29 / 171
三章 湯泉宮と雲嵐の過去
13、舟に酔う人
しおりを挟む
翠鈴たちが一泊した町は、ちょうど離宮と温泉地への分岐点だ。
「御者には、この宿で待っていてもらいます。我々は舟で温泉地へと向かいます」
朝食の席で、雲嵐が説明してくれた。
「酔いませんか?」
「大丈夫だろう。この辺りの水路は人工的に開削したものだからな。運河といったところだ」
舟に不安を感じて問う翠鈴に、光柳が説明する。
(運河なら高低差も少ないから、流れも急じゃないかな)
持参していた南天は、夜の間に碗に張った水に差しておいたので、まだ萎れてはいない。
「それが最近、舟に酔う人が増えてるんですよ」
豆腐脳と油条を運んできてくれた女給が、光柳に声をかけた。
「雨で増水した日とか?」
「うーん。そういうわけでもないかな。まぁ、町のお医者さまが診てくださるから。問題もないと思いますけど」
近頃の人は、体力が落ちてるんですかね。と、女給は皿を並べてくれた。
これまでは舟酔いの人が少なかったのに。急に増えているとは不思議なことだ。
「舟頭の腕の問題ですか?」と、翠鈴が問いかける。
「そうでもないと思うんだけど。急流じゃないし、流れも緩やかなのにね。他の宿のお客さまでも、具合が悪くなって一泊延長する人もいるくらいよ」
女給に「どうぞ」と勧められて、翠鈴は「いただきます」と匙を手にした。
食べなれている豆腐脳だが。醤油が甘いのか、少し味が違う。
南天を持っていてよかったと思う反面。翠鈴は目をすがめて考えを巡らせた。
(これは単純に、舟の客の問題じゃないかもしれない)
「翠鈴。朱欒が気になるのか?」
「は?」
翠鈴は、自分が巨大な毬のような柑橘を睨みつけていることに気づいた。光柳に声をかけられなければ、知らぬままだった。
「朱欒ですか。やたらと大きな柑橘ですね」
淡い黄色の果実を持ちあげてみると、ずっしりとした重みがある。
「剥いてさしあげましょう」
雲嵐は、翠鈴から朱欒を受けとった。短刀で、真ん中あたりにぐるりと一周するように刃を入れた。
めりっと音を立てて、上半分の皮が外れる。
翠鈴と光柳は、興味深く果実を覗いた。
「真っ白です」
「触ってみるがいい。ふかふかなんだぞ」
自分で剥いたわけでもないのに、光柳は得意げだ。
「食べるのは蜜柑と一緒で、房の中ですよ。翠鈴さま。ワタを口に入れたら苦いですよ」
ついクセで、珍しい物を口に運んだ翠鈴を、雲嵐が止める。
植物は、基本的に本と照らし合わせて同定するが。知らぬものが毒かどうかは、ほんの少しだけ口に入れる。
痺れたり、違和感があればすぐに吐きだす。
時間差で効く毒もあるから。知らぬ物を、呑み込むことはしない。
「よし。私が房を外してやろう」
袖をめくって立ち上がる光柳に、雲嵐は「えー? 大丈夫ですかぁ?」と、怪訝なまなざしを向けた。
「光柳さまは、お箸と筆くらいしか扱えないでしょう?」
「む。失礼だぞ、雲嵐」
人は真実を突かれると、腹を立てるようだ。
(でも、いいな)と翠鈴は思う。
いつもの朝食は、仕事を終えた翠鈴や由由はともかくとして。他の宮女たちは、仕事前に慌ただしく食べている。
誰もが急いで、今日やるべきことを考えながら、ただ黙々と朝食をとる。
こんな風に落ち着いて、のんびりできることなんて稀だ。休みの日だって、できるかぎり寝てたい。とはいえ遅くなれば、朝食は残っていない。
