77 / 173
隻腕騎士は騎士隊長に恋をする
後編
しおりを挟む
最初、彼は渋っていた。
当然だろう。彼には愛する妻がいるのだから。
シェスカルは元々すごい遊び人であったが、プリシラと結婚してからは彼女一筋だったことをアイナは知っている。
それでも彼は結局、アイナを受け入れてくれた。
事に及ぶ直前まで説得されたが、アイナは頑として首を縦には振らなかった。
もうまともなところにお嫁にいけないのなら、せめて初めてくらいはもらってほしいと泣き落としたのだ。
シェスカルはそんなことはないと、必ずアイナを愛してくれる人がいると言ってくれたが、そんな人など必要なかった。
ただシェスカルが自分を抱いてくれるなら、それでよかった。
シェスカルにとってのその行為は、ただの罪悪感からだっただろう。
プリシラに対してはただの嫌がらせにしかならない。
申し訳ないという気持ちがないわけではなかった。
だがシェスカルの腕の中が心地良すぎて、朝まで彼を抱き締めてしまっていた。
プリシラがシェスカルを待っているのを知っていながら、彼を放すことはできなかった。
シェスカルはプリシラと離婚し、プリシラが街を出て行ったのは、その二週間後のことである。
***
アイナは腰の剣のベルトを片手で器用に外す。
あれから八年。アイナは再び騎士として働いていた。オーケルフェルト家のような大きな騎士隊ではなく、ユリフォード家に仕える騎士隊だ。アイナを含めてたった二名の騎士しかいない、名ばかりの騎士隊であったが、下位貴族にはよくあることだった。だからこそ、隻腕であるアイナを雇ってもらえたとも言える。給金はオーケルフェルトに仕えていた頃の半分にも満たなかったが。
それでもアイナは、再び騎士職に就くことができて嬉しかった。
仕事を終えて家に帰ると、夕食の準備に取り掛かる。
やはり時間は掛かるものの、八年もこうして過ごしているとさすがに慣れてきた。慣れというのは苛立ちも緩和してくれるようだ。
時間をかけてようやくシチューが出来上がる頃、玄関の扉が鳴った。この時間にアイナの家に訪ねてくる人物など、限られている。
アイナは『どなたですか』と聞くこともせずに、玄関を開けた。
「よっ、アイナ」
「シェス、いらっしゃい。今日のナンパは失敗したね?」
「いや、ナンパは成功。お持ち帰りが失敗」
「あはは、そりゃ残念だったね。今シチューができたとこなんだけど、食べる?」
「いや、食って来たとこだからいいわ。酒は残ってるか?」
「昨日シェスが開けたの、そのまんまだよ」
「んじゃそれで」
アイナはシェスカルを中に入れて酒を出してやる。それを一杯飲むだけで、あとは滅多に手をつけない。
「アイナも飲むか?」
「ああ、口移しでなら」
そう要求すると、シェスカルは当然のように酒を口に含んでアイナの唇に当てた。シェスカルの口内で温められた酒が、アイナの中へと流れ込んでくる。
「うん、この酒は美味しいね」
「うちの商会で扱う酒に、不味いもんはねぇよ」
シェスカルはプリシラと別れた後、元来の女好きを取り戻し、自由気ままな生活を送っているようだ。
女の子を引っ掛けては食事に連れて行き、上手くいけばそのままお持ち帰り。それが失敗した時は、必ずと言っていいほどアイナの家に寄ってから帰って行く。
最初、彼が来ない日はイライラとしてしまっていたが、それも慣れた。
アイナのせいで彼はプリシラと別れてしまったのだから、恨まれこそすれ、文句をいうのは筋ではないだろう。
だが彼は、決してアイナを責めなかった。
周りには自分の浮気のせいで別れたと公言してはいたが、アイナには『プリシラとは進む道が違っていて、アイナのことがなくてもいずれは別れていた』と言ってくれていた。
それが真実なのかシェスカルの優しさなのか、アイナにはわからない。
けれども、ますますこの男を好きになってしまったのは確かだった。
アイナは、自分の隣に立つ男に目を向ける。
