書庫『宛先のない手紙』

中村音音(なかむらねおん)

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二者択一からの脱出。

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 社会に出で仕事をする毎日が日常になると、学生時代が幻だったのではないかと思えてくる。
 人はかつての恋を「遠い花火」と表した。
 記憶に残る恋は夢かうつつか。
 終わってしまった学び屋での時間も、とうに手の届かないかすみと化してしまっている。

 学んだ知識がたまに社会で生きるとき、あれは現実だったと背中で囁かれることがある。
 出張精算の足し算、掛け算。文案で使う当用漢字。
 遅刻寸前の駆け込み乗車なんかは、校門で待ち受ける風紀委員の鉄壁の守り、発車メロディと登校チャイムが重なって、鉄仮面で仕事をこなす駅係員が風紀担当教師の鬼の形相と重なることもある。
 それらはすべて遠い学生時代の現実だったはずなんだ。

 学んだはずの知識がちっとも生きないじゃないかと誰にともなく文句を口にすることもある。
 微分積分、古典に落語。

 そうだ、ゆるく落研やってたんだっけ。
 少しは覚えてる。

『しびん』に『かつぎや』、『三軒長屋』。

 今となっては燃えた残りかす、ほとんどタイトルしか記憶にないけれど。


 知識の球数たまかずは、黒板に向かってたときよりも、社会に出てからのほうが多くなったかな。
 学生時代は社会に出れば勉強から逃れられると信じて疑わなかったけど、それは追い立てられていたせいだった。
 学校から帰ると「お帰り」の代わりに「勉強しなさい」、授業を受ければ「試験に出るぞ」と脅されて、塾ではいつやる(勉強)?「今でしょ」とけしかけられる。

 元来人間ってやつはスロースターターなんじゃないのかなあ、と自分を振り返るにそう思う。背中を押されてやっと重い腰が少し動く。
 億劫おっくうだなあと顔をしかめながらもちょびっと歩いてまた腰を重くする。
 するとまた押される。
 まさに風次第、他人の顔色次第の風見鶏。
 自分ではどこにも行けない。
 行く気もない。
 誰かの動力を借りるだけの他力本願。

 社会に出ると、誰も追い立ててはくれなくなる。
「はいこれ」とやること。
 やり方なんてわからない。
 でも、腰を重くなんてしていられない。やらなければ「いいよ、できないなら」で取り上げられる。取り上げられるだけならまだしも、放っておくと切り捨てられる。

 社会の引力ってやつはみごとに強力にできている。
 従わなければ、追いかけ続けていなければ、息をすることさえ苦しくなる。

 追い立てられる人生は、社会に出て追いかける人生に変わってしまった。

 で、どこへ行く?
 何をする?
 どちらを選ぶ?

 答えても、誰も〇×をつけてはくれない。
 解答するのも自分、採点するのも自分自身。



 かつて学校の教科書に、やけに中途半端な投げかけをされたことがあった。

『空中ブランコ乗りのキキ』

 現国の教科書だった。

 空中ブランコの妙技は、1回1回が真剣勝負。リスキーで、万が一の代償は命。ライバルに記録を脅かされたキキが、次のショーで一段高みに跳ぼうと覚悟する物語だった。

 ピエロが親切心からキキに忠告する。そんな危ないこと、やめちゃいなよ。
「ピエロになれば、落ちないよ」、あなたのためだから。

「あなたのためだから」と、自身の保身を重ねてアドバイスする人はたくさんいる。世の縮図がすでにそこにあった。

 だけど「あなたのため」を口にする人は水に浮く油で、水と運命を共にすることはない。どこまで行っても平行線は交わらない。責任はとらない。
 これもまた世の縮図。

 キキは覚悟を決める。

 「跳ぶ」を選ぶ。

 物語はいよいよ終盤へ差し掛かる。
 挑戦の空中ブランコ。キキがパフォーマンスを始めた。
 ブランコが大きく揺れる。
 1回、2回……。
 弾みをつけると、キキはブランコから勢いよく跳んだ。

 結果は?
 
 読み手に委ねられた。



 僕がなぜこの話をしていると思う?
 人生そのものがそこにあるじゃないか、なんて優等生的なまとめ方をするつもりは毛頭ない。

 あの授業で僕は、僕も含めたクラスのみんなが、キキが成功するのか、失敗するのかに気を揉んだ。
 賭けに勝つか、負けるか。
 やり遂げてガッツの「YES」か、落ちて「OH NO」か。
 そのどちらかに注意が向くよう誘導されていた。

 今の会社も同じだったんだ。
 やるか、やらないか。
 できるか、できないか。
 僕たちはみんなそうやって、解答を自分自身で見つけるよう仕向けられてきた。
 だけどそれは表層の迷いでしかなかった。
 僕はそのことにやっと気づくことができた。
 会社は僕たちに考えさせ、答えを見つけ出したように思わせて、実は誘導していたということに。

 だから僕はやり方を変えた。
 どんなふうに?

 それはね、『空中ブランコ乗りのキキ』でたとえるのがわかりいい。

「隣のブランコに向けて勢いをつけ跳んたキキ。
 キキの手は……あ、あと少しのところで届かない。
 落ちる!
 観客の誰もがそう確信して手に汗を握った。
 その時だった。
 キキは手品師がハトを出すみたいに、心の内側にたたんでおいた羽を広げて宙に舞い上がった」

 社会では、悩みに悩んだ末にひとつの道を選んでも、すぐに次の岐路が待っている。
 なかなかゴールという安泰は与えてくれないようにできている。

 でも、そればかりが続く毎日はほとほと疲れる。

 だから僕はときに浮島に舞い降りて、自主的に羽根を休めるようにしたんだ。
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