まる体験だった。ジンジャーにきちんとお別れを言いたかったのだけど、彼女はまだ夢の中だったので起こすのも可哀想だったから、手紙を置いて来た。ベルリンからそう遠くはないし、きっとまたいつか会えそうな気がする。
駅でコーヒーとベーグルサンドを購入した後、私は予定通りに6時58分初のFirst Great Westernという高速電車に乗車していた。Bathに到着するのは8時55分の予定になっている。
窓の外に目をやりながらコーヒーを飲んだ。
全く味がしない。
ただの熱い黒い液体?
もう一口飲んで思わず顔が歪む。
やっぱり熱さしかわからない。
でもそれは、コーヒーが不味いからじゃない。
私が、極度に緊張しているからだ。
クリームチーズのベーグルサンドも、味はしない。
噛み応えのある弾力感のある塊が喉を通過して胃に下りて行くのは感じるけれど、それはただ、お腹を満たすだけのものであって、到底味わうなんてものじゃなかった。
勝手に、レオナ・ローサに会いに行く罪悪感。
クラウスにも嘘をついてこんな身勝手な行動をしている事実の重さ。
その瞬間が近づくにつれて、私がやろうとしていることの重大さに気がつく。
勢いでここまでつっぱしって来てしまったけれど、よく考えたらとてつもなく異常な行動なのかもしれない。
私なんて、本当にユリウスとレオナにとって全く無関係の立場にいる人間なのに。
考えだすとどんどん暗くなっていくので、私は無理矢理そのことを頭の隅においやって、また昨日のデジカメを取り出し、テーブルの上に昨日の取材メモを取ったノートとペンを取り出した。
今のうちに、出来る限りの内容を復習しておいて、記事の構成を考えておくことにしよう。
レオナ・ローサに会った後、もしかしたら気が動転して数日は何も手に付かないなんてこともありえる。
そんなことになっても、〆切は必ずやってくるのだから、理性がある今のうちに、出来るだけ作業を進めておくべきだ。
重大な悩みや問題を抱えている時に、〆切というものは、現実逃避する最適な方法だ。
夏には、あの不審な手紙で気が狂いそうな時に、〆切というもので半日以上は理性を保つことが出来たくらい、その効力は強い。
昨日の写真を確認しながら、取材内容をリビューしていくと、あっという間にすべてを忘れて私は作業に没頭していた。
今回は、ニットウェアなどの作品をメインに取材するつもりが、最終的にカフェまで取材させてもらったので、記事のボリュームが二倍近くに増えそうだ。でも、ネット記事なので、出版する雑誌と違って文字数の変更も割と融通が利くようだし、基本的に情報量は多いほうが喜ばれるだろう。
写真を見ながら取材内容を整理しているうちに、外の景色はあっと言う間に都会の喧噪から田舎の風景へと変わっていた。
懐かしいオランダの牧場を彷彿とさせる、広々とした草原だ。
季節柄、その色合いはもう青々とした草原とは呼べないくらい色あせていたけれど、うっすらと朝靄に覆われた草原はのどかな中にも秋の風情が漂って美しい。
もうすぐ、レオナ・ローサに会う瞬間。
ユリウスが愛した人。
のどかな草原の風景が遠のいて行くに連れ、また街並が見えて来て、まもなく、First Great Westernは予定より5分遅れの9時きっかりにBath Spa駅へ到着した。
Bathという街は今まで聞いた事もなかったけれど、観光やスパで有名な場所らしく、駅もかなりの利用客で賑わっていた。私が降りた駅も、スパという名前がつく駅で、駅舎も薄いベージュ色のお城のようなデザインでベルリンとは全く違う雰囲気だ。周辺は多くの建築物で思ったよりも都会だけれど、高層ビルのようなものが目につかないので、頭上に広がる空は大きく開放感があって、リゾート地らしい雄大な自然を感じることができる。
ここの空気は格別に美味しい。
こんな街に、彼女はどれくらい住んでいるんだろう。
私はスーツケースを引きながらタクシー乗り場を探し、しばらく歩いてようやく一台のタクシーを発見した。
ボンネットに寄りかかってタバコを吸っていた運転手さんが私に気がつくと、すぐにタバコを消して、笑顔で後部座席のドアを開けてくれた。
「行き先は?」
「Summer Filedってわかりますか?」
「Summer Filed?あぁ、ラベンダー畑?」
車に乗り込んだ運転手さんは私を振り返って、それから不思議そうな顔をした。
「でも、もうラベンダーの季節は終っているよ。予約は入れているのかな?」
「いいえ、牧場の人を尋ねるので」
「そうかい、だったら問題ないね」
運転手さんは笑顔でそう言うと、シートベルトを締めてエンジンをかけた。
車はゆっくりと発進し、Bath Spa駅を離れて行く。
窓の外を眺めながら、駅周辺を離れると本当に大自然に溢れた街だと気がつく。
ラベンダーの季節は終ったけれど、人々はスパを目指してBathにやってくるらしい。こんな美しい大自然の中にあるスパなんて、どんなに素晴らしいことだろう。
日々の疲れを癒し、心身を温めてくれる温泉。
デジカメや携帯で風景の写真を撮ろうかと思って、やっぱり止めた。
そんなことをして、その写真を誰かに見られたら、私がこっそりBathに来た事がバレてしまう。
昨日の取材写真だって、自動的に日付までデータに入っているから、これを全部、今日の日付に書き換えてからアップロードしないといけない。アダムにも、取材は今日だと言っているからだ。
ひとつの嘘で、つじつまを合わせるために使う労力は想像以上のものだった。
これって、証拠隠滅?
それとも、情報操作?
まるで、犯罪に加担したスパイみたいな気分になる。
本当のところ、もう、すべてクラウスに吐き出したい。
いや、場合によっては、今日中にもう本当のことを話したい。
やっぱり、彼に嘘をつくのは耐えられない……
そんなことを考えながら、空に浮かぶ雲を見上げる。
今頃貴方は、アパートで朝食を取っているんだろうか。
そして、甥っ子達へのプレゼントをスーツケースに詰めて、午後には1人でテーゲル空港へ向かう。
彼の事を考えたら急に会いたくなって、胸が苦しくなった。
今すぐにクラウスに会って抱きしめたい。
今日の夕方には会えるのに!
そして、もう一度、これから会うレオナ・ローサに、どのように話を切り出そうか考えてみる。
やっぱり、自己紹介から?
それから、クラウスのこと。
そして、ユリウスのこと……
うまく、説明出来るだろうか。
彼女の迷惑にならないように、必要以上に動揺させなくてすむように、きちんと話せるだろうか。
「お客さん、もうすぐだよ」
「あ、はいっ」
私はドキンとして背筋を伸ばした。
あたりはすっかり牧場の風景で、地平線が見えるくらい壮大な景色が広がっていた。
時計をみると、9時40分。
タクシーはやがてロッジ風の平屋が見える道路で止まった。
「ここからは敷地内だから、歩いていってもらうしかないんだよ」
「わかりました、有り難うございます」
私はチップ代も含めて少し多めに渡して、帰りのことを考えて質問した。
「あの、帰る時にタクシーを呼ぶにはどうしたらいいですか?多分、あちらで電話をお借りしようとは思っているんですが」
「帰る時間、決まっているのかな?」
「それが、はっきりとは分ってなくて。多分、午後の2時前後だとは思うんですけど」
「それじゃぁ、おじさんの番号をあげておこう。電話をくれた時に空車だったら、20分、30分でここに来るよ」
運転手さんが名刺をくれたので、ありがたくいただく。
「ありがとう、助かります。じゃぁ」
私はタクシーを降りて、運転手さんに会釈した。
タクシーはプップー、と短いクラクションを鳴らして来た道をUターンして走り去って行った。
豆粒くらいに小さい影となったタクシーから目を離し、私はそのロッジ風の可愛らしい建物を見た。ネットのHPに載っていた、カフェ兼ショップの建物のはずだが、見た所、開いてはいないようだ。
ラベンダーシーズンの夏期以降は基本的には閉まっていて、クリスマスの6週間前からクリスマスまでは、ギフト販売のために期間限定で開店しているとネットには書いてあった。
だから、今は時期的には閉店している期間。
今更だけど、もし、誰もいなかったらどうしよう?
