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三章
19、雑踏【3】
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バートが宮殿から抜け出したと気づいたのは、あの子の部屋の扉が開いたから。
いつも扉の開く音が聞こえたら、すぐにわたしの部屋の扉がノックされるのに。
「おねえさま、あそぼ」って愛らしい声で、でも自分で扉を開けるには重いから「うんうん」と唸りながら。
でも今日は、そのまま廊下を走る軽い足音が聞こえたの。
わたしは読んでいた本を机に置いて、立ち上がった。
直感や違和感には従った方がいい。
廊下に出ると、すでに小さな後ろ姿は見えなかった。
慌てて階段を駆け下り、外に出る。バートは車寄せを抜け、庭を横切って門へと向かっていた。
「姫さま。どうなさいましたか?」
走るわたしに声をかけて来たのは、お母さまの護衛の女性騎士だった。体格のよい彼女は、わたしよりも頭一つ分以上、身長が高い。
「バートが外に出たみたいなの」
「外? 庭ではなく」
「ええ、そんな気がするの。気がするだけ、なんだけど」
「分かりました。マルティナさまのお供をいたします。バートさまを探しに行きましょう」
ちゃんと説明できなかったのに、お母さまの騎士はすぐに納得してくれた。
そして表門の隣にある門番の小屋に声をかける。
「はい? ああ、バート殿下ですか。ええ、お通ししましたよ。さっき退勤したばかりの新人騎士に用があるとのことで」
「お前、何をしているのだ。殿下をお一人で行かせたのかっ」
声を荒げたのは女性騎士だった。
わたしは手が、膝が震えて……言葉にならなかった。
わたしとさほど年が変わらなさそうな若い門番は、女性騎士の気迫に視線を泳がせている。
「そ、そこで、ほんの近くで、その、待ち合わせをしていると、殿下が」
嘘だとすぐに分かった。
バートが待ち合わせなんて言葉を知っているはずがないもの。それに供もつけずに王族が王宮の外に出ることを、護衛騎士は決して認めない。
エーミルは新人だけれど、そんな常識を破るわけがない。アレクも許すはずがないわ。
「バートはどっちへ行ったの?」
「え、えっと……」
「それくらいは覚えているでしょう? 教えなさい、早くっ」
気が急いてしょうがない。王宮の前には大通りがあるけれど、左右にも道が伸びている。もし馬車にでも跳ねられたりしたら、誰かに誘拐でもされたら。それが杞憂だったとしても迷子になって泣いているかもしれない。
早く見つけてあげないと。
わたしが詰め寄ると、門番は迷いながら大通りを指さした。「参りましょう、姫さま」と女性騎士が側についてくれる。
「マルティナさまが声を荒げているところを拝見するのは、初めてです。大丈夫です、すぐにバートさまを見つけますよ」
「ありがとう」
もし隣に居るのがアレクだったら、怖くて手を握っていたに違いない。
でも、今は私よりもバートの方が不安を感じているはず。怖がっているはず。
ああ、何事もありませんように。バートをすぐに見つけてあげられますように。
大通りを走っていると、人だかりができていた。
女性騎士が「何事か」と尋ねると、市場にナイフを持った男が逃げ込んで、騒動が起きているとのこと。
目の前が真っ暗になった。広場では地面に散乱した果物や柱が倒れそうな露店が、闇に沈んで見える。
膝が震えて、今にも座り込んでしまいそうになる。
だめ。しっかりしないと。
きっとアレクが傍にいたら、同じことを言うわ。
わたしは拳を握りしめて、女性騎士と一緒に市の立っている広場へと向かった。
◇◇◇
密入国した男は、バート殿下に襲い掛かろうとする。
騎士二人に守られた殿下を、傷つけることなどできるはずもないのに。
私は剣を振り下ろし、男の腿を斬りつけた。鮮血が散り、ナイフが石畳の広場へと落ちていく。
男の服は次第に赤く染まり、辺りに錆びた鉄に似た血の匂いが漂った。
後方にいらっしゃるバート殿下が、エーミルの背中にしがみつく。
エーミルは「大丈夫です」と囁きながら、バート殿下を抱きしめた。
「あの人……どうなるの? 殺されちゃうの?」
「ぼくには詳しくは分かりません。ですが、恐らくは禁固刑でしょう」
「きんこけい?」
「何年も監獄に、狭い牢に閉じ込められるのだと思います。故郷に戻れるかどうかも分かりません、いえ、二度と戻ることは叶わないでしょう」
エーミルの説明に、バート殿下は騎士服の袖をぎゅっと掴んだ。
その手が小刻みに震えている。
「どうして?」
「バートさまを狙ったからです」
「ぼくが……一人でいたから?」
「……はい」
エーミルは言葉を濁さなかった。
たとえ命を奪わなかったとしても、子どもにはつらく、衝撃的な場面だろう。
だが、己の立場を自覚なさる意味でもバート殿下には、知っておいてもらわなくては困る。
どんなにこの国が安全であっても、すべての人が善意に満ち溢れているわけではない。王子が気まぐれに一人で出歩けば、どういう結果を引き起こすか。