「本来は、こういうゆったりとした時間が必要なのかもしれませんね」
「そうだろう?」
少し息が上がった光柳が、満面の笑みを浮かべる。
翠鈴の目の前に、朱欒の大きな房が差しだされた。色の薄い巨大な蜜柑だ。
爽やかな香りが、ふわっと立つ。
「ありがとうございます。明日は筋肉痛ですね」
「子供の頃は剥いてもらっていたからな。こんなにも力がいるとは思わなかった」
薄皮をとって、翠鈴は果実を口に運ぶ。
涼しい甘さが広がった。果汁が溢れる。しかも実の半分も食べていないのに。
(おいしい)
きっと翠鈴が目を輝かせていたのだろう。光柳と雲嵐が、うんうんと頷いた。
「これ、おいしいうえに、体にもよさそうですよね。酸味は血液を浄化しますし。皮は苦いでしょうから、利用できそうですね」
しかも朱欒は大きい。風邪に効く陳皮を作るには、干した蜜柑の皮を大量に裏返さなければならないが。朱欒の皮ならば、手間が省ける。
「いかんな、雲嵐」
「ええ、いけませんね」
光柳と雲嵐は顔を見あわせた。
せっかく休みに来ているというのに。翠鈴が商機を見つけてしまったことに、気づいたのだ。
「この朱欒を、杷京でも育てられませんか?」
ああ、早く帰って木を植えたい。苗? それとも接ぎ木?
どこに行けば苗や枝が手に入るの?
温暖な気候で育つというのなら、後宮で日当たりのいい場所を探そう。
冬の風が冷たいというのなら、朱欒の木を毛布で囲ってあげよう。
どんな病に効くのか。どんな効能があるのか。
調べたい。
「あー、気持ちは分かるが。まだ往路だ。落ち着きなさい」
「翠鈴は、仕事が好きというよりも商売が好きですよね。薬という点で、人の役には立っているようですが」
知らぬ間に翠鈴は椅子から立ち上がっていたようだ。
ふたりに止められて、ようやく自分が立っていることに気づいた。
「自分への素敵なおみやげができました。誘ってくださって、ありがとうございます」
翠鈴に輝く笑みで感謝されて、光柳は頭を抱えた。
「……だから、まだ湯泉宮に着いていないと」
光柳は気づいていない。
これまで人を振りまわしてきた彼が、翠鈴に初めて振りまわされていることを。
「御者には、この宿で待っていてもらいます。我々は舟で温泉地へと向かいます」
朝食の席で、雲嵐が説明してくれた。
「酔いませんか?」
「大丈夫だろう。この辺りの水路は人工的に開削したものだからな。運河といったところだ」
舟に不安を感じて問う翠鈴に、光柳が説明する。
(運河なら高低差も少ないから、流れも急じゃないかな)
持参していた南天は、夜の間に碗に張った水に差しておいたので、まだ萎れてはいない。
「それが最近、舟に酔う人が増えてるんですよ」
豆腐脳と油条を運んできてくれた女給が、光柳に声をかけた。
「雨で増水した日とか?」
「うーん。そういうわけでもないかな。まぁ、町のお医者さまが診てくださるから。問題もないと思いますけど」
近頃の人は、体力が落ちてるんですかね。と、女給は皿を並べてくれた。
これまでは舟酔いの人が少なかったのに。急に増えているとは不思議なことだ。
「舟頭の腕の問題ですか?」と、翠鈴が問いかける。
「そうでもないと思うんだけど。急流じゃないし、流れも緩やかなのにね。他の宿のお客さまでも、具合が悪くなって一泊延長する人もいるくらいよ」