「シェス、また一人で魔物退治に行ったって?」
そう問いかけると、シェスカルは不思議そうに眉を寄せていた。
「誰から聞いた?」
「ルティア嬢の旦那だよ」
「ああ、リカルドか」
アイナが仕えるユリフォード家の長子の夫は、現在のオーケルフェルト騎士隊の班長の一人だ。
シェスカルは何年か前に隊長に昇進していて、リカルドはシェスカルの部下である。
「一人で行くのはやめなよ。なにかあった時、どうするつもり?」
「どんな魔物か、偵察に行ってるだけだ。後でちゃんと編成組んで討伐に行ってる」
「本当に? 偵察の時に一人で倒してる魔物も多いんじゃないの」
「まぁな。一人で倒した方が楽な魔物も……いるしな」
そう言って、シェスカルの目がアイナの失くなった腕に注がれた。
もしもあの時、情報収集した上で討伐に向かったなら、アイナの腕が斬られることもなかったかもしれない。そしてシェスカルが一人で行ったなら、何事も起こらずに討伐できただろう。
彼はそれを後悔し、現在は最善の方法を実践しているのだ。
「シェスが隊長になってから、誰も死者が出ていないのは凄いことだと思うよ。でもそれじゃあ次世代の隊長が育たないと思うのは、私だけなのかな」
「……そうかもな。けど」
アイナはシェスカルに抱き寄せられ、ギュッと強く包まれた。
「あんな思いは……もうしたくねぇ。誰にもさせたくねぇ」
不意に、あの時のシェスカルの必死な顔を思い出す。悲しみと後悔と、絶対に死なせないという強い思いが重なった、あの顔を。
「……ごめんな」
シェスカルは今でも時折、思い出したかのようにポツリと謝ってくれる。
もう必要のないことだと何度言っても。
彼の胸中には、悔悟の念が強く刻まれているのだ。
だからシェスカルは八年経った今でも、こうしてアイナの元に現れ、望めばキスをして抱いてくれる。
ずっとこの関係が続くのだろうか。
確かに悪くはない。が、決して良い状態とは言えないだろう。
シェスカルはいつまでも罪悪感に苛まれ続け、アイナは彼に甘えてしまう。
そしてシェスカルがいつもそばにいることで、新しい恋に目を向けらなかった。
実を言えば、アイナに言い寄ってくれる男性はいるにはいたのだ。けれど、どうしてもその人に応えることはできなかった。
シェスカルと体を交わしていながら、その人と付き合うことなどできなかった。
かといってシェスカルへの想いを断ち切ることもせずに、ズルズルと関係だけを続けている。
「今日は帰るの?」
「いてほしいんなら、朝までいるよ」
シェスカルは、自分の意思で朝までいたことはない。つまりそれは、アイナを愛しているわけではないという証拠となろう。
「シェスは、優しいね」
そう言うと、彼はいつも苦悶の表情を見せる。きっとシェスカルは、自分が優しいなどと思ってはいまい。ただの責任感から、こうしてくれている。
だからこんな顔をするのだ。つらそうに、申し訳なさそうに、苦しむように、自分を責めるように、眉間に皺を寄せ続ける。
それがわかっていてこんな言葉を吐くのは、ただ優越感を感じたいからかもしれない。
彼の心を自分で満たすと、満足感と妙な癒しが得られるのだ。
だがこの日は初めて、そんな気持ちにはならなかった。
あったのはただ、虚しさと悲しさだけだ。そんな自分にアイナは戸惑っていた。
「いつでも、責任は取る」
彼はプリシラと別れてから、アイナを抱く前は必ずそう言ってから事を始める。
誰にでも言っている言葉なのかと聞いたことがあるが、『アイナにしか言ったことはない』という答えだった。
嘘か本当か知る術はないが、恐らくは本当にそうなのだろう。
哀れな男だ。
好きでもない女を、ただの責任感から抱いて。
己の言葉を全うすべく、恋人も作らずに。
彼はただ待っている。
アイナが誰かと結ばれることを。
アイナから別れを切り出されることを。
アイナに結婚を迫られることを。
自分には選択権がないからと、ただただ待っているのだ。
