「僕が望んだのは、あなたではありません」と婚約破棄をされたのに、どうしてそんなに大切にするのでしょう。【短編集】

長岡更紗

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婚約者は記憶喪失!

中編

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 痛い。
 頭が割れそうだ。
 ここはどこだ?

 俺がうっすらと目を開けると、赤髪でそばかす顔の少女が泣きながら俺を見つめていた。

「はる……ハルト?!」

 少女の第一声に、俺は顔を顰めた。頭に響く。ハルト……誰だ、それ。

「ハルトぉ……よか、よかったよぉ……」

 周りがバタバタと騒がしくなり、髭の生えた男の人が入ってきた。

「おお、ハルトくん! 目を覚ましてよかった……!」

 このお嬢さんといい、髭面の男性といい、身なりのいい人たちだ。
 俺なんかとは住む世界が違う気がする。
 しかしさっきから呼ばれているハルトって……誰のことだ?

「あの、もしかしてハルトって……俺のことですか……」
「……なにを言っているんだね、ハルトくん」
「ハルト?!」

 声が頭に響いて痛い。高い音を出さないでほしい。

「どうしたの、ハルト……! 頭打って、おかしくなっちゃったの?!」
「誰だか知らないけど、そのキンキン響く声を出すのをやめてくれないか……」
「……っ! 私……ティータだよ……」

 そばかす顔の女の子は、さっきよりも声を落としてそう言った。
 ティータ……誰だそれは。聞いたこともない。

「ティータ、だよぉ……っ」

 ずっと泣き通しだった女の子は自分の名前を告げながら、さらに大粒の涙を流し続けていた。


 医師が来ると、俺はさまざまな質問をされた。
 日常生活は覚えているのに、人の名前と顔は誰一人として思い出せなかった。
 俺自身のことも。
 医者には記憶喪失だと言われた。
 記憶は戻るかもしれないし、一生戻らないかもしれない、と。

 俺はどうやらハルトという名前で、エッソルト伯爵邸の庭師らしい。住む世界が違うと感じたのは当たっていたようだ。
 だけど平民であるはずなのに、なぜか伯爵令嬢であるティータ・エッソルトとは婚約関係にあるとかで。
 一体なんの冗談だ?

 伯爵令嬢と結婚なんて、きっと騙されてる。

 今の俺が騙されてるのか、それとも記憶を失う前から騙されて結婚させられようとしていたのか。
 どっちにしろ、普通は平民と貴族の結婚なんてありえない。
 あんな愛らしい顔をしているのに、とんだ悪女だ。

 お嬢様はいつも帳簿と睨めっこしながらなにかを書き込んでいる。普通、令嬢があんなことをするものか。
 伯爵が娘に二重帳簿をつけさせているとしか思えない。
 平民の俺と結婚させ、しでかした悪事を全部俺のせいにして、罪を着せるつもりだったんだろう。トカゲの尻尾切りのように、使い捨ての駒にされるに違いない。
 そうはいくか。悪党どもの身代わりなんてまっぴらごめんだ。利用価値があると思わせておいて、怪我が治ったらここから逃げ出そう。


 俺は少しでもお金を貯めるために、動けるようになるとすぐ働き始めた。
 伯爵とお嬢様はもっと休んだ方がいいと言っていたが、その手には乗るものか。
 二重帳簿がバレた時のために、俺を手放すまいとしているのがありありとしてわかる。
 もしかして処刑ものなのだろうか。冗談じゃない。記憶をなくす前の俺は、どれだけお人好しだったんだ。
 怪我は大丈夫かと話しかけてくれる人たちも、みんな悪者に見える。
 俺の味方は誰なのか、わからない。そもそも、俺に味方なんかいるのだろうか。
 自分のことなのに、それすらも知らない。もどかしくてやりきれない中、仕事だけを続ける。

「ハルト、お茶しよう?」

 休憩時間になると、必ずこのお嬢様は俺を誘いにやってくる。
 俺を繋ぎ止めようと必死だな……と心でため息をついて、顔では無理やり微笑んでみせた。
 園庭にあるガゼボに紅茶とクッキーが用意されていて、それをお嬢様と一緒に食べるのが日課だ。

「ハルト、無理しないでね?」
「してません」
「うん……なら、いいんだ。本当に、ごめんね」

 俺を処刑台に立たせる罪悪感のためか、お嬢様はことあるごとに謝ってくる。
 ああ、鬱陶しい。早くこの屋敷から出て行きたい。
 そう思いながら、ハート型のクッキーを口に頬張る。

「……うまい」
「ほんとう?!」

 お嬢様の顔がパッと輝いた。なぜか俺の胸がドクンと音を立てて膨張する。

「ええ、うまいですけど……それがなにか?」
「それね、私が作ったんだぁ。ハルトが元気になりますようにって、心を込めて作ったんだよ」

 さぁっと風が吹き抜けて、お嬢様の赤い髪がなびいた。
 嬉しそうなそばかすの笑顔が、俺の胸に入り込んでくる。

 そうか、こうやって記憶喪失前の俺を取り込んでいったんだな。
 伯爵令嬢が料理やお菓子作りをするなんて、普通有り得ない。騙されるな、俺。
 給金をもらえる日までの辛抱だ。

