「僕が望んだのは、あなたではありません」と婚約破棄をされたのに、どうしてそんなに大切にするのでしょう。【短編集】

長岡更紗

文字の大きさ
149 / 173
王子様、推しを聴く。それ私でした。

後編

しおりを挟む

 結婚生活が始まって、一ヶ月が経った。
 公務でお忙しい中でも、シルヴァート殿下は毎晩ちゃんと時間を作ってくださる。食事をともにし、たわいもない話をして、夜は同じ部屋に──けれど、殿下は決して無理を強いることはなかった。
 本当に、優しくて紳士的なお方。

 その夜も、私たちは向かい合って夕食をとっていた。
 不思議なことに、結婚してから一度も辛いものが食卓に並んでいない。私は辛いものが得意ではないけれど、それを殿下に伝えた覚えはなくて。
 

(まさか、誰かに聞いたのかしら。それとも偶然? でも、殿下は辛いものがお好きだと噂で聞いたような……もしかして私のこと、気遣ってくださってる?)

 婚約当初、「辛い物ばっかり好きな人だったらどうしよう……一口で泣いちゃう……!」なんて震えていた私だけれど──その心配は、今のところ杞憂だったみたい。

「今日は花の品評会に行ってくれたんだな。君が気に入った花はあったか?」
「はい。淡いピンクのラナンキュラスがとても綺麗でした。春の陽だまりのようで……見ているだけで、心がほぐれるようでしたわ」
「春の陽だまり……なるほど。君の声で聞くと、余計にそんな気がしてくるな」

 優しい目で言われると、私の胸の奥はふわりと温かくなる。
 けれど、そのぬくもりに身をゆだねるのが、なぜだか怖い。

 部屋に戻ると、殿下はカップに香草茶を淹れてくださった。

「眠れないときには、これがいいと聞いた」

 殿下は少し照れたように笑って。

「イレーネには、よく眠ってもらいたい」

 微笑みを、私に向けてくれる。
 こんな素敵な人が、夫だなんて──いまだに信じられない。

 思えば、最初からそうだった。
 婚礼の夜、何も強いられることなく、ただ静かに「話をしよう」と言ってくれて。
 それは、あまりにも優しすぎて、痛みさえ感じるほどだった。

(政略結婚なのに、こんな風に大事にされるなんて……思っていなかったの……)

 ルナとして配信していた私に、蒼月さんがそうしてくれていたように。
 殿下も、私を大事にしてくれている。

 だけど、蒼月さんを思い出すと、胸がぎゅっと痛んだ。

 恋をしていた。
 たぶん、あのとき、本気で。

 ずっと封じ込めていたけど、今だからこそ気づいて──

 同時に、隣にいる殿下の静かな思いやりに、心が少しずつ揺れていく。

 どうしよう。殿下といると、楽しい。
 心の奥底から、幸せな感情が湧いて出てきてしまう。
 こんなの、知らなかった。誰かが隣にいることが、こんなにあたたかいなんて。

「今日の君は、よく笑っていたな。……それだけで、なんだか救われる」

 その一言に、喉の奥がきゅっと締まった。
 こんなにも、大事にされている。

(……どうして、もっと早く、殿下のことを知ろうとしなかったの)

 私は、殿下の横顔を見つめた。
 整った顔立ち。けれどその奥にある、真摯さと静かな孤独。
 この方は、孤独の中で誰かを求めていたのではないのかしら。

 そう思うと、心が揺れた。

 それと同時に、私の胸の奥にひっそりと残る想いが……痛むのです。
 蒼月さんへの未練。断ち切らなければいけないと思いながら、ずっと燻っているままの、この気持ちが。

(どちらも、本物の気持ちなのに)

