39 / 78
二章
18、おやすみなさい
しおりを挟む
姫さまを送り届けた私は、蝋燭の明滅する廊下を進んだ。
ちらちらと仄暗い廊下。
だが不思議と……いや、不思議なことはないな。心に温かな光が灯っていた。
階段を下り、通用口から表へ出ると白い月が煌々と輝いている。
庭を横切るときに宮殿の二階を仰いだが、バルコニーに姫さまの姿はない。
当たり前だ。もう真夜中なのだ。
だが、先ほどお別れしたばかりの姫さまは、いつもと違って見えた。
きっともう私が出勤しても、階段を二段飛ばしで駆け下りることはなさらないだろう。
日々、お傍で拝見していると成長に気づきにくいが。
今夜、姫さまは確かに少し大人におなりになった。
ほっとするような、少し寂しいような。この気持ちはなんだろう。どんな名前を付ければいいのだろう。
風が吹いて、草に載った夜露が零れおちてゆく。音など聞こえぬだろうに、微かな旋律を奏でているかのようだった。
自分の宿舎の小屋に戻り、扉を開くと花の香りが流れ出てきた。
花冠? いや、違う。
ああ、そうだ。姫さまがくださった七種類の花だ。
黄水晶のような澄んだ月明りだけが四角く射しこむその部屋で、約束の花はひっそりと私の帰りを待っていた。
ほんの半日前のことなのに。あの時のマルティナさまはまだ子どもでいらした。
お部屋の前でお別れした姫さまは、最後に「夢を見てね」とは命じられなかった。だからこそ、彼女の本気を悟った。
そう、好意は命じて得られるものではないと、今夜初めてお気づきになったのだ。
◇◇◇
アレクがお庭を通って自分の家に帰るのを、わたしは見送らなかった。
いつもなら、バルコニーに出て彼の姿が見えなくなるまで眺めているのに。
勇気を出して、おやすみなさいのキスをしたから。自分からしたから。
その甘くて優しい思いの中に居続けたかった。
静かな月明りが、一人歩くアレクの背中を照らすのを見たくはなかった。
もし、振り返ってくれなかったら。きっとわたしは残念に思うわ。
今日の楽しい思い出が、精一杯のキスが、最後に寂しくなるのが嫌だったの。
花瓶に挿した花は、今も生き生きとしている。サイドテーブルに置かれた花瓶の傍に、花冠を置く。
アレクがわたしの夢を見てくれるかどうかは分からない。
それをお願いすることもできない。花束を渡した時は「絶対に夢を見て欲しい」と言ったのにね。
今じゃ、そんな言葉は意味がないって分かるの。
だって、アレクに命令してわたしのことを好きになってもらっても意味がないもの。
紺色のワンピースのボタンを外して、白い木綿の寝間着に着替える。
髪はもつれちゃうから、ゆるく三つ編みにして。
ああ、いつもはメイドやお母さまにしてもらっているから。うまくいかないけれど。
でも、もう夜も遅いから自分でできるわ。
窓ガラスに映る三つ編みはとても不格好で、あちこち髪がはみ出ている。それでも一人で編んだのは初めてだから、自分では満足。
お部屋に洗面用具や歯磨きの用意がしてあったから、手早く済ませる。
薄荷の香りのする粉に歯ブラシをつけて、わしわしと磨く。
お顔、石鹸で洗わないとだめかしら、だめよね。
メイドはとても上手に石鹸を泡立てるけれど。わたしはちょっと……かなり下手。
ぬるっとした泡みたいな水みたいな状態で、顔を洗う。
うう、目にしみる。さっさと流さなくっちゃ。
ごしごしとタオルで顔を拭いて、ちょっとお肌が痛い。
お母さまやメイドに「だめですよ。お肌が傷みます」と注意されたことを思い出して、あわててゆっくりと押さえるように水分を拭き取る。
「大人になるって大変。お着替えも髪を洗ったりも全部自分でするんでしょう?」
以前、そんな風にお母さまにお話したら「あら、マルティナは王女ですから。すべてしてくれる人がいるのよ。でも、自分でするかどうかはマルティナが決めることですよ。あなたがどんな大人になりたいか、ですね」って言われたけど。
わたしもいろいろ自分でできるようにならなくちゃ。
「おやすみなさい、アレク」
すうっとする薄荷の香りのせいかしら。
瞼を閉じたら、アレクの背中が見えた気がしたの。
清々しい草の匂いのする草原で「マルティナさま」って、微笑みながら呼んでくれるのよ。
わたしは彼に向かって駆けだして……これは想像なの? それとも夢なの?
