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一章
11、馬車の中
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離宮から王宮へと戻る馬車の中、姫さまはずっと黙っておられた。
昼の長い季節なので、陛下の誕生パーティは夕暮れを過ぎてもまだ続いている。
クリスティアン殿下もマルガレータ妃殿下も場を抜けることができずに、結局マルティナさまだけが先に王宮へ戻られることになった。
この分だと、宮殿に戻る頃には午後八時を過ぎているだろう。
「申し訳ありませんけど、マルティナのことをお願いしますね」
「就寝の支度は侍女の仕事だし。そなたもマルティナを送り届けたら今日の勤務を終えてくれ」
王太子という立場上、娘と一緒に帰ることができないことを、二人ともとても案じておられた。
マルティナさまは、マルガレータさまにきゅっと抱きついて離れない。
そうだよな、まだ六歳なのだ。たとえ使用人が大勢いようとも、両親のいない宮殿に戻るのは不安だろう。
ワゴンの窓から見える空は、夕映えの茜や紫だ。木々は黒い影になり、まるで切り絵のように美しい。
「マルティナさま。眠っていらしていいですよ」
「おきてるの」
「宮殿についても寝ていらしたら、お部屋までお連れしますから」
対面の席に座る姫さまは、なぜかご自分の隣をぱしぱしと叩いた。
なんでしょうか? と首をかしげると「こっちに座るの」と仰せだ。
「ですが、私は姫さまの隣に座る立場ではございませんよ」
「……いいの」
今日は我儘でいらっしゃいますね。そんな風に強気に仰っているのに、髪に結んだリボンは気弱な感じで垂れている。
少し揺れる馬車の中、私は「では仰せのままに」と席を移った。
立っている時よりも座っている時の方が、姫さまの顔と距離が近い。
目の前が翳ったと思うと、小さな手が私の眉間に触れていた。
「あのね、あとがついてるの。いたくない?」
「あと、ですか?」
「うん。ちょっとだけ赤くなってるの」
どうしたのだろうと考えて首をかしげるが、姫さまはまだ手をお放しにならない。子ども特有の温かさが額に伝わってくる。
「アレク、なかよしなのね」
「仲良し」
「うん。お母さまのごえいの人と」
あぁ、そのことでしたか。姫さまに指摘されるまで、彼女のことはすっぽりと抜けていた。
「マルティナよりも、あの人のほうがアレクとなかよし?」
「仕事仲間ですから、軽口を叩くこともありますよ」
「アレクは、マルティナにああいうおしゃべりはしてくれないの」
そら、そうでしょうが。あなたは私の主ですよ? などと子どもに言っても通じないかもしれない。
困った。どう説明すればいいのだろう。
「ごめんね。マルティナがねむいから、アレクもかえらなきゃいけなかったの」
「それはどういうことでしょうか」
「お友だちと、もっとお話ししたかったでしょ」
いや、そんなことないですよ。私にとっては姫さまが誰よりも一番ですから。
そう口にしようとして、はっとした。
これは護衛の範疇を越えた感情なのではないか? いや、命に代えてもお守りするという意味では正しい。正しいのだが……。
姫さまのお父上であるクリスティアン殿下の護衛を担当していた時は、どうだっただろう。
確かに常に殿下のお傍に控えて、恋に疎い殿下がマルガレータさまと親しくなられるように心を配った。(その配慮が正しいかどうかは、やはり恋に疎い私には分からないが)
うーん、と口を引き結んで考え込んでいると、姫さまが顔を覗きこんでいらした。
「あのね、アレク。むずかしいお顔してるの。マルティナ、こまらせちゃった?」
「難しいですか? 申し訳ございません。それに姫さまの所為ではございませんよ」
「ふふ」と姫さまは微笑まれた。まるで白い小花が開くように。
どうなさったのですか? と問うてみると、今度はそっぽを向かれる。
うーん。女の子は難しい。
しかも幼児の頃のように分かりやすくないのだ。
ワゴンの中にはカンテラを灯してあるので、薄暮の空や街を背景に、ガラス窓には姫さまのお顔が映っている。
その表情はなぜか嬉しそうに目を細めている。
「ご機嫌ですね。マルティナさま」
「そんなことないよ」
「いえ、微笑んでらっしゃるじゃないですか。この私に内緒ですか?」