女給に「どうぞ」と勧められて、翠鈴は「いただきます」と匙を手にした。
食べなれている豆腐脳だが。醤油が甘いのか、少し味が違う。
南天を持っていてよかったと思う反面。翠鈴は目をすがめて考えを巡らせた。
(これは単純に、舟の客の問題じゃないかもしれない)
「翠鈴。朱欒が気になるのか?」
「は?」
翠鈴は、自分が巨大な毬のような柑橘を睨みつけていることに気づいた。光柳に声をかけられなければ、知らぬままだった。
「朱欒ですか。やたらと大きな柑橘ですね」
淡い黄色の果実を持ちあげてみると、ずっしりとした重みがある。
「剥いてさしあげましょう」
雲嵐は、翠鈴から朱欒を受けとった。短刀で、真ん中あたりにぐるりと一周するように刃を入れた。
めりっと音を立てて、上半分の皮が外れる。
翠鈴と光柳は、興味深く果実を覗いた。
「真っ白です」
「触ってみるがいい。ふかふかなんだぞ」
自分で剥いたわけでもないのに、光柳は得意げだ。
「食べるのは蜜柑と一緒で、房の中ですよ。翠鈴さま。ワタを口に入れたら苦いですよ」
ついクセで、珍しい物を口に運んだ翠鈴を、雲嵐が止める。
植物は、基本的に本と照らし合わせて同定するが。知らぬものが毒かどうかは、ほんの少しだけ口に入れる。
痺れたり、違和感があればすぐに吐きだす。
時間差で効く毒もあるから。知らぬ物を、呑み込むことはしない。
「よし。私が房を外してやろう」
袖をめくって立ち上がる光柳に、雲嵐は「えー? 大丈夫ですかぁ?」と、怪訝なまなざしを向けた。
「光柳さまは、お箸と筆くらいしか扱えないでしょう?」
「む。失礼だぞ、雲嵐」
人は真実を突かれると、腹を立てるようだ。
(でも、いいな)と翠鈴は思う。
いつもの朝食は、仕事を終えた翠鈴や由由はともかくとして。他の宮女たちは、仕事前に慌ただしく食べている。
誰もが急いで、今日やるべきことを考えながら、ただ黙々と朝食をとる。
こんな風に落ち着いて、のんびりできることなんて稀だ。休みの日だって、できるかぎり寝てたい。とはいえ遅くなれば、朝食は残っていない。
「本来は、こういうゆったりとした時間が必要なのかもしれませんね」
「そうだろう?」
少し息が上がった光柳が、満面の笑みを浮かべる。
翠鈴の目の前に、朱欒の大きな房が差しだされた。色の薄い巨大な蜜柑だ。
爽やかな香りが、ふわっと立つ。
「ありがとうございます。明日は筋肉痛ですね」
「子供の頃は剥いてもらっていたからな。こんなにも力がいるとは思わなかった」
薄皮をとって、翠鈴は果実を口に運ぶ。
涼しい甘さが広がった。果汁が溢れる。しかも実の半分も食べていないのに。
(おいしい)
きっと翠鈴が目を輝かせていたのだろう。光柳と雲嵐が、うんうんと頷いた。
「これ、おいしいうえに、体にもよさそうですよね。酸味は血液を浄化しますし。皮は苦いでしょうから、利用できそうですね」
しかも朱欒は大きい。風邪に効く陳皮を作るには、干した蜜柑の皮を大量に裏返さなければならないが。朱欒の皮ならば、手間が省ける。
「いかんな、雲嵐」
「ええ、いけませんね」
光柳と雲嵐は顔を見あわせた。
せっかく休みに来ているというのに。翠鈴が商機を見つけてしまったことに、気づいたのだ。
「この朱欒を、杷京でも育てられませんか?」
ああ、早く帰って木を植えたい。苗? それとも接ぎ木?
どこに行けば苗や枝が手に入るの?
