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八章 陽だまりの花園
10、根のお茶
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「翠鈴。どうして顔を見せてくれないんだ?」
光柳が、翠鈴の両手首に手を添える。
「……恥ずかしいからです」
「そうか。恥ずかしいなら、雲嵐には後ろを向いていてもらおうか?」
手で顔を覆っているから、状況は見えないけれど。橋面を擦るような音がした。雲嵐が体の向きを変えたのだろう。
(まだ頼まれてもいないのに。律儀すぎます、雲嵐さま)
とにかく平常心だ。翠鈴は深呼吸をした。
春節を迎えて十六歳であっても、あまりにも初心な反応だ。しかも実際の翠鈴は数えで二十三になった。
(下手をしたら、桃莉公主の方がわたしよりも先に恋愛に慣れておしまいになるかも)
いけない。身分はともかく、年長者としてそれはいけない。
「こんな夜にお会いできるとは思ってませんでした。嬉しいです」
きっと口元はこわばっている。笑顔だってぎこちないはずだ。
なのに。光柳は「そ、そうか」と照れている。
あまりにも静かで、池の水面を風が渡る音さえ聞こえる。
どれくらいの時間が経ったのだろう。
さすがに痺れを切らしたらしい雲嵐が、ふたりに声をかけた。
「そろそろ戻って寝ないと。おふたりとも、明日の仕事に差し支えますよ」
緊張の糸が切れたのかもしれない。翠鈴は橋の欄干に手をついて、呼吸を整えた。
(慣れることができるのかな、わたし)
雲嵐が話しかけてくれなかったら、朝まで橋の上で、光柳と向かい合っていたかもしれない。
◇◇◇
皇后のお腹の子は順調に育っているようだ。
翠鈴は蘭淑妃や侍女頭の梅娜と一緒に、お茶を選んでいた。皇后陛下に蘭淑妃が贈るのだという。
部屋の中央にある紫檀の机の上に、翠鈴が用意したものが並んでいる。
「お茶といっても、茶葉じゃないのね」
梅娜は、布を敷いた上にいくつも並んだ素材を眺めた。
「夜にお茶を飲むと、寝つきが悪くないですか? 茶葉がよくないみたいですよ」
翠鈴の注文を受けて、素材を注文してくれたのは他の侍女だ。だから梅娜は初めて見るのだろう。
「黒豆がお茶になるのね」
蘭淑妃は椅子から立ち上がって、黒豆の小山に触れた。ころころと頂上の豆がこぼれ落ちる。
「黒豆衣といって、黒豆の皮は生薬にもなる食べ物なんです。『神農本草経』に記載されています」
豆そのものだけではない。大豆黄巻という黒豆に芽が生えたもやしも、生薬だ。
「翠鈴。この葉のついた根は? なんだか濡れてるけど。まさかこれもお茶になるの?」
「ほんとね。庭から引っこ抜いた雑草みたいね」
梅娜と蘭淑妃は、きざきざの緑の葉がついた根を凝視している。触るのも恐々といった様子だ。
その時。ギィッと部屋の扉が開いた。
「それね、タオリィもがんばったの」
今日もまた、手を土で汚した桃莉公主が室内に入ってくる。
「桃莉さま。手を洗ってくださいと申しあげたはずですが」
「うん、あとでね。ツイリン」
返事はいいが。これは井戸まで連行しないと、きっと手を洗わないだろう。
桃莉公主は背伸びをして、机の上を覗きこんだ。
「これね、たんぽぽの根っこだよ。タオリィもあつめるの、てつだったんだ」
説明する声が弾んでいる。きっと字の勉強から逃げられて、ご機嫌なのだろう。
「たんぽぽの根を、どうするのかしら」
「もちろんお茶にしますよ。もう洗ってあるので、あとは刻んで干すんです」
蘭淑妃が、短い悲鳴を上げた。
「く、黒豆は分かるわ。でも、雑草の根っこを皇后娘娘に差しあげるのは」
「ええ。これはわたしたちで飲もうと思って、用意したんです。たんぽぽは菊の種類ですから。人によっては、体に合わないことがあるんです。淑妃さまも梅娜さまも、菊茶はふだんから召しあがっておいでですから大丈夫ですよ」
ふたりは顔を見合わせた。
どうみても雑草でしかないたんぽぽだ。しかも庭に生えていたもの。
けれど桃莉ががんばったのだから、飲まないと泣いてしまうかも。
この間も泥で作った茶湯から逃げたけれど。今回はさすがに断れないかも。
声には出さないのに。蘭淑妃と梅娜は表情で、雄弁に会話している。
「大丈夫ですよ。ちゃんときれいに洗いますし。根は乾燥させますから」
それでも蘭淑妃と梅娜は不安げだ。
よし、もう一押し。
「たんぽぽは、蒲公英といって、全草が生薬なんです。西の国では健胃……つまり胃を元気にします。もし皇后陛下がたんぽぽを摂取しても問題なければ、お勧めなのですが。哺乳期に、お子さまが元気にお育ちになりますから」
「そう、なの?」
蘭淑妃の心が揺らいだのが分かった。ふらーっと翠鈴の方へ近寄ったからだ。
「いけません、淑妃さま。明らかに雑草ですよ」
「そうだ、思い出しました。これからの季節、たんぽぽ茶は食中毒にも効きます」と、翠鈴はつけ加えた。
「それ、いいわね」
さっきまで否定的だった梅娜が陥落した。
