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六章 出会い
3、たどり着くのか?
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侍女たちが、桃莉の手を洗い、髪を梳かして着替えさせた。
前で合わせる衿の部分に花模様の刺繍を施した、おしゃれな衣裳だ。
さっきまで泥で遊んでいたとは思えぬほどに、清楚で愛らしい。
皇后の宮に同行するのは、侍女頭の梅娜と翠鈴だ。二十代半ばの梅娜は、いつもは落ち着いているのだが。今日はそわそわとしている。
未央宮の門を出るまで、桃莉公主はなんどもふり返って、蘭淑妃に手をふっていた。
「迷子にならないようにね、桃莉」
「だいじょうぶ。タオリィ、しっかりさんだから」
「皇后娘娘へのご挨拶は覚えたわね」
「うん。タオリィ、おりこうさんだから」
頼れる言葉に、蘭淑妃をはじめ未央宮の侍女たちが「おおっ」と歓声をあげる。
誰もが口々に「いってらっしゃいませ。公主さま」「ご武運を」などと言うものだから。
付き添いの翠鈴も、まるで今から出征するような気分になってしまう。
「あのー。失礼があっても、手打ちになんてなりませんよね」
梅娜の耳もとで、翠鈴は問うた。
左手は、桃莉とつないでいるので。彼女には聞こえないように小声だ。
「大丈夫よ。杷国の皇太后で、それはもう恐ろしいお方がいらっしゃったけど。それは昔のことだからね」
「どれくらい恐ろしいんですか?」
「訊いちゃったわね」
梅娜はにたぁと暗い笑みを浮かべた。
「あ、今のナシで」
薬師だから、病に伏した人や怪我をした人を見る頻度は高い。だが、翠鈴の本能がその先を知るのを拒否した。
おそらく猟奇的な罰を下したのだろう。
だとしたら、就いたばかりの大理寺卿を降ろされた陳天分は、悪い意味での懐古主義者だったのかもしれない。
「ほら、公主もいらっしゃいますから」
「それもそうね。姫さまの耳に入ってはいけないわね」
小声で話す翠鈴と梅娜を、桃莉公主が見あげた。
「ちゃんとついてくるのよ、メイナー、ツイリン」
小さな主は、大役を任されたこともあって勇ましい。
だが、それも一瞬のことだった。
まだ春には遠いというのに。越冬中に迷い出てしまったのだろう。黄色い蝶がふわふわと飛んでいる。
「わぁ、ちょうちょだぁ」
桃莉が翠鈴の手を離して走り出した。
「いけません。桃莉さま」
慌てた翠鈴が、桃莉の腰の部分を持って抱きあげる。空中に上げられても、桃莉は手を足を動かしていた。
両足をバタバタさせる桃莉。両腕で桃莉を抱える翠鈴。
あまりにも目立つ。
後宮内を歩いている宦官が「うわ、誘拐か」と身構えたが。翠鈴の側に立つ侍女頭の梅娜を見て、胸をなでおろす。
「桃莉さま。暴れては危ないですよ」
「だって、ツイリン。ちょうちょだよ。ほら、いっちゃうよ」
「行ってしまった方がいいんです。まだ冬ですからね。冷たい風を避けることのできる場所を探しているんです」
「びおうきゅうなら、あったかいよ」
うーん、想像できるぞ。
きっと火鉢で温かくなった部屋で。桃莉公主は、黄色い蝶を相手に「はい、お花のみつですよ。たっぷりのんでね」と、庭の水鉢に張った氷の薄いかけらを差しだすのだろう。
「また春に出てきてくれますから。ちょうちょさん、またねって手をふりましょうね」
「ちょうちょさん、タオリィのこと、おぼえてる?」
「はい。こんなにも愛らしい桃莉さまのことを、どうして忘れることができましょう。あの黄色い蝶は、春まで桃莉さまの夢を見て眠るんですよ。温かくなれば、本当の桃莉さまに会いに来てくれるでしょう」
翠鈴の言葉に、梅娜がうっとりとした表情を浮かべる。その瞳が「素敵ねぇ」と語っている。
(いけない。光柳さまといることが多いから。つい、麟美さまの詩みたいに話してしまった)
詩心なんて、これっぽっちもないのに。
通りを歩く大人たちが、どんどん翠鈴たちを追い越していく。
「そのうち亀にでも抜かれそうね」
「否定はできません」
梅娜と翠鈴は、顔を見合わせて苦笑した。
「桃莉さま。重要なお務めをお忘れではないですか?」
「はっ。そうだった!」
梅娜に声をかけられて、桃莉はようやく何をすべきか思いだしたようだ。