あなたは王宮を抜け出さなければ、この男も母国への送還だけで済んだのです。
いつも扉の開く音が聞こえたら、すぐにわたしの部屋の扉がノックされるのに。
「おねえさま、あそぼ」って愛らしい声で、でも自分で扉を開けるには重いから「うんうん」と唸りながら。
でも今日は、そのまま廊下を走る軽い足音が聞こえたの。
わたしは読んでいた本を机に置いて、立ち上がった。
直感や違和感には従った方がいい。
廊下に出ると、すでに小さな後ろ姿は見えなかった。
慌てて階段を駆け下り、外に出る。バートは車寄せを抜け、庭を横切って門へと向かっていた。
「姫さま。どうなさいましたか?」
走るわたしに声をかけて来たのは、お母さまの護衛の女性騎士だった。体格のよい彼女は、わたしよりも頭一つ分以上、身長が高い。
「バートが外に出たみたいなの」
「外? 庭ではなく」
「ええ、そんな気がするの。気がするだけ、なんだけど」
「分かりました。マルティナさまのお供をいたします。バートさまを探しに行きましょう」
ちゃんと説明できなかったのに、お母さまの騎士はすぐに納得してくれた。
そして表門の隣にある門番の小屋に声をかける。
「はい? ああ、バート殿下ですか。ええ、お通ししましたよ。さっき退勤したばかりの新人騎士に用があるとのことで」
「お前、何をしているのだ。殿下をお一人で行かせたのかっ」
声を荒げたのは女性騎士だった。
わたしは手が、膝が震えて……言葉にならなかった。
わたしとさほど年が変わらなさそうな若い門番は、女性騎士の気迫に視線を泳がせている。
「そ、そこで、ほんの近くで、その、待ち合わせをしていると、殿下が」
嘘だとすぐに分かった。
バートが待ち合わせなんて言葉を知っているはずがないもの。それに供もつけずに王族が王宮の外に出ることを、護衛騎士は決して認めない。
エーミルは新人だけれど、そんな常識を破るわけがない。アレクも許すはずがないわ。
「バートはどっちへ行ったの?」
「え、えっと……」
「それくらいは覚えているでしょう? 教えなさい、早くっ」
気が急いてしょうがない。王宮の前には大通りがあるけれど、左右にも道が伸びている。もし馬車にでも跳ねられたりしたら、誰かに誘拐でもされたら。それが杞憂だったとしても迷子になって泣いているかもしれない。
早く見つけてあげないと。
わたしが詰め寄ると、門番は迷いながら大通りを指さした。「参りましょう、姫さま」と女性騎士が側についてくれる。
「マルティナさまが声を荒げているところを拝見するのは、初めてです。大丈夫です、すぐにバートさまを見つけますよ」
「ありがとう」
もし隣に居るのがアレクだったら、怖くて手を握っていたに違いない。
でも、今は私よりもバートの方が不安を感じているはず。怖がっているはず。
ああ、何事もありませんように。バートをすぐに見つけてあげられますように。
大通りを走っていると、人だかりができていた。
女性騎士が「何事か」と尋ねると、市場にナイフを持った男が逃げ込んで、騒動が起きているとのこと。
目の前が真っ暗になった。広場では地面に散乱した果物や柱が倒れそうな露店が、闇に沈んで見える。
膝が震えて、今にも座り込んでしまいそうになる。
だめ。しっかりしないと。
きっとアレクが傍にいたら、同じことを言うわ。
わたしは拳を握りしめて、女性騎士と一緒に市の立っている広場へと向かった。
◇◇◇
密入国した男は、バート殿下に襲い掛かろうとする。
騎士二人に守られた殿下を、傷つけることなどできるはずもないのに。
私は剣を振り下ろし、男の腿を斬りつけた。鮮血が散り、ナイフが石畳の広場へと落ちていく。
男の服は次第に赤く染まり、辺りに錆びた鉄に似た血の匂いが漂った。
後方にいらっしゃるバート殿下が、エーミルの背中にしがみつく。
エーミルは「大丈夫です」と囁きながら、バート殿下を抱きしめた。
「あの人……どうなるの? 殺されちゃうの?」
「ぼくには詳しくは分かりません。ですが、恐らくは禁固刑でしょう」
「きんこけい?」
「何年も監獄に、狭い牢に閉じ込められるのだと思います。故郷に戻れるかどうかも分かりません、いえ、二度と戻ることは叶わないでしょう」
エーミルの説明に、バート殿下は騎士服の袖をぎゅっと掴んだ。
その手が小刻みに震えている。
「どうして?」
「バートさまを狙ったからです」
「ぼくが……一人でいたから?」
「……はい」
エーミルは言葉を濁さなかった。
たとえ命を奪わなかったとしても、子どもにはつらく、衝撃的な場面だろう。
だが、己の立場を自覚なさる意味でもバート殿下には、知っておいてもらわなくては困る。
どんなにこの国が安全であっても、すべての人が善意に満ち溢れているわけではない。王子が気まぐれに一人で出歩けば、どういう結果を引き起こすか。
あなたは王宮を抜け出さなければ、この男も母国への送還だけで済んだのです。
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