この八年、アイナはどれを選ぶこともしなかった。
他の男に言い寄られても拒絶し。
シェスカルにはもう来なくていいとも言えず。
まして、責任を取ってくれと言えるはずもなかった。
言えばきっと、シェスカルはアイナと結婚してくれただろう。
そこに愛がなくても、悔悟の念だけで、彼はきっと責任を取る。そういう男だ。
結婚してしまっては、きっとシェスカルを一生苦しめる。
そして自分も苦しむだろうことをアイナは理解していた。
シェスカルは、プリシラを忘れてはいない。
いつもナンパをしながら、なにかを探すかのように遠くを見ているのを、アイナは知っている。
心がプリシラにあるままの彼と、結婚なんてしたくなかった。
もしかしたら、自分に愛が向けられるかもしれない……という期待を抱いてここまできてしまったが。
もう八年だ。
八年。
もうこれ以上時間を潰したくはない。
彼の時間も、自分の時間も。
アイナは左の手の平を、シェスカルの胸と自分の胸の間に差し入れる。
「やっぱり、今日は帰ってもらえるかな」
そしてシェスカルの厚い胸板を押しながら言った。
シェスカルはアイナの言う通りに、のし掛かっていた体を後退させる。
「わかった」
シェスカルは、アイナの頼みを聞かないことはほとんどない。
この時も彼はあっさりと立ち上がり、玄関へと向かっていた。
「じゃあ、またな。アイナ」
その言葉に、アイナは少し笑って言った。
「もういいよ、シェス」
「……え?」
シェスカルは扉に向けていた顔を、こちらに戻す。
「もう、来なくていいから」
言葉に出すと、胸が押し潰されそうだった。
涙がじわじわと上ってきて、必死でそれを抑え込む。
「……なんだって?」
シェスカルは理解できぬといった表情で、顔を曇らせていた。
わかっているくせに。
喜べばいいのに。
しかし彼は、つらそうな演技を続けている。
「どういうこと、だ?」
「もういいんだよ、シェス。長い間、本当にありがとう」
「アイナ?」
「お互い、なろうよ。自由に」
その言葉に、シェスカルは言葉を詰まらせている。
アイナはなにも言えずにいる彼に、さらに続けた。
「シェスがいると、私は甘えてしまって前に進めなくなる。幸せになりたいんだよ、私……」
「アイ、ナ……」
「それに、シェスにも幸せになってほしい……本心だよ」
びっくりするほどシェスカルの顔が歪んだ。相変わらず演技の上手い男だ。素直に喜べばいいものを、彼は悲しそうな、悔しそうな顔をアイナに向けてくる。
「どうして、いきなり」
「シェスがうちに来ると……私、誰とも付き合えないんだ」
「付き……そうか、そんな人がいたんだな……」
一瞬、シェスカルが唇を噛み締めたのが見えた。しかしすぐに元に戻ると、眉を下げたまま言葉が続けられた。
「俺がアイナの幸せを妨げてたのか……本当に、悪かった……」
「違うよ。シェスがいなければ、もう一度騎士として生きて行こうなんて思えなかった。感謝、してるんだよ」
アイナは思わず一歩踏み出す。
と同時に、シェスカルもこちらへと歩みを進めた。
二人はどちらからともなく、ひしと抱き合う。
アイナは片方しかない腕で、狂おしいほど強く彼を抱き締めた。
シェスカルの両腕が背中へと回り、アイナはもう二度と感じられぬであろう温もりを享受し続ける。
「ありがとう、シェス……本当に長い間、ごめんね……っ」
「謝んなよ……っ! 俺はお前のためなら、なんだってしてやるつもりだったんだぜ……」
そしてゆっくりと互いを縛り付ける腕が解き放たれた。
シェスカルの目の端には、透明な涙が今にも溢れ落ちそうに揺れている。
彼はもしかしたら少しでも愛情を持ってくれていたのかもしれない……と、そんな勘違いをしてしまいそうだ。
アイナは揺らぐ心を抑えて、どうにかこうにか笑顔を貼りつける。
「シェスはもう、私の腕のことは忘れて」
その言葉にシェスカルは首を横に振って答える。苦しそうに、今にも胸が潰されそうな顔で。
