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二章
5、繊細なお年頃
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姫さまは目に涙を浮かべながら、溢れだす言葉を堰き止めることも出来ずに苦しそうだ。
本当に、どうして人の心はこんなにも難しいのだろう。
もし、姫さまが階段で足を挫かなければ。今頃は微笑みあいながら、お茶を飲んでいらっしゃることだろう。
一日の始まりに私の姿を見て、喜んで駆けつけてくれたのだ。
その気持ちはとても嬉しくて、もし叶うことなら幼子の時のように抱きしめてあげたくなる。
――アレクー。これあげる。
そう仰いながら、泥団子を手にして三歳の頃の姫さまは私に飛びついて来られた。私の服を土で汚しながら。
王宮の使用人や騎士仲間に「どうして朝一番に、そんなに汚れているんですか?」とか「泥遊びでもしたの?」とからかわれても。
それでも私は、姫さまとの日々が楽しかったのです。
あの頃のような姫さまの無邪気で満面の笑みを、今では目にする機会も減った。
寂しい……とても寂しい。ふと、脳裏をよぎった気持ちに、自分でもはっとする。
とうとう、ぽろぽろと姫さまは涙をこぼした。
だが、私から手を離そうとしないので、水晶の粒のような涙はそのままベッドへと落ちていく。
私は胸ポケットから、ガーゼのハンカチを取り出して姫さまの目許にあてた。
そして、気づいたのだ。
この年でガーゼのハンカチはないだろう。
十二歳。大人でもないが、子どもでもない。
「済みませんが、姫さまのハンカチを探してまいりますので。少し手を離して頂いてもよろしいですか?」
「ガーゼのハンカチがいい」
「ですが、箪笥には木綿や絹のハンカチが入っていますよね」
よく使いこんだガーゼのハンカチは、全体的に薄くなっている。つい癖で毎朝ガーゼのハンカチをポケットに忍ばせるのだが。
よくよく考えてみれば、十二歳の少女には必要のないものだ。
私だけが、いつまでも姫さまとままごとをしていたあの頃に、薔薇の咲き誇る庭に取り残されている。
そう感じたのだが。
もしや姫さまも、あの頃が心の安らぐ時でいらっしゃるのだろうか。
ミント代わりの草を載せた、泥団子のケーキ。
庭師に呆れられながらも、布を敷いて地面に座り、薔薇を下から見上げて姫さまとままごとをしていた。
薄紅や白の天蓋から覗く、淡い春の青空。時おり落ちる花びら。辺りは甘い薔薇の香りに包まれ、鳥の囀りと白銀葭がさわさわと奏でる静かで穏やかな、愛おしい時。
懐かしく。そして二度と戻ることのない時間だ。
薄くなったガーゼのハンカチは、すぐに湿ってしまう。やはり、木綿のハンカチの方がいいと思うのだが。
「マルティナね、アレクのハンカチがいいの」
「姫さま」
「ずっとね、わたしの為にハンカチを持っていてほしいの。レディとしての身だしなみのハンカチは、ちゃんと自分で持つわ。でもね、こうしてアレクに涙を拭いてほしいの」
私は、泣いていらっしゃる姫さまを見るのはつらいですよ。
でも、私には涙を見せてくださるのですね。
お小さい頃のように、ご自分のことを「マルティナ」と言っていることにすら気づかぬほどに、姫さまは真剣なのですね。
胸に浮かんだこの気持ちを、何と説明したらいいのだろうか。
騎士の教養として詩は嗜んできたが、文学の素養は私にはない。
だから、自らの気持ちをうまく言葉で表現できない。
私に対して、冷静でいられない姫さま。
自分が姫さまの一番であることの嬉しさ、誇らしさ。だが、あなたの一番であり続けることに、私は後ろめたさを覚えるのです。
この気持ちに、どんな名前を付ければいいのですか?
その気持ちを愛おしいと思うことは、罪なのですか?