(これは、寿華宮に着くまで、手を離さない方がいいね)
公主の小さな右手を、翠鈴はぎゅっと握りしめた。
前で合わせる衿の部分に花模様の刺繍を施した、おしゃれな衣裳だ。
さっきまで泥で遊んでいたとは思えぬほどに、清楚で愛らしい。
皇后の宮に同行するのは、侍女頭の梅娜と翠鈴だ。二十代半ばの梅娜は、いつもは落ち着いているのだが。今日はそわそわとしている。
未央宮の門を出るまで、桃莉公主はなんどもふり返って、蘭淑妃に手をふっていた。
「迷子にならないようにね、桃莉」
「だいじょうぶ。タオリィ、しっかりさんだから」
「皇后娘娘へのご挨拶は覚えたわね」
「うん。タオリィ、おりこうさんだから」
頼れる言葉に、蘭淑妃をはじめ未央宮の侍女たちが「おおっ」と歓声をあげる。
誰もが口々に「いってらっしゃいませ。公主さま」「ご武運を」などと言うものだから。
付き添いの翠鈴も、まるで今から出征するような気分になってしまう。
「あのー。失礼があっても、手打ちになんてなりませんよね」
梅娜の耳もとで、翠鈴は問うた。
左手は、桃莉とつないでいるので。彼女には聞こえないように小声だ。
「大丈夫よ。杷国の皇太后で、それはもう恐ろしいお方がいらっしゃったけど。それは昔のことだからね」
「どれくらい恐ろしいんですか?」
「訊いちゃったわね」
梅娜はにたぁと暗い笑みを浮かべた。
「あ、今のナシで」
薬師だから、病に伏した人や怪我をした人を見る頻度は高い。だが、翠鈴の本能がその先を知るのを拒否した。
おそらく猟奇的な罰を下したのだろう。
だとしたら、就いたばかりの大理寺卿を降ろされた陳天分は、悪い意味での懐古主義者だったのかもしれない。
「ほら、公主もいらっしゃいますから」
「それもそうね。姫さまの耳に入ってはいけないわね」
小声で話す翠鈴と梅娜を、桃莉公主が見あげた。
「ちゃんとついてくるのよ、メイナー、ツイリン」
小さな主は、大役を任されたこともあって勇ましい。
だが、それも一瞬のことだった。
まだ春には遠いというのに。越冬中に迷い出てしまったのだろう。黄色い蝶がふわふわと飛んでいる。
「わぁ、ちょうちょだぁ」
桃莉が翠鈴の手を離して走り出した。
「いけません。桃莉さま」
慌てた翠鈴が、桃莉の腰の部分を持って抱きあげる。空中に上げられても、桃莉は手を足を動かしていた。
両足をバタバタさせる桃莉。両腕で桃莉を抱える翠鈴。
あまりにも目立つ。
後宮内を歩いている宦官が「うわ、誘拐か」と身構えたが。翠鈴の側に立つ侍女頭の梅娜を見て、胸をなでおろす。
「桃莉さま。暴れては危ないですよ」
「だって、ツイリン。ちょうちょだよ。ほら、いっちゃうよ」
「行ってしまった方がいいんです。まだ冬ですからね。冷たい風を避けることのできる場所を探しているんです」
「びおうきゅうなら、あったかいよ」
うーん、想像できるぞ。
きっと火鉢で温かくなった部屋で。桃莉公主は、黄色い蝶を相手に「はい、お花のみつですよ。たっぷりのんでね」と、庭の水鉢に張った氷の薄いかけらを差しだすのだろう。
「また春に出てきてくれますから。ちょうちょさん、またねって手をふりましょうね」
「ちょうちょさん、タオリィのこと、おぼえてる?」
「はい。こんなにも愛らしい桃莉さまのことを、どうして忘れることができましょう。あの黄色い蝶は、春まで桃莉さまの夢を見て眠るんですよ。温かくなれば、本当の桃莉さまに会いに来てくれるでしょう」
翠鈴の言葉に、梅娜がうっとりとした表情を浮かべる。その瞳が「素敵ねぇ」と語っている。
(いけない。光柳さまといることが多いから。つい、麟美さまの詩みたいに話してしまった)
詩心なんて、これっぽっちもないのに。
通りを歩く大人たちが、どんどん翠鈴たちを追い越していく。
「そのうち亀にでも抜かれそうね」
「否定はできません」
梅娜と翠鈴は、顔を見合わせて苦笑した。
「桃莉さま。重要なお務めをお忘れではないですか?」
「はっ。そうだった!」
梅娜に声をかけられて、桃莉はようやく何をすべきか思いだしたようだ。
(これは、寿華宮に着くまで、手を離さない方がいいね)
公主の小さな右手を、翠鈴はぎゅっと握りしめた。
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