「私のせいで、罪悪感を感じながら生きてほしくないんだよ……っ」
アイナの嘘で塗り固められた笑顔は、簡単に崩れ落ちた。
ひとつ、またひとつと、小さな雨が床に水溜まりを作る。
「アイナ……」
「もう謝らないで、お願い……」
言葉を奪われたシェスカルは、苦しそうに声を詰まらせながら。
「アイナが幸せになれることを、願ってるよ」
そう言って、彼は出て行った。
扉が閉められると同時に訪れる静寂。
言ってしまった。とうとう。
これでようやく、お互いに前に進める。
ようやく幸せに目を向けられる。
喜ばしいこと……のはずだというのに、なぜだか涙が滂沱として下っていく。
「シェ……ス……」
アイナはガクンと膝をついた。
彼に愛されたかった。
腕のことなど関係なく、そばにいてほしかった。
俺が幸せにしてやると言って欲しかった。
一言も好きと言われたことなどないというのに、ほんのわずかでもそんな夢を見てしまっていた自分に呆れる。
「そういえば私……シェスに好きだって、一度も伝えたことがなかったな……」
伝えていたらなにかが変わっていただろうか。
それとも彼をもっと拘束してしまうだけだっただろうか。
今となってはもうわからない。
確かめる術もない。
「シェス……ありがとう。大好きだったよ……」
隻腕の騎士は誰もいない家で、涙に暮れながらそう呟いていた。
当然だろう。彼には愛する妻がいるのだから。
シェスカルは元々すごい遊び人であったが、プリシラと結婚してからは彼女一筋だったことをアイナは知っている。
それでも彼は結局、アイナを受け入れてくれた。
事に及ぶ直前まで説得されたが、アイナは頑として首を縦には振らなかった。
もうまともなところにお嫁にいけないのなら、せめて初めてくらいはもらってほしいと泣き落としたのだ。
シェスカルはそんなことはないと、必ずアイナを愛してくれる人がいると言ってくれたが、そんな人など必要なかった。
ただシェスカルが自分を抱いてくれるなら、それでよかった。
シェスカルにとってのその行為は、ただの罪悪感からだっただろう。
プリシラに対してはただの嫌がらせにしかならない。
申し訳ないという気持ちがないわけではなかった。
だがシェスカルの腕の中が心地良すぎて、朝まで彼を抱き締めてしまっていた。
プリシラがシェスカルを待っているのを知っていながら、彼を放すことはできなかった。
シェスカルはプリシラと離婚し、プリシラが街を出て行ったのは、その二週間後のことである。
***
アイナは腰の剣のベルトを片手で器用に外す。
あれから八年。アイナは再び騎士として働いていた。オーケルフェルト家のような大きな騎士隊ではなく、ユリフォード家に仕える騎士隊だ。アイナを含めてたった二名の騎士しかいない、名ばかりの騎士隊であったが、下位貴族にはよくあることだった。だからこそ、隻腕であるアイナを雇ってもらえたとも言える。給金はオーケルフェルトに仕えていた頃の半分にも満たなかったが。
それでもアイナは、再び騎士職に就くことができて嬉しかった。
仕事を終えて家に帰ると、夕食の準備に取り掛かる。
やはり時間は掛かるものの、八年もこうして過ごしているとさすがに慣れてきた。慣れというのは苛立ちも緩和してくれるようだ。
時間をかけてようやくシチューが出来上がる頃、玄関の扉が鳴った。この時間にアイナの家に訪ねてくる人物など、限られている。
アイナは『どなたですか』と聞くこともせずに、玄関を開けた。
「よっ、アイナ」
「シェス、いらっしゃい。今日のナンパは失敗したね?」
「いや、ナンパは成功。お持ち帰りが失敗」
「あはは、そりゃ残念だったね。今シチューができたとこなんだけど、食べる?」
「いや、食って来たとこだからいいわ。酒は残ってるか?」
「昨日シェスが開けたの、そのまんまだよ」
「んじゃそれで」
アイナはシェスカルを中に入れて酒を出してやる。それを一杯飲むだけで、あとは滅多に手をつけない。
