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第10話【退職願】
しおりを挟むなんとか三時に間に合った。
幸はオーダーしていたスーツを受け取り、待たせていたタクシーに乗り込む。
店を出る頃には、転んだときよりも足首の痛みは和らいでいた。
それでも鈍い痛みは残り、一歩ごとに小さな違和感が走る。
幸はタクシーを降り、正面玄関からビルの中へと入った。
受付の社員に軽く会釈をし、ロビーを通り過ぎる。
そして、エレベーターの前に立ち、ボタンを押した。
エレベーターのドアが開き、静かに中へと入る。
社長室のある最上階のボタンを人差し指で押すと、エレベーターは停まることなく上昇していった。
ドアが開き廊下に出ると、人気のない廊下が静かに伸びている。
幸はゆっくりと歩き、社長室の前で立ち止まった。
静かにノックをし、応答がないのを確認してからドアを開ける。
ここは、もう二度と入ることのない場所になるだろう。
整然としたデスクの上に、圭吾が土曜日に着る予定の、オーダーメイドのスーツを丁寧に置く。
そして、包装紙の端を整えながら、小さく息を吐いた。
「……これで、最後」
その言葉は誰に聞かせるでもなく、静かに空気に溶けていく。
社長室を出た幸は、自分のオフィスへと向かった。
引き出しから「退職願」と表書きされた封筒を取り出し、人事部へ向かう。
人事部の男性社員に退職願を提出すると、驚きの声が返ってきた。
「えっ?! 西村さん、辞められるんですか?!」
幸は小さく頷き、落ち着いた声で答える。
「えぇ、まぁ……一身上の都合で……」
男性社員は封筒を受け取り、
「そうですか……。一応お預かりしますが、西村さんは社長秘書ですので、社長の確認が必要になります。
ですから、社長に確認を取ってから、手続きを進めさせていただきます」
少し言葉を濁しながらそう言った。
「わかりました。よろしくお願いします。」
そう告げ、幸は人事部を後にした。
圭吾が受理するかどうかは、わからない。
だが――もし受理されるのなら、もう自分のことなどどうでもいい存在なのだと知ることができる。
反対に、受理されなければ、まだ彼の中に自分への思いが残っている証拠だと。
でも幸は、退職願いが受理されることを、どこかで確信していた。
……それでも、心のどこかでは期待してしまう。
人事部から退職願いの報告を受けた圭吾が、動揺して自分に連絡をしてくるのではないかと。
幸が人事部を出ると、担当の男性社員はすぐに人事部長のところへ行き、
社長第二秘書から退職願が提出されたことを報告した。
報告を受けた部長は、ただちに社長である圭吾へ連絡を入れる。
電話越しに話を聞いた圭吾は、わずかに眉をひそめた。
――幸が、退職願を出しただと。
――あぁそうか、廊下での件で拗ねているのか。
――だが、まぁちょうどいい。
(あの見た目で俺の周りをうろつかれると、気分が悪くなる)
心の中で吐き捨てるように呟き、圭吾は淡々と告げた。
「西村の希望どおりに手続きを進めて構わない」
短くそう言って、電話を切る。
人事部長はしばらく無言のまま、受話器を見つめた。
会社の立ち上げ当初から支えてきた社員が辞めるというのに――。
社長は、あまりにもあっさりしてないか。
(西村さんと、なにかあったのだろうか……)
そんなことを思いながらも、部長は部下に指示を出した。
「西村さんの希望通りに退職手続きを進めるように」
幸の「退職願」は、受理された。
幸がオフィスに戻り、帰り支度をしていると、人事部から内線が入った。
内容は、「退職願」が受理されたという連絡だった。
予想していたこと。
わかっていたこと――それでも、胸の奥がチクリと痛む。
胸は痛んだけれど、もう涙は出なかった。
帰り支度の手を止め、折りたたまれた段ボールを静かに組み立てる。
組み上がった箱の中へ、私物を一つひとつ丁寧に入れていく。
――もう、今日で終わりにしよう。
残りの勤務日は、有休消化にしてもらえばいい。
私物の少ない幸は、わずか十分ほどで段ボールへの荷詰めを終えた。
そして、それを抱え、静かにオフィスを後にする。
会社の発展を願い、自分なりに精一杯努力してきた五年間――。
その終わりが、こんなにもあっけないなんて。
(……マンションに戻ったら、圭吾に連絡しよう)
これからの二人のことを、ちゃんと話し合わなければならない。
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