眠くて眠すぎて、もう分からないの。
ちらちらと仄暗い廊下。
だが不思議と……いや、不思議なことはないな。心に温かな光が灯っていた。
階段を下り、通用口から表へ出ると白い月が煌々と輝いている。
庭を横切るときに宮殿の二階を仰いだが、バルコニーに姫さまの姿はない。
当たり前だ。もう真夜中なのだ。
だが、先ほどお別れしたばかりの姫さまは、いつもと違って見えた。
きっともう私が出勤しても、階段を二段飛ばしで駆け下りることはなさらないだろう。
日々、お傍で拝見していると成長に気づきにくいが。
今夜、姫さまは確かに少し大人におなりになった。
ほっとするような、少し寂しいような。この気持ちはなんだろう。どんな名前を付ければいいのだろう。
風が吹いて、草に載った夜露が零れおちてゆく。音など聞こえぬだろうに、微かな旋律を奏でているかのようだった。
自分の宿舎の小屋に戻り、扉を開くと花の香りが流れ出てきた。
花冠? いや、違う。
ああ、そうだ。姫さまがくださった七種類の花だ。
黄水晶のような澄んだ月明りだけが四角く射しこむその部屋で、約束の花はひっそりと私の帰りを待っていた。
ほんの半日前のことなのに。あの時のマルティナさまはまだ子どもでいらした。
お部屋の前でお別れした姫さまは、最後に「夢を見てね」とは命じられなかった。だからこそ、彼女の本気を悟った。
そう、好意は命じて得られるものではないと、今夜初めてお気づきになったのだ。
◇◇◇
アレクがお庭を通って自分の家に帰るのを、わたしは見送らなかった。
いつもなら、バルコニーに出て彼の姿が見えなくなるまで眺めているのに。
勇気を出して、おやすみなさいのキスをしたから。自分からしたから。
その甘くて優しい思いの中に居続けたかった。
静かな月明りが、一人歩くアレクの背中を照らすのを見たくはなかった。
もし、振り返ってくれなかったら。きっとわたしは残念に思うわ。
今日の楽しい思い出が、精一杯のキスが、最後に寂しくなるのが嫌だったの。
花瓶に挿した花は、今も生き生きとしている。サイドテーブルに置かれた花瓶の傍に、花冠を置く。
アレクがわたしの夢を見てくれるかどうかは分からない。
それをお願いすることもできない。花束を渡した時は「絶対に夢を見て欲しい」と言ったのにね。
今じゃ、そんな言葉は意味がないって分かるの。
だって、アレクに命令してわたしのことを好きになってもらっても意味がないもの。
紺色のワンピースのボタンを外して、白い木綿の寝間着に着替える。
髪はもつれちゃうから、ゆるく三つ編みにして。
ああ、いつもはメイドやお母さまにしてもらっているから。うまくいかないけれど。
でも、もう夜も遅いから自分でできるわ。
窓ガラスに映る三つ編みはとても不格好で、あちこち髪がはみ出ている。それでも一人で編んだのは初めてだから、自分では満足。
お部屋に洗面用具や歯磨きの用意がしてあったから、手早く済ませる。
薄荷の香りのする粉に歯ブラシをつけて、わしわしと磨く。
お顔、石鹸で洗わないとだめかしら、だめよね。
メイドはとても上手に石鹸を泡立てるけれど。わたしはちょっと……かなり下手。
ぬるっとした泡みたいな水みたいな状態で、顔を洗う。
うう、目にしみる。さっさと流さなくっちゃ。
ごしごしとタオルで顔を拭いて、ちょっとお肌が痛い。
お母さまやメイドに「だめですよ。お肌が傷みます」と注意されたことを思い出して、あわててゆっくりと押さえるように水分を拭き取る。
「大人になるって大変。お着替えも髪を洗ったりも全部自分でするんでしょう?」
以前、そんな風にお母さまにお話したら「あら、マルティナは王女ですから。すべてしてくれる人がいるのよ。でも、自分でするかどうかはマルティナが決めることですよ。あなたがどんな大人になりたいか、ですね」って言われたけど。
わたしもいろいろ自分でできるようにならなくちゃ。
「おやすみなさい、アレク」
すうっとする薄荷の香りのせいかしら。
瞼を閉じたら、アレクの背中が見えた気がしたの。
清々しい草の匂いのする草原で「マルティナさま」って、微笑みながら呼んでくれるのよ。
わたしは彼に向かって駆けだして……これは想像なの? それとも夢なの?