うん、いける。未央宮の庭の奥には、たんぽぽがかなり生えている。菊茶が平気かどうか確認を取った上で、たんぽぽ茶を売ることにしよう。
翠鈴の目は輝いた。
光柳が、翠鈴の両手首に手を添える。
「……恥ずかしいからです」
「そうか。恥ずかしいなら、雲嵐には後ろを向いていてもらおうか?」
手で顔を覆っているから、状況は見えないけれど。橋面を擦るような音がした。雲嵐が体の向きを変えたのだろう。
(まだ頼まれてもいないのに。律儀すぎます、雲嵐さま)
とにかく平常心だ。翠鈴は深呼吸をした。
春節を迎えて十六歳であっても、あまりにも初心な反応だ。しかも実際の翠鈴は数えで二十三になった。
(下手をしたら、桃莉公主の方がわたしよりも先に恋愛に慣れておしまいになるかも)
いけない。身分はともかく、年長者としてそれはいけない。
「こんな夜にお会いできるとは思ってませんでした。嬉しいです」
きっと口元はこわばっている。笑顔だってぎこちないはずだ。
なのに。光柳は「そ、そうか」と照れている。
あまりにも静かで、池の水面を風が渡る音さえ聞こえる。
どれくらいの時間が経ったのだろう。
さすがに痺れを切らしたらしい雲嵐が、ふたりに声をかけた。
「そろそろ戻って寝ないと。おふたりとも、明日の仕事に差し支えますよ」
緊張の糸が切れたのかもしれない。翠鈴は橋の欄干に手をついて、呼吸を整えた。
(慣れることができるのかな、わたし)
雲嵐が話しかけてくれなかったら、朝まで橋の上で、光柳と向かい合っていたかもしれない。
◇◇◇
皇后のお腹の子は順調に育っているようだ。
翠鈴は蘭淑妃や侍女頭の梅娜と一緒に、お茶を選んでいた。皇后陛下に蘭淑妃が贈るのだという。
部屋の中央にある紫檀の机の上に、翠鈴が用意したものが並んでいる。
「お茶といっても、茶葉じゃないのね」
梅娜は、布を敷いた上にいくつも並んだ素材を眺めた。
「夜にお茶を飲むと、寝つきが悪くないですか? 茶葉がよくないみたいですよ」
翠鈴の注文を受けて、素材を注文してくれたのは他の侍女だ。だから梅娜は初めて見るのだろう。
「黒豆がお茶になるのね」
蘭淑妃は椅子から立ち上がって、黒豆の小山に触れた。ころころと頂上の豆がこぼれ落ちる。
「黒豆衣といって、黒豆の皮は生薬にもなる食べ物なんです。『神農本草経』に記載されています」
豆そのものだけではない。大豆黄巻という黒豆に芽が生えたもやしも、生薬だ。
「翠鈴。この葉のついた根は? なんだか濡れてるけど。まさかこれもお茶になるの?」
「ほんとね。庭から引っこ抜いた雑草みたいね」
梅娜と蘭淑妃は、きざきざの緑の葉がついた根を凝視している。触るのも恐々といった様子だ。
その時。ギィッと部屋の扉が開いた。
「それね、タオリィもがんばったの」
今日もまた、手を土で汚した桃莉公主が室内に入ってくる。
「桃莉さま。手を洗ってくださいと申しあげたはずですが」
「うん、あとでね。ツイリン」
返事はいいが。これは井戸まで連行しないと、きっと手を洗わないだろう。
桃莉公主は背伸びをして、机の上を覗きこんだ。
「これね、たんぽぽの根っこだよ。タオリィもあつめるの、てつだったんだ」
説明する声が弾んでいる。きっと字の勉強から逃げられて、ご機嫌なのだろう。
「たんぽぽの根を、どうするのかしら」
「もちろんお茶にしますよ。もう洗ってあるので、あとは刻んで干すんです」
蘭淑妃が、短い悲鳴を上げた。
「く、黒豆は分かるわ。でも、雑草の根っこを皇后娘娘に差しあげるのは」
「ええ。これはわたしたちで飲もうと思って、用意したんです。たんぽぽは菊の種類ですから。人によっては、体に合わないことがあるんです。淑妃さまも梅娜さまも、菊茶はふだんから召しあがっておいでですから大丈夫ですよ」
ふたりは顔を見合わせた。
どうみても雑草でしかないたんぽぽだ。しかも庭に生えていたもの。
けれど桃莉ががんばったのだから、飲まないと泣いてしまうかも。
この間も泥で作った茶湯から逃げたけれど。今回はさすがに断れないかも。
声には出さないのに。蘭淑妃と梅娜は表情で、雄弁に会話している。
「大丈夫ですよ。ちゃんときれいに洗いますし。根は乾燥させますから」
それでも蘭淑妃と梅娜は不安げだ。
よし、もう一押し。
「たんぽぽは、蒲公英といって、全草が生薬なんです。西の国では健胃……つまり胃を元気にします。もし皇后陛下がたんぽぽを摂取しても問題なければ、お勧めなのですが。哺乳期に、お子さまが元気にお育ちになりますから」
「そう、なの?」
蘭淑妃の心が揺らいだのが分かった。ふらーっと翠鈴の方へ近寄ったからだ。
「いけません、淑妃さま。明らかに雑草ですよ」
「そうだ、思い出しました。これからの季節、たんぽぽ茶は食中毒にも効きます」と、翠鈴はつけ加えた。
「それ、いいわね」
さっきまで否定的だった梅娜が陥落した。
うん、いける。未央宮の庭の奥には、たんぽぽがかなり生えている。菊茶が平気かどうか確認を取った上で、たんぽぽ茶を売ることにしよう。
翠鈴の目は輝いた。
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