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第二章 尊攘の波濤
守山藩(1)
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如月が終わろうかという頃、鳴海の耳にも鶯の声が届くようになった。江戸で過激な上奏文をしたためた上に、帰藩後も常識を超越した上奏文を上げようとした三浦権太夫は、どうやらあれから揚屋で大人しくしているらしい。たまたま城の畳大廊下で鳴海と行き合った十右衛門は、こっそりとそのように打ち明けてくれた。この分であれば、揚屋から出される日もそう遠くはなさそうである。身分は部屋住みに逆戻りだろうが、少なくとも命を取られることはないだろう。その話を聞いた鳴海も、安堵した。
武方(武官)である鳴海は地方(行政官)のことに口を挟む筋合いはない。だが、やはり同じ藩の者がつまらぬことで処断されるのは、出来れば見たくなかった。
もっとも、武方としての仕事は未だ詰番の身分のため、現在は専ら和田弥一右衛門らの補佐に回っている。
そして、権太夫の揚屋入りと前後するかのように、この頃、朝廷の求めに応じて将軍家茂公が上洛するとの話が聞こえてきていた。将軍に付き従うのは旗本や御家人だけでなく、水戸藩の慶篤や守山藩の頼升も上洛するという。
「将軍公が上洛されるのは、家光公以来二百二十九年ぶりだそうな」
長国公は、一見感心したように丹波の言葉に相槌を打っている。だが、その声色にはやや沈鬱さが滲み出ていた。
「確かに、前例のないことでありましょう。我が藩で言えば、藩祖光重公が二本松に参られた頃の話ですからな」
源太左衛門も、のんびりと相槌を打った。だが、源太左衛門の顔にもやや陰りが見える。その様子を察するに、源太左衛門もあまりこの事態を歓迎していないらしい。
そんな折、家老である源太左衛門の元に、現在上総富津砲台に詰めている日野大内蔵から書状が送られてきた。幕府から命令があり、武備を厳戒にせよとの由である。昨年、薩摩藩が横浜近くの生麦村で英国公使を斬捨御免にした。世にいう「生麦事件」である。その意趣返しであるのか、江戸湾に英国船が姿を見せているというのだ。同様の報告は、丹波の元にも江戸留守居役を務める小沢長右衛門から、報告がもたらされていた。
どうも、江戸近辺できな臭さが漂っている感は否めない。
「後生である。皆に余の我儘を申して良いか?」
長国公が、心底申し訳なさそうに告げた。思わず身構えた家臣らに対して、公が告げたのは意外な言葉だった。
「後生である。江戸におる母上と久子、美子を二本松に戻そうと思う」
「それは……」
刹那、和左衛門が咎めるような視線を投げたのを、鳴海は視界の片隅に捉えた。長国公の仰る「母上」とは、養母の益子様のことだろう。そして、久子様は長国公の妻であり、美子は公の妹君である。いずれも武家諸法度によれば、幕府への人質として江戸藩邸に留め置かなければならないのであるが、昨年参勤交代が緩められ、大名の妻子はどこにいてもお構いなしとなった。近くの大藩である仙台藩などは早々と妻子を帰国させていたはずだが、参勤交代緩和の令が出た頃の二本松では麻疹が猖獗を極めており、長国公の家族の帰国は見合わされていたのである。
「一昨年に宮下御殿が焼けたゆえ些か手狭かもしれぬが、照子も大垣に嫁ぎ祐吉も結城に参ったのだから、部屋はあろう」
そう述べると、長国公は和左衛門をじっと見た。穏やかな態度ではあるが、今回は有無を言わさず家族を帰国させるつもりらしい。江戸の情勢が不安定、かつ幕命により妻子はどこにいてもお構いなしとなったのだから、和左衛門にしても特に反対するべき理由は見当たらないだろうと言わんばかりである。
「畏まりまして、候」
低い声で和左衛門が答え、頭を下げる。その様子に、長国公がほっと息をついた。
「すまぬ。富津の警衛の話だったな。続けよ」
長国公の言葉に、丹波が再び話の主導権を握った。
「将軍公が江戸を留守にするとなれば、富津の備えも人員を増やさねばなるまい。万が一に備え、寺西次郎助に青田村の佐藤東十郎をつけて、大内蔵殿を補佐させてはいかがか」
「ふむ……」
源太左衛門が、じっと考え込んだ。この半年余り、鳴海が実質詰番として出入りするようになってから気づいたことだが、即断即決をしないのが、源太左衛門の習慣らしい。
