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第3話【返事は短く、心は遠く】
しおりを挟む圭吾所有のマンションに帰り着いた幸は、黒のローヒールパンプスを脱ぎ、窮屈な靴から足を解き放った。
度の入っていない黒縁眼鏡をそっと外し、テーブルの上に置く。
一つに結んでいた髪をほどきながら脱衣所へ向かい、時代遅れのスーツを脱ぎ捨てた。
洗面台に両手をつき、鏡の中の自分をじっと見つめる。
覇気のない瞳。
やつれた顔。
鏡に映る陰鬱な表情を見て、むなしさが胸いっぱいに広がる。
「……ダサいって言われても」
女性社員たちの笑い声が脳裏に蘇る。
その上から、圭吾の言葉も重なるように思い出された。
――『他の男が寄ってこないように、見た目を悪くしろ』
――『俺を不安にさせないでくれ』
その言葉に従い、幸は自らを「ダサい女」として作り上げてきた。
化粧をせず、黒縁眼鏡をかけ、服装は時代遅れの黒スーツ。
ハイヒールの代わりに、年配女性が履くようなローヒール。
その結果、会社では「ダサい第二秘書」として知られる存在となった。
それでも、圭吾が安心するのなら、それでいい。
幸は、そう思っていた。
*****
シャワーを軽く浴びた幸は、動きやすい上下のスウェットに着替えた。
そして、机の上に置かれた携帯を手に取り、LINEを開く。
『夕飯はいる? 帰りは何時頃?』
送信して間もなく既読がついた。
『いらない。帰らない』
短すぎる文字列を見つめたまま、幸は携帯を机に置き、ソファーへと腰を下ろした。
――いつからだろうか。
圭吾との距離が広がり始めたのは。
思いは自然と過去へと遡る。
会社が軌道に乗るまでの三年間のうち、二年間は学業と仕事、そして家事に追われ、目が回るほど忙しかった。
大学を卒業してからは多少楽になったものの、それでも毎日は慌ただしく過ぎていった。
寝る間もないほど忙しかったが、辛いとは思わなかった。
なぜなら、そばに優しい圭吾がいたから。
だから、辛さよりも幸せの方が大きく、大変だと感じることはなかった。
あの頃は、どこへ行くのも、何をするのも常に一緒で、毎日が愛に満ちていた。
二人の絆は揺るぎなく、この幸せは永遠に続く――。
幸は、そう信じて疑わなかった。
だが、会社が安定し始めてから、圭吾は少しずつ変わっていった。
帰りは遅くなり、夕飯を共にすることもなくなった。
二人で過ごす時間は目に見えて減り、幸がこのマンションで一人で過ごす日が増えていった。
最初の頃、既読無視をされると、幸は何度も電話をかけた。
『今どこ?』『何時に帰るの?』『迎えに行こうか?』『誰と一緒?』『早く帰ってきて』
けれど返ってくるのは、面倒そうな声ばかり。
『どこでもいいだろ』『帰らない』『いらない』『知り合い』『無理』
背後からは友人たちの笑い声、茶化す声、そして女性の笑い声まで混じって聞こえた。
最後は決まって、冷たい声で、
『もう、電話してくるな』
――その直後、通話はブチッと切られる。
同じことが続けば、電話をかける気力も失われる。
だから幸は、せめて最初のLINEだけは返してほしいと、圭吾にお願いした。
それ以来、最初のLINEの返信だけは、すぐに返ってくるようになった。
だが、それも電話をかけられるのが嫌だからに違いない。
彼にとって、幸との会話自体が、もう面倒で、嫌なことなのかもしれない。
「ふぅ……」
また一つ、溜息がこぼれる。
項垂れる肩が、彼女の心の重さを物語っていた。
――もう、ダメなのかもしれない。
圭吾が意図的に距離を取っていることに、幸は気づいていた。
特にこの三か月は、マンションにすら帰ってこない。
「会社近くのホテルで寝泊まりしている」とは聞かされていたが、それが本当かどうかも怪しい。
――もう、別れる時期なのかもしれない。
心のどこかで、幸はそう思っていた。
それでも踏み切れないのは、あまりにも幸せすぎた三年間の記憶のせいだった。
別れる勇気が、まだ出ない。
――もう少し。
――もう少しだけ、足掻いてみよう。
かすかな希望にすがるように、幸は過去の二人を心の中で探し求めた。
今の幸は、別れを先延ばしにすることでしか、自分を保てないほど疲弊していた。
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