後宮の隠れ薬師は闇夜を照らす

絹乃

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十一章 蓖麻子《ひまし》

17、石臼と小麦

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「小麦の流通量の減少に関しては、司農寺卿しのうじけい司農寺少卿しのうじしょうけいの管轄です。我らにはどうすることもできません」

 皇后の茶杯は空になったが、室の外に出た侍女を呼ぶことはしなかった。
 遠くで赤子の泣く声がする。皇后の第一子である皇子だ。皇后はちらっと扉の方に目を向けた。
 しばらくすると声は止んだ。乳母が乳をあげたのか、あるいはあやしたのか。桃莉と潔華は、赤子の側にいるはずだ。

 本当ならば母親である皇后は、とんでいって息子を抱いてあげたいだろう。だが皇子と共に過ごす時間は決まっている。
 乳母は奶子府ないしふという施設で教育された女官だ。皇后に求められるのは母親としての役割ではない。

「恐れながら申し上げます。皇后娘娘」

 翠鈴は皇后に声をかけた。
 先代や先々代、それ以前も皇后は、敬称である「皇后娘娘」は誰にでも呼ばせていたはずだ。だが、施暁慶シーシャオチン皇后陛下は違う。彼女にとって娘娘という呼称は特別なのだろう。

 ふと、翠鈴の頭に浮かんだのは娘娘廟ニャンニャンびょうだ。子宝に恵まれるという寺で、女性の参詣が多い。
 皇后陛下は長らく妊娠できなかった。だからこそ子供を授けてくれる女神の廟と自分の呼び名が同じであることに悩んでいたのかもしれない。
 だが真相を訊くわけにもいかず、今はその時でもない。翠鈴は話を進めることにした。

「専売されているのは本当に小麦なのでしょうか」
「どういうことですか? 翠鈴」

 皇后と蘭淑妃が、怪訝な表情で顔を見合わせる。これまで小麦が市場に出回らないから高騰している、という話をしていたのに。納得できないのも当然だろう。

 光柳だけは表情が違う。含み笑いを浮かべたような面持ちだ。「さて、翠鈴には何が見えているのかな?」と楽しんでいるかのように思える。

(少しは好奇心を隠してほしいんだけど)

 小さくため息をこぼしてから、翠鈴は皇后に向き直った。

「米に関しては、もみ殻を除いた後に粒食りゅうしょくにします。米を粉にして団子を作る場合もありますが。基本的には米粒をそのまま炊きます」

 もっと南方であれば、製粉した米から麵を作ったりするのだが。新杷国では麺といえば小麦から作ったものを指す。

「小麦は粒のまま炊くことは、多くはありません。粉にしたものを水と練って加工します。饅頭マントウ、ぱりっと焼いた薄いピン、お菓子の月餅ユエピンパイも、かりかりに揚げた麻花兒マーホアルなど、種類も多いです」

 そう。かさばる穀物を独占する必要はない。小麦を保管するための倉庫の数も膨大になるし、倉庫まで運搬するのも手間がかかる。使用人だけでは運搬も追いつかぬだろう。
 しかも鼠に食われぬように、管理も大変になる。

「これはわたしの推測ですが。独占されているのは小麦ではなくて、石臼ではないでしょうか」
「石臼? どうして臼に話が飛ぶの?」

 驚いた様子で問いかけたのは蘭淑妃だ。皇后も首をひねっている。さすがの光柳も「なぜ?」と言いたそうに、立ったままの翠鈴を見遣った。

(ああ、そうか。皇后陛下も蘭淑妃さまも光柳さまも、わたしとは出自が違う。名家のお嬢さまたちと、先帝の血を引くお坊ちゃまなのだから、小麦は石臼で挽くものだという認識がないのかもしれない)

 小麦の粉が収穫できるわけではない、その知識は当然あるだろう。だが、畑で育った麦と小麦粉の間の過程が、すっぽりと抜けているのだろう。

 重い石臼を回転させると、上下のき臼の隙間から潰された麦がこぼれ落ちる。それも一度碾いた程度では、きめの細かい粉にはならないので使用できない。
 粉になった麦を臼に戻し、二度三度。ようやく饅頭やピンに使えるきめの細かい小麦粉となる。
 故郷の村にいる時に、翠鈴は生薬などを薬研で挽くことは多かったが。小麦をくのも手伝うこともあった。
 石臼をまわした翌日は、腕の筋肉が痛んだものだ。そのせいで、翠鈴のてのひらには硬くなった肉刺まめができた。

 后妃は幼少の頃から、そして長じても力仕事をする必要はない。
 赤子の泣く声はもう聞こえない。乳母が務めを果たしたのだろう。
 いかに「皇后娘娘」との呼び名を許されても。翠鈴は労働を提供する側、乳母よりも下の位なのだ。

 まれに宮女でも皇帝に見初められて妃嬪になりたいと、野望を持つ者もいるが。夢物語に留めておいた方が幸せだ。
 妃嬪としての教育は、年端も行かぬ幼女の頃から施されるのだから。

「石臼がなければ、いくら小麦があっても食べることができないんです。粒のまま炊いても、小麦はおいしくありませんから」

 き割り小麦もあるが。それとて石臼で粗く潰す必要がある。
「そうなのね」と、蘭淑妃と皇后はうなずいた。

「臼でしたら重さはありますが、保管する場合に穀物ほどの場所を取りません。国中の臼を高額な値段で買い取ったり、あるいは臼を加工する石工いしくの職人を囲い込む。そうすると、麦はあっても粉にするには多額のお金を払わねばなりません」
「小麦の流通が止まるなら、代わりに米をという訳にいかぬのですか?」

 皇后に問われて、翠鈴は首を振る。

「米は麦に比べて収穫量も多いですが。食事の習慣は、簡単には変えられません。高くとも、食べ慣れたものを買うしかないのです」
「翠鈴の言う通りですね。確かにわたくしも南の離宮で米のご飯が続いた時は食が細くなりました」

 専売されているのは麦とは限らず、石臼の可能性があることを皇帝に伝えると皇后は告げた。実家の施家でも様子を探ることも。
 いずれ利益を貪ろうとしている犯人が見つかることだろう。

 まだ遊んでいる桃莉公主を迎えに行き、翠鈴たちは寿華宮を辞した。

「石臼の専売か。目の付け所が違うな、翠鈴」

 紅色の高い壁に挟まれた小路を歩きながら、光柳が話しかけてきた。
 寿華宮の門番が、蘭淑妃たちに頭を下げる。

「……まぁ、わたしは労働と共に育ちましたから」
「卑屈になることはない。言葉は悪いが皇后陛下も含め、我らはどうにも地に足がついていない。その点を、私も雲嵐に指摘されることが多いのだ」
「はぁ」

 前を行く桃莉は、母親の蘭淑妃に潔華と遊んだことを一生懸命報告している。よほど楽しかったのだろう、桃莉の足取りは軽い。
 雲が上空の風に流され、形を変えていく。

「私は素直に感動したのだぞ。褒めるのが足りないなら、もっと言葉を尽くそうか? そうだな、未央宮まで距離もあることだし、いくらでも賛辞できるぞ?」

 きっと冗談ではなく本気なのだろう。光柳なら、溢れる泉の如く、涸れぬ川の如く翠鈴を褒め続けることができるだろう。

「光柳さまのお気持ちだけで充分ですよ」

 まったく、この人は。
 そういうずれたところも可愛らしいのだから、しょうがない。翠鈴は苦笑した。
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