「アイナも飲むか?」
「ああ、口移しでなら」
そう要求すると、シェスカルは当然のように酒を口に含んでアイナの唇に当てた。シェスカルの口内で温められた酒が、アイナの中へと流れ込んでくる。
「うん、この酒は美味しいね」
「うちの商会で扱う酒に、不味いもんはねぇよ」
シェスカルはプリシラと別れた後、元来の女好きを取り戻し、自由気ままな生活を送っているようだ。
女の子を引っ掛けては食事に連れて行き、上手くいけばそのままお持ち帰り。それが失敗した時は、必ずと言っていいほどアイナの家に寄ってから帰って行く。
最初、彼が来ない日はイライラとしてしまっていたが、それも慣れた。
アイナのせいで彼はプリシラと別れてしまったのだから、恨まれこそすれ、文句をいうのは筋ではないだろう。
だが彼は、決してアイナを責めなかった。
周りには自分の浮気のせいで別れたと公言してはいたが、アイナには『プリシラとは進む道が違っていて、アイナのことがなくてもいずれは別れていた』と言ってくれていた。
それが真実なのかシェスカルの優しさなのか、アイナにはわからない。
けれども、ますますこの男を好きになってしまったのは確かだった。
アイナは、自分の隣に立つ男に目を向ける。
「シェス、また一人で魔物退治に行ったって?」
そう問いかけると、シェスカルは不思議そうに眉を寄せていた。
「誰から聞いた?」
「ルティア嬢の旦那だよ」
「ああ、リカルドか」
アイナが仕えるユリフォード家の長子の夫は、現在のオーケルフェルト騎士隊の班長の一人だ。
シェスカルは何年か前に隊長に昇進していて、リカルドはシェスカルの部下である。
「一人で行くのはやめなよ。なにかあった時、どうするつもり?」
「どんな魔物か、偵察に行ってるだけだ。後でちゃんと編成組んで討伐に行ってる」
「本当に? 偵察の時に一人で倒してる魔物も多いんじゃないの」
「まぁな。一人で倒した方が楽な魔物も……いるしな」
そう言って、シェスカルの目がアイナの失くなった腕に注がれた。
もしもあの時、情報収集した上で討伐に向かったなら、アイナの腕が斬られることもなかったかもしれない。そしてシェスカルが一人で行ったなら、何事も起こらずに討伐できただろう。
彼はそれを後悔し、現在は最善の方法を実践しているのだ。
「シェスが隊長になってから、誰も死者が出ていないのは凄いことだと思うよ。でもそれじゃあ次世代の隊長が育たないと思うのは、私だけなのかな」
「……そうかもな。けど」
アイナはシェスカルに抱き寄せられ、ギュッと強く包まれた。
「あんな思いは……もうしたくねぇ。誰にもさせたくねぇ」
不意に、あの時のシェスカルの必死な顔を思い出す。悲しみと後悔と、絶対に死なせないという強い思いが重なった、あの顔を。
「……ごめんな」
シェスカルは今でも時折、思い出したかのようにポツリと謝ってくれる。
もう必要のないことだと何度言っても。
彼の胸中には、悔悟の念が強く刻まれているのだ。
だからシェスカルは八年経った今でも、こうしてアイナの元に現れ、望めばキスをして抱いてくれる。
ずっとこの関係が続くのだろうか。
確かに悪くはない。が、決して良い状態とは言えないだろう。
シェスカルはいつまでも罪悪感に苛まれ続け、アイナは彼に甘えてしまう。
そしてシェスカルがいつもそばにいることで、新しい恋に目を向けらなかった。
実を言えば、アイナに言い寄ってくれる男性はいるにはいたのだ。けれど、どうしてもその人に応えることはできなかった。
シェスカルと体を交わしていながら、その人と付き合うことなどできなかった。
かといってシェスカルへの想いを断ち切ることもせずに、ズルズルと関係だけを続けている。
「今日は帰るの?」
「いてほしいんなら、朝までいるよ」
シェスカルは、自分の意思で朝までいたことはない。つまりそれは、アイナを愛しているわけではないという証拠となろう。
