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三章
17、雑踏【1】
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「エーミルは羊肉は嫌いじゃないか?」
「はい、好きです」
「香辛料も平気かな。クミンとか」
「叔父さまは優しいですね。ぼくの好き嫌いを確認してくれるんですね」
ん? これって優しさなのか?
にこにこと微笑むエーミルの顔を見ていると、もしかして私は過保護なのかもしれないと、ふと感じた。
「ぼくね、多分ですけど。マルティナさまが初恋だと思うんです」
突然の告白に、私は一瞬たじろいだ。
だが大事な言葉を発したエーミルの雰囲気は柔らかい。夕暮れの名残の光が弱くなっていく中、エーミルの髪を薄荷色の風がさらりと撫でる。
「……そうか」
それ以外に何と答えたらいいのだろう。
私はさきほどよりも言葉少なく、雑踏の中を歩いた。
羊肉と野菜を炒めた大鍋の前に、人が群がっている。できあがればすぐ買うために待機しているのだろう。
もうもうと上がる湯気と、漂ってくる香ばしいにおい。
「あ、クッキー」
「薔薇水で練ったクッキーだ」
「食べると薔薇の香りがするのかなぁ。わぁ。ご飯にさくらんぼが入ってる。不思議ですね」
エーミルは珍しいものばかりに目を留めている。
まぁなぁ、伯爵家の料理人はさくらんぼと米とアーモンドとミートボールで炊き上げた異国の料理など、作ったこともないだろうからな。
「市場って、すぐに食べられるものが多いんですね」
平パンにチーズや肉を挟んだサンドウィッチ。すでに皮を剥いて切ってある瓜。確かにどれも調理の必要がない。
「朝市は食材が並んでいることが多いな。夕市は仕事帰りにこうして買って帰る人が多いのだろう」
騎士団も基本的には両家の子息で構成されているので、エーミルが世間に疎いのは当然かもしれない。しかも近衛騎士ともなれば、お仕えするのは王族だからな。
私は果物を絞ったジュース店の前で立ち止まった。
エーミルに何がいいかと問えば、オレンジがいいと答える。
店主はすぐにオレンジをナイフで切って、それを絞った。瑞々しい橙色の断面。太陽の光を存分に浴びた南方の果実は、エーミルに相応しい。
「ありがとうございます。叔父さまならいいんです」
「ん?」
エーミルの発した言葉が、理解できなかった。言葉が足りないと自分でも気づいたのだろう。甥っ子は少し視線を彷徨わせた後で、私をしっかりと見上げてきた。
「ですから。マルティナさまの恋のお相手が叔父さまなら、嬉しいんです」
あまりにも素直な物言いに、私はジュースの入った素焼きのカップを落としそうになった。とっさにエーミルが支えてくれたので、少し溢れただけで済んだのだが。
「初恋は実らないものと言いますけど。ぼくの場合は、叔父さまから伝え聞いたマルティナさまを仄かに想ってるだけです。でも、マルティナさまは違う。姫さまは、お小さい時から叔父さまだけを見ていらしたんですね」
見るだけではなく、追いかけてもいらしたなぁ。
夕暮れの空に、私の姿を見つけると満面の笑顔になって飛びついてきた幼い頃の姫さまを思い描いた。
ままごとにご招待されるたびに、いつか私は姫さまに置いていかれるものだと考えていた。
どんなに私を好いてくださっても、慕ってくださっても、所詮は年の離れた護衛でしかないのだから。
一番身近にいただけだから、いずれ姫さまは他の青年に目が向くものと思っていた。
洗練された青年と寄り添い、微笑みあう姫さま。そのお二人を少し離れた後方で見守り続ける。
それこそが幸せなのだと、自分に言い聞かせていた。
言い聞かせるたびに、胸が微かに痛んでいたのに。それに気づかぬふりをしていた。
輝くような笑みが私にではなく、隣の青年に向けられるようになり、いずれ私は本当の影になる。
だが、それこそが本望。姫さまに生涯お仕えすることが幸福なのだ、と。
だがもう己の気持ちをごまかすことはしなくていいのだな。
ふと、市場の入り口から騒がしい声が聞こえてきた。
なにやら悲鳴のような甲高い声も耳に届く。
人垣が左右に割れて、そして何かが突進してきた。ぼろをまとった男だ。濁った声で何を喚いているのかは、ろくに聞き取れない。
だが、その声に重なって「こちらへ逃げ込んだぞ」という叫びが聞こえる。
私とエーミルは顔を見合わせて、互いに剣を抜いた。
地面に落ちたカップが砕け散る。オレンジのジュースがはねて、そして土に沁みこんでいく。
人が逃げた市場は、眺望が開けた。倒れている人はいないが、果物や鍋が散乱し、地面に米や肉やスープがこぼれてしまっている。
これまでならエーミルを背後に庇っていたことだろう。だが、彼はもう正式な騎士だ。
「お前、王子だな」
こちらにナイフを突きつけた男の言葉は、異国のものだった。
瞬時に察した。治安官吏に密入国が見つかり、母国に送還されるのだろうと。
「ここに王子などいない」
「嘘を言うな。護衛が守っている少年は王子に決まっている」
私が護衛騎士であることを、どこかで見かけたのだろう。だが、王子と勘違いしているエーミルが騎士服をまとっていることには気づかないようだ。
「はい、好きです」
「香辛料も平気かな。クミンとか」
「叔父さまは優しいですね。ぼくの好き嫌いを確認してくれるんですね」
ん? これって優しさなのか?
