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第4話【覚悟ができるまで】
しおりを挟む翌朝、幸は会社に着くとすぐにコーヒーの準備を始めた。
圭吾はコーヒーに強いこだわりがあり、朝一杯目は必ず〈ハワイ・コナ〉と決まっている。
ハワイ島の火山性土壌で育ったその豆は、甘みと酸味のバランスが良く、
アメリカや日本でも高級コーヒーとして知られていた。
幸はいつものように豆を挽き、コーヒーを淹れ、社長室へ。
ノックして扉を開けると、圭吾の冷ややかな視線が幸に突き刺ささる。
その瞳に滲む不機嫌さには、かつての温もりは微塵もなく、幸の胸はズキリと痛んだ。
けれど彼女は、それを悟られまいと平静を装いながら歩み寄る。
そのとき、デスクの上で携帯が震えた。
圭吾が携帯を手に取り、画面を確認する。
その瞬間、彼の表情がふっと柔らかくなった。
指先が優しく画面をタップする。
――誰からの電話だろうか?
コーヒーを置きながら、携帯に視線を向けようとすると、圭吾は椅子を回転させ、背を向け話し出す。
「おはよう。体調はどう? 大丈夫?」
圭吾の甘く優しい声音が、室内にこだまする。
だけどその声は、幸に向けられたものではない。
受話口から女性の甘えた声が微かに漏れ聞こえた。
「……無理させてごめんな。次は、もう少し抑えるから」
その言葉を聞いた瞬間、幸はすぐに意味を理解した。
かつて激しい夜のあと、圭吾が幸にも同じ言葉を囁いたことがあったからだ。
トレイを持つ手が震え、目頭が熱くなる。
顔を上げると、片桐秘書と目と目が合った。
彼の目は、幸を哀れむように揺れている。
――その瞬間、幸は圭吾の浮気を確信した。
同時に、頭の中に「別れ」という文字がよぎる。
社長室を出た途端、涙が頬を伝う。
胸が締めつけられるように苦しい。
――このままここにいれば、もっと惨めになるだろう。
頭では理解しているのに、心は過去の幸せな日々に縛られ、動けない。
幸はわかっていた。
完全に彼を見切らなければ、この先に幸せなどないことを。
だからこそ、彼女は自分をとことんまで追い詰める覚悟を決めた。
これ以上ないほど圭吾に幻滅すれば、あの幸せだった日々も、きっと色あせるに違いない。
完全に決別するために、今は自分から「別れ」を口にしない。
まだ別れる覚悟ができていない幸は、無理やり気持ちを切り替え、仕事に取り掛かった。
パソコンを立ち上げ、自分で作り上げた取引先の情報を表示する。
「あ……向井社長の奥様、今日がお誕生日だわ」
愛妻家として知られる向井社長。
その奥様の誕生日には、毎年欠かさず花束を贈っている。
幸はすぐに、いつもの花屋に電話をかけ、黒田圭吾の名義で花束を贈るよう手配した。
その後、向井社長からお礼の連絡があったときに戸惑わないよう、片桐秘書にもメールを送り、
花束を贈ったことを伝えた。
すぐに返信が届く。
『西村さん、いつも、ありがとうございます』
画面に映る感謝の言葉に、幸の胸に小さな温かさが広がる。
そして続けて――
『西村さん、大丈夫ですか?』
幸を気遣う文面だった。
この会社で、幸を本当に気にかけてくれるのは、片桐勉、彼ただ一人だけ。
その事実に、幸の胸の奥に小さな痛みが走る。
恋人である圭吾は、もう幸のことなど気にかけていない。
圭吾にとって、幸はもう必要な存在ではないのかもしれない。
そんな中で、片桐秘書だけが心配し、気にかけてくれる。
ありがたく思う一方で、幸は改めて、自分がこの会社で孤独であることを痛感する。
『ありがとう。大丈夫よ』
そう返信しながら、幸はふと思う。
――無機質な文字にも、温かいものと冷たいものがある。
相手への思いやりは、こうして文字にも表れるのだと。
幸は軽く肩をすくめ、深く息を吐いた。
誰かに気にかけてもらえることが、これほどまでに心に響くとは――。
それほど幸は、優しさに飢えていた。
孤独を噛みしめながら、幸は今日も自分の役割を淡々とこなしていく。
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