「異存はござらぬ。倅にもその様に申し伝えよう」
源太左衛門が肯いた。編成としては、一個小隊百名ほどか。もっとも、富津に海防の拠点が置かれているとは言え、実際に火種が上がったという話は伝わってきたことがないから、丹波も農兵らが中心でも問題なしと判断したのだろう。
武方(武官)である鳴海は地方(行政官)のことに口を挟む筋合いはない。だが、やはり同じ藩の者がつまらぬことで処断されるのは、出来れば見たくなかった。
もっとも、武方としての仕事は未だ詰番の身分のため、現在は専ら和田弥一右衛門らの補佐に回っている。
そして、権太夫の揚屋入りと前後するかのように、この頃、朝廷の求めに応じて将軍家茂公が上洛するとの話が聞こえてきていた。将軍に付き従うのは旗本や御家人だけでなく、水戸藩の慶篤や守山藩の頼升も上洛するという。
「将軍公が上洛されるのは、家光公以来二百二十九年ぶりだそうな」
長国公は、一見感心したように丹波の言葉に相槌を打っている。だが、その声色にはやや沈鬱さが滲み出ていた。
「確かに、前例のないことでありましょう。我が藩で言えば、藩祖光重公が二本松に参られた頃の話ですからな」
源太左衛門も、のんびりと相槌を打った。だが、源太左衛門の顔にもやや陰りが見える。その様子を察するに、源太左衛門もあまりこの事態を歓迎していないらしい。
そんな折、家老である源太左衛門の元に、現在上総富津砲台に詰めている日野大内蔵から書状が送られてきた。幕府から命令があり、武備を厳戒にせよとの由である。昨年、薩摩藩が横浜近くの生麦村で英国公使を斬捨御免にした。世にいう「生麦事件」である。その意趣返しであるのか、江戸湾に英国船が姿を見せているというのだ。同様の報告は、丹波の元にも江戸留守居役を務める小沢長右衛門から、報告がもたらされていた。
どうも、江戸近辺できな臭さが漂っている感は否めない。
「後生である。皆に余の我儘を申して良いか?」
長国公が、心底申し訳なさそうに告げた。思わず身構えた家臣らに対して、公が告げたのは意外な言葉だった。
「後生である。江戸におる母上と久子、美子を二本松に戻そうと思う」
「それは……」
刹那、和左衛門が咎めるような視線を投げたのを、鳴海は視界の片隅に捉えた。長国公の仰る「母上」とは、養母の益子様のことだろう。そして、久子様は長国公の妻であり、美子は公の妹君である。いずれも武家諸法度によれば、幕府への人質として江戸藩邸に留め置かなければならないのであるが、昨年参勤交代が緩められ、大名の妻子はどこにいてもお構いなしとなった。近くの大藩である仙台藩などは早々と妻子を帰国させていたはずだが、参勤交代緩和の令が出た頃の二本松では麻疹が猖獗を極めており、長国公の家族の帰国は見合わされていたのである。
「一昨年に宮下御殿が焼けたゆえ些か手狭かもしれぬが、照子も大垣に嫁ぎ祐吉も結城に参ったのだから、部屋はあろう」
そう述べると、長国公は和左衛門をじっと見た。穏やかな態度ではあるが、今回は有無を言わさず家族を帰国させるつもりらしい。江戸の情勢が不安定、かつ幕命により妻子はどこにいてもお構いなしとなったのだから、和左衛門にしても特に反対するべき理由は見当たらないだろうと言わんばかりである。
「畏まりまして、候」
低い声で和左衛門が答え、頭を下げる。その様子に、長国公がほっと息をついた。
「すまぬ。富津の警衛の話だったな。続けよ」
長国公の言葉に、丹波が再び話の主導権を握った。
「将軍公が江戸を留守にするとなれば、富津の備えも人員を増やさねばなるまい。万が一に備え、寺西次郎助に青田村の佐藤東十郎をつけて、大内蔵殿を補佐させてはいかがか」
「ふむ……」
源太左衛門が、じっと考え込んだ。この半年余り、鳴海が実質詰番として出入りするようになってから気づいたことだが、即断即決をしないのが、源太左衛門の習慣らしい。
「異存はござらぬ。倅にもその様に申し伝えよう」
源太左衛門が肯いた。編成としては、一個小隊百名ほどか。もっとも、富津に海防の拠点が置かれているとは言え、実際に火種が上がったという話は伝わってきたことがないから、丹波も農兵らが中心でも問題なしと判断したのだろう。
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