 けれど、確かに……私は殿下に惹かれている。

 殿下に優しくされるたび、自分が変わっていくのがわかる。

 それが嬉しくて、そして、少しだけ怖かった。


 ***


 ある夜、私は思い切って、殿下にお願いをした。

「今晩だけは、寝所を別々にお願できないでしょうか」

 静かな間があった。けれど、シルヴァート殿下は何も聞かず、ただ頷いてくださった。

「わかった。何かあったら、呼んでくれ」

 その声に、胸が苦しくなる。
 まるで、嘘をついているような気がして。──でも、今夜だけは、自分の気持ちと向き合いたかった。

 私は、久しぶりに〝ルナ〟になった。

 魔道送信機マギキャストの前に座る指先が、かすかに震えている。
 けれど、もう迷わない。──今日が、その最後。

「……お久しぶりです。ルナです。この配信が、最後となります」

 言葉にすると、いろんな感情が胸を押し寄せた。けれど、もう抑えない。

「結婚をして、一ヶ月が経ちました。夫となった方が、とても優しくて……気がついたら、恋をしていました」

 そう告げると、心の中にずっとあった迷いが、少しだけ溶けた気がした。

「でも……蒼月さんも、大好きでした。どれほど励まされ、救われてきたか……言葉では、とても伝えきれません」

 自然と涙が、頬をつたう。

「蒼月さん……本当に、ありがとう。あなたのこと……ずっと、大切に思っていました」

 彼が聞いているかどうかはわからない。けれど、言いたかった。この心を伝えたかった。

「蒼月さんがずっと笑顔でありますよう……心から願っています」

 ──そして、配信を終えた。

 もう、戻れない。蒼月さんと過ごしたあの頃には。
 私はこらえきれず、声を殺して泣いた。


 ──そのとき。

 ノックの音がした。私は、はっとして顔を上げる。

 扉の下から、便箋が差し入れられた。

(これは……蒼月さんが、いつも使っていた便箋!?)

 震える手で拾い上げ、文字を追う。

 〝もうあなたの声が聞けないのなら、せめて隣で、聞かせてください〟

 手紙の文字が、滲んでいく。

 頭が真っ白になった。

 ──え?
 まさか。
 まさか、そんな。

 扉を開けると、そこにいたのは、シルヴァート殿下。
 けれど、私にはもう、それだけじゃなかった。

 ずっと応援してくれていた〝蒼月さん〟が、そこに重なる。

「……殿下が、蒼月さんだったんですね……! どうして……どうして言ってくださらなかったんですか……!」

 涙声で問いかける私に、殿下は少し困ったように笑って、けれど優しく言った。

「……君にとって俺は、ただのリスナーに過ぎなかったからな。それに……君の中にある〝蒼月像〟を壊したくなかったんだ。でも、俺は──最初からずっと、君を大切に思っていたよ」

 言葉の一つひとつが、胸に染みる。

 全部、繋がった。

 だからあんなに優しかったんですか? 私のことを知っていたんですか?
 最初から、ずっと──私の声を聞いてくれていたなんて。

「……そんなの……ずるいです……」

 泣きながら、私は殿下にすがる。

「ずっと……好きだったのに。どちらのあなたも、大好きだったのに……!」

 シルヴァート殿下──蒼月さん──は、私を優しく抱きしめてくれた。

「……ありがとう。君が君でいてくれるだけで、俺は幸せだ」

 その腕はあたたかくて、どこか懐かしくて。
 そして、なにより──安心できる場所だった。

 ようやく私は、自分が本当の意味で〝恋に落ちた〟のだと気づいた。

 もう、迷わない。
 私の隣にいる人は、最初からずっと、私の幸せを願ってくれていたのだから。

「これからも、君の声を聞かせてくれるか?」

 その問いに、私は涙を拭いながら、こくんと頷いた。

「……はい、ずっと……あなたの隣で」

 私がそう答えると、シルヴァート殿下はふっと笑って、私の頬にそっと触れた。

「君の声が、大好きだ」

 その言葉は、心の奥深くまで染み込んで、熱を灯す。

 私は俯いて、そっと彼の胸元に顔を埋める。

 鼓動が聞こえる。確かにそこにある、彼の想い。
 私だけのものになった、彼のぬくもり。

 ──そのまま、彼は私の手を取った。

「部屋へ、戻ろうか」

 低く落ち着いた声。けれどその中に、どこか甘さが混じっていて──
 私は、ゆっくり、頷いた。

 扉の向こうに広がる夜は、驚くほど静かで優しくて。
 ふたりで手をつなぎ、並んで歩いていく。
 すべてを打ち明けた今、その隣はあたたかくて、どこまでも心地よかった。

 そうして私たちは、もう一度、二人だけの箱庭に戻っていく。

 ──今度こそ、本当の意味で、ひとつになるために──


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

『婚約者を大好きな自分』を演じてきた侯爵令嬢、自立しろと言われたので、好き勝手に生きていくことにしました

皇 翼
恋愛
「リーシャ、君も俺にかまってばかりいないで、自分の趣味でも見つけて自立したらどうだ?正直、こうやって話しかけられるのはその――やめて欲しいんだ……周りの目もあるし、君なら分かるだろう?」 頭を急に鈍器で殴られたような感覚に陥る一言だった。 彼がチラリと見るのは周囲。2学年上の彼の教室の前であったというのが間違いだったのかもしれない。 この一言で彼女の人生は一変した――。 ****** ※タイトル少し変えました。 ・暫く書いていなかったらかなり文体が変わってしまったので、書き直ししています。 ・トラブル回避のため、完結まで感想欄は開きません。