急な不安に襲われながら、芝生の上に敷かれた石畳の上を歩いてその平屋のほうへ向かう。
店は閉まっていても、誰かが居るだろうと勝手に思い込んで来てしまったけれど。
嫌な予感を感じながら、呼び鈴を押すが、反応はない。
誰も、いないの?!
扉をノックしてみる。
やっぱり反応はなし。
困ったことになった!!!
私は途方に暮れて、しばらく扉の前に立ち尽くした。
どれだけ長い間、ただ呆然と立っていたかわからない。
建物の中からは誰も出て来ないと100%確信すると、諦めて扉から離れ、芝生のベンチに腰掛けた。
さぁ、困った!
どうしたらいいんだろう!
クラウスにも相談しないで勝手にやってきた上、レオナどころか、誰もいないなんて。
勢いで後先も考えずに行動した結果がこれだ。
単細胞な私の辿りついた所は、行き止まりってやつ。
自己嫌悪にうなだれ、大きな溜め息をついてあたりを見渡した。
あたりに、人の気配は全くない。
遠くで、牛の鳴く声が聞こえるだけだ。
牛が人間と会話出来るのなら、どこに人が居るのか聞けるのに!
……牛?
あれ……?
ふと、私はあることに気がついた。
ここは、ラベンダー畑というだけでなく、牧場でもあり、確か、乳牛を放牧していたはずだ。
ということは、牛乳を毎朝、絞っているということ。
誰かが、その作業をしているわけだ!
私は急いでベンチから立ち上がり、スーツケースを引っ張って牛の鳴き声がした方へ歩き出した。
歩きながら、期待は確信に変わって行く。
絶対に、人がいるはずだ!
どんどん歩いて行くと、少し離れたところに、牛舎と工場っぽい近代的な建物、そして広い牧場に散らばる牛の影も見えて来て、思わず安堵の溜め息が出る。
よかった。
誰かがいる。
ここにいる人に、彼女のことを聞いてみよう。
柵に沿って歩いていくと、牛舎のあたりに人影が数人見えて来た。
「ハロー!」
歩いて牛舎のほうへ向いながら、私は大声をあげてみた。
私の声に気がついたのか、彼らがこちらを振り返る。
そのうちの1人が、柵のほうへと歩いて来た。
いかにも力仕事が得意そうな、赤ら顔のおじさんが、笑顔で私に声をかけてくる。
「どちらさん?」
「すみません、カノンっていいます」
「カノン?」
私は大きく息を飲み込み、覚悟を決めてはっきりと言った。
「レオナ・ローサさんに会いに来ました」
すると、おじさんはびっくりしたような顔をして、それから面白そうに私の顔を眺めた。
「レオナにアジアからお客さんとは初めてだ。もしかして、以前、ラベンダーファームのほうへ来たお客さん?」
「いえ、違うんですが、個人的にお会いしたくて来ました」
「そうかい。じゃ、今、呼んで来るからちょっとそこで待ってなさい」
「えっ、ここにいらっしゃるんですか?あ、ありがとうございますっ!」
興奮で声が裏返ってしまった。
緊張も一瞬にして最高潮まで達し、膝がガクガク震え始めているのもわかる。
嬉しいのか、不安なのか、わけのわからない興奮で武者震いする。
ついに、その瞬間だ。
そう思うと、ますます膝が震えてまともに立っていられなくなり、私は柵に寄りかかるようにして必死で呼吸を整える。
どうか、すべてがいい方向に向かいますように。
「いらっしゃい」
私が背を向けていた柵の後ろから、優しい声が聞こえてきて、ドキンとして振り返った。
「私を尋ねてきてくれたって聞いたわ」
目の前でそう言ってにっこりと微笑む女性。
あの、レオナ・ローサだ。
私は雷に打たれたように身動きが出来ず、彼女を見つめた。
ゆるやかに波打つ栗色の髪は、肩のところで切りそろえられていて、所々白い髪が混じっている。苔色の美しい深緑色の目は、穏やかに細められ、優しい微笑みを浮かべた大人の女性。目尻に薄く皺があるけれど、健康的でつややかなその肌は、彼女が20代だった時の様子を容易に想像出来るくらい、とても若々しい美しさがあった。年齢を感じさせないのは、彼女がジーンズに青のギンガムチェックのシャツと若々しい服装だったせいもあるだろう。