「シェスは、優しいね」
そう言うと、彼はいつも苦悶の表情を見せる。きっとシェスカルは、自分が優しいなどと思ってはいまい。ただの責任感から、こうしてくれている。
だからこんな顔をするのだ。つらそうに、申し訳なさそうに、苦しむように、自分を責めるように、眉間に皺を寄せ続ける。
それがわかっていてこんな言葉を吐くのは、ただ優越感を感じたいからかもしれない。
彼の心を自分で満たすと、満足感と妙な癒しが得られるのだ。
だがこの日は初めて、そんな気持ちにはならなかった。
あったのはただ、虚しさと悲しさだけだ。そんな自分にアイナは戸惑っていた。
「いつでも、責任は取る」
彼はプリシラと別れてから、アイナを抱く前は必ずそう言ってから事を始める。
誰にでも言っている言葉なのかと聞いたことがあるが、『アイナにしか言ったことはない』という答えだった。
嘘か本当か知る術はないが、恐らくは本当にそうなのだろう。
哀れな男だ。
好きでもない女を、ただの責任感から抱いて。
己の言葉を全うすべく、恋人も作らずに。
彼はただ待っている。
アイナが誰かと結ばれることを。
アイナから別れを切り出されることを。
アイナに結婚を迫られることを。
自分には選択権がないからと、ただただ待っているのだ。
この八年、アイナはどれを選ぶこともしなかった。
他の男に言い寄られても拒絶し。
シェスカルにはもう来なくていいとも言えず。
まして、責任を取ってくれと言えるはずもなかった。
言えばきっと、シェスカルはアイナと結婚してくれただろう。
そこに愛がなくても、悔悟の念だけで、彼はきっと責任を取る。そういう男だ。
結婚してしまっては、きっとシェスカルを一生苦しめる。
そして自分も苦しむだろうことをアイナは理解していた。
シェスカルは、プリシラを忘れてはいない。
いつもナンパをしながら、なにかを探すかのように遠くを見ているのを、アイナは知っている。
心がプリシラにあるままの彼と、結婚なんてしたくなかった。
もしかしたら、自分に愛が向けられるかもしれない……という期待を抱いてここまできてしまったが。
もう八年だ。
八年。
もうこれ以上時間を潰したくはない。
彼の時間も、自分の時間も。
アイナは左の手の平を、シェスカルの胸と自分の胸の間に差し入れる。
「やっぱり、今日は帰ってもらえるかな」
そしてシェスカルの厚い胸板を押しながら言った。
シェスカルはアイナの言う通りに、のし掛かっていた体を後退させる。
「わかった」
シェスカルは、アイナの頼みを聞かないことはほとんどない。
この時も彼はあっさりと立ち上がり、玄関へと向かっていた。
「じゃあ、またな。アイナ」
その言葉に、アイナは少し笑って言った。
「もういいよ、シェス」
「……え?」
シェスカルは扉に向けていた顔を、こちらに戻す。
「もう、来なくていいから」
言葉に出すと、胸が押し潰されそうだった。
涙がじわじわと上ってきて、必死でそれを抑え込む。
「……なんだって?」
シェスカルは理解できぬといった表情で、顔を曇らせていた。
わかっているくせに。
喜べばいいのに。
しかし彼は、つらそうな演技を続けている。
「どういうこと、だ?」
「もういいんだよ、シェス。長い間、本当にありがとう」
「アイナ?」
「お互い、なろうよ。自由に」
その言葉に、シェスカルは言葉を詰まらせている。
アイナはなにも言えずにいる彼に、さらに続けた。
「シェスがいると、私は甘えてしまって前に進めなくなる。幸せになりたいんだよ、私……」
「アイ、ナ……」
「それに、シェスにも幸せになってほしい……本心だよ」
びっくりするほどシェスカルの顔が歪んだ。相変わらず演技の上手い男だ。素直に喜べばいいものを、彼は悲しそうな、悔しそうな顔をアイナに向けてくる。
「どうして、いきなり」
「シェスがうちに来ると……私、誰とも付き合えないんだ」
「付き……そうか、そんな人がいたんだな……」
一瞬、シェスカルが唇を噛み締めたのが見えた。しかしすぐに元に戻ると、眉を下げたまま言葉が続けられた。
「俺がアイナの幸せを妨げてたのか……本当に、悪かった……」
「違うよ。シェスがいなければ、もう一度騎士として生きて行こうなんて思えなかった。感謝、してるんだよ」
アイナは思わず一歩踏み出す。
と同時に、シェスカルもこちらへと歩みを進めた。
二人はどちらからともなく、ひしと抱き合う。
アイナは片方しかない腕で、狂おしいほど強く彼を抱き締めた。
シェスカルの両腕が背中へと回り、アイナはもう二度と感じられぬであろう温もりを享受し続ける。
「ありがとう、シェス……本当に長い間、ごめんね……っ」
「謝んなよ……っ! 俺はお前のためなら、なんだってしてやるつもりだったんだぜ……」
そしてゆっくりと互いを縛り付ける腕が解き放たれた。
シェスカルの目の端には、透明な涙が今にも溢れ落ちそうに揺れている。
彼はもしかしたら少しでも愛情を持ってくれていたのかもしれない……と、そんな勘違いをしてしまいそうだ。
アイナは揺らぐ心を抑えて、どうにかこうにか笑顔を貼りつける。
「シェスはもう、私の腕のことは忘れて」
その言葉にシェスカルは首を横に振って答える。苦しそうに、今にも胸が潰されそうな顔で。
「私のせいで、罪悪感を感じながら生きてほしくないんだよ……っ」
アイナの嘘で塗り固められた笑顔は、簡単に崩れ落ちた。
ひとつ、またひとつと、小さな雨が床に水溜まりを作る。
「アイナ……」
「もう謝らないで、お願い……」
言葉を奪われたシェスカルは、苦しそうに声を詰まらせながら。
「アイナが幸せになれることを、願ってるよ」
そう言って、彼は出て行った。
扉が閉められると同時に訪れる静寂。
言ってしまった。とうとう。
これでようやく、お互いに前に進める。
ようやく幸せに目を向けられる。
喜ばしいこと……のはずだというのに、なぜだか涙が滂沱として下っていく。
「シェ……ス……」
アイナはガクンと膝をついた。
彼に愛されたかった。
腕のことなど関係なく、そばにいてほしかった。
俺が幸せにしてやると言って欲しかった。
一言も好きと言われたことなどないというのに、ほんのわずかでもそんな夢を見てしまっていた自分に呆れる。
「そういえば私……シェスに好きだって、一度も伝えたことがなかったな……」
伝えていたらなにかが変わっていただろうか。
それとも彼をもっと拘束してしまうだけだっただろうか。
今となってはもうわからない。
確かめる術もない。
「シェス……ありがとう。大好きだったよ……」
隻腕の騎士は誰もいない家で、涙に暮れながらそう呟いていた。
132
あなたにおすすめの小説
『婚約者を大好きな自分』を演じてきた侯爵令嬢、自立しろと言われたので、好き勝手に生きていくことにしました
皇 翼
恋愛
「リーシャ、君も俺にかまってばかりいないで、自分の趣味でも見つけて自立したらどうだ?正直、こうやって話しかけられるのはその――やめて欲しいんだ……周りの目もあるし、君なら分かるだろう?」
頭を急に鈍器で殴られたような感覚に陥る一言だった。
彼がチラリと見るのは周囲。2学年上の彼の教室の前であったというのが間違いだったのかもしれない。
この一言で彼女の人生は一変した――。
******
※タイトル少し変えました。
・暫く書いていなかったらかなり文体が変わってしまったので、書き直ししています。
・トラブル回避のため、完結まで感想欄は開きません。
【完結】私を捨てた皆様、どうぞその選択を後悔なさってください 〜婚約破棄された令嬢の、遅すぎる謝罪はお断りです〜
くろねこ
恋愛
王太子の婚約者として尽くしてきた公爵令嬢エリシアは、ある日突然、身に覚えのない罪で断罪され婚約破棄を言い渡される。
味方だと思っていた家族も友人も、誰一人として彼女を庇わなかった。
――けれど、彼らは知らなかった。