にこにこと微笑むエーミルの顔を見ていると、もしかして私は過保護なのかもしれないと、ふと感じた。
「ぼくね、多分ですけど。マルティナさまが初恋だと思うんです」
突然の告白に、私は一瞬たじろいだ。
だが大事な言葉を発したエーミルの雰囲気は柔らかい。夕暮れの名残の光が弱くなっていく中、エーミルの髪を薄荷色の風がさらりと撫でる。
「……そうか」
それ以外に何と答えたらいいのだろう。
私はさきほどよりも言葉少なく、雑踏の中を歩いた。
羊肉と野菜を炒めた大鍋の前に、人が群がっている。できあがればすぐ買うために待機しているのだろう。
もうもうと上がる湯気と、漂ってくる香ばしいにおい。
「あ、クッキー」
「薔薇水で練ったクッキーだ」
「食べると薔薇の香りがするのかなぁ。わぁ。ご飯にさくらんぼが入ってる。不思議ですね」
エーミルは珍しいものばかりに目を留めている。
まぁなぁ、伯爵家の料理人はさくらんぼと米とアーモンドとミートボールで炊き上げた異国の料理など、作ったこともないだろうからな。
「市場って、すぐに食べられるものが多いんですね」
平パンにチーズや肉を挟んだサンドウィッチ。すでに皮を剥いて切ってある瓜。確かにどれも調理の必要がない。
「朝市は食材が並んでいることが多いな。夕市は仕事帰りにこうして買って帰る人が多いのだろう」
騎士団も基本的には両家の子息で構成されているので、エーミルが世間に疎いのは当然かもしれない。しかも近衛騎士ともなれば、お仕えするのは王族だからな。
私は果物を絞ったジュース店の前で立ち止まった。
エーミルに何がいいかと問えば、オレンジがいいと答える。
店主はすぐにオレンジをナイフで切って、それを絞った。瑞々しい橙色の断面。太陽の光を存分に浴びた南方の果実は、エーミルに相応しい。
「ありがとうございます。叔父さまならいいんです」
「ん?」
エーミルの発した言葉が、理解できなかった。言葉が足りないと自分でも気づいたのだろう。甥っ子は少し視線を彷徨わせた後で、私をしっかりと見上げてきた。
「ですから。マルティナさまの恋のお相手が叔父さまなら、嬉しいんです」
あまりにも素直な物言いに、私はジュースの入った素焼きのカップを落としそうになった。とっさにエーミルが支えてくれたので、少し溢れただけで済んだのだが。
「初恋は実らないものと言いますけど。ぼくの場合は、叔父さまから伝え聞いたマルティナさまを仄かに想ってるだけです。でも、マルティナさまは違う。姫さまは、お小さい時から叔父さまだけを見ていらしたんですね」
見るだけではなく、追いかけてもいらしたなぁ。
夕暮れの空に、私の姿を見つけると満面の笑顔になって飛びついてきた幼い頃の姫さまを思い描いた。
ままごとにご招待されるたびに、いつか私は姫さまに置いていかれるものだと考えていた。
どんなに私を好いてくださっても、慕ってくださっても、所詮は年の離れた護衛でしかないのだから。
一番身近にいただけだから、いずれ姫さまは他の青年に目が向くものと思っていた。
洗練された青年と寄り添い、微笑みあう姫さま。そのお二人を少し離れた後方で見守り続ける。
それこそが幸せなのだと、自分に言い聞かせていた。
言い聞かせるたびに、胸が微かに痛んでいたのに。それに気づかぬふりをしていた。
輝くような笑みが私にではなく、隣の青年に向けられるようになり、いずれ私は本当の影になる。
だが、それこそが本望。姫さまに生涯お仕えすることが幸福なのだ、と。
だがもう己の気持ちをごまかすことはしなくていいのだな。
ふと、市場の入り口から騒がしい声が聞こえてきた。
なにやら悲鳴のような甲高い声も耳に届く。
人垣が左右に割れて、そして何かが突進してきた。ぼろをまとった男だ。濁った声で何を喚いているのかは、ろくに聞き取れない。
だが、その声に重なって「こちらへ逃げ込んだぞ」という叫びが聞こえる。
私とエーミルは顔を見合わせて、互いに剣を抜いた。
地面に落ちたカップが砕け散る。オレンジのジュースがはねて、そして土に沁みこんでいく。
人が逃げた市場は、眺望が開けた。倒れている人はいないが、果物や鍋が散乱し、地面に米や肉やスープがこぼれてしまっている。
これまでならエーミルを背後に庇っていたことだろう。だが、彼はもう正式な騎士だ。
「お前、王子だな」
こちらにナイフを突きつけた男の言葉は、異国のものだった。
瞬時に察した。治安官吏に密入国が見つかり、母国に送還されるのだろうと。
「ここに王子などいない」
「嘘を言うな。護衛が守っている少年は王子に決まっている」
私が護衛騎士であることを、どこかで見かけたのだろう。だが、王子と勘違いしているエーミルが騎士服をまとっていることには気づかないようだ。
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