包み込むような温かさで辺りを照らす、明るい春の光のような人だ。
さっきまでどうしようもないくらいガクガクしていた膝の震えがぴたりと止まっているのに気がつく。
私はレオナ・ローサを目の前に、すべての緊張を忘れる程リラックスしていた。
私の様子をただ黙って見ている彼女。
柔らかな微笑みを浮かべて、私が何か言うのを待ってくれている。
私は心の奥底から、ユリウスに彼女を会わせてあげらえたら、と思った。
「……急に押し掛けてきて、本当に失礼だとわかっています」
私は、ゆっくりと口を開いて、彼女を見つめた。
レオナは少し驚いたように目を見開いた。
「どうして、失礼だなんて思うかしら?遠くから、私に会うためにわざわざ来てくれたのに」
そう言うと、彼女はにっこり微笑んで、私の肩に手を置いた。
「あちらにいらっしゃい。こんなところで立ち話したら、風邪をひいてしまうわ。もう、木枯らしが吹き始めたのよ」
「はい」
感極まって涙が溢れそうになる。
自分の声が震えているのに気がついた。
「あら」
レオナが私を見て苦笑し、それから優しく私の背中を撫でてくれた。
「貴女には、温かいホットミルクが必要ね。泣く子にはミルク、がよく利くわ」
「ふふ、ほんとですね」
私は可笑しくなって、目元を手で拭いながら笑って頷いた。
牛舎の向こうにある工場のほうには、小さなキッチンがあって、中に入ると言われるままにステンレスのテーブル席に座った。待っていると、本当に絞り立てのミルクを冷蔵庫から取り出して、コンロで温めたものを運んで来てくれた。
「有り難うございます」
ミルクと同じくらい真っ白なマグカップを受け取り、感謝の気持ちを述べる。
絞り立てのミルクは、まるでクリームのように濃厚でとても甘い。
確かミルクには、精神を安定させるメラトニン効果があったはずだ。お腹の中でじんわり広がる温かさで、心身がリラックスしていくのがよくわかる。
半分くらい飲んだところで、私はやっと、話を始める決意をした。
私の向いに座って、柔らかな微笑みを浮かべているレオナを見つめ、私はついに、その名を口にした。
「ユリウス・ゾマーフェルドをご存知ですか」
その瞬間、彼女の苔色の目に衝撃の光が走る。その驚きと動揺から、彼女が間違いなく、ユリウスが想い続けているレオナ・ローサなのだと確信した。
私がじっと彼女を見つめていると、しばらくの沈黙の後、レオナは大きな溜め息をついて、ふっと微笑んだ。
「その名前を聞いたのは、随分久しぶりだわ」
その声は、懐かしさを含んだ優しいものだった。
「ユリウスは、貴女と別れてから、再婚したんです」
そう言うと、彼女は少しびっくりしたように私を見つめた。
「まさか、貴女がユリウスの娘さん?」
「あっ、いえ、違います!」
私は慌てて否定した。
「あの、ややこしいんですが、私は、ユリウスの息子さんとお付き合いしていて……」
「そうなの。ユリウスには、息子さんがいるのね」
彼女は目を細めて嬉しそうににっこり微笑んだ。
私はふと、ダニエラを思い出した。
やっぱり、ダニエラとは全く違う。
レオナは心から、ユリウスのことを想って嬉しく感じている。自分と別れて再婚し、子供が生まれたと聞いて、普通なら嫉妬したり憎んでもおかしくないのに、彼女は、本当によかった、と感じている。
それはきっと、本当に、ユリウスの幸せを願っていたからだろう。
「ユリウスは、まだ、貴女のことを愛していると思うんです」
ユリウスの気持ちを想うと、我慢出来なくなってしまい、その他のややこしい説明をすっとばして結論を口走ってしまった。
すると、レオナは目を見開いて私の顔を見つめた。
「……カノン、貴女はそれを私に伝えるために、ここまで来たの?」
「……はい」
私は小さく頷いて、この行動に至った理由を説明した。
「ユリウスが、脳梗塞で倒れて……」
「まぁ」
レオナが小さく悲鳴のような声をあげ、それから沈黙した。
「それで、お見舞いに行きました。その時に、ユリウスが、何度か貴女のことを話されて」
「……でも、今は奥様もいるだろうに、そんな昔のことを」