「ほんとになんでもないんだもん」
うーん。女の子は本当に難しい。
昼の長い季節なので、陛下の誕生パーティは夕暮れを過ぎてもまだ続いている。
クリスティアン殿下もマルガレータ妃殿下も場を抜けることができずに、結局マルティナさまだけが先に王宮へ戻られることになった。
この分だと、宮殿に戻る頃には午後八時を過ぎているだろう。
「申し訳ありませんけど、マルティナのことをお願いしますね」
「就寝の支度は侍女の仕事だし。そなたもマルティナを送り届けたら今日の勤務を終えてくれ」
王太子という立場上、娘と一緒に帰ることができないことを、二人ともとても案じておられた。
マルティナさまは、マルガレータさまにきゅっと抱きついて離れない。
そうだよな、まだ六歳なのだ。たとえ使用人が大勢いようとも、両親のいない宮殿に戻るのは不安だろう。
ワゴンの窓から見える空は、夕映えの茜や紫だ。木々は黒い影になり、まるで切り絵のように美しい。
「マルティナさま。眠っていらしていいですよ」
「おきてるの」
「宮殿についても寝ていらしたら、お部屋までお連れしますから」
対面の席に座る姫さまは、なぜかご自分の隣をぱしぱしと叩いた。
なんでしょうか? と首をかしげると「こっちに座るの」と仰せだ。
「ですが、私は姫さまの隣に座る立場ではございませんよ」
「……いいの」
今日は我儘でいらっしゃいますね。そんな風に強気に仰っているのに、髪に結んだリボンは気弱な感じで垂れている。
少し揺れる馬車の中、私は「では仰せのままに」と席を移った。
立っている時よりも座っている時の方が、姫さまの顔と距離が近い。
目の前が翳ったと思うと、小さな手が私の眉間に触れていた。
「あのね、あとがついてるの。いたくない?」
「あと、ですか?」
「うん。ちょっとだけ赤くなってるの」
どうしたのだろうと考えて首をかしげるが、姫さまはまだ手をお放しにならない。子ども特有の温かさが額に伝わってくる。
「アレク、なかよしなのね」
「仲良し」
「うん。お母さまのごえいの人と」
あぁ、そのことでしたか。姫さまに指摘されるまで、彼女のことはすっぽりと抜けていた。
「マルティナよりも、あの人のほうがアレクとなかよし?」
「仕事仲間ですから、軽口を叩くこともありますよ」
「アレクは、マルティナにああいうおしゃべりはしてくれないの」
そら、そうでしょうが。あなたは私の主ですよ? などと子どもに言っても通じないかもしれない。
困った。どう説明すればいいのだろう。
「ごめんね。マルティナがねむいから、アレクもかえらなきゃいけなかったの」
「それはどういうことでしょうか」
「お友だちと、もっとお話ししたかったでしょ」
いや、そんなことないですよ。私にとっては姫さまが誰よりも一番ですから。
そう口にしようとして、はっとした。
これは護衛の範疇を越えた感情なのではないか? いや、命に代えてもお守りするという意味では正しい。正しいのだが……。
姫さまのお父上であるクリスティアン殿下の護衛を担当していた時は、どうだっただろう。
確かに常に殿下のお傍に控えて、恋に疎い殿下がマルガレータさまと親しくなられるように心を配った。(その配慮が正しいかどうかは、やはり恋に疎い私には分からないが)
うーん、と口を引き結んで考え込んでいると、姫さまが顔を覗きこんでいらした。
「あのね、アレク。むずかしいお顔してるの。マルティナ、こまらせちゃった?」
「難しいですか? 申し訳ございません。それに姫さまの所為ではございませんよ」
「ふふ」と姫さまは微笑まれた。まるで白い小花が開くように。
どうなさったのですか? と問うてみると、今度はそっぽを向かれる。
うーん。女の子は難しい。
しかも幼児の頃のように分かりやすくないのだ。
ワゴンの中にはカンテラを灯してあるので、薄暮の空や街を背景に、ガラス窓には姫さまのお顔が映っている。
その表情はなぜか嬉しそうに目を細めている。
「ご機嫌ですね。マルティナさま」
「そんなことないよ」
「いえ、微笑んでらっしゃるじゃないですか。この私に内緒ですか?」
「ほんとになんでもないんだもん」
うーん。女の子は本当に難しい。
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