後宮の隠れ薬師は闇夜を照らす

絹乃

文字の大きさ
61 / 171
五章 女炎帝

12、弱みは見せられない

しおりを挟む
「え?」

 陳燕チェンイェンの体がぐらついた。
 何かにつかまろうとしたが。大理寺だいりじの前の、ただ開けた場所だ。陳燕の手は、くうを掻いた。

「え? え?」

 叔父さま。どうして?

 陳燕の体は地面に叩きつけられた。痛みよりも先に、右頬に熱を感じた。すりむいたようだ。
 立とうとすると、足首に激痛が走った。

「ほら。そんなおかしな底の高いくつを履くから。まともに歩くことも、危機を避けることもできないんだ。普段から花盆沓かぼんくつを履いているのか? まさか、それで仕事をしているんじゃないだろうな」

 陳燕を見おろす叔父の顔には、薄笑いが浮かんでいた。

 そうだ。思いだした。
 叔父は陳燕のことを嫌っていたのだ。

 生まれてからこのかた、陳燕は叔父に「阿燕アーイェン」と呼ばれたことがない。
「ちゃん」づけで呼ぶほどの親しさを、叔父は感じてくれていないのだ。

「普段から、よく転んでいるのか?」

 平坦な声で、陳天分チェンティエンフェンは問うた。

「侍女としてまともに働けないのでは、陳家の恥さらしだな。文官か武官にでも下賜されて、嫁入りした方がいいだろうな」

 まだ陳燕は立ち上がれない。
 大理寺に出入りする官吏が、彼女を一瞥しては去っていく。
 陳燕は、ぎりっと歯ぎしりした。

 後宮なら、貴妃の侍女である自分はこんな非道な扱いを受けない。大商家の令嬢と、一目置かれることも多い。

(未央宮の司燈しとうは、生意気でわたくしに盾突くけれど)

 けれど、陸翠鈴ルーツイリンは毒から陳燕を守ってくれた。
 いや、あんな下位の宮女のことを思いだすなんてどうかしている。

「叔父さま……助けて」
「立てないのか?」

 冷ややかに問われて、陳燕はこくりとうなずいた。きれいに結っていた髪は乱れ、土にまみれている。

「その珍妙な沓を脱げば、立てるだろう? 裸足で後宮まで戻ればいい」
「甘露宮は、後宮でも奥にあるんです。ご存じでしょう」
「じゃあ、宦官にでもおぶってもらえばいい」

 陳燕が転んだのを眺めていた、通りすがりの宦官は、両手を前に出して振った。全力の拒否だ。

「よかったな。その沓が外を歩くのに向いていないと、分かったじゃないか。身をもって知ることは大切だ。生きた教育だな」

 叔父の長い話は続いた。
 衣裳を盗まれたのは、高価なものを後宮に持ちこんだお前が悪いのだ、と。
 親族とはいえ、自分に迷惑のかかるようなことはしないでくれ、と。

(わたくしは、ただお祝いを言いたかっただけなのに。そのために許可を取って、後宮から外廷にまで出てきたのに)

 純粋な好意を悪意で返されるなんて。

 まだにへたり込んだままの陳燕は、爪で地面を引っ掻いた。
 美しく整った、艶のある爪の中に土が入る。

 では、仕事があるのでと陳天分は姪に背を向けた。
 
 ◇◇◇

 叔父の陳天分チェンティエンフェンに、あれほどコケにされて陳燕チェンイェンは悔しい思いをしたのに。

 ほんの数日経っただけで。また貴重品が盗まれた。
 実家から持ってきた翡翠の腕環だ。

 しかも琅玕ろうかんといわれる最高品質のものだ。翡翠の皇帝とも称される。

「どうして、ないのよ。ちゃんと大事に保管していたのに」

 琅玕の腕輪は、宴で馬貴妃の供をするときに、必ずつけている。失くすはずがない。

「どうしたらいいのよぉぉぉぉ!」

 陳燕の叫びが、壁に天井に反響する。

 四人の侍女が「どうしたの」と、部屋に飛び込んできた。
 侍女たちは、夜着の上からあわてて上着をはおった様子だ。すでに就寝時間であることに、陳燕はようやく気付いた。