私は静かに瞼を閉じて、小さく首を振った。
それ以上、考えてはいけないことだ。
姫さまは、殿下と妃殿下からお預かりした私の大事な主。
主の成長を見届け、影のままひっそりと消えていくのがあるべき立場。
「姫さま。どうかお眠りください。痛いと心細いですからね。このアレクは、姫さまが眠ってしまわれてもお傍に居りますよ」
「……うん」
涙声で頷きながら、姫さまは私の手を強く握った。
あなたも私も繊細な年頃なのかもしれない。私は……遅咲きすぎるのだが。
どうかこの手を離さないでください。このアレク、姫さまの夢の中でもお供いたしますから。
本当に、どうして人の心はこんなにも難しいのだろう。
もし、姫さまが階段で足を挫かなければ。今頃は微笑みあいながら、お茶を飲んでいらっしゃることだろう。
一日の始まりに私の姿を見て、喜んで駆けつけてくれたのだ。
その気持ちはとても嬉しくて、もし叶うことなら幼子の時のように抱きしめてあげたくなる。
――アレクー。これあげる。
そう仰いながら、泥団子を手にして三歳の頃の姫さまは私に飛びついて来られた。私の服を土で汚しながら。
王宮の使用人や騎士仲間に「どうして朝一番に、そんなに汚れているんですか?」とか「泥遊びでもしたの?」とからかわれても。
それでも私は、姫さまとの日々が楽しかったのです。
あの頃のような姫さまの無邪気で満面の笑みを、今では目にする機会も減った。
寂しい……とても寂しい。ふと、脳裏をよぎった気持ちに、自分でもはっとする。
とうとう、ぽろぽろと姫さまは涙をこぼした。
だが、私から手を離そうとしないので、水晶の粒のような涙はそのままベッドへと落ちていく。
私は胸ポケットから、ガーゼのハンカチを取り出して姫さまの目許にあてた。
そして、気づいたのだ。
この年でガーゼのハンカチはないだろう。
十二歳。大人でもないが、子どもでもない。
「済みませんが、姫さまのハンカチを探してまいりますので。少し手を離して頂いてもよろしいですか?」
「ガーゼのハンカチがいい」
「ですが、箪笥には木綿や絹のハンカチが入っていますよね」
よく使いこんだガーゼのハンカチは、全体的に薄くなっている。つい癖で毎朝ガーゼのハンカチをポケットに忍ばせるのだが。
よくよく考えてみれば、十二歳の少女には必要のないものだ。
私だけが、いつまでも姫さまとままごとをしていたあの頃に、薔薇の咲き誇る庭に取り残されている。
そう感じたのだが。
もしや姫さまも、あの頃が心の安らぐ時でいらっしゃるのだろうか。
ミント代わりの草を載せた、泥団子のケーキ。
庭師に呆れられながらも、布を敷いて地面に座り、薔薇を下から見上げて姫さまとままごとをしていた。
薄紅や白の天蓋から覗く、淡い春の青空。時おり落ちる花びら。辺りは甘い薔薇の香りに包まれ、鳥の囀りと白銀葭がさわさわと奏でる静かで穏やかな、愛おしい時。
懐かしく。そして二度と戻ることのない時間だ。
薄くなったガーゼのハンカチは、すぐに湿ってしまう。やはり、木綿のハンカチの方がいいと思うのだが。
「マルティナね、アレクのハンカチがいいの」
「姫さま」
「ずっとね、わたしの為にハンカチを持っていてほしいの。レディとしての身だしなみのハンカチは、ちゃんと自分で持つわ。でもね、こうしてアレクに涙を拭いてほしいの」
私は、泣いていらっしゃる姫さまを見るのはつらいですよ。
でも、私には涙を見せてくださるのですね。
お小さい頃のように、ご自分のことを「マルティナ」と言っていることにすら気づかぬほどに、姫さまは真剣なのですね。
胸に浮かんだこの気持ちを、何と説明したらいいのだろうか。
騎士の教養として詩は嗜んできたが、文学の素養は私にはない。
だから、自らの気持ちをうまく言葉で表現できない。
私に対して、冷静でいられない姫さま。
自分が姫さまの一番であることの嬉しさ、誇らしさ。だが、あなたの一番であり続けることに、私は後ろめたさを覚えるのです。
この気持ちに、どんな名前を付ければいいのですか?
その気持ちを愛おしいと思うことは、罪なのですか?
私は静かに瞼を閉じて、小さく首を振った。
それ以上、考えてはいけないことだ。
姫さまは、殿下と妃殿下からお預かりした私の大事な主。
主の成長を見届け、影のままひっそりと消えていくのがあるべき立場。
「姫さま。どうかお眠りください。痛いと心細いですからね。このアレクは、姫さまが眠ってしまわれてもお傍に居りますよ」
「……うん」
涙声で頷きながら、姫さまは私の手を強く握った。
あなたも私も繊細な年頃なのかもしれない。私は……遅咲きすぎるのだが。
どうかこの手を離さないでください。このアレク、姫さまの夢の中でもお供いたしますから。
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