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第二章 尊攘の波濤
江戸震撼(2)
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「それに」
黄山が、さらに言葉を続けた。
将軍の上洛は昨年末に三条実美らの勅使が江戸に下向し、攘夷を督促した際に決まったことであるが、これを受けて一足先に慶喜が上洛していた。その水戸藩の動きに期待したものか、一月二十七日には、長州藩の計らいで京都東山翠紅館において諸藩の尊攘派有志数十人が集い、「親睦を深めるため」として集合していたというのである。その中には、水戸藩の一四名が列席したのを始めとして、長州の久坂玄瑞や土佐の武市瑞山、熊本の宮部鼎蔵、そして長州藩の世子である毛利定広も臨席していた。水戸藩から多数の参加者がいたということは、それだけ水戸藩の尊攘派が他藩から期待されていることの裏返しでもある。その水戸藩尊攘派の中心人物と目されているのが、武田正生(耕雲斎)だという。
「三浦平八郎殿は、恐らく武田耕雲斎殿に近い人物だと思います」
黄山はきっぱりと述べた。
「武田殿も、確か水戸藩の執政を担う御仁でござろう?」
鳴海は、記憶の彼方から水戸藩の人事情報を引き出した。他藩の人事情報は、武鑑などで紹介されていることがある。
「幕府の方針も、猫の目のように変わりますからな。文久元年から一年ほどは大老の安藤殿のお指図で謹慎処分を受けていたはずでございますが、執政に復権したところを見ると、水戸藩が再び国の政局の中心にあろうとしているのやもしれませぬ。戊午の密勅も正式に奉承し、諸大名に布告したとの由」
黄山の解説は、さすがに冷静である。戊午の密勅とは、幕府の対応に焦れた朝廷側が、幕府の頭ごなしに密かに水戸藩に「攘夷実行」を命じたというものだった。これを返納するのしないので水戸藩も大いに揉め、多くの処分者が出たのだった。
「すると、水戸藩は正式に『攘夷実行』を藩是としたということか」
鳴海は、眉を顰めた。黄山の言葉をそのまま捉えれば、そういうことである。だが、黄山は首を横に振った。
「私の勘ですが……。一橋公は、必ずしも攘夷を是認しておられぬ気がいたします」
「待て」
鳴海の思考は、混乱してきた。話の流れからすれば、一橋公は水戸藩の出身である以上、攘夷を支持・実行しようとしているのではないか。
「一橋公の御心中ほどわからないものはございませぬ。将軍後見職に就かれている御方ですから、政への野心はおありでしょう。ですが、昨年夏に生麦の災難が起こり、幕内でもその賠償金をイギリスに支払うか否かで未だに揉めていると伺っております。加えて、横浜鎖港となれば国際法違反として、諸外国が攻撃の口実にするのは確実。それこそ、日本が外国に蹂躙される格好のきっかけを与えかねませぬ。一橋公はそれを懸念されておる故、はきとした態度を水戸藩の者にもお見せにならないのではないかというのが、それがしの当て推量でございます」
鳴海も水戸藩の弘道館記述義は読んだことがあったが、その頃とは大分情勢が変わってきているのかもしれない。時流が読めないままに、感情に流されて「攘夷」を叫ぶ者が跋扈しているとすれば、国を割りかねない。
「そもそも、尊皇と攘夷は思想の大本が異なるもの。亡き藤田幽谷様や会沢正志斎様は、それをよくご存知でいらっしゃいました」
黄山は、苦々しげに吐き捨てた。商人でありながら、学者でもある黄山の話は、鳴海にはやや難しすぎる。
「そうなのか?」
理解が追いつかずに途方に暮れる鳴海に対し、黄山は教師のような笑みを寄越した。
「尊皇は天皇を崇拝し、天皇による仁政を理想と致します。その下知を受ける武士の集団の棟梁が徳川家。これが我が国の現状ですな」
「ふむ……」
これは、鳴海でもわかる。流石に鳴海も、帝をどうこうしようと考えたことはない。
「一方、攘夷の源流は儒学の中華思想にあります。自国を世界の中心と捉え、周辺諸国を未開の国として考える」
「東夷、西戎、南蛮、北狄のことだな」
これも、儒学を学べば必ず出てくる考えである。
「本来は全く意味の異なる尊皇と攘夷。それらをいつしか一括りにしてお題目のように唱える者が現れたからこそ、今の政局の混乱を招いているのでありましょう」
黄山の言葉で、鳴海の中で長らく引っかかっていたものが形になってきた気がする。そうなのだ。たとえ尊皇の念を抱いていたとしても、それを直ちに攘夷に結びつけようというのが、安直過ぎるのである。