【完結】私を捨てた皆様、どうぞその選択を後悔なさってください 〜婚約破棄された令嬢の、遅すぎる謝罪はお断りです〜

くろねこ
恋愛
王太子の婚約者として尽くしてきた公爵令嬢エリシアは、ある日突然、身に覚えのない罪で断罪され婚約破棄を言い渡される。 味方だと思っていた家族も友人も、誰一人として彼女を庇わなかった。 ――けれど、彼らは知らなかった。 彼女こそが国を支えていた“本当の功労者”だったことを。 すべてを失ったはずの令嬢が選んだのは、 復讐ではなく「関わらない」という選択。 だがその選択こそが、彼らにとって最も残酷な“ざまぁ”の始まりだった。

夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い

青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。 神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。 もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。 生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。 過去世と同じ轍を踏みたくない……

教養が足りない、ですって

たくわん
恋愛
侯爵令嬢エリーゼは、公爵家の長男アレクシスとの婚約披露宴で突然婚約破棄される。理由は「教養が足りず、公爵夫人として恥ずかしい」。社交界の人々の嘲笑の中、エリーゼは静かに会場を去る。

つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。 舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。 さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。 リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。 ――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。

ジェリー・ベケットは愛を信じられない

砂臥 環
恋愛
ベケット子爵家の娘ジェリーは、父が再婚してから離れに追いやられた。 母をとても愛し大切にしていた父の裏切りを知り、ジェリーは愛を信じられなくなっていた。 それを察し、まだ子供ながらに『君を守る』と誓い、『信じてほしい』と様々な努力してくれた婚約者モーガンも、学園に入ると段々とジェリーを避けらるようになっていく。 しかも、義妹マドリンが入学すると彼女と仲良くするようになってしまった。 だが、一番辛い時に支え、努力してくれる彼を信じようと決めたジェリーは、なにも言えず、なにも聞けずにいた。 学園でジェリーは優秀だったが『氷の姫君』というふたつ名を付けられる程、他人と一線を引いており、誰にも悩みは吐露できなかった。 そんな時、仕事上のパートナーを探す男子生徒、ウォーレンと親しくなる。 ※世界観はゆるゆる ※ざまぁはちょっぴり ※他サイトにも掲載

白い結婚の末、離婚を選んだ公爵夫人は二度と戻らない』

鍛高譚
恋愛
白い結婚の末、「白い結婚」の末、私は冷遇され、夫は愛人を溺愛していた――ならば、もう要らないわ」 公爵令嬢 ジェニファー・ランカスター は、王弟 エドワード・クラレンス公爵 のもとへ政略結婚として嫁ぐ。 だが、その結婚生活は冷たく空虚なものだった。夫は愛人 ローザ・フィッツジェラルド に夢中になり、公爵夫人であるジェニファーは侮辱され、無視され続ける日々。 ――それでも、貴族の娘は耐えなければならないの? 何の愛もなく、ただ飾り物として扱われる結婚に見切りをつけたジェニファーは 「離婚」 を決意する。 しかし、王弟であるエドワードとの離婚は容易ではない。実家のランカスター家は猛反対し、王宮の重臣たちも彼女の決断を 「公爵家の恥」 と揶揄する。 それでも、ジェニファーは負けない。弁護士と協力し、着々と準備を進めていく。 そんな折、彼女は北方の大国 ヴォルフ公国の大公、アレクサンダー・ヴォルフ と出会う。 温かく誠実な彼との交流を通じて、ジェニファーは 「本当に大切にされること」 を知る。 そして、彼女の決断は、王都の社交界に大きな波紋を呼ぶこととなる――。 「公爵夫人を手放したことを、いつか後悔しても遅いわ」 「私はもう、あなたたちの飾り人形じゃない」 離婚を巡る策略、愛人の凋落、元夫の後悔――。 そして、新たな地で手にした 「愛される結婚」。

【完結】キズモノになった私と婚約破棄ですか?別に構いませんがあなたが大丈夫ですか?

なか
恋愛
「キズモノのお前とは婚約破棄する」 顔にできた顔の傷も治らぬうちに第二王子のアルベルト様にそう宣告される 大きな傷跡は残るだろう キズモノのとなった私はもう要らないようだ そして彼が持ち出した条件は婚約破棄しても身体を寄越せと下卑た笑いで告げるのだ そんな彼を殴りつけたのはとある人物だった このキズの謎を知ったとき アルベルト王子は永遠に後悔する事となる 永遠の後悔と 永遠の愛が生まれた日の物語

処理中です...