眠くて眠すぎて、もう分からないの。
21
あなたにおすすめの小説
モンスターを癒やす森暮らしの薬師姫、騎士と出会う
甘塩ます☆
恋愛
冷たい地下牢で育った少女リラは、自身の出自を知らぬまま、ある日訪れた混乱に乗じて森へと逃げ出す。そこで彼女は、凶暴な瘴気に覆われた狼と出会うが、触れるだけでその瘴気を浄化する不思議な力があることに気づく。リラは狼を癒し、共に森で暮らすうち、他のモンスターたちとも心を通わせ、彼らの怪我や病を癒していく。モンスターたちは感謝の印に、彼女の知らない貴重な品々や硬貨を贈るのだった。
そんなある日、森に薬草採取に訪れた騎士アルベールと遭遇する。彼は、最近異常なほど穏やかな森のモンスターたちに違和感を覚えていた。世間知らずのリラは、自分を捕らえに来たのかと怯えるが、アルベールの差し出す「食料」と「服」に警戒を解き、彼を「飯をくれる仲間」と認識する。リラが彼に見せた、モンスターから贈られた膨大な量の希少な品々に、アルベールは度肝を抜かれる。リラの無垢さと、秘められた能力に気づき始めたアルベールは……
陰謀渦巻く世界で二人の運命はどうなるのか
ヤクザの若頭は、年の離れた婚約者が可愛くて仕方がない
絹乃
恋愛
ヤクザの若頭の花隈(はなくま)には、婚約者がいる。十七歳下の少女で組長の一人娘である月葉(つきは)だ。保護者代わりの花隈は月葉のことをとても可愛がっているが、もちろん恋ではない。強面ヤクザと年の離れたお嬢さまの、恋に発展する前の、もどかしくドキドキするお話。
これは政略結婚ではありません
絹乃
恋愛
勝気な第一王女のモニカには、初恋の人がいた。公爵家のクラウスだ。七歳の時の思い出が、モニカの初恋となった。クラウスはモニカよりも十三歳上。当時二十歳のクラウスにとって、モニカは当然恋愛の対象ではない。大人になったモニカとクラウスの間に縁談が持ちあがる。その返事の為にクラウスが王宮を訪れる日。人生で初めての緊張にモニカは動揺する。※『わたしのことがお嫌いなら、離縁してください』に出てくる王女のその後のお話です。
助けた騎士団になつかれました。
藤 実花
恋愛
冥府を支配する国、アルハガウンの王女シルベーヌは、地上の大国ラシュカとの約束で王の妃になるためにやって来た。
しかし、シルベーヌを見た王は、彼女を『醜女』と呼び、結婚を保留して古い離宮へ行けと言う。
一方ある事情を抱えたシルベーヌは、鮮やかで美しい地上に残りたいと思う願いのため、異議を唱えず離宮へと旅立つが……。
☆本編完結しました。ありがとうございました!☆
番外編①~2020.03.11 終了
呪われた黒猫と蔑まれた私ですが、竜王様の番だったようです
シロツメクサ
恋愛
ここは竜人の王を頂点として、沢山の獣人が暮らす国。
厄災を運ぶ、不吉な黒猫─────そう言われ村で差別を受け続けていた黒猫の獣人である少女ノエルは、愛する両親を心の支えに日々を耐え抜いていた。けれど、ある日その両親も土砂崩れにより亡くなってしまう。
不吉な黒猫を産んだせいで両親が亡くなったのだと村の獣人に言われて絶望したノエルは、呼び寄せられた魔女によって力を封印され、本物の黒猫の姿にされてしまった。
けれど魔女とはぐれた先で出会ったのは、なんとこの国の頂点である竜王その人で─────……
「やっと、やっと、見つけた────……俺の、……番……ッ!!」
えっ、今、ただの黒猫の姿ですよ!?というか、私不吉で危ないらしいからそんなに近寄らないでー!!
「……ノエルは、俺が竜だから、嫌なのかな。猫には恐ろしく感じるのかも。ノエルが望むなら、体中の鱗を剥いでもいいのに。それで一生人の姿でいたら、ノエルは俺にも自分から近付いてくれるかな。懐いて、あの可愛い声でご飯をねだってくれる?」
「……この周辺に、動物一匹でも、近づけるな。特に、絶対に、雄猫は駄目だ。もしもノエルが……番として他の雄を求めるようなことがあれば、俺は……俺は、今度こそ……ッ」
王様の傍に厄災を運ぶ不吉な黒猫がいたせいで、万が一にも何かあってはいけない!となんとか離れようとするヒロインと、そんなヒロインを死ぬほど探していた、何があっても逃さない金髪碧眼ヤンデレ竜王の、実は持っていた不思議な能力に気がついちゃったりするテンプレ恋愛ものです。世界観はゆるふわのガバガバでつっこみどころいっぱいなので何も考えずに読んでください。
※ヒロインは大半は黒猫の姿で、その正体を知らないままヒーローはガチ恋しています(別に猫だから好きというわけではありません)。ヒーローは金髪碧眼で、竜人ですが本編のほとんどでは人の姿を取っています。ご注意ください。
【番外編】小さな姫さまは護衛騎士に恋してる
絹乃
恋愛
主従でありながら結婚式を挙げた護衛騎士のアレクと王女マルティナ。戸惑い照れつつも新婚2人のいちゃいちゃ、ラブラブの日々。また彼らの周囲の人々の日常を穏やかに優しく綴ります。※不定期更新です。一応Rをつけておきます。
二度目の初恋は、穏やかな伯爵と
柴田はつみ
恋愛
交通事故に遭い、気がつけば18歳のアランと出会う前の自分に戻っていた伯爵令嬢リーシャン。
冷酷で傲慢な伯爵アランとの不和な結婚生活を経験した彼女は、今度こそ彼とは関わらないと固く誓う。しかし運命のいたずらか、リーシャンは再びアランと出会ってしまう。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる