若い頃に婚約破棄されたけど、不惑の年になってようやく幸せになれそうです。

長岡更紗

文字の大きさ
101 / 115
第三章 若い頃に婚約破棄されたけど、不惑の年になってようやく幸せになれそうです。

101◆ディー編◆ 10.風呂場

しおりを挟む
「私は湯加減にうるさくてね。ここで火の調節をしてもらえるかな」
「はい、もちろんそのつもりでございます」

 このチャンスを逃さないよう、ディートフリートは彼女にそう頼んだ。湯加減に特にこだわりはなかったのだが。
 風呂に入るとザパンと音がして、お湯があふれ流れていく。

「お湯加減はいかがでしょうか」
「うん、ちょうどいいよ。いい気持ちだ」

 目をつぶって聞くと、やはりユリアーナの声によく似ていた。
 当時よりはずっと落ち着いた声だが、柔らかい、安心できる声だ。

「君はここに勤めて長いのかね」

 対して自分の声は震えそうになった。もういいおじさんだというのに、少女かと思うほどに胸を打ち鳴らしている。

「はい、もう二十三年になります」

 二十三年。ユリアーナが王都を出たのが十七歳。計算は合う。

「仕事は楽しいかい?」
「そうですね。いろいろありますが、おかみさんもよくしてくださるし、楽しいです」
「このままここで働き続けたいと思っているのかな?」
「ここ以外で働いたことがありませんので、これからもお世話になりたいと思っています」
「そうか」

 ここで働きたいというユリアーナに、自分が合わせることになる。
 彼女が、独身ならば……であるが。
 その前に、ユーリがユリアーナである証拠が欲しいと、ディートフリートは昔話を彼女に始めた。

 婚約者がいたこと。とてもだいすきだったこと。
 その子の父親が亡くなり、その父親は罪を犯したと断定されてしまったこと。
 真犯人は別にいるのではないかと睨んだこと。

「私はずっとその真犯人を探し続けた。目星はついたが、確たる証拠がなければ何もできない。結局、別件で地位を剥奪するくらいしかできなかった。こんな自分を不甲斐なく思うよ」

 胸の内の悔しい思いを吐露すると、ずっと聞いてくれていた彼女の声が耳に入ってくる。

「そんな風に信じてくれた人がいて、その方も救われたのではないでしょうか」
「だとよいのだけどね……」

 シャインの言った通りだ。彼女もまた、そんな風に思ってくれた。
 やはり彼女はユリアーナなのだと思うと、胸が熱くなってくる。

「私は、その娘とは婚約を破棄してしまっていてね。真犯人を見つけ出し、彼女の名誉と地位を取り戻したら、結婚しようと思っていた。だから別れ際、彼女に『待っていてほしい』と無理を言った」
「……」

 風呂の外からの声は、聞こえてこなかった。
 無言というのはどういう意味なのか。もしかして、彼女は待てなかったのだろうか。
 すでにユリアーナには、いい人がいるのだろうか。

 一目見るだけでいい、なんていう思いは吹っ飛んでしまっていた。
 ずっとずっと探していたユリアーナ。
 この手に抱きたい。自分のものにしてしまいたい。
 しかしそれも、ユリアーナにいい相手がいた時には……引かなくてはいけない。
 それを考えるだけで、胸が重く苦しい。

「時に君は、結婚しているのかな?」
「私……ですか?」

 ディートフリートは恐怖心を振り払って聞いた。
 どうか、どうかと願いながら。

「いいえ、独身です」
「恋人は?」
「そんな人はおりませんが……」

 思わず、湯船の中で拳を握る。
 彼女は、ユリアーナは、独身でいてくれた。自分を待ってくれていたのだ。
 歓喜に打ち震え、叫びそうになった声をどうにか飲み下すと、ディートフリートはパシャリと顔を洗って笑顔を作った。

「悪いが、もう少しだけ待っていてくれるか、ユリア」
「は……え?」
「待たせてばかりで悪い」
「あの……勘違いをなさっているのでは……私はユーリで」

 この期に及んで、誤魔化そうとしているユリアーナ。
 そんな必要は、もうないというのに。

「私が君をわからないとでも思っていたか?」
「……気付いて……たんですか?」

 認めた。認めてくれた。
 ユーリが、ユリアーナだと。

 嬉しさのあまり、はははと声が漏れる。けど同時に、なぜだか涙も溢れていた。

「実は最初はわからなかったよ。半信半疑ではあったがね。でも君のカーテシーを見た瞬間、ユリアーナだと確信した」
「あれだけで……ですか?」
「ユリアの挨拶は、世界で一番美しい挨拶だからね」

 あのカーテシーは忘れられない。これまでも、これからも……一生。
 ずっとずっと、ユリアーナのそばにいたかった。今まで一緒にいられなかった分、残りの人生をすべて、ユリアーナと共に。
 そのためには、まだすべきことが残っている。

「まだ、今はなにもできない。でも、逃げずにここで待っていてほしい。必ず私はもう一度ここに来る」
「ディー……」

 懐かしい呼び名。
 ユリアーナの口から発せられた、二十三年ぶりの己を呼ぶ言葉。

「久しいね。そう呼んでくれるのは、ユリアだけだ」

 嬉しい。嬉しくてたまらない。
 この気持ちが、壁一枚隔てたユリアーナに届いているだろうか。

「まだ、待っていて……いいんですか?」

 ユリアーナの声が少し震えていた。もう、泣かせたくない。悲しい思いでは、絶対に。

「ああ。もう少しだけ」
「私、おばさんだけど、いいんですか?」
「私だっておじさんだよ」
「そんなことありません! とても素敵です!」
「君も素敵だよ、ユリア。その白髪はくはつも、とても綺麗だ」

