鬼と天狗

篠川翠

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第一章 義士

流行り病(4)

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 武勇で鳴らしている鳴海は、その体裁もあって、うまく弱音が吐けない。そんな鳴海の性分を理解しているのは、衛守の他に鳴海の妻であるりんがいた。
 臥所で鳴海から「彦十郎家を継ぐことになりそうだ」という話を聞いたりんは、鳴海の心中を慮って、胸を痛めた。
 その鳴海は、りんの背を抱き寄せながら、暗闇の中で目を見開いている様子である。結婚して七年目になるが、九歳の年の差や、武士の「女に触れると戦場で不覚を取る」という俗諺を気にして、普段は寝所も別々のことが多い。鳴海がりんと臥所を共にするのは珍しいことだった。
「りん、起きているか?」
 暗闇の中で、鳴海が小声で囁く。返事代わりに、りんは黙って鳴海の手を握り返した。
「縫殿助殿に子がおれば良かったのにな……」
 そう嘆く夫は、普段は謹厳な態度を貫き通しているくせに、りんの前ではたまに弱音を吐き出す。
 そもそも本来、りんの縁談は縫殿助との間に持ち上がったものだった。もっともその頃縫殿助には想い人がいたらしく、縫殿助があまり縁談に乗り気でなかったのは、りんにも察せられた。だが、りんも家老格の江口家の娘である。大谷家から断るわけにもいかず、進退極まったところへ信義が持ちかけたのが、やはり当時独り身でいた鳴海との縁組だったのである。夫婦として情を交わすまでには随分時間がかかってしまったが、今ではそこそこ上手くいっているのではないか。
「妻もいらっしゃらないのに、子は無理でしょう」
 りんが小声でそう述べると、鳴海がくすりと笑った。同僚が滅多に見ることのできない鳴海の笑顔を見られるのは、妻の特権である。
「あの頃の縫殿助殿は想い人がいたはずだが、縁組に至らぬまま今に至ってしまったからな」
 そう述べると、再び鳴海は暗闇を睨んだ。
「元々、父上が遅くに拵えた私などは、兵卒で十分だろうに」
 というより、そうありたいと願っていたからこそ、鳴海はひたすら武芸に励んできたのだ。いつか、戦場で武勇を鳴り響かせるように。それが、突如兵卒を束ねる立場に立たされるというのだから、鳴海が戸惑うのも無理はなかった。
「二本松家中の方々は、皆お強いですから」
 りんがそう言い添えると、鳴海の手が腰に回された。りんも言葉数が多い方ではないが、その意図はしっかり通じたらしい。つまりは、二本松藩家中の者らは、個性が強い面々が多すぎるのだった。それを知っている鳴海は、できることならば管理職などにつきたくなかったのである。だが、縫殿助が死にかけている今、それを主張することは鳴海の我儘とみなされるだろう。
「そなたにも、苦労をかけるかもしれない」
 りんはあまり体が丈夫でない。そのことを知っている鳴海は、りんにさらに負担がかかるのを憂慮しているようだった。
「大谷家に嫁ぐというのは、それらも含めて引き受けるということです」
 体は弱くても、やはりりんは家老格の家柄の娘だ。覚悟が違う。妻の言葉に、鳴海は再び微笑んだ。
 鳴海の手が、今度は小袖の下に滑り込んできた。鳴海も、これからの未来に不安を抱いているに違いない。その不安を分かち合えるのは、ごく限られた人間だけである。ついに子を設けないままこの世を去ろうとしている縫殿助を見て、近年ようやく妻と情を交わせるようになった鳴海は、何かしらの証を残したい衝動に駆られた。
「鳴海様の御子であれば、きっと意志の強い子に育ちましょう」
 そう言うと、鳴海の意を汲んで両腕を鳴海の首に回したまま、りんは体勢を仰向けに変えた。鳴海の体の重みを全身で受け止め、目を閉じる。
 鳴海もりんの細腰をしっかり抱き寄せると、体を密着させた。「子はかすがい」とはよく言ったもので、できることならばりんを母にしてやりたいと、この頃では思うようになっていた。彦十郎家の存続が危ぶまれている今となっては、尚の事だった。

 それから数日後、医者の見立て通りに縫殿助は息を引き取った。幼い頃より共に育ってきた鳴海にも、もちろん人並みの悲しみはある。だが、彦十郎家の名跡の重みの方が、今の鳴海には大きくのしかかっているのだった。鳴海の方が年上にも関わらず縫殿助の養子という奇妙な立場は、藩のお偉方にとってはさして重要なことではなかったらしい。とりあえず、広間番の身分のままでいるわけにもいかず、鳴海の身分は一気に番頭の控えの身分である「詰番」にまで格上げされた。もっとも、喪中であるからということで彦十郎家では慶事は控えられており、名跡を継いだという実感はまだ伴っていない。
 鳴海が登城して出仕する部屋も変わった。今までは塀重門を潜って御玄関から畳大廊下から襖を開けて入るのは、御広間だった。ここには、小身の身分の者や若輩の者らが集い、部屋の中央にある炉を囲んで談笑する気楽さがあった。だが、鳴海の身分が格上げされたために、現在出入りする部屋は、御番頭の控えの間の奥にある落ノ間である。その隣には大書院があり、大書院の奥の方には大城代や御家老の席があった。番頭の身分は専ら攻城・野戦防備の実戦に当たるとされているのだが、実際に侍大将として任務に当たるのは、幕府に命じられている富津防衛か、万が一領内で一揆が起きたときの鎮圧役位なものである。そのせいか、家老座上の丹羽丹波は、どこか番頭を軽く見ている節があるのも、鳴海は何となく気に食わなかった。彦十郎家もかつては家老を何人も輩出してきた家柄である。それでも鳴海が丹波の言動に辛抱しているのは、丹波が短気な性分でありながらも、時勢を正確に捉え、藩の行く末を案じる心に偽りはないと信じているからでもあった。
 その丹波からは、鳴海が広間番として出仕していた頃から、「勤皇派の動きを探れ」との内命を受けていた。鳴海がこの役目を申し付けられた裏には、鳴海が武勇全般に渡って長けており、その名目で「手合わせ」と称してあちこちに出入りしても不審がられないという事情がある。鳴海の勝気な性格は誰しもが知る所であったから、丹波は鳴海のその性格を利用すべく、「藩の平穏のため」として鳴海に内偵を命じたのであった。
 丹波一味の専横は、鳴海も決して快くは思っていない。だが、丹波がかつての家老筆頭格であった石見いわみ家を凋落させた手腕を、鳴海は目の当たりにしてきてもいた。今丹波から彦十郎家が睨まれるのは、決して得策とは言えない。そのため、渋々ではあるが、一定の距離を保ちつつも丹波との協力関係を築いているのだった。
 鳴海が詰番として日々慣れぬ学びを重ねている中、ある事件が勃発したのは、まもなく田の収穫を迎えようという時期のことだった――。
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