「そなたが尊攘の過激派と距離を保っているのは、それ故に?」
鳴海の問いに、黄山は苦笑を浮かべた。
「それだけではございませぬが……。家業の商いの委細も絡んできます故、今日の論議はここまでと致しましょうか」
おどけた物言いも、黄山が述べれば嫌味さはない。それよりも、と黄山はもう一つ気になる情報を述べた。
将軍家茂や水戸藩主慶篤に先立ち、正月過ぎには一橋慶喜が上洛していた。一時は将軍後継者と目されていたほどの切れ者だが、三月五日に慶喜が将軍名代として参内した際に、孝明天皇に旧来の幕府の失政を謝罪し和宮降嫁の礼を奏上した。同時に、従来通り庶政委任の沙汰を帝より賜り、天下に号令して外夷を掃攘したいと述べたというのである。
「先程の話の続きだな」
鳴海の言葉に、黄山は肯いた。
「一橋公の言葉を、朝廷は一旦内諾されたとの由でございます。ですが、七日に将軍公が諸大名と共に参内した際に、改めて諸大名に下された朝命には別の文言が付け加えられたとのこと」
「それはどのような……?」
鳴海の胸の内に、不安の暗雲が広がる。
「庶政委任の部分について、『事柄によっては直接朝命を諸藩に下す』、と」
しばし、言葉が出なかった。これは、孝明帝の名によって幕府を通さずに諸藩に命令が下せることを意味する。諸大名の前でそのような宣告を出されたのでは、さすがの一橋公も手の打ちようがなかったのだろう。
事と次第によっては、佐幕を藩是とする二本松藩でも、今後の藩の方針を巡って割れる可能性が出てきた。いわば、二重基準が帝の名で出されたわけである。
「丹波様には、この旨は……?」
「勿論、ご報告させて頂きました。丹波様も、顔色を変えられておられましたよ」
黄山も鳴海の懸念を察したか、大きく肯いた。
「朝廷側に、先手を取られたな」
苦々しげに呟く鳴海の言葉に、黄山は首を振ってみせた。
「公家の方々だけではございますまい。此度の絵図は、徳川家に取って代わりたいいずれかの藩の知恵者が、裏で糸を引いております」
「水戸の好敵手、ということか」
鳴海の脳裏に、幾つかの雄藩の名が浮かぶ。薩摩藩か、それとも長州藩か。或いは土佐藩。
「水戸の過激派と長州の過激派との間で、密約が結ばれたという噂もございます」
黄山の言葉も、鳴海の不安を増長させるばかりだった。
黄山が、さらに言葉を続けた。
将軍の上洛は昨年末に三条実美らの勅使が江戸に下向し、攘夷を督促した際に決まったことであるが、これを受けて一足先に慶喜が上洛していた。その水戸藩の動きに期待したものか、一月二十七日には、長州藩の計らいで京都東山翠紅館において諸藩の尊攘派有志数十人が集い、「親睦を深めるため」として集合していたというのである。その中には、水戸藩の一四名が列席したのを始めとして、長州の久坂玄瑞や土佐の武市瑞山、熊本の宮部鼎蔵、そして長州藩の世子である毛利定広も臨席していた。水戸藩から多数の参加者がいたということは、それだけ水戸藩の尊攘派が他藩から期待されていることの裏返しでもある。その水戸藩尊攘派の中心人物と目されているのが、武田正生(耕雲斎)だという。
「三浦平八郎殿は、恐らく武田耕雲斎殿に近い人物だと思います」
黄山はきっぱりと述べた。
「武田殿も、確か水戸藩の執政を担う御仁でござろう?」
鳴海は、記憶の彼方から水戸藩の人事情報を引き出した。他藩の人事情報は、武鑑などで紹介されていることがある。
「幕府の方針も、猫の目のように変わりますからな。文久元年から一年ほどは大老の安藤殿のお指図で謹慎処分を受けていたはずでございますが、執政に復権したところを見ると、水戸藩が再び国の政局の中心にあろうとしているのやもしれませぬ。戊午の密勅も正式に奉承し、諸大名に布告したとの由」
黄山の解説は、さすがに冷静である。戊午の密勅とは、幕府の対応に焦れた朝廷側が、幕府の頭ごなしに密かに水戸藩に「攘夷実行」を命じたというものだった。これを返納するのしないので水戸藩も大いに揉め、多くの処分者が出たのだった。
「すると、水戸藩は正式に『攘夷実行』を藩是としたということか」
鳴海は、眉を顰めた。黄山の言葉をそのまま捉えれば、そういうことである。だが、黄山は首を横に振った。
「私の勘ですが……。一橋公は、必ずしも攘夷を是認しておられぬ気がいたします」
「待て」
鳴海の思考は、混乱してきた。話の流れからすれば、一橋公は水戸藩の出身である以上、攘夷を支持・実行しようとしているのではないか。