 ユリアーナの泣く声が聞こえてきた。これはきっと……嬉し涙に違いない。
 そう思うと、ディートフリートの口元は弧を描いた。

「待ちます……ディーを、いつまでも」
「そんなに長くは待たせないよ。さあ、そろそろ出るか。のぼせそうだ」

 ディートフリートが風呂を上がる。
 懐かしさと嬉しさで抱きしめたくなったが、今はまだだ。

 ディートフリートとユリアーナは互いに、『お客と宿屋の従業員』を演じて過ごした。
しおりを挟む
感想 35

あなたにおすすめの小説

そのご寵愛、理由が分かりません

秋月真鳥
恋愛
貧乏子爵家の長女、レイシーは刺繍で家計を支える庶民派令嬢。 幼いころから前世の夢を見ていて、その技術を活かして地道に慎ましく生きていくつもりだったのに—— 「君との婚約はなかったことに」 卒業パーティーで、婚約者が突然の裏切り! え? 政略結婚しなくていいの? ラッキー! 領地に帰ってスローライフしよう! そう思っていたのに、皇帝陛下が現れて—— 「婚約破棄されたのなら、わたしが求婚してもいいよね?」 ……は??? お金持ちどころか、国ごと背負ってる人が、なんでわたくしに!? 刺繍を褒められ、皇宮に連れて行かれ、気づけば妃教育まで始まり—— 気高く冷静な陛下が、なぜかわたくしにだけ甘い。 でもその瞳、どこか昔、夢で見た“あの少年”に似ていて……? 夢と現実が交差する、とんでもスピード婚約ラブストーリー! 理由は分からないけど——わたくし、寵愛されてます。 ※毎朝6時、夕方18時更新! ※他のサイトにも掲載しています。

ワザとダサくしてたら婚約破棄されたので隣国に行きます!

satomi
恋愛
ワザと瓶底メガネで三つ編みで、生活をしていたら、「自分の隣に相応しくない」という理由でこのフッラクション王国の王太子であられます、ダミアン殿下であらせられます、ダミアン殿下に婚約破棄をされました。  私はホウショウ公爵家の次女でコリーナと申します。  私の容姿で婚約破棄をされたことに対して私付きの侍女のルナは大激怒。  お父様は「結婚前に王太子が人を見てくれだけで判断していることが分かって良かった」と。  眼鏡をやめただけで、学園内での手の平返しが酷かったので、私は父の妹、叔母様を頼りに隣国のリーク帝国に留学することとしました!

王妃の仕事なんて知りません、今から逃げます!

gacchi(がっち)
恋愛
側妃を迎えるって、え?聞いてないよ? 王妃の仕事が大変でも頑張ってたのは、レオルドが好きだから。 国への責任感?そんなの無いよ。もういい。私、逃げるから! 12/16加筆修正したものをカクヨムに投稿しました。

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

【完結】転生したらラスボスの毒継母でした!

白雨 音
恋愛
妹シャルリーヌに裕福な辺境伯から結婚の打診があったと知り、アマンディーヌはシャルリーヌと入れ替わろうと画策する。 辺境伯からは「息子の為の白い結婚、いずれ解消する」と宣言されるが、アマンディーヌにとっても都合が良かった。「辺境伯の財で派手に遊び暮らせるなんて最高!」義理の息子など放置して遊び歩く気満々だったが、義理の息子に会った瞬間、卒倒した。 夢の中、前世で読んだ小説を思い出し、義理の息子は将来世界を破滅させようとするラスボスで、自分はその一因を作った毒継母だと知った。破滅もだが、何より自分の死の回避の為に、義理の息子を真っ当な人間に育てようと誓ったアマンディーヌの奮闘☆  異世界転生、家族愛、恋愛☆ 短めの長編(全二十一話です) 《完結しました》 お読み下さり、お気に入り、エール、いいね、ありがとうございます☆ 

実は家事万能な伯爵令嬢、婚約破棄されても全く問題ありません ~追放された先で洗濯した男は、伝説の天使様でした~

空色蜻蛉
恋愛
「令嬢であるお前は、身の周りのことは従者なしに何もできまい」 氷薔薇姫の異名で知られるネーヴェは、王子に婚約破棄され、辺境の地モンタルチーノに追放された。 「私が何も出来ない箱入り娘だと、勘違いしているのね。私から見れば、聖女様の方がよっぽど箱入りだけど」 ネーヴェは自分で屋敷を掃除したり美味しい料理を作ったり、自由な生活を満喫する。 成り行きで、葡萄畑作りで泥だらけになっている男と仲良くなるが、実は彼の正体は伝説の・・であった。

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

(本編完結)無表情の美形王子に婚約解消され、自由の身になりました! なのに、なんで、近づいてくるんですか?

水無月あん
恋愛
本編は完結してます。8/6より、番外編はじめました。よろしくお願いいたします。 私は、公爵令嬢のアリス。ピンク頭の女性を腕にぶら下げたルイス殿下に、婚約解消を告げられました。美形だけれど、無表情の婚約者が苦手だったので、婚約解消はありがたい! はれて自由の身になれて、うれしい! なのに、なぜ、近づいてくるんですか? 私に興味なかったですよね? 無表情すぎる、美形王子の本心は? こじらせ、ヤンデレ、執着っぽいものをつめた、ゆるゆるっとした設定です。お気軽に楽しんでいただければ、嬉しいです。

処理中です...