「ごめんなさい。ちょっと足が痛んだだけよ」

 弱みは見せられない。
 みな令嬢で、入内前の馬貴妃に仕えていた者もいる。陳燕よりも家柄がいい。

「それなら明日にでも医局に行った方がいいわ」
「立てる? 手を貸しましょうか?」

 優しい言葉が、鬱陶しい。
 もうひとりの侍女は、床に散らかった陳燕の衣を拾って畳んでくれた。

(もうやめてよ。わたくしは、あなた達に優しくしたことなんてないわ)

 弱みなんて見せたくない。見せられない。
 けれど。陳燕には頼れる人もいない。
しおりを挟む
感想 11

あなたにおすすめの小説

夫が妹を第二夫人に迎えたので、英雄の妻の座を捨てます。

Nao*
恋愛
夫が英雄の称号を授かり、私は英雄の妻となった。 そして英雄は、何でも一つ願いを叶える事が出来る。 そんな夫が願ったのは、私の妹を第二夫人に迎えると言う信じられないものだった。 これまで夫の為に祈りを捧げて来たと言うのに、私は彼に手酷く裏切られたのだ──。 (1万字以上と少し長いので、短編集とは別にしてあります。)

【完結】20年後の真実

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。 マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。 それから20年。 マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。 そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。 おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。 全4話書き上げ済み。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

番を辞めますさようなら

京佳
恋愛
番である婚約者に冷遇され続けた私は彼の裏切りを目撃した。心が壊れた私は彼の番で居続ける事を放棄した。私ではなく別の人と幸せになって下さい。さようなら… 愛されなかった番。後悔ざまぁ。すれ違いエンド。ゆるゆる設定。 ※沢山のお気に入り&いいねをありがとうございます。感謝感謝♡

三回目の人生も「君を愛することはない」と言われたので、今度は私も拒否します

冬野月子
恋愛
「君を愛することは、決してない」 結婚式を挙げたその夜、夫は私にそう告げた。 私には過去二回、別の人生を生きた記憶がある。 そうして毎回同じように言われてきた。 逃げた一回目、我慢した二回目。いずれも上手くいかなかった。 だから今回は。

下賜されまして ~戦場の餓鬼と呼ばれた軍人との甘い日々~

イシュタル
恋愛
王宮から突然嫁がされた18歳の少女・ソフィアは、冷たい風の吹く屋敷へと降り立つ。迎えたのは、無愛想で人嫌いな騎士爵グラッド・エルグレイム。金貨の袋を渡され「好きにしろ」と言われた彼女は、侍女も使用人もいない屋敷で孤独な生活を始める。 王宮での優雅な日々とは一転、自分の髪を切り、服を整え、料理を学びながら、ソフィアは少しずつ「夫人」としての自立を模索していく。だが、辻馬車での盗難事件や料理の失敗、そして過労による倒れ込みなど、試練は次々と彼女を襲う。 そんな中、無口なグラッドの態度にも少しずつ変化が現れ始める。謝罪とも言えない金貨の袋、静かな気遣い、そして彼女の倒れた姿に見せた焦り。距離のあった二人の間に、わずかな波紋が広がっていく。 これは、王宮の寵姫から孤独な夫人へと変わる少女が、自らの手で居場所を築いていく物語。冷たい屋敷に灯る、静かな希望の光。 ⚠️本作はAIとの共同製作です。

【12月末日公開終了】有能女官の赴任先は辺境伯領

たぬきち25番
恋愛
辺境伯領の当主が他界。代わりに領主になったのは元騎士団の隊長ギルベルト(26) ずっと騎士団に在籍して領のことなど右も左もわからない。 そのため新しい辺境伯様は帳簿も書類も不備ばかり。しかも辺境伯領は王国の端なので修正も大変。 そこで仕事を終わらせるために、腕っぷしに定評のあるギリギリ貴族の男爵出身の女官ライラ(18)が辺境伯領に出向くことになった。   だがそこでライラを待っていたのは、元騎士とは思えないほどつかみどころのない辺境伯様と、前辺境伯夫妻の忘れ形見の3人のこどもたち(14歳男子、9歳男子、6歳女子)だった。 仕事のわからない辺境伯を助けながら、こどもたちの生活を助けたり、魔物を倒したり!? そしていつしか、ライラと辺境伯やこどもたちとの関係が変わっていく…… ※お待たせしました。 ※他サイト様にも掲載中

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。