「一橋公の御心中ほどわからないものはございませぬ。将軍後見職に就かれている御方ですから、政への野心はおありでしょう。ですが、昨年夏に生麦の災難が起こり、幕内でもその賠償金をイギリスに支払うか否かで未だに揉めていると伺っております。加えて、横浜鎖港となれば国際法違反として、諸外国が攻撃の口実にするのは確実。それこそ、日本が外国に蹂躙される格好のきっかけを与えかねませぬ。一橋公はそれを懸念されておる故、はきとした態度を水戸藩の者にもお見せにならないのではないかというのが、それがしの当て推量でございます」
鳴海も水戸藩の弘道館記述義は読んだことがあったが、その頃とは大分情勢が変わってきているのかもしれない。時流が読めないままに、感情に流されて「攘夷」を叫ぶ者が跋扈しているとすれば、国を割りかねない。
「そもそも、尊皇と攘夷は思想の大本が異なるもの。亡き藤田幽谷様や会沢正志斎様は、それをよくご存知でいらっしゃいました」
黄山は、苦々しげに吐き捨てた。商人でありながら、学者でもある黄山の話は、鳴海にはやや難しすぎる。
「そうなのか?」
理解が追いつかずに途方に暮れる鳴海に対し、黄山は教師のような笑みを寄越した。
「尊皇は天皇を崇拝し、天皇による仁政を理想と致します。その下知を受ける武士の集団の棟梁が徳川家。これが我が国の現状ですな」
「ふむ……」
これは、鳴海でもわかる。流石に鳴海も、帝をどうこうしようと考えたことはない。
「一方、攘夷の源流は儒学の中華思想にあります。自国を世界の中心と捉え、周辺諸国を未開の国として考える」
「東夷、西戎、南蛮、北狄のことだな」
これも、儒学を学べば必ず出てくる考えである。
「本来は全く意味の異なる尊皇と攘夷。それらをいつしか一括りにしてお題目のように唱える者が現れたからこそ、今の政局の混乱を招いているのでありましょう」
黄山の言葉で、鳴海の中で長らく引っかかっていたものが形になってきた気がする。そうなのだ。たとえ尊皇の念を抱いていたとしても、それを直ちに攘夷に結びつけようというのが、安直過ぎるのである。
「そなたが尊攘の過激派と距離を保っているのは、それ故に?」
鳴海の問いに、黄山は苦笑を浮かべた。
「それだけではございませぬが……。家業の商いの委細も絡んできます故、今日の論議はここまでと致しましょうか」
おどけた物言いも、黄山が述べれば嫌味さはない。それよりも、と黄山はもう一つ気になる情報を述べた。
将軍家茂や水戸藩主慶篤に先立ち、正月過ぎには一橋慶喜が上洛していた。一時は将軍後継者と目されていたほどの切れ者だが、三月五日に慶喜が将軍名代として参内した際に、孝明天皇に旧来の幕府の失政を謝罪し和宮降嫁の礼を奏上した。同時に、従来通り庶政委任の沙汰を帝より賜り、天下に号令して外夷を掃攘したいと述べたというのである。
「先程の話の続きだな」
鳴海の言葉に、黄山は肯いた。
「一橋公の言葉を、朝廷は一旦内諾されたとの由でございます。ですが、七日に将軍公が諸大名と共に参内した際に、改めて諸大名に下された朝命には別の文言が付け加えられたとのこと」
「それはどのような……?」
鳴海の胸の内に、不安の暗雲が広がる。
「庶政委任の部分について、『事柄によっては直接朝命を諸藩に下す』、と」
しばし、言葉が出なかった。これは、孝明帝の名によって幕府を通さずに諸藩に命令が下せることを意味する。諸大名の前でそのような宣告を出されたのでは、さすがの一橋公も手の打ちようがなかったのだろう。
事と次第によっては、佐幕を藩是とする二本松藩でも、今後の藩の方針を巡って割れる可能性が出てきた。いわば、二重基準が帝の名で出されたわけである。
「丹波様には、この旨は……?」
「勿論、ご報告させて頂きました。丹波様も、顔色を変えられておられましたよ」
黄山も鳴海の懸念を察したか、大きく肯いた。
「朝廷側に、先手を取られたな」
苦々しげに呟く鳴海の言葉に、黄山は首を振ってみせた。
「公家の方々だけではございますまい。此度の絵図は、徳川家に取って代わりたいいずれかの藩の知恵者が、裏で糸を引いております」
「水戸の好敵手、ということか」
鳴海の脳裏に、幾つかの雄藩の名が浮かぶ。薩摩藩か、それとも長州藩か。或いは土佐藩。
「水戸の過激派と長州の過激派との間で、密約が結ばれたという噂もございます」
黄山の言葉も、鳴海の不安を増長させるばかりだった。
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