レオナは困惑したように眉を潜め、心配げな顔で溜め息をついた。
「ユリウスは、貴女と別れた後、3回結婚して、もう2回、離婚しています。そして、今の奥さんとは、別居状態になっていて……でも、多分それは、ユリウスが、貴女のことを忘れられないから……それで、私達がお見舞いに行った時に」
私は喉に突っ返そうになる言葉を必死でコントロールしようと息をついた。
「昔、肺炎で入院した際に、病院食を拒否していたユリウスをなだめようと、貴女が退院後のメニューを聞いたという話をされて……ものすごく、懐かしそうにおっしゃられて。でも、同時にとても寂しそうな感じで、ずっと、後悔を引きずっている様子だったんです」
「あぁ、あの、病院で我が侭を言ってた時のことね」
思い出したのか、レオナがクスッと笑った。
「ユリウスは貴女を守れなかったことで自分をずっと責めていると思うんです」
「そうなの……それは、残念なことね……この長い年月、自分を責めていたなんて」
レオナはそう呟いて、しばらく考え込むように黙りこんだ。
私は彼女の指に、結婚指輪があるのか確認しようと目を向けたけれど、どの指にもついていなかった。でも、牧場の仕事をする時だけ外しているということもあるし、普段から指輪をしない既婚者だっている。
レオナは今、結婚しているのだろうか。
そこまで図々しくも聞いて良いのだろうか。
「それで、貴女は、私に会ってどうしようと思って来たの?」
レオナの質問を受けて、心の準備が出来ていなかった私は少し動揺した。
「えっと、あの、よく考えてなくて……ただ、まずは、ユリウスのことを伝えたいという気持ちで貴女に会いたいと思って……もし、いつか、また再会してもらうことが出来たら、あの、いつか、会って、もらうことは、出来ますか?」
結局、聞いてしまった。
口にしてしまったことは取り戻せない。
どうか、悪い返事ではありませんように。
祈る様な気持ちを必死に込めて、私はレオナの深緑色の目を見つめた。その、慈愛に満ちた優しい瞳が、一瞬だけ曇った。
「気持ちは、有り難いと思うわ。でも……私も、いろいろ事情があるから、そう簡単には……」
「……そう、ですよね……」
私は落胆して、はぁと溜め息をついた。
当然といえば、当然の結果だろう。
いきなり突撃訪問して、再会の約束を取り付けるところまでいくとは思っていなかったけれど、万が一にも、と期待していたのは確かだ。
明らかにがっくりしている私に、レオナは苦笑した。
「まぁ、貴女がそんなに落ち込まなくても。私は、貴女が来てくれて、とても嬉しく思っているわ」
「……そうでしょうか?いきなり来て、無茶苦茶なこと言って、迷惑だったのでは……」
気力も落ちて、弱々しい自分の声に苦笑いしてそう答えると、レオナがゆっくりと首を振ってにっこりと微笑んだ。
「本当に、来てくれて有り難う。さぞかし勇気がいることだったでしょう。ユリウスはきっと、そんな貴女の事をかわいいと思っているはずよ。私も、貴女みたいな女の子に会った事はない気がするの」
その言葉に、私はふと、ユリウスが言っていたことを思い出した。
「ユリウスが、私が貴女を思い出させるって、言ってました。どこかが、似ているって……」
「まぁ、そうなの」
レオナは嬉しそうに目を細めて微笑んだ。
「そうね。もしかしたら、そうかもしれないわ」
「そうでしょうか」
レオナはクスクスと笑うと、私の肩を軽く叩いて立ち上がった。
「せっかく来てくれたのだもの。牧場や、ラベンダー製品の倉庫とか、いろいろ見て行きたいでしょう?」
「えっ、ほんとですか?!」
私はびっくりして立ち上がった。
レオナはにこにこして頷き、楽しそうに微笑んだ。
「もちろんよ。是非、見ていってちょうだい。きっと、貴女の気に入る場所だと思うわ」
「わぁっ、ほんとに!すっごく、嬉しいです!」
私は大きく頷いて、残りのホットミルクを一気に飲んだ。
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