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仔猫は息をしていなかった。
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「助かるかしら?」
キャサリンが心臓を絞り込んだような声をあげた。
神様へ祈りながら、それでも諦めにすっぽりと包まれたキャサリンの表情が横目に入る。
濡れたぼろ雑巾みたいな仔猫の胸部をさすり、指先で胸をたたく。
力を入れてはいけない。
肋骨が折れてしまう。
手のひらに収まるほど小さな生命は、生まれて間もないことを物語っていた。
ぬくもりはかすかに残っていたが、息はすでに途絶えている。
「だいぶ飲んでると思う」
高原の小川に、なぜ仔猫が流れてきたのかはわからない。
上流で野良が乳飲み子の1匹を間違って川に落としてしまったのかもしれなかった。
「ホテルで飲料水のボトル買ってきて。あとカッター。フロントに言えば貸してくれると思う」
さすってだめなら。今度は。
足を持ち、吊るして左右にゆすってみた。
肺や胃に溜まっているはずの水を吐き出させないと。
どうだ?
手を止めて様子をうかがう。
だめだ。
今度は上下にゆすってみる。
どう?
やはりだめだった。
横たえて、もう一度胸部を指先で軽くたたく。
もっと強い刺激のほうがいいのだろうか?
いや、それはできない。力を加えたのでは、体温を失いかけている体はもろく崩れていきそうだった。
人工呼吸は、最後の手段だった。それでだめなら天命だと覚悟を決めるしかない。
しばらくすると、ホテルを背にキャサリンが左右の肩をでたらめに揺らしながら戻ってきた。
「水、捨てて。カッターで真ん中から上下に分けて」
僕の指示に、焦る気持ちを振りまわしながら、キャサリンはペットボトルの水を押し出し、おぼつかない手でペットボトルを半分に切った。
「気をつけてね。君がここで怪我をしたんじゃ、本末転倒だよ」
わかってる、とキャサリンが強くうなずく。
それから「どっち?」と訊いてくる。
どっち? 考えればわかることじゃないか。僕のゆとりも、そろそろ限界を超えていたみたいだ。
ついキャサリンを叱り飛ばしてしまいそうになった。
キャサリンもまたいつものキャサリンではなくなっていた。
いつものキャサリンなら迷うことなく飲み口のほうを渡す。
使い方を考えれば、それしか選択できないからだ。
それができなかったのは、それだけキャサリンの気が動転しているからだろう。
「飲み口のほう」苛立ち交じりに僕が叫ぶ。
受け取ってから切り口をハンカチで巻き、手のひらでぐったりしたままの仔猫の口に当てた。
「ねえ」
キャサリンは、僕に安心させてもらいたいと思っている。
だけど、僕にだってもうそんなゆとりはないのだ。集中させてくれ。
「わかってる」
それしか言えなかった。
やることはわかっている。僕はそう伝えるつもりだったが、どのように受け取られたかはわからない。
僕は、仔猫の顔にペットボトルの切り口を当てて押さえた。吹き込む空気が漏れてしまったのでは意味がない。
それから僕は飲み口から小さくふっと息を吹く。
仔猫はまだ体温をわずかならも残している。死の淵から戻ってこれる可能性はなんとも言えないにしても、やるだけのことはやってあげたかった。
ふっ。
息を吹き込んでは再び心臓マッサージ。
それから逆さにして水を吐かせる。を繰り返した。
ふっ。
いくつめかの人工呼吸で、前足が反応した、気がした。
「生きようとしているわ」ケイコの声色が明るくなった。僕の緊張が誤って仔猫の体を揺らしたのかとも思ったが、違った。
仔猫は生きようとしている。
たったそれだけの変化が、僕のしぼみかけた勇気に力をくれた。
諦めかけた希望に再び炎が灯った。
ふっ。
うっ。
ん?
確かに今、子猫は唸った。見ると、体内に入り込んだ異物を懸命に吐き出そうとし始めている。
だけどまだ力が足りない。
生きようとする意志は、完全に戻っていない。
天命は執拗に死の淵に連れ戻そうとしていた。
このままでは、浮かびあがろうとしかけた命が、死の底に逆戻りしてしまう。
ふっ。
そして心臓マッサージ。
僕は、死神とひとつの命を引き合っている。
死神が向こう側に引きずり込もうとするところを、僕が仔猫と一緒に抗っている。
分はまだいいとは言えない。
だけど、幾分でも引き返させることができたのだ。
命のベクトルは間違いなく上向き始めている。
ふっ。
そしてついに。
げぼっ。
水を吐いた。だけどこれっぽっち?
まだだめだ。
そう思った直後、猫が震えながら四肢を伸ばした。
「生き返ったの?」
キャサリンの明るみを含んだ顔に強い光が差した。
「おそらく。もうだいじょうぶだと思う」
その刹那、世の中の安堵にも色がついていればいいのに、と僕はわけのわからないことを考えた。
だって。
高原の緑に落ちる光の粒子が暗転し、僕とキャサリンを青天の霹靂みたいに暗雲が包み込んだのだ。
僕らはあの時、世の中のすべての人々と遮断されていた。
孤独で無為無能で口渇感に苛まれた。
景色から色という色彩が抜け、モノトーンの中でふたりで孤軍奮闘していた。
その追い詰められた感はあまりにおぞましいものだった。
脱した時、枯渇した線画に絵の具を流し込んだみたいに色が戻った。
でも、それっぽっちではあまりにケチりすぎだよ、神さま、と思った。
安堵に色がついていたなら、僕らはもっと大きな祝福を享受できていただろう。
それくらいのことはしてもらってもいい。
そう思ったからだった。
キャサリンが心臓を絞り込んだような声をあげた。
神様へ祈りながら、それでも諦めにすっぽりと包まれたキャサリンの表情が横目に入る。
濡れたぼろ雑巾みたいな仔猫の胸部をさすり、指先で胸をたたく。
力を入れてはいけない。
肋骨が折れてしまう。
手のひらに収まるほど小さな生命は、生まれて間もないことを物語っていた。
ぬくもりはかすかに残っていたが、息はすでに途絶えている。
「だいぶ飲んでると思う」
高原の小川に、なぜ仔猫が流れてきたのかはわからない。
上流で野良が乳飲み子の1匹を間違って川に落としてしまったのかもしれなかった。
「ホテルで飲料水のボトル買ってきて。あとカッター。フロントに言えば貸してくれると思う」
さすってだめなら。今度は。
足を持ち、吊るして左右にゆすってみた。
肺や胃に溜まっているはずの水を吐き出させないと。
どうだ?
手を止めて様子をうかがう。
だめだ。
今度は上下にゆすってみる。
どう?
やはりだめだった。
横たえて、もう一度胸部を指先で軽くたたく。
もっと強い刺激のほうがいいのだろうか?
いや、それはできない。力を加えたのでは、体温を失いかけている体はもろく崩れていきそうだった。
人工呼吸は、最後の手段だった。それでだめなら天命だと覚悟を決めるしかない。
しばらくすると、ホテルを背にキャサリンが左右の肩をでたらめに揺らしながら戻ってきた。
「水、捨てて。カッターで真ん中から上下に分けて」
僕の指示に、焦る気持ちを振りまわしながら、キャサリンはペットボトルの水を押し出し、おぼつかない手でペットボトルを半分に切った。
「気をつけてね。君がここで怪我をしたんじゃ、本末転倒だよ」
わかってる、とキャサリンが強くうなずく。
それから「どっち?」と訊いてくる。
どっち? 考えればわかることじゃないか。僕のゆとりも、そろそろ限界を超えていたみたいだ。
ついキャサリンを叱り飛ばしてしまいそうになった。
キャサリンもまたいつものキャサリンではなくなっていた。
いつものキャサリンなら迷うことなく飲み口のほうを渡す。
使い方を考えれば、それしか選択できないからだ。
それができなかったのは、それだけキャサリンの気が動転しているからだろう。
「飲み口のほう」苛立ち交じりに僕が叫ぶ。
受け取ってから切り口をハンカチで巻き、手のひらでぐったりしたままの仔猫の口に当てた。
「ねえ」
キャサリンは、僕に安心させてもらいたいと思っている。
だけど、僕にだってもうそんなゆとりはないのだ。集中させてくれ。
「わかってる」
それしか言えなかった。
やることはわかっている。僕はそう伝えるつもりだったが、どのように受け取られたかはわからない。
僕は、仔猫の顔にペットボトルの切り口を当てて押さえた。吹き込む空気が漏れてしまったのでは意味がない。
それから僕は飲み口から小さくふっと息を吹く。
仔猫はまだ体温をわずかならも残している。死の淵から戻ってこれる可能性はなんとも言えないにしても、やるだけのことはやってあげたかった。
ふっ。
息を吹き込んでは再び心臓マッサージ。
それから逆さにして水を吐かせる。を繰り返した。
ふっ。
いくつめかの人工呼吸で、前足が反応した、気がした。
「生きようとしているわ」ケイコの声色が明るくなった。僕の緊張が誤って仔猫の体を揺らしたのかとも思ったが、違った。
仔猫は生きようとしている。
たったそれだけの変化が、僕のしぼみかけた勇気に力をくれた。
諦めかけた希望に再び炎が灯った。
ふっ。
うっ。
ん?
確かに今、子猫は唸った。見ると、体内に入り込んだ異物を懸命に吐き出そうとし始めている。
だけどまだ力が足りない。
生きようとする意志は、完全に戻っていない。
天命は執拗に死の淵に連れ戻そうとしていた。
このままでは、浮かびあがろうとしかけた命が、死の底に逆戻りしてしまう。
ふっ。
そして心臓マッサージ。
僕は、死神とひとつの命を引き合っている。
死神が向こう側に引きずり込もうとするところを、僕が仔猫と一緒に抗っている。
分はまだいいとは言えない。
だけど、幾分でも引き返させることができたのだ。
命のベクトルは間違いなく上向き始めている。
ふっ。
そしてついに。
げぼっ。
水を吐いた。だけどこれっぽっち?
まだだめだ。
そう思った直後、猫が震えながら四肢を伸ばした。
「生き返ったの?」
キャサリンの明るみを含んだ顔に強い光が差した。
「おそらく。もうだいじょうぶだと思う」
その刹那、世の中の安堵にも色がついていればいいのに、と僕はわけのわからないことを考えた。
だって。
高原の緑に落ちる光の粒子が暗転し、僕とキャサリンを青天の霹靂みたいに暗雲が包み込んだのだ。
僕らはあの時、世の中のすべての人々と遮断されていた。
孤独で無為無能で口渇感に苛まれた。
景色から色という色彩が抜け、モノトーンの中でふたりで孤軍奮闘していた。
その追い詰められた感はあまりにおぞましいものだった。
脱した時、枯渇した線画に絵の具を流し込んだみたいに色が戻った。
でも、それっぽっちではあまりにケチりすぎだよ、神さま、と思った。
安堵に色がついていたなら、僕らはもっと大きな祝福を享受できていただろう。
それくらいのことはしてもらってもいい。
そう思ったからだった。
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