後宮の隠れ薬師は闇夜を照らす

絹乃

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十章 青い蓮

15、充儀の惨めな帰郷【2】

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「何をするの、晩溪ワンシー。開けなさい」
「お目が汚れますよ」

 晩溪の手は、窗にかかったままだ。呂充儀に命令されても、馬車のまどを開けようとしない。

「え?」

 何を言っているのだろう。晩溪は。
 だが晩溪は中腰になったまま、閉じた窗から手を離さない。

「せっかく雲嵐ユィンランに似ている人を見ていたのに。どうしてそんな意地悪をするのよ」
「しょうがありませんよ。充儀さまは、平原の民はお嫌いでしょう? 雲嵐に触れられそうになると、嫌悪なさっていたじゃないですか」
「それは、びっくりしたから。まさか雲嵐が蛮族だなんて思わないじゃない」

 蛮族ですか、と晩溪は肩をすくめた。
 言いようのない倦怠感が、晩溪を包んでいる。

「申し遅れましたが。私が呂充儀さまの帰郷に付き従ったのには理由があります」
「理由ですって? 侍女頭が供につくのは当然でしょう?」

 今は馬車の中なのに。呂充儀は、足もとの地面にひびが入ったように思えた。

「私は結婚が決まっております。この息国シーこくに婚約者がいるんです。一人娘ですから嫁ぐのではなく、婿を取ります」

 晩溪は、なぜ今そんな話をするのだろう。
 窗の隙間から、馬芹クミンの匂いが入りこんできた。

「私も若くはありませんし。婿入りをしてくれるような男性は、なかなかおりません。ですが、ようやく見つかったのです」
「晩溪は、わたくしの侍女頭を辞めるというの?」
「ええ、もう必要ありませんから」

 呂充儀の耳が、晩溪の言葉を拒絶している。
 聞きたくないと、心が訴えている。だが、晩溪はお構いなしに話を進める。

「私の婿となるのは、平原の民ですよ。先祖が奴隷としてふる杷国はこくに集められたそうですが。その後は解放され、この息国に戻って来たそうです」
「なんで、わざわざそんな相手を……」

 問いかける呂充儀の声はかすれていた。
 なのに晩溪は柔らかく微笑むのだ。

「条件が合致したのもありますが。彼の人柄がよかったからです。充儀さまもお分かりでしょう? ほんとうは彼のことがお好きだったのでしょう?」

(わたくしが雲嵐を?)

 いいえ、違うわ。
 妃嬪であれば、心に想うのは常に皇帝陛下であるはず。他の男を慕うなどあってはならないこと。

(でも雲嵐の顔を見ると嬉しかった。故郷の話を聞いてくれて、楽しかったわ)

 雲嵐は、未央宮になら現れるから。だから体調がよくなっても、自分の住まいである文彗宮ぶんけいきゅうには戻りたくなかった。

「わたくし……雲嵐に恋をしていたの?」

 ぽつりと呂充儀は呟いた。

「雲嵐がわたくしのことを好きなわけではなく。わたくしが彼を好いていたの?」
「もし気づいていらっしゃれば、あれほど失礼な態度をとることもなかったでしょうね。雲嵐の心を、あんなにも傷つけることもなかったと思います」

 平原の民である雲嵐に触れてしまったから、しゃべってしまったから。手を洗い、丁子のお茶で口を浄めるのは当然のことだった。
 だって汚らわしいもの、卑しいもの。

「でも……雲嵐はわたくしを騙したわ。まるで平民であるかのようにふるまっていた。奴隷のくせに」
「彼は奴隷ではありませんよ。それに充儀さまが話を聞こうともしないから、言い出せなかっただけでしょうに」

 晩溪の説教は続く。
 平原の民を奴隷としたのは、今の新杷国ではない。かつての杷国だ。充儀さまは母国である息国でもなく、輿入れ先の新杷国ですらなく。すでに失われた国の悪しき制度に固執しているのだと。

 これまでの呂充儀であれば、晩溪に反発しただろう。怒って、今すぐに馬車から降りろと命じたことだろう。
 だが。怒りの言葉の代わりに出てきたのは涙だった。
 ぽと、ぽとぽと。涙の粒が、握りしめた手の甲に落ちては流れていく。

「わたくし、雲嵐のことが好きだったんだわ。次に後宮に戻ったら、彼に謝るわ。ひどいことを言ってしまったと謝りに来させる……いいえ、わたくしから彼の元へ行くわ」

 だが晩溪は瞼を閉じて、重苦しく首を振る。

「もう遅いですよ。何もかも遅いんです」
「どうして?」
「……後宮にもう呂充儀さまの居場所はないんです。文彗宮の侍女たちは別の妃嬪に仕えねばなりません。私はただ、充儀さまが無事に息国シーこくの王宮にお戻りになるのを見届けるのが最後の仕事です」

 そんなこと聞いていない。呂充儀は口をぽかんと開いた。淡い色の瞳が揺らいで焦点が定まっていない。
 皇帝の子を生むことも叶わず、宦官に恋をした出戻りの姫。それが呂充儀の立場だ。

 父に会えば、きっと激怒するだろう。母は嘆くだろう。民は陰口を叩き、呂充儀を馬鹿にするだろう。
 嫌だ、嫌だ、嫌だっ! そんな状況に耐えられるはずがない。

「馬車を止めさせて……今すぐ文彗宮に戻るわ。すぐに引き返させて」

 呂充儀は涙声で訴えた。

「泣き落としは効きません。今更だと、何度言えば分かるのですか。あなたは本当にどこまでも愚かなのですね」

 晩溪はもう主の顔を見てもくれない。まともに取り合ってもくれない。相手をするのも馬鹿らしいと。そんな考えが態度に滲んでいる。

 あんなにも焦がれた故郷の楊柳ポプラ並木が、土埃の混じる乾いた風が、とてもよそよそしく感じられた。
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