 エッソルト伯爵やお嬢様は、平民の俺に対して好待遇をしてくれていて、いっそう怪しさが募った。
 毎日甲斐甲斐しく俺の元に来ては、「ハルト、ハルトぉ」と嬉しそうに俺の名前を呼ぶお嬢様。

 だめだ、勘違いしてしまいそうになる。
 お嬢様に……ティータに見つめられるたび。俺を騙そうとしているんだと思うたび。胸が苦しくなって。

 正直、ティータはかわいいと思う。

 記憶のなくなった俺に、一人一人名前を教えてくれて。
 困ったことがないかと心配してくれて。
 「大丈夫だよ」って安心を与えてくれて。
 そしていつも「ごめんね」と謝っている。

 悪女なんかじゃなく、本当は優しい人なのかもしれない……そんな可能性を考えてしまう。
 だとすると平民の俺と結婚する意味がわからなくなり、やっぱり悪女なのだというところに帰結した。

 一ヶ月が経って、給金が支払われた。
 記憶を失う前にいくらもらっていたのか知らないが、怪我のこともあってか、それとも罠に嵌めて逃さぬようにするためか、驚くほどのお金が入っていた。
 これだけ有れば、町を出られる。

 記憶のない俺は、人に話しかけられるたびにビクビクしていた。どういう知り合いなのかわからないというのは、本当に怖いことだった。
 俺のことを誰も知らない土地に行って、すべてやり直そう。その方がきっと精神衛生上、良いに決まっている。

 急いで荷造りをしていると、なにかを察したのかティータがやってきた。

「なにしてるの、ハルト……」

 不安そうな声。
 そりゃ、罪を肩代わりしてくれる人がいなくなれば、そんな声も出すよな。

「出て行くんです」

 見られてしまっては誤魔化しようがないと、俺は素直に答えた。

「出て行く……どうして……? ハルトと私は、婚約してるのに……」
「それは、記憶を失う前の俺とでしょう。俺はそんなもの、した覚えはない」
「で、でも……」

 どうしたんだと周りに人が集まってきた。
 早く出ていかないと、取り押さえられたら俺の人生が終わってしまう。

「必死ですね、お嬢様? そんなに俺の利用価値は高いんですか?」
「なに、言ってるの……? 私はただ、ハルトと結婚したくて……」
「俺はしたくないと言ってるんです! あなたとの婚約は破棄させてもらう!!」

 俺が強く言い放つと、目の前にいる砂糖菓子のようなお嬢様は、ふにゃりと泣きそうな顔をしていた。

「泣き落としなんかききませんからね。泣くなんて……ずるい人のすることだ」

 俺の言葉に、お嬢様は唇を噛んでグッと涙を我慢している。
 よかった、泣いてない。
 お嬢様の涙は苦手だ。見ると苦しくなって……耐えられなくなってしまうから。

「どこ、行っちゃうの……?」
「教えませんよ。どこか別の町には違いないですが」
「そ、っかぁ……」

 喉をひっくとならしながらも、涙は溢れる寸前で耐えている。

「ごめん、ねぇ……私、ハルトの笑った顔が、だぁい好きだったから……また心から笑ってもらえるようにって、がんばったんだけど……っ」

 涙をいっぱいためて、それでも堪えているお嬢様の顔を見る。

「私、こんなだからぁ……っ! ハルトが、笑ってくれないと、悲しいから……」
「お嬢さ……」
「新しい場所で、ハルトが笑ってくれるのを、願ってるから……」

 お嬢様の言葉に、なぜか心が揺らぐ。

 どうして。
 俺を止めようとしないんだ。
 拘束しないんだ。

 どうして。
 こんなに胸が苦しいんだ。

 俺はそれ以上お嬢様の顔を見ずに荷物を鞄に詰め込むと、逃げるように屋敷を出ようとした。

「ハルトくん!」

 さすがに簡単に出させてはもらえないかと振り返る。
 そこにはエッソルト伯爵がいて、俺は身構えた。

「ティータとは婚約破棄をして出て行くと……本当かね?!」
「……はい」
「止めても無駄なのかい……?」
「ええ」

 無表情に俺が答えると、エッソルト伯爵はガックリと肩を落としていた。

「そう、か……君の人生だ。なにも言うまい。ハルトくんには申し訳ないことをしてしまった。これは慰謝料と思って受け取ってくれ」

 そう言って渡された封筒はぶ厚く、俺は困惑しながらも受け取ってしまった。
 どういうことだ?
 連れ戻される風もなく、勝手に婚約破棄をした有責で賠償を求められるどころか、慰謝料をくれるとは。
 伯爵に背を向けると、後ろから優しい声が響いた。

「なにか困ったことがあれば、いつでもうちに来なさい」

 夕日に向かって歩き出した俺は、赤い光に照らされながら封筒を握りしめる。

 どうして俺は泣いているんだろう。
 本当に彼らは悪党だったのだろうか。
 これは俺を戻らせるための常套手段なのか、それとも……。

 伯爵は、ティータは。

 俺の消えた記憶の中では、どういう人たちだったんだろうか。
 わからなくては、後悔もできやしない。

 俺はわけもわからず、ただただ涙を流しながら、町を後にした。

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