温暖な気候で育つというのなら、後宮で日当たりのいい場所を探そう。
冬の風が冷たいというのなら、朱欒の木を毛布で囲ってあげよう。
どんな病に効くのか。どんな効能があるのか。
調べたい。
「あー、気持ちは分かるが。まだ往路だ。落ち着きなさい」
「翠鈴は、仕事が好きというよりも商売が好きですよね。薬という点で、人の役には立っているようですが」
知らぬ間に翠鈴は椅子から立ち上がっていたようだ。
ふたりに止められて、ようやく自分が立っていることに気づいた。
「自分への素敵なおみやげができました。誘ってくださって、ありがとうございます」
翠鈴に輝く笑みで感謝されて、光柳は頭を抱えた。
「……だから、まだ湯泉宮に着いていないと」
光柳は気づいていない。
これまで人を振りまわしてきた彼が、翠鈴に初めて振りまわされていることを。
39
あなたにおすすめの小説
夫が妹を第二夫人に迎えたので、英雄の妻の座を捨てます。
Nao*
恋愛
夫が英雄の称号を授かり、私は英雄の妻となった。
そして英雄は、何でも一つ願いを叶える事が出来る。
そんな夫が願ったのは、私の妹を第二夫人に迎えると言う信じられないものだった。
これまで夫の為に祈りを捧げて来たと言うのに、私は彼に手酷く裏切られたのだ──。
(1万字以上と少し長いので、短編集とは別にしてあります。)
【完結】20年後の真実
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。
マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。
それから20年。
マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。
そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。
おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。
全4話書き上げ済み。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
番を辞めますさようなら
京佳
恋愛
番である婚約者に冷遇され続けた私は彼の裏切りを目撃した。心が壊れた私は彼の番で居続ける事を放棄した。私ではなく別の人と幸せになって下さい。さようなら…
愛されなかった番。後悔ざまぁ。すれ違いエンド。ゆるゆる設定。
※沢山のお気に入り&いいねをありがとうございます。感謝感謝♡
三回目の人生も「君を愛することはない」と言われたので、今度は私も拒否します
冬野月子
恋愛
「君を愛することは、決してない」
結婚式を挙げたその夜、夫は私にそう告げた。
私には過去二回、別の人生を生きた記憶がある。
そうして毎回同じように言われてきた。
逃げた一回目、我慢した二回目。いずれも上手くいかなかった。
だから今回は。
下賜されまして ~戦場の餓鬼と呼ばれた軍人との甘い日々~
イシュタル
恋愛
王宮から突然嫁がされた18歳の少女・ソフィアは、冷たい風の吹く屋敷へと降り立つ。迎えたのは、無愛想で人嫌いな騎士爵グラッド・エルグレイム。金貨の袋を渡され「好きにしろ」と言われた彼女は、侍女も使用人もいない屋敷で孤独な生活を始める。
王宮での優雅な日々とは一転、自分の髪を切り、服を整え、料理を学びながら、ソフィアは少しずつ「夫人」としての自立を模索していく。だが、辻馬車での盗難事件や料理の失敗、そして過労による倒れ込みなど、試練は次々と彼女を襲う。
そんな中、無口なグラッドの態度にも少しずつ変化が現れ始める。謝罪とも言えない金貨の袋、静かな気遣い、そして彼女の倒れた姿に見せた焦り。距離のあった二人の間に、わずかな波紋が広がっていく。
これは、王宮の寵姫から孤独な夫人へと変わる少女が、自らの手で居場所を築いていく物語。冷たい屋敷に灯る、静かな希望の光。
⚠️本作はAIとの共同製作です。
【12月末日公開終了】有能女官の赴任先は辺境伯領
たぬきち25番
恋愛
辺境伯領の当主が他界。代わりに領主になったのは元騎士団の隊長ギルベルト(26)
ずっと騎士団に在籍して領のことなど右も左もわからない。
そのため新しい辺境伯様は帳簿も書類も不備ばかり。しかも辺境伯領は王国の端なので修正も大変。
そこで仕事を終わらせるために、腕っぷしに定評のあるギリギリ貴族の男爵出身の女官ライラ(18)が辺境伯領に出向くことになった。
だがそこでライラを待っていたのは、元騎士とは思えないほどつかみどころのない辺境伯様と、前辺境伯夫妻の忘れ形見の3人のこどもたち(14歳男子、9歳男子、6歳女子)だった。
仕事のわからない辺境伯を助けながら、こどもたちの生活を助けたり、魔物を倒したり!?
そしていつしか、ライラと辺境伯やこどもたちとの関係が変わっていく……
※お待たせしました。
※他サイト様にも掲載中
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。