彼女こそが国を支えていた“本当の功労者”だったことを。
すべてを失ったはずの令嬢が選んだのは、
復讐ではなく「関わらない」という選択。
だがその選択こそが、彼らにとって最も残酷な“ざまぁ”の始まりだった。
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
教養が足りない、ですって
たくわん
恋愛
侯爵令嬢エリーゼは、公爵家の長男アレクシスとの婚約披露宴で突然婚約破棄される。理由は「教養が足りず、公爵夫人として恥ずかしい」。社交界の人々の嘲笑の中、エリーゼは静かに会場を去る。
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
ジェリー・ベケットは愛を信じられない
砂臥 環
恋愛
ベケット子爵家の娘ジェリーは、父が再婚してから離れに追いやられた。
母をとても愛し大切にしていた父の裏切りを知り、ジェリーは愛を信じられなくなっていた。
それを察し、まだ子供ながらに『君を守る』と誓い、『信じてほしい』と様々な努力してくれた婚約者モーガンも、学園に入ると段々とジェリーを避けらるようになっていく。
しかも、義妹マドリンが入学すると彼女と仲良くするようになってしまった。
だが、一番辛い時に支え、努力してくれる彼を信じようと決めたジェリーは、なにも言えず、なにも聞けずにいた。
学園でジェリーは優秀だったが『氷の姫君』というふたつ名を付けられる程、他人と一線を引いており、誰にも悩みは吐露できなかった。
そんな時、仕事上のパートナーを探す男子生徒、ウォーレンと親しくなる。
※世界観はゆるゆる
※ざまぁはちょっぴり
※他サイトにも掲載
白い結婚の末、離婚を選んだ公爵夫人は二度と戻らない』
鍛高譚
恋愛
白い結婚の末、「白い結婚」の末、私は冷遇され、夫は愛人を溺愛していた――ならば、もう要らないわ」
公爵令嬢 ジェニファー・ランカスター は、王弟 エドワード・クラレンス公爵 のもとへ政略結婚として嫁ぐ。
だが、その結婚生活は冷たく空虚なものだった。夫は愛人 ローザ・フィッツジェラルド に夢中になり、公爵夫人であるジェニファーは侮辱され、無視され続ける日々。
――それでも、貴族の娘は耐えなければならないの?
何の愛もなく、ただ飾り物として扱われる結婚に見切りをつけたジェニファーは 「離婚」 を決意する。
しかし、王弟であるエドワードとの離婚は容易ではない。実家のランカスター家は猛反対し、王宮の重臣たちも彼女の決断を 「公爵家の恥」 と揶揄する。
それでも、ジェニファーは負けない。弁護士と協力し、着々と準備を進めていく。
そんな折、彼女は北方の大国 ヴォルフ公国の大公、アレクサンダー・ヴォルフ と出会う。
温かく誠実な彼との交流を通じて、ジェニファーは 「本当に大切にされること」 を知る。
そして、彼女の決断は、王都の社交界に大きな波紋を呼ぶこととなる――。
「公爵夫人を手放したことを、いつか後悔しても遅いわ」
「私はもう、あなたたちの飾り人形じゃない」
離婚を巡る策略、愛人の凋落、元夫の後悔――。
そして、新たな地で手にした 「愛される結婚」。
【完結】キズモノになった私と婚約破棄ですか?別に構いませんがあなたが大丈夫ですか?
なか
恋愛
「キズモノのお前とは婚約破棄する」
顔にできた顔の傷も治らぬうちに第二王子のアルベルト様にそう宣告される
大きな傷跡は残るだろう
キズモノのとなった私はもう要らないようだ
そして彼が持ち出した条件は婚約破棄しても身体を寄越せと下卑た笑いで告げるのだ
そんな彼を殴りつけたのはとある人物だった
このキズの謎を知ったとき
アルベルト王子は永遠に後悔する事となる
永遠の後悔と
永遠の愛が生まれた日の物語
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる