書庫『宛先のない手紙』

中村音音(なかむらねおん)

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人のためになら力が湧いてくる。

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 はじめから期待なんかされていないのだろうけど「あなたのために言っているのよ」と言われるたびに体の芯から大事な鉄骨が抜かれていくみたいでした。
 どうせやったって、結果は知れています。
 はなから司法試験なんて受からないことわかっていたんです。
 レベルが違う。
 受験数が違う。
 法科大学に入学すればいいってものじゃありません。あれだけの生徒がいて、全員受からないどころか、諦めてしまう人のほうが圧倒的に多いのです。

 去年の成績は惨憺たるもの。ねじり鉢巻き、深紅の日の丸と必勝の文字ひっさげて机にかじりついていたって、学びは百日紅さるすべりの幹のごとく、つるつると脳の皺を撫でていくだけ。ちっとも身についてくれませんでした。
 今年の受験を最後にしたいと思います。

 そのように父には書きました。
 父から連絡は来ませんでした。

 そうか、とも、もう少し頑張ってみたらどうか、とも来ませんでした。
 うんともすんともいわない父でした。

 母だけが使い慣れた目覚ましみたいに「勉強しなさい」「あなたのためなのよ」を繰り返します。
 顔をみれば「頑張ってる?」、声を聞けば「順調に進んでる?」。
 すべて僕のため、を繰り返すのです。

 いい加減、期待されることに疲れてしまいました。

 いや、正確には期待というのとは少し違うと思います。期待は背伸びしてでも手が届くかもしれないというところにちゃんとあるものです。
 僕の場合は、助走をつけたって、跳びあがったって、箸にも棒にもふれません。母の発言は期待ではなく、叶わない願望だったのです。夢見心地の幻だったのです。

 父はそのことを知っていたのだと思います。
 最初に「自分の思うとおりにやればいい」と言ってくれたきり、それ以上は何も言いませんでした。進路は自分で決めればいい。納得しているのならそれでいい、ということだったと思います。

 ですから母に、ずっと背中を押されてここまでやってきたわけです。

 ことわざは、背中を押されれば前進する、みたいなことを言っています。本当にそうでしょうか? 僕の場合は、背中を押されても、前に進んだ気がしませんでした。頭は「やらなくては」と思考するのですが、気持ちが抵抗するのです。押される背中に反して、両脚で踏ん張って力を相殺そうさいしている。そんな感じでした。

 つまり僕は、返事でYESと言いながら、本音でNOと言い続けていたのです。

 僕のためになることが、司法試験に合格すること、という公式に納得できなかったこともあります。
 職としての弁護士と考えれば、選択肢としてアリなのですが、気持ち的になりたい職業かと問われれば疑問が渦を巻き始めます。
 そういうことだったのだと思います。

 何がやりたいか?
 その答えを探す前に、敷かれた軌道を走りだしてしまったからでしょう。
 今なら順番を間違えることはありません。

 僕は父を助けたい。
 まさかあの「人のいい父」が汚職に絡んでいたなんて、信じるわけにはいかないのです。
 このことを父に手紙で尋ねました。
 父からは短いふみが返ってきました。

「間違っていなくても、波に呑まれることがある。おまえは自分の信じたようにやればいい」

 それだけでした。
 メッセージは明らかに「やっていない」ことを表していましたが、「やっていない」とか「やった」といった直接的な言及をしないところが父らしいなあ、と思いながら何度か読み返しました。
 
 そのときでした。ああこの感覚だったのか、と今まで感じたことのないほとばしるような熱いものを感じたのは。
 自分のためと言われても、そこに熱意を宿すことはできませんでしたが、誰かのためになら力が出る気がしたのです。
 誰かのために。
 人のために、なら。

 僕は元来、怠惰な人間だったのだと思います。
 自分ひとりが頑張ったって何も変えることなどできないとずっと思ってきました。
 でも父の件があってから、僕がやらなければ誰がやるとスイッチが切り替わったのです。僕がやれば、父の無罪を証明できる。
 裁判はもうすぐ始まります。
 父は、弁護士は要らないと今でも主張しています。お金がないこともありますが、理由はそこにはありません。こんなことになっても会社に尽くすつもりでいるからです。

 僕がしゃしゃり出てどうにかなるものでもないかもしれません。
 父に「おまえは口を出さなくてよろしい」と#咎__とが__3められるかもしれません。

 でも今ならそんな父に「自分のやりたいことをやりたいようにやっていますから」と伝えることができます。
 胸を張って、そう主張することができます。

 勉強は続けようと改めたのです。この学びは父の役にたつはずだから。
 試験までもう少し。ここのところ、合格が夢心地からずいぶん現実に近づいてきた実感もあります。

 今、僕は初めて欲張ってみたいと思っています。これまでそうした欲求が湧いてきたことなどなかったのに、です。

 やりたいことは、誰かの役にたつことだったのです。

 思いやりの中で育つ子は、信じる人になるそうです。
 愛の中で育つ子は、世界に愛を見つけるそうです。

 両親から、いつも手厚く守られてきたことはわかります。
 一方で、守られてきたことで、居心地がよかったことで、僕はそこに甘んじて閉じこもっていたのかもしれません。
 その殻のようなものの中から、僕はずっと飛び立てずにいました。
 背中を押されるということは、安寧とおさらばすることですから、ひとりだちを恐れていたのかもしれません。

 今ならわかります。
 かわいい子には旅をさせなければならなかったことが。

 母は背中を押すことで飛び立たせてくれようとしていたのかもしれません。
 父は黙して、僕が気づくまで待とうとしていたのかもしれません。

 本当のところはわかりません。
 訊いても、答えてもらっても、言葉になって出てきたものが本心なのか、わからないのです。
 裁判を仕事場にする、というのはそういうことなのです。

 嘘を見抜き、真実を日のもとさらす。
 そういうことなのです。

 僕は父に罪をなすりつけた会社と戦うつもりでいます。
 このスタンスは、父とのタッグを皮切りに、社会に広げていきます。世の中に蔓延している嘘や悪だくみを潰していく。

 僕の天明はそこにあったのだと今なら